生字幕放送でお伝えします高畑⇒2016年です。
カメラを見てくださいね。
伊藤⇒スタジオパークから…観客⇒おめでとう!皆さん、ことしもスタジオパークよろしくお願いいたします。
明けましておめでとうございます。
新年を迎えました。
熱気がすごいです。
これは何熱気でしょうね。
これはディーン熱気でしょうことし初めてスタジオパークで迎えるお客様です。
おはんがワイフとは実にもったいない。
それではまたどこかで会いましょう。
グッバイ。
ぐっばい。
え?えっ…いえ、お待ちください。
もっと聞きたいことが…。
そう、もう一度、お名前も!名なら五代才助じゃ。
今度こそ覚えとけ。
本日のゲスト、俳優でミュージシャンのディーン・フジオカさんです。
ディーン⇒おおきに。
すごいね。
皆さん押さないで押さないで。
皆さん、なま物ですからあまり触れないで。
すごいですねこのディーンフィーバー。
奥までいっぱいです。
すごい!この熱気、すごいですね。
うれしいですね。
ありがたいです、本当に。
「あさが来た」で、五代友厚さんとして大活躍。
俳優だけではなくミュージシャンをやっていらっしゃる。
音楽、大好きです。
きょうもその辺のお話をたっぷり伺いたいと思います。
国際的に活躍するディーン・フジオカさんにぐぐっと迫っていきます。
質問・メッセージもお寄せください。
五代さん大好きという声が飛んでいますね。
それではスタジオのほうへどうぞ。
熱く野太いコールがかかりましたね。
本日のゲストディーン・フジオカさんです。
ようこそ。
こんなに新年から盛り上がるってすごいですよね。
ありがたいことですね。
新年、最初のスタジオパーク初出演です。
お正月はどんなふうに過ごされましたか?ことし。
荷ほどきというんですか大阪から東京に引っ越しをしてきて段ボールの中に囲まれて暮らしていたので。
今まで大阪だったの?「あさが来た」で。
今、東京で別のプロジェクトで。
引き上げてくるというわけではないんですが、僕は常に仕事があるところに住むという形で東京もホテルであったりウイークリーマンションみたいな感じで。
撮影のために今東京にいて。
やっと家のようになってきました。
お片づけをなさっていたお正月なんですね。
そうですね。
ことし、2016年ということでことしの目標抱負を、皆さんに掲げていただこうと思います。
まずわれわれの抱負です。
身の程を知って生きる。
高畑さん身の程を知って生きるんですか。
若くはないんでね、ですから自分の体力に見合ってほどほどに生きていく。
私は一日何か1つ小さいことでいいので新しいことをしていこうと。
きょうはコーヒーにクリームを入れてみようかなとかそういう発見とか歩く道を変えてみるとか。
さてさてディーンさんは。
いきますよ、定住です。
それはあちこち行ってきたから?今まで。
そうですね。
お仕事があるところに住むという形だと3か月とか半年に1回常に引っ越しをしてきたんです、今まで。
でも結構しんどいんですよ。
なので、やりたいことも制限されてしまうし持てる荷物や家具も制限されてしまうのでネクストレベルにいくためにも定住して集中することが大事かなと。
大きな字。
子どもみたいな字ですみません。
かわいらしい。
そもそもディーン・フジオカさんっていうお名前って私は最初日系と思っていたら福島出身の日本人なんですね。
そうですね。
香港で自分がこの仕事を始めたときに、使い始めた名前なんです。
覚えてもらうことって大事ですよね、選んでもらう立場なので。
広東語でディーンというと英語で言うクレージーみたいな感じで、そういう意味なんです。
そうするとディーンっていうとクレージーじゃんみたいな感じで覚えていただいて。
自分も今までキャリアの中で名前が幸運をもたらしてくれたんじゃないかなというのを感謝の気持ちも込めてずっと使っています。
ご自分で付けたんですか?人にもらったのがきっかけなんですけれど学生時代、アメリカに住んでいたんですね。
