いつか来る日のために「証言記録スペシャル 学校で命を守る」 2016.01.05


(テーマ音楽)学校が津波に襲われました。
教師たちは避難場所の変更を叫びます。
地震発生は平日の午後。
学校には児童生徒そして教職員がいる時間帯でした。
大津波警報が発令され混乱している中教師たちは厳しい選択を迫られます。
津波が到達する直前保護者の声に助けられた学校があります。
多くの学校が津波にのまれました。
津波に襲われた学校では生徒も必死に人命救助に当たります。
なんとか避難できても津波で孤立してしまいます。
食料もなく厳しい寒さの中で生き延びる闘いが始まりました。
これまで経験した事のない災害に襲われた時教師生徒そして住民たちは何を考えどのように行動したのか。
貴重な体験談を基に子どもたちを守り学校で生き残るための知恵を探ります。
東日本大震災から4年半。
NHKでは大震災に遭遇した人々の証言を取材し「あの日わたしは」と題して放送しています。
これまで番組でおよそ600人の生の声を伝えてきました。
その証言を改めて紹介し今後の大規模災害にどう備えればいいのかを考えていきます。
今日は宮城教育大学教育学部の教授田端健人さん。
そして岩手県出身のタレント福田萌さんにお越し頂いています。
どうぞよろしくお願いします。
(2人)よろしくお願いします。
田端さんは東日本大震災の被災地を実際に訪れて被災した学校関係者の聞き取り調査をずっと行っていらっしゃいましたよね。
平成23年3月11日の震災の時にはどんな事を感じられましたか?
(田端)非常に絶望的な気分になりました。
あれだけ見た事のないあんな津波が来たんですから学校に行った子どもたちとか先生方地域の方々もう助かってないんじゃないかというふうに非常に不安に思いました。
あの時学校で何があったのか。
これを詳しくやはり聞き取らなければいけないと。
そして広く後世に含めて伝えていかなくてはいけない。
それが責務だなというふうに感じました。
福田さんは岩手ご出身という事で沿岸部にも被害の大きかった地域のご友人もたくさんいらっしゃったそうですね。
私は岩手県の滝沢市という内陸の出身だったので津波の被害というのはなかったんですけれども大槌町に住んでいた友達がいてその子のおうちは流されてしまったという話を聞いています。
そしてお母様が保育園をされている。
私の母が保育園の園長をしておりましてその時は日頃の訓練が本当に生きたというふうに話をしていてまず子どもたちの命を守るという事を第一に行動したという話を聞きました。
そうですか。
今日はいろいろお母さんとして私も一緒に学んでいきたいなと思います。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
さあ今回のテーマは「学校で命を守る」という事です。
あの日学校には多くの子どもたちが残っていました。
大津波警報が発令され混乱する中先生たちはどこに避難するか難しい選択に迫られます。
宮城県の南部に位置する山元町。
町は津波にのまれましたが流されずに残った学校がありました。
宮城県山元町立…津波が来る事を確信してとっさに子どもたちを屋上に避難させました。
中浜小学校は海から400メートルの場所にあります。
マニュアルでは津波の時の避難所はおよそ2キロ離れた所にある坂元中学校です。
歩いて20分かかります。
大きな揺れのあと大津波警報が発令されます。
津波の高さは10メートル。
到達予想は10分後です。
避難所の中学校へは逃げられないとすぐに校舎の上に避難するよう指示します。
実はこの中浜小学校は平成元年に建て替えられていました。
海に近い校舎は過去に何度も高潮の被害を受けていたため建て替える時学校の敷地をおよそ1.5メートルかさ上げしました。
更に避難用の外階段や屋上に屋根裏倉庫を設置し津波にも対応できるような構造にしてあったのです。
井上校長はかさ上げ分も含め屋上であれば10メートルの津波に耐えられると計算し全員を屋根裏倉庫に避難させます。
その直後海岸に植えられていた防潮林よりも高い津波が何度も校舎を襲います。
津波で校舎の2階の天井まで水没しましたが避難していた屋根裏倉庫は無事でした。
災害に対する事前準備をしていた校舎でとっさに決断した屋上への避難。
子どもたちを守るためのギリギリの判断でした。
宮城県南三陸町…あの日この町を高さ20メートルの津波が襲いました。
海岸から300メートルの所にあった戸倉小学校は水没しました。
地震の時どこに避難するか長年教職員と話し合いをしてきました。
麻生川さんは埼玉県の出身。
屋上避難を主張していた麻生川さんに地元出身の教師斉藤早苗さんが強硬に反対します。
三陸地方は過去に何度も巨大な津波に襲われてきました。
山ならほかの高い所に移動する事もできるし支援も受けられると言い伝えられてきたのです。
話し合いは麻生川さんが赴任してきてから2年間続いていました。
最終的に避難場所は特定せず校長である麻生川さんが地震発生の時に判断すると決まりました。
震災の3週間ほど前の事です。
堤防を越えた津波は学校に迫ります。
その時麻生川さんはこれまでの考えを改めていました。
これは麻生川さんが震災の時に記したメモです。
「屋上に避難するかとも感じたがあまりの大きさに宇津野高台を避難場所とする」。
麻生川さんの指示のもと子どもたちと教師は高台に避難していました。
しかしそこにも津波が迫ります。
一緒に避難していた住民と保育所の子どもたちを含む150人は上にある神社に駆け上がり津波から逃れる事ができました。
これは津波が引いてから撮影された写真です。
小学校は屋上まで津波にのまれていました。
福田さん証言をお聞きになっていかがでしたか?そうですね最終的な判断でたくさんの命が救われたという印象を受けるんですけれども校長先生と教員の皆さんの日頃のコミュニケーションでマニュアルを変えようって判断された事とか準備されてた事が生きたのかなというふうに思いました。
田端さんは?やっぱり校長先生の判断決断それからリーダーシップでしょうかねこれが大きいなと改めて思いますね。
今日はですね更にお二人のゲストにお越し頂いております。
先ほどのVTRにもご登場されました宮城県南三陸町戸倉小学校で震災当時校長をされておりました麻生川敦さん。
それから教諭の斉藤早苗さんです。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
麻生川さんはマニュアルを見直そうというふうに思われたのはどうしてだったんですか?赴任した時に先輩の校長先生から「とってもすばらしい地区なんだけどもただ津波に襲われる地区なんだ」っていう事を聞いて「津波にだけは十分注意した方がいいぞ」っていうお話をされたんですね。
津波の事だけはやっぱり調べておかなくちゃいけないなというふうに赴任した時に思って。
まず初めにちょっと「あれ?」と思ったのが高台まで避難をする事にはなってるんですけれども国道を渡らなくちゃいけない。
そこの国道には押しボタン式の信号があって避難する時に押しボタンを押して信号待ちをしながら避難をするという避難だったんですね。
これもちょっと大丈夫なのかなって思ったのが1つあったんですけど。
もう一つは実は戸倉小学校の隣に保育所があったんですけれどもその保育所は実は津波の警報が出た時小学校は高台に逃げるんですけれどもその保育所は戸倉小学校の非常階段を上って屋上に避難するというマニュアルだったんです。
何でうちの学校が高台に行くのに保育所が屋上に避難する。
それであれば子どもたちが安全に避難するためには早く避難できる方がいいんじゃないかなっていうふうに思ったんですね。
それで屋上避難というのを提案されたと?そうなんです。
そのお話を聞いた時斉藤さんは?最初校長先生のお話受けた時は「えっ何で屋上に行くの?」ってまず思って。
やはり津波の避難っていうのは地続きの所に逃げるもんだっていう事は小さい頃から言われて育ってますし。
ご両親はチリの地震の時には被害を受けられたり?母は逃げ遅れてうちの屋根に上がって第1波を過ごして2波が来るまでの間に高台に逃げたっていう事は何度も聞いてましたので。
とにかく近くの山の方に地続きの所に逃げなさいっていう事を学校でもうちでもずっと言われてきてましたので。
校長先生のお話には反対しました。
そして反対されて麻生川さんは?そう1年目は一旦引いたんですけどもでも自分の中ではやっぱりどうしても早く逃げる方が安全ではないかというふうに思ってたもんですからやっぱり屋上がいいんじゃないかと。
で2年目のまた反省会の時なんですけれども先生たちにやっぱりマニュアルを変えた方がいいんじゃないかという事で提案をしたんです。
いくら校長先生に言われてもやっぱり納得できない部分がいっぱいあってほかの先生方も町内の先生方が多かったので会議が終わったあととかに「さっきの話どう?」みたいな話した時に「やっぱり駄目だよね」みたいな…。
校長先生そうおっしゃるけどやっぱり駄目だと?はい。
校長先生結局…。
結局は当日の地震の様子を見てそれから海の様子とか周りの様子を判断して私が屋上に避難するか高台に避難するかその場で判断するっていうマニュアルに変わったんですね。
その時に「ああよかったな」っていうふうに?一番嫌な…っていうか全て私が判断をするっていう事になった訳ですね。
ですから私の判断が間違えば全て命が私の判断に懸かるっていう事だったのでやはり自分としては確かな方に決めてしまいたい。
1つに決めてしまいたいというふうに思っていたんです。
でもそうされる前にもう地震が来てしまったという事なんですね。
その決断は…どうして高台に?やはり屋上じゃなくて高台?
(麻生川)そうなんですよね。
どうしてですか?2年間先生方と話をしてきました。
まあず〜っと…今先生たちが反対をず〜っとしてきたという事だったんですけども実は戸倉小学校の先生たちは何でもかんでも反対するとかっていう事ではなくて本当に子どもたちのためには惜しまず働くような本当に優秀な先生たちがすごく多かったんですね。
私がやろうとしてる事もすごく理解してくれて一緒にやってくれる先生たちだったんです。
その先生たちがこの事だけは絶対に譲らなかったんですよね。
それはやっぱり相当な何かあるのかなっていうふうに感じましたし。
今まで言い伝えられてきた事っていうのが多分私の今まで考えていた事を塗り替えて私の中に入ったっていうふうに感じました。
今のお話とても大事なポイントがいくつもあったと思います。
1つはやはり職場内で学校内で意見が言い合えた。
校長先生も教員の先生の言葉に耳を傾ける事ができたし教員の先生も校長先生の主張を受け止めながらもやっぱり主張された。
そういう対話の場。
そういう風土を作っていた。
2つ目はやはり2年間というその積み重ね。
対話を含めて訓練をしていくその積み重ねが大変大事だったと。
その積み重ねの中で校長先生の意識が変わっていかれたり地元を理解していった。
地元をよく知っている。
地元を学ぶというこういうところが大切なポイントになろうかと思います。
福田さんはこういう先生方がいるっていう事は保護者としてもちょっと安心ですよね。
私も今2歳の娘を保育園に預ける時も娘の命をお願いしますという形で預けているところがあるので先生方が常日頃からそういう子どもたちの命を守るために優先するべき事は何なのかっていうのを議論してくれている事自体が保護者としてはすごい心強いなと思います。
そうですね。
激しい揺れのあと多くの保護者が学校まで子どもを迎えに来ました。
しかしあの震災で保護者に引き渡された子ども115人が津波の犠牲になりました。
これは震災で亡くなった子ども563人のうちおよそ5人に1人の割合になります。
学校側は子どもたちを保護者に引き渡すか引き渡さないか多くの課題が浮き彫りになりました。
宮城県名取市の…丹野明子さんは1年生の娘を迎えに来た時地震に襲われます。
揺れが収まった時すぐに教師の指示が聞こえました。
丹野さんは子どもを連れて外階段から3階に上がります。
学校は子どもたち全員を既に3階に上げていました。
学校には子どもを引き取るために保護者が次々と集まってきました。
宮城県が東日本大震災の前に定めていた震災時のマニュアルでは緊急時には子どもたちを保護者に引き渡す事を基本方針としていました。
しかしラジオで大津波警報が出ている事を知った学校長は何が起こるか分からないと考え引き渡さないという独自の判断をします。
学校は保護者も3階に避難させます。
混乱を避けるために子どもたちは教室に保護者のほとんどは廊下に分かれて集まっていました。
2人のおいを迎えに来て3階にいた日下みちるさんはその声を聞きました。
津波の到達時刻は3時20分ごろとされていました。
しかしその時刻を過ぎても津波は来ません。
廊下には人があふれ騒然とした雰囲気になります。
いつまでも子どもと会えない状況に廊下に待機していた保護者から引き渡しを求める声が上がるようになります。
その声に押されるように学校長は子どもたちを体育館へ移動させ点呼をとるように指示し保護者にも知らせます。
3時45分ごろ丹野さんは体育館に入ります。
教師児童保護者合わせて400人ほどが体育館に集まっていました。
学校から海までの距離は2キロ。
その時津波は既に閖上港に到達していました。
津波が学校に迫ります。
遅れて体育館に向かっていた日下さんは2階から津波を目撃します。
津波は学校から1キロまで接近していました。
日下さんは体育館に駆け込み叫びます。
津波はついに学校に到達しました。
ゆっくりと校庭に侵入してきます。
丹野さんは娘を抱えて体育館横の非常階段を駆け上がり日下さんは2人のおいを連れて外階段にたどりつきます。
体育館にいた400人ほどの人々はギリギリで津波から逃げきる事ができました。
しかしもし点呼が早く終わって引き渡しが始まっていたら子どもたちは津波に巻き込まれた可能性があります。
福田さん親の気持ちとしてはどうですか?親も学校を信頼してその場にとどまっていた方がいいような気もしていたんですけれどもやはり自分も自分の娘ができた時にいち早く自分の子どもの命は母である私が守らなくてはっていう気持ちになってしまうよなというふうに思って。
でも安全とか全体の事を考えるとという一つジレンマがあるような気がしますね。
戸倉小の場合は取り決めはあったんですか?その当時は原則的には引き渡すというふうな形が通達とかでは来ていたような状態だと思うんですけれども。
ただその津波の避難の時に引き渡すかどうかっていう部分についてはきちっとした取り決めっていうのはしていなかったのが現状だったと思います。
引き渡す引き渡さないの決断というのはその時はやっぱりマニュアルどおりにやっていくのがいい事なんでしょうか?いや実際に原則として決めておくっていう事は大切だと思うんですね。
ただ各地域地域があると思うんですけども学区の状況によって例えば津波避難の時に海辺の地区と山の地区で安全が確保できているっていうような状況が違っているような状態っていうのが多分あると思うんですね。
ですからやっぱり状況に従ってマニュアルを変えるっていうような考え方をしないとやはりマニュアルを決めたからにはそのとおりしてしまうっていう考え方は非常にちょっと危険があるのではないかなっていうふうには思っています。
このマニュアルというのは文部科学省を中心として県の教育委員会とか市とか地方の教育委員会の方にひな形が下りていく訳ですね。
原則的なものも下りていってその学校に応じて作り直していくというふうになっています。
私なんかは実際問題あれほどの地震があったと。
いろんなマニュアルとか取り決めあったとしてももう子どもの事を考えたら一目散にとにかく子どもを引き渡して下さいというちょっとこう感情的になってしまったりパニックになってしまったりそういう事ってあると思うんですけれども。
学校が子どもたちを守っていくのか親御さんが守っていくのかっていう事の選択みたいな感じに今なってるかなと思うんですけど。
私たちが避難した時には学校と親御さんとが一緒になって子どもたちと避難するっていうような形があの時の形だったので。
ですから引き渡したから親御さんの引き渡さないから学校のというのではなくて学校と親御さんが一緒に子どもたちを守るっていうようなそんな私たちが避難した時はそんなような形だったなっていうふうに思うんですけど。
田端さんやっぱりそういう先生方と親御さんの気持ちが一致するっていうんですか。
その時こういうふうにしようとみんながそう思えるっていうそういう関係作りっていうのがやっぱり大切なんですかね。
学校とそれから保護者との信頼関係。
これもやっぱり積み重ねなんですね。
積み重ねの中で信頼関係を醸成して共同して危機に対処して子どもを守っていくというそういう信頼関係作りというのが大事になってこようかと思います。
まずは親も訓練をしなくてはいけないという事も想定してその時どう行動するかっていうのをやらなくていけないなというのを先生方の話を聞いて思いました。
引き渡し一つについてもちょっと深く考えようと。
そうです。
家族で話し合う事も大切だなと思いますね。
そうですねはい。
さあなんとか津波から逃れて避難できても津波で孤立してしまいます。
食料もなくて厳しい寒さで生き延びるための闘いがこのあとも待っていました。
津波からかろうじて生き延びた戸倉小学校の教師児童と地域住民150人は孤立した神社で夜を明かす事になりました。
日が落ちる頃気温が急激に下がっていきます。
保育所の子どもたちと低学年の児童は神社の社の中に入りました。
中の暗さにおびえる子どもたちのためにこの夜大人たちは努めて明るく振る舞ったといいます。
外では高学年の子どもたちのために麻生川さんと地域の人たちはたき火をして寒さに耐える事にします。
しかしやがて薪が無くなります。
その時助けてくれたのが地域の人たちでした。
こうして子どもたちは震災の日のいてつく夜を乗り切る事ができたのです。
仙台市若林区。
海から300メートルの距離にあった荒浜小学校。
津波が襲った時学校は水の中に孤立し児童90人地域住民200人余りが取り残されました。
津波の1時間後学校に救助ヘリがやって来ます。
一度に運べる人数は2人から3人。
子どもが先か住民が先か選ばなくてはなりませんでした。
当時教頭を務めていた布施勝久さんは児童優先の判断を下す事ができませんでした。
荒浜北町内会会長の早坂勝良さんは6つの町内会の意見を集約します。
学校には小学生だけでも90人が避難していました。
ヘリでの移送には長い時間がかかりました。
真夜中を過ぎても救助は進みません。
廊下の子どもたちは震えていました。
住民たちは教室で待機していました。
子どもたちの様子を見かね学校にある申し入れをします。
子どもたち全員がヘリで運ばれたのは翌朝の事でした。
地元消防団の先導の下住民と教師が学校を脱出できたのは翌日の夕方でした。
田端さん本当に地域の方がパッとまとまって子どもたちを助ける。
この連携はすばらしいですね。
そうですね。
「子は鎹」っていう言葉がありますけども今の映像を見たりしますと学校とか地域の鎹にも子どもがなっていると。
地域の人々が子どもたちを守ってくれたっていう事がうかがわれる事例だったと思います。
麻生川さん特にその夜は実感されたんじゃないですか?本当にあの夜は何回も繰り返す余震とそれから繰り返し襲ってくる津波とあと時折吹きすさんでくる吹雪がありまして本当に過酷な晩だったと思うんですけれども。
やはり私たち教員だけではあの一晩を乗り越えるのは本当難しかったなというふうに思うんですね。
地域の方々が本当にあの…協力してくれた事もありますし。
地域の方が協力して下さる礎というのはそもそもやはりふだんからの関係があったという事なんですか?そうですね。
あの戸倉小学校ではふるさと教育っていうのをもう昭和の60年61年ぐらいからずっと続けてきているんですね。
でふるさとを知りながら学びながらっていう教育なんですけども私たち職員も一緒に参加して地域の方と学校とかっていうのはあまり区別がなくみんなで楽しくやってこられたと思います。
でも根本にあるのは子どもたちのためっていうのはお互いに言いながらやってきた事が今回生かされたんじゃないかなといふうに思ってますけども。
はい。
福田さんお聞きになってどうですか?そうですね私は今東京に住んでるのでなかなか地域での交流とかコミュニケーションっていうのがすごく難しいなというふうに感じているんですけれどもやっぱりそういった地域こそ日頃からつながっていかなきゃいけないなっていうのも改めて強く思いました。
はい。
麻生川さんこの防災という事で一番大切な事ってどんなふうにお感じになりますか?え〜っとまず…4年がたった訳なんですけれどその間ずっと自分で考えてきた事は想定外というものにどう向き合うのかっていう事だったんですね。
でまあ学校っていうのは子どもの命を預かる場所なので子どもの命はもう本当に常に最優先で考えなくちゃならない。
で常に最優先で考えるためには私たちは本当に100%の想定と100%のマニュアルっていうふうに考えてですね備える訳なんですけどでも防災の事について考えた時に落とし穴になる場合があるっていうふうに私自身は思っているんです。
っていうのは完全であるっていう事は求められるんですけどもそれを自分で完全であると思ってしまうと想定外っていうそういう意識はとんでしまうんですよね。
やっぱり自然災害の中で備えるっていう事に100%はないっていうふうに…まあ子どもたちの命を預かる学校は思っていなくちゃいけない。
その現実に起こった時に想定以外の事が起こるっていう事を想定しておかないと対応を間違えてしまう。
それが大きな落とし穴になるかなというふうにはちょっと自分でも感じているところなんです。
例えばもし前の場所にですねまだ戸倉小学校があったと考えた時にそこでまたマニュアルを新たに決めましょうという話をした時に…高台に逃げて正解だったんですね今回。
ですからマニュアルは「高台に避難する」というふうに私自身書くかというとそれは間違いだというふうに思うんですね。
次に来る津波が5分で来るかもしれない訳です。
あの時私がすごく嫌だったその場で判断するというマニュアルを残しておかないともし早く来た時には校舎の屋上で助かる可能性もやっぱりある訳ですよね。
助かる可能性は屋上である場合には屋上という選択肢も残さなくちゃいけないと思うんですね。
そのように固められないマニュアルもやっぱりあるのではないかなっていうふうに思います。
斉藤さんはどんな事を子どもたちに伝えていきたいっていうふうに考えてますか?私自身が防災教育がクローズアップされる前から防災教育を受けて育ってきてますよね。
でやはりそういう…まあ自分の中では「そこまでやらなくても」って思った時ももちろんあるんですね。
でもやはりそういうふうにして被害があった地域だからこそそういうふうに小さい頃から言い伝えられてきた事それを聞いて自分なりに判断してきた事が今回やはりとても大事なんだなって私をはじめほかの職員も含めて思いました。
やはりこれからはやはりこの震災の事も同じように子どもたちには伝えていかなくちゃいけないなと教員としても思ってます。
福田さんはどんな事をお感じになりましたか?もし私があの場面にいたら自分はどう動いていたかっていうのをすごく考えたんですけれども。
保護者というとどうしても「学校がやってくれるだろう地域がやってくれるだろう」と受け身になってしまいがちなんですけれどもどういう連携があるのかっていうのを自分から能動的に知っていく事が大切なのかなというふうに強く思いました。
そうですね。
こういう事があった時にどういうふうに自分が動いてみんなにまた地域に貢献できるのかっていう事も親としての役割なのかなっていう事は…。
そうですね。
ちょっと感じましたね。
はい。
田端さん学校が防災の核となっていく担っていく役割っていうのは今後どういうふうになると思いますか?今回の東日本大震災で学校がやはり防災の一つの大きな拠点になるという事を教えられたと思います。
そして大きな危機というのは1人2人の力ではなかなか乗り越えられない。
今回あったようにそれは教師集団であったり子どもの力であったり地域の高齢者の方の力であったりそういう地域との連携というふうにしてより大きなネットワークの中で学校を中心にしながら危機に備えていかなくてはいけないんではないかなと思います。
そうですね。
それを支えられる保護者でありたいなそういう地域の人でありたいなっていうふうに感じました。
今日は宮城教育大学教授田端健人さんそして震災当時南三陸町戸倉小学校の校長だった麻生川敦さん同じく教諭だった斉藤早苗さんそして福