2016-01-04
何故ぼくは絵を描けないのか。
同人ゲームを作っていると結局なんでもかんでもとんでもやらなくちゃならないので、品質に差異はあれど大抵の個人開発者というのは全ての作業を自分でできるようになっている。大抵の場合プログラマーはリーダーであると共に企画もやるしシナリオもやるしUIもやるしWebサイトも整備するし動画も作るし委託店舗との連携や印刷所の手配もやる。これは何ら特殊技能ではない。気がついたらそうなっているのだ。
……しかしぼくはどうしても絵が描けない。絵だけはサークルメンバーである春さんに任せているのだ。勿論、全く描けないわけじゃない。ミミズくらいは描ける。トレースや模写もできる。でも、同人誌を描いたり、イラストをTwitterに載せたり、そういうレベルじゃできない。いや、やりたくない。
下手なのだ。下手だから描けない。……だが、厳密に言えば下手であることと絵が描けないことに密接な関係はない。そんなことを言ったら世界で一番上手い人の次、二位以下は絵が描けなくなってしまう。そもそも絵は描かないと上手くならないのだから、絵描きが全滅してしまう。
つまり実際の所、絵が描けないのではなく、絵が描きたくないのだ。絵が描けるようになりたいのだ。
もしかしたら、これを読んでいるあなたも、思い当たる節があるのではないだろうか。絵じゃなくてもいい。何かをしたい。でもできない。本当はやりたくない。でも、できるようになりたい。
この記事はきっとそんなあなたとぼくのためにある。
なんで描きたくないのか。
時間がない……というのは言い訳である。時間なんてものはいくらでも作れるからだ。人には均等に一日24時間が与えられている。つまり、絵を描くという行為そのものの優先度が、他の学校や、仕事や、睡眠や、読書や、アニメ鑑賞に勝ってないからだ。
人は基本的に快楽を求める生き物である。絵が一番上達する唯一の方法は、絵を描くことだ。しかし誰からも見られず、誰からも褒められず、ただ黙々と絵を描いて上達できる人は居ない。存在しない。独りで上手くなっているように見える人は、自分で自分のことを褒められる人だ。「昨日より上手くなった」「こういう絵が描けるようになった」そうやって自分を鼓舞できる人は、絵が上手くなる。音楽が作れる。プログラムが書ける。
しかし、その営みができない、自分の絵を自分で褒められない人は、一枚頑張って絵を描くたびに
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こうなる。
自分の理想が明確に描けていると、特にそのギャップに苦しみやすい。完璧主義な人間も要注意だ。特にぼくの様に他人の絵を見る技術だけが先行してしまっている人間は、ここにまず陥ることとなる。
そして当然、自分にとって低評価な成果物を、他人に見せることなんてできない。
それでもチャレンジし続ければ、誰にも評価されなくても、ただがむしゃらに描き続けていれば、いつか慣れるだろうか。全くそんなことはない。精神の方が先に潰れてしまうだろう。無理をすれば燃え尽き症候群のように、絵を描くことそのものが憎くなったり、絵を描いて評価されている人を嫌悪したりといった重症に陥ってしまうだろう。勿論、これも絵に限ったことではない。小説や漫画家、演奏家、或いは会社内での昇進や就職活動、人生そのもの。何にだってあり得る話である。
特に今はインターネットで、好きなだけ「成功例」が見られる時代だ。自分が失敗している時に見せつけられる成功ほど、苦痛なものはない。
白黒付けられる恐怖ってやつ
世界は灰色でできている。
こう書くと実にポエミーなのだが、実際の所、この世界は白とも黒とも言われんでもない曖昧な形で成り立っている。恐らく、世界を観測する人間の精神自体が曖昧なものだから世界の形も曖昧なのだろう。或いは、世界の形が曖昧でないと人間の精神が持たないので生存バイアス的に曖昧なのだろう。
よくわからない? つまり、こういうことだ。あなたは生まれた瞬間、「あなたの能力は世界で264,253,116位で、生涯年収は2億3000万円、最終的な家族構成は妻一人、息子二人、孫無し、86歳で死去します」と天の声に教えられる。あなたは人生が楽しみになるだろうか。
スポーツを始めたとする。絵画や音楽を始めたとする。あなたの才能は世界で何番目で、同じ年齢でもっと上手い人が何人いるとその場で教えられる。あなたはそれを続ける気になるだろうか。逆に、小さなコミュニティとはいえ常に一番だ、トップだ、あなたの作品はすばらしい、学校を代表する、そんなことを言われながら育ったら?
人間は人生で曖昧さを求めるし、自分の実力を知らないで生きて行くことを好む。そうすることで、人間は自尊心を適切に育て、自分の才能を開花させていくことができるからだ。
しかし、忘れてはならない。人は適切なタイミングで、適切に一歩先へ踏み出す必要がある。あなたより上手い人が具体的に何人いるか、知らなければならない時がやってくる。誰もが成長するために試練を受け、それを乗り越えていく。
それは、とてつもない恐怖だ。傷つくこともあるだろう。でも、先に進まなければならない。先に進まなければ、あなたの「描けない」は「描きたくない」になってしまう。技術が足踏みをしている間に審美眼ばかりが育っていって、あなたはあなた自身に低評価しか下せなくなってしまう。
失敗することは、実はそんなに怖いことではない
前に進むという行為は、大体傷を負うという行為と同じである。全力で体当たりしなければ破れない壁なのに、三つのうち二つはどう頑張っても破れない鉄板が埋め込まれているのだ。
実は、傷を負うということ自体には、人間は強い耐性がある。人間は意外と丈夫なのだ。
なら何がぼくらの行動を妨げているかといえば、この破れない鉄板の部分である。つまり、人生における失敗である。
今の世の中は、失敗した人間にとことん厳しい。小学校で友達を作れなければ駄目、中学受験に失敗すれば駄目、高校生で羽目を外しすぎれば駄目、たった一度のセンター試験で腹痛になったら駄目、就職活動で運悪くコケれば駄目、社会人で大きなミスをすれば駄目。なんとか失敗しないでやってこれた本当に一握りの人間だけが、成功者として先に駒を進められる。成功者はテレビやインターネットで持て囃されるし、それがマジョリティであるかのように振る舞われ、扱われる。
スランプに陥って打ち切られた漫画家、冤罪なのにセンセーショナルな罪を着せられ*1テレビの仕事がなくなった芸能人、別にアイドル路線で売っていなかったのに恋人が出来たことを突然咎められた声優。わずかに傷が付けば、大勢の名前のない集団に袋叩きにされ、名声は地に堕ちる。すぐに代わりの人間が連れてこられて、忘れられる。デマであるかどうかは関係ない。事実が判明する頃には飽きられている。これは日本だけではなく世界中で、ずっと昔から行われてきたことだが、テレビやインターネットによってますます加速したと言っていいだろう。
こんな世界を幼い頃から見てきた人は、失敗に対して強い恐怖を刷り込まれる。壁の中に鉄板が仕込まれているだけでなく、その瞬間足下が開き、下に流れる血の川に突き落とされるのではないか。そんな妄想をしてしまう。そして、壁にぶつかることをやめてしまう。その方が楽だからだ。
ぼくらのしている最も大きな勘違いとは、物事の成功失敗において、本当に恐れるべきなのは失敗そのものではなく、失敗した後に挽回の手段が残されていないことである。
失敗した時、どう立ち振る舞えばいいのか。それは失敗そのものを恐れている限り、見えてこない。
仕事でミスをしたけど、この取引先とは十分な信頼を築いてきたから大丈夫だ。就職活動は失敗したけど、趣味の延長で起業もできるから、まあいいか。高校受験に失敗したから、いっそ海外に行ってしまおう。たとえ失敗しても失敗したことをきちんと受け止め、自分に何ができたか、何ができなかったかしっかりと向き合うことで、人は初めて嘘と言い訳の無い人生を生きることができる。
それに、こういう思考をすると、案外心に余裕が生まれて、すっと成功してしまったりするものである。
失敗に捕われるな。失敗に恐怖を抱いている限り、決して前には進めない。
自分を評価してあげよう
話を本題に戻そう。
評価されないまま、絵を描いていても、心は折れてしまうだろう。
なら、どうすればいいか。簡単なことだ。あなたが、あなた自身が、あなたの成果物を評価してあげればいい。
確かにその絵は下手かもしれない。Twitterのタイムラインにいる本職の人たちに比べれば、まるでカスかもしれない。一生懸命描いても、誰からも褒められない、失敗作かもしれない。でも、ここまで描けた。こんな表情が出せた。こんなポーズが形になった。こんな背景が描けた。それは、あなた自身の絵だ。
そして、こういう風にも考えよう。今日この絵が描けたことは、決してまぐれではない。一旦こんな絵を描けてしまったのだから、もう自分は当たり前のようにこんな絵を描けるのだ。明日は、もう一歩先を歩めるのだ、と。
自分を評価してあげよう。そして、他人を評価してあげよう。自分より年齢が下で、絵の上手い人間を、妬むのではなく評価してあげよう。何、偉そうだって? そりゃあ、偉いんだ。なんたって、他人を評価できるんだからね*2。
あなたの優秀な審美眼は、あなたの創作を妨げるだけではなく、同時にあなたの伸び代にもなるだろう。あなたは少なくとも、あなたの下す評価の最高段階までは理論的に行けるのだ。だから、上手い絵を描く、素晴らしい演奏をする、面白い作品を作る他人を評価してあげよう。どこが自分より優れているか、どこが他人には真似できないその人の良さなのか、そういう分析が、他ならぬあなたの力になる。
そして、自分自身を評価してあげよう。
それはきっと、あなたが一歩前に踏み出すための、勇気になる。
(ここまで自分に言い聞かせ)