そのときにもらったのがきっかけだったんです。
ニックネームなんですね。
イングリッシュネームみたいな感じで。
生活をしているとどうしても必要になってくるので。
そして香港でまずテレビをされてそのあと台湾のドラマにも出てアメリカのドラマにも出てそして日本のドラマある意味逆輸入俳優ということですよね。
海外で活躍して。
よくぞ帰ってきてくださいました。
よくぞ呼んでくださいました。
今ご出演なのが皆さんご存じ「あさが来た」。
見ているかな?それは皆さん見ていますよ。
早速、ディーンさんこんなにたくさんイラストをいただきましたよ。
すごいですね。
皆さんお上手ですね。
お持ち帰りください。
ありがとうございます。
朝ドラをはじめ、どうですか?演じられて、反響というか。
そうですね。
本当に、これが答えというか僕もびっくりしています。
僕の場合、日本以外でのキャリアが長かったのでNHKの作品というと日本以外でも見られますよね。
国際放送で。
ホテルや大使館やレストランで自分がそういう立場でジャカルタの日本大使館で書類審査を待っている間に待合室でNHKをテレビで見ていたりしていたのですごく自分でもうれしいし今まで自分を応援してくれた人の目にも日本以外でもとまる機会があるしさすがNHKの影響力というのは国際的だなと。
全世界放送ですからね。
また地元大阪でも大変な人気なんです。
大阪大変なことになっていますよ。
楽しかったです。
大阪の方に街頭で聞いてきました。
これはどきどき。
五代さん本当に上手に演技してますわ。
かっこいい。
どんなところがかっこいいですか。
かっこいいよ。
どういうところかっこいいですか。
近代化に向けてのそういう役ぴったしや。
あたし大好きやねん。
ちょっとインターネットできょう調べようかなと思ってたくらいやねん。
横のショットね、今サービスショットがありましたね。
大阪の街は歩かれたりするの?住んでいたときはしょっちゅう散歩したりとか。
囲まれちゃうでしょう?でも、なんて言うんですか。
興味を持ってもらえるのは本当にうれしいのでお話をさせてもらったりとか。
きょうなんかは五代さんいるでみんなこっちに来いやって。
私も大阪に移住しようかな?いい街ですよね、本当に。
大阪でも大人気ですね。
五代様の魅力あふれるシーンを集めました。
ファースト・ペンギンは勇敢や。
最初にチャレンジするものには必ずリスクがある。
ほんまは加野屋はすぐに潰れるて思てました。
なんてことを!そやけど加野屋にはあなたというファースト・ペンギンがいてた。
恐れを見せず、前を歩む者が。
それだけ伝えに来ました。
(馬のいななき)はっ。
五代様!?待っとくなはれ!焦ることはありません。
今は、お金のことや仕事のことは考えんかてよろしい。
どんなに働いていても人は皆、いずれ死んでしまうしお金は墓場には持っていかれへん。
それよりも問題は後世に何を残せるかだけです。
大久保様の言うてはったとおりこれからも五代様とともに大阪を、そして日本を…!五代様!?許してください。
今、このときだけ…。
(泣き声)
拍手
ありがとうございます。
お客様、女性の方の目がみんなハートになっています。
どのシーンがいちばん印象的でしたか?ハグなさったシーンです。
ほら、皆さんうなずいている。
皆さん自分がぎゅっとされたように思っていらっしゃる。
実在の人物、どうですか?役作り。
そうですね。
やっぱり最初は白紙だったので五代友厚という人物のことももちろんそうだしやっぱり、当時の明治維新前後の日本の状況であったり当時の薩摩藩という薩摩の国に侍として生まれて侍として育てられるのはどういうことなのかとすべて、一から調べ直して。
本当に、自分の祖国のことを勉強し直す機会にもなりましたしやっぱり五代さんって僕の中で、薩摩の侍のままなんです、最後まで。
途中で関西弁になったり経済や政治のことを担っていくわけですけれど根本にあるものは侍スピリットというんですかねそこは本当に薩摩弁で自分が感じた言語が持つDNAってありますよね。
そこにすごく役作りの段階では助けられたというかもちろん衣装だったりメークだったりいろんなものでもらえるインスピレーションってたくさんあるんですよね。
薩摩弁のリズムが役作りに助かった。
ミュージシャンでもいらっしゃいますからね。
そうですね。
外からも中からも五代さんという人物を作っていくうえでいろんな人との出会いで教えていただいて五代友厚さんの子孫の方々にもお会いすることがあっていろいろ教えていただいたり歴史の博士や…。
ゆかりの場所にも行かれたんですね。
これは大阪証券取引所の前にある五代友厚像ですよね。
ここに何回行ったか分からないぐらいです。
夜な夜な行きました。
感じるものがあったんですか?最後のほうは結構ありましたね。
最初のほうはあいさつ銅像があるので見にいくじゃないですか。
調べるために。
北浜のあの辺を歩いたりしたんですけれどだんだん、生活の中にこの銅像の存在というのがすごく大きくなっていって後半は話しかけるとまではいかないんですけれど。
心の中で話しかけている感覚で見上げてきょうこれでよかったのかな?みたいな。
大阪の街を作った人ですからね。
近代大阪の父といわれていますからね。
一方で薩摩ことばと出ましたけれどそれに大阪のことばも入ってこの辺はやっぱりね。
難しい部分もあったんじゃないですか?関西弁のほうが僕は苦手でしたね。
薩摩のほうがすぐ入ってきたし。
なんか自分にしっくりきたんですけれど、大阪に住んでいるのに大阪のことばが、どうにも。
難しいですしね。
そこはやっぱりリハーサルだったりことばの稽古だったりもちろん自分で先生にテープに吹き込んでもらったりしたのを聞いて練習したりあらゆることをやって本番に臨んだという感じでしたね。
そのディーンさんのことを共演者の方がどう思っているのかこの方にお話を聞いてきました。
五代様はいつも大事な局面で現れて胸に刺さることばを残していく方なんですね。
いちばん最初にロケでごいっしょしたシーンは京ことばにいっぱいいっぱいで五代様は五代様で薩摩ことばにいっぱいいっぱいですごいわたわたしていたんですね。
ロケで人もいっぱいいるし、こっちもせかせかするシーンで私のせりふにつられてディーンさんがびっくりやというところをびっくりぽんって言ってチャーミングな方だなと思って印象に残っていますね。
五代様、いつもの笑顔できょうも頑張ってください。
ありがとう。
あささん、ありがとう。
五代様ですね。
現場ではそうですね。
波瑠さんと共演してみてどうでしたか?最初に人見知りをなさる方だと聞いていたんですけれど全然、楽しく現場を僕は毎回過ごさせていただいて最後のほうは一緒にビートボックスの練習をしたり。
現場で、待ち時間があるじゃないですか。
そういうときになんか、一緒にそういうことをやったり。
口でリズムを切ってね。
ビートボックス
こんな感じでやるんです。
拍手
こんなんです、ごめんなさい。
波瑠さんもなさるの?そうですね。
2人でね。
それを見てみたい。
セッションさせていただきました。
「あさが来た」の撮影に臨んでいらっしゃった、大阪で行われていたんですが突然ですがクイズです。
大阪で撮影していた「あさが来た」ですが街に出たときに大阪のおばちゃんにされてディーンさんはびっくりぽんなことがありました。
それはいったい何なんでしょうか。
皆さんお考えください。
ポケットにあめちゃんをねじ込んできた。
食べて食べてと。
値切ってくれるもありそうですね。
メール交換しようかって。
それが緑ボタンですね。
なぜかおばちゃんの頭が紫色になっています。
どれでしょう。
どれもびっくりしますけどね。
どれもありそうですね。
メールが届いています。
大阪府の50代の女性です。
ディーン・フジオカさん人間味あふれる五代様を熱演してくださり大阪人一同を代表して感謝状を贈りたい気持ちです。
うれしいな。
大阪北浜などの五代友厚像の前を通っても誰なのかなという大阪人が大半だったくらい歴史に埋もれてしまっていた偉人をよみがえらせてくださいました。
国境を越えて活躍されるボーダーレスなディーンさんと五代さんが見事にシンクロしているのも説得力がありますね。
これからもっと日本でのご活躍見たいです。
重なる部分があるんでしょうね。
北海道の40代の女性の方です。
遅ればせながら「あさが来た」を見てファンになりました。
初めて姿を見たときに生まれて初めて心をずきゅんと撃ち抜かれました。
初恋ということですか、それは。
声も笑顔も英語の発音も何もかもすてきです。
また、ディーンさん演じる五代友厚を通して日本の歴史をもっと知りたくなり、本などを買って勉強中です。
これからも応援しています。
五代さんのことを知りたくなる方が多いでしょうね。
僕もその1人ですね。
なんかこう、脚本もすばらしかったし演出もすばらしかったしチーム、すごかったですね。
すごいですね。
一丸となって。
まだまだ続きますけれどもね。
それでは大阪の街でおばちゃんにされてびっくりぽんだったことは何でしょうか。
視聴者の皆さんのお答えです。
あめちゃんが多いですね。
その次に多いのが赤の代わりに値切ってくれた。
スマホの連絡先はいちばん少ないですね。
いくら大阪のおばちゃんでも、ということですよね。
お答えは?いや、みんな大阪を分かっていないですね。
答えは、緑です。
いやー!いちばん少なかったのが答えですね。
どういうことですか?いや、もう言って大丈夫なんですかね特定のあれは。
Lの頭文字じゃないですか?アプリの、日本ですごくよく使われているものですね。
気を遣っていただいてありがとうございます。
IDを教えろと。
携帯番号とは言わないまでも。
それも連絡先ですよね。
聞いてきちゃったんですね。
それはびっくりぽんですね。
びっくりしたんで、はじめましてと。
お名前はなんと言うんですかと聞いて。
無理なんですよ、と。
いや、はじめましてと言ってきょう初めてなので次お会いしたときにでもいいですかと。
気をつけてください。
待ってますよその人。
次にって言うたやないかと。
大阪の人はテレビを見ていたら親類に感じるんですよね。
身近に感じるんです。
携帯電話はいけません、だめです。
逆に言うと大阪の方が愛してくださっているということですね。
嫌な思いをしていないんです。
楽しいというか。
そこも笑えるじゃないですか。
僕大阪がすごく合っていたんですよね。
本当に自分が仕事を続けられるようだったら大阪にずっと住みたいと思ったくらい。
今回で大阪が好きになったと。
大阪に住むということもないとは言えないですよね。
定住先は大阪になるかもしれないですよね。
「あさが来た」はオンデマンドで第1回からご覧になることができます。
ぎゅっとされているシーンを含めてまげ姿のディーンさんを見ることができます。
そうですね。
見てください。
続いてはディーン・フジオカさんの活躍の原点にぐぐっと高畑さんに迫っていただきます。
ディーン・フジオカさんは1980年、福島県のお生まれ。
子ども時代は、釣りをしたり山を駆け回ったり福島の大自然の中を駆け回っていました。
目鼻立ちがキリッとしていますね。
かわいいですよね。
お父様の、仕事の関係で海外出張が多く、自宅で英語や中国語を教わりました。
何歳くらいからですか。
覚えていないですね。
メインは英語だったんですけれども、中国語はほんのちょっと例えばお風呂に入って10数えたら上がっていいよというところに中国語だったり。
中国語
1、2、3、4…なんて言って?カウントは中国語なんですね。
普通だと思っていたんですけれども意外とあれ何か違うのかな?みたいな。
英語は小さいときから。
教えてもらいました。
中学・高校時代は、友人たちとバンドを組み音楽活動に励みます。
このころの夢はミュージシャンになること。
これ中学生のころの写真ですか?今と変わらない雰囲気ですね。
だいぶ老けていますね。
これはモテますね。
どんな音楽をやってらっしゃったの?そのときはロックとかヘビーメタルみたいな。
ボーカルですか?いやギターを弾いていましたね僕は。
ミュージシャンというか作曲が好きだったんですね。
高校卒業後、ディーンさんはアメリカへ留学します。
この写真もディーンさん?ロン毛ですね。
画像が悪いのはお許しください。
なぜアメリカに留学?花粉症がひどくて。
何?花粉症?日本には花粉症があるじゃないですか。
それで花粉症がないところに行きたいと思って。
理由はそれなんですか?それもあるし、もちろん勉強したいことが父親がITの仕事をずっと小さいときから家の中でモデムとか使ってやっている家だったので自然とITのほうにあったんですよね、気持ちが。
シアトルは当時ビル・ゲイツだったりアドビだったり西海岸とか。
ロケーションを決めたのは勉強するというか志を持っていたんですけれどもいちばん大きなもの、原点は花粉症がつらかったので今ほどいいお薬も。
15年前ですからね。
確かにつらかったです。
もういいやと思って。
アメリカの大学のIT学科で学んだディーンさんは今度はIT関連の仕事に就く夢を持ちます。
しかしアメリカでの就職がかなわず卒業後、2003年アジアに放浪の旅に出ます。
あら、この写真は。
就職かなわずというかビザがすごく難しい時期だったんですよね9.11で。
どちらかというとビザプロブレムでしたね。
そこに時間と労力を使うくらいだったら次にいこうと思ってネクストレベルにいきました。
それがアジア放浪だったんですね。
なぜですか。
いろいろサインはあったんですけれども学校の教授とかが21世紀はアジアの時代だと言っていたのも自分の中で印象的だったしあとは、そうですねアメリカで出会ったアジアコミュニティーそれぞれの友達たちのバックグラウンドというかいろいろ社会体制があるじゃないですか。
その中でどういうふうにみんなが生活しているのかというのに興味があったのでアメリカとか資本主義のマナーで生きている人たちじゃないでも同じ人間というそこに興味を持っていたのもありますし何かいろんな自分もアジア人だしアジアのことをほとんど知らなかったんです、それまで。
興味があったという感じですかね。
アジアを放浪中に大きな転機が訪れます。
香港滞在中に、DJのイベントに参加したところ、偶然現地の雑誌編集者の目に留まりモデルデビューすることに。
そして、2005年には香港映画で俳優デビュー。
主演に抜てきされます。
いきなりですか。
モデルから。
たまたまモデルからですよね。
主演に。
そうですねモデルをやっていた期間は今考えるとそこまで長くなかったんですけれども、すごく短期集中でやらせてもらって。
その中で、やっぱり演技が必要になってくる仕事が出てくるじゃないですか。
コマーシャルだったりミュージックビデオだったり。
その中で自分のパッションが見つかったというんですかね演技がおもしろいなと思って。
それでオーディションに呼んでもらって。
受かってという。
それで俳優の最初の仕事が見つかったという感じですね。
その後、台湾の人気ドラマに立て続けに出演し一躍アジアで大ブレーク。
アメリカのドラマにも進出。
台湾ドラマ、アメリカドラマ2本続けてご覧ください。
これ私が読むんですか?そうですね。
さらに2013年には実際に起きた事件をベースにした日本映画に参加。
主演だけでなく、監督にも挑戦。
世界を舞台に表現の幅を広げ活躍を続けるディーンさんです。
ありがとう。
とんでもない。
ありがとうございます。
でも不思議ね、小さいころお父様がおうちで英語と中国語を話してらっしゃったのが、そのまま中国語と英語をしゃべっているわけですよね。
生きていますよね。
もちろん家庭で自分なりに練習というか、勉強してきてそういうのもありますけれども。
不思議な赤い糸という感じがします。
父親が中国の生まれだというのも何か関係しているのかなと思いますね。
すばらしい。
でも放浪の旅の中で出会いがあってたまたまと言ったらあれですけれども。
でも、モデルカメラの前に立つことの恥じらいとかはありましたか。
ありましたね、どちらかというと苦手だったので人の前に出るのが。
でも音楽が好きだったから音楽をやっているというので1つの、なんて言うんですか?周りに合わせられるというんですか、それがモデルにつながって。
生きていくためにモデルはお金をもらえるくれるんだったら、やるよという形で始めて旅行したり生活していると。
必要ですよね。
そうですね、必要なので。
だからずっとモデルをやるつもりもなかったんですけれども俳優演技をやるということに出会ったのは大きいですね。
いきなり主演ですからね。
ことばもまだそんなに。
広東語は難しかったですね。
北京語より広東語のほうが難しいですね。
監督はなぜ主演にディーンさんを選んだんでしょうか。
やっぱり物事って文脈ってあると思うんです。
モデルをやっていたときも、いろんな人に支えてもらっていろんな経験をさせてもらったんですね。
香港だけじゃなくて中国大陸だったり東南アジアとか、ヨーロッパのほうのお仕事だったり。
そういうのを積み重ねてエクスポージャーが上がると。
エクスポージャーってなんですか。
例えば露出ということですね。
これもそうです。
1つ勉強になりました。
僕のモデルの仕事ももちろん見てくれてそれの最終的な判断だと思うんですけれどもそれが決して学校のときにITの勉強していましたとか全く関係のないように見えるけれども、実は自分の人生観というかライフスタイルにも影響されているしモデルをやっていたことが俳優を始めることの後押しにもなったと思うんですね。
もちろん俳優というのは演技の技術がまずあってだと思うので僕は学校に行って演技というものを勉強する機会がなかったのでモデルという立場で何ていうんですか、大勢に囲まれて演技をするという経験をたくさんさせてもらったのはスタートアップとしてはよかったんですね。
全部つながっているんです。
いろんなことを監督から演技のことについてももちろん学んで。
ヤンヤンに学んだのはフィルムメーキングの仕事に携わるかではなくてフィルムメーカーとしていちフィルムメーカーとしてどういうふうに現場と関わっていくかと導いてくれたんです。
彼女のクルーはみんな一緒にいてプリプロからポスプロまでおつきあいさせていただいたというか自分の経験とか知っていることを惜しみなく教えてくれる人たちだったのでのちのち日本で最初に。
監督なさいましたね。
もともと監督をやる予定ではなかったんですけれどもそれまでの俳優の経験というものがあったからいろいろクルーの人たちそれぞれのプロフェッショナルに教えてもらってなんとか形になったという。
そのときの映画作りがお役に立ったのかもしれませんね。
すごくトラウマになるような大変な作業だったので、主演、監督というのは。
しかも、そのあと台湾に行って台湾のテレビドラマにも。
香港のあとはそうですね。
出られるようになって。
香港から台湾に行くというのもまたすごいですよね。
引っ張ってくれる人がいないとね。
台湾は香港に行ったこととまた違って香港の作品が台湾でも目に留まった形で台湾のテレビドラマのプロデューサーのアンジー・チャイという方がいるんですけれども台湾で連続ドラマに出演しないかというオファーをもらってそれで台湾に拠点を移してそれでテレビドラマを撮るようになったんですね。
いろんな人のつながりで見てくれる人がいて。
ご縁が広がってね。
なおかつ台湾で出会った友人から中国武術を教えてもらってそれも演技の幅を広げたと。
武術もそうだしアクション全体というんですかね。
やる側も受けとしてのリアクションをどのようにするかとかどのようなタイミングで全体を動くかワイヤーアクションの練習、乗馬一とおりのことをすべて台湾で経験できたというのはその後、アメリカでも馬に乗るシーンがあって役者として当たり前じゃないですか馬に乗るというのは当然のことなので、中華圏とか北米だったりすると馬に乗ることができないと仕事の幅がだいぶあれですよね。
アクションもそうだし特に中華圏では中華武術は生活の一部というか。
必要だったので。
表現者としてね。
自分も好きだったんです見ていてきれいだなと思って。
武器のコレクションも持っているんです。
その使い方というのも、友達がアクション監督をやるような人たちだったりアクション俳優だったりとかスタントマンとか周りにたくさんいたのでみんなで遊ぶという。
練習するという。
それでごはんを食べに行くという。
実際に中国武術をやってらっしゃる映像があります。
これは台北ですね。
うわ、なんか恥ずかしいですね。
持ってらっしゃるのは練習用の剣なんですか?すごい。
拍手
国際的に活躍する俳優というのはアクションが大事になってくるんですね。
すてき。
日本で忍者のアクション映画をやったとき日本の殺陣の経験はなかったんですけれども中華圏で違うスタイルとはいえ練習してきたベースがあったので対応することが昔の経験があったからできたと思うんです。
いい意味で異質なものになるんですよ、必ず。
僕がふだんやるのは片手で剣を振り回す日本だったら両方持つ形ですけれども日本だと両手で1本の剣ですよね。
やっているうちに癖が出て殺陣なんだけれどもちょっと違う感じになるんです。
人によってはそれは邪道となるかもしれませんけれどもそれをポジティブに受け止めてくれる方に恵まれたというかそれを生かすような形で使ってもらうことができたので。
新しい殺陣にもなりますね。
新しい世界を切り開く。
切れがいいですね。
お合いになっていると思います。
ディーンさんの原点を探ってみました。
時間も押し迫ってまいりました質問・メッセージです。
生放送ですのでたくさん来ています。
千葉県の30代女性の方です。
双子のパパさんでもあるディーンさん、子育てで自分の信念やモットーなどはありますか。
まだ生まれたばかりでちょっとあれなんですけれども…でも、そうですね優しさというんですか?困った人がいたら手を差し伸べることができるような人間になってもらいたいなと思いますね。
メッセージも届いています。
仕事の関係で台湾に住んでいたとき2006年に現地で放送されていたテレビドラマでディーンさんを知りそれから台湾で外国人俳優として頑張っているディーンさんを応援しています。
ありがとうございます。
そして現在の活躍ぶり本当に本当にうれしいです。
これからも日本でさまざまな役柄を演じて違ったディーンさんを見せてください。
頑張ります。
広島県の方からです。
毎日「あさが来た」を見て83歳の自分自身を、奮い立たせています。
ディーン・フジオカさんはスマートで品がよくすてきです。
お顔を見るだけで元気が湧いてきます。
世界中で大活躍してください。
千葉県の方です。
30代女性です。
わが家の3歳の娘は五代さんの大ファンです。
今もテレビの前で五代様!とかぶりつきです。
これからも活躍を応援していますときています。
連ドラはほとんど見れませんでしたが「あさが来た」はおもしろくてはまっていますという方からも届いています。
2016/01/04(月) 13:05〜13:52
NHK総合1・神戸
スタジオパークからこんにちは ディーン・フジオカ[字][双]
朝ドラ、五代友厚(才助)役で大人気 波乱万丈な俳優人生! ゲスト:ディーン・フジオカ 司会:伊藤雄彦アナ、高畑淳子
詳細情報
番組内容
双方向データ放送番組。テレビのリモコンを使って、ゲストに関するクイズやアンケートに挑戦!気になるゲストの生トークにあなたも参加しませんか?テレビをネットにつなぐとさらに楽しめます。
出演者
【出演】ディーン・フジオカ,【司会】高畑淳子,伊藤雄彦
ジャンル :
情報/ワイドショー – 芸能・ワイドショー
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:6350(0x18CE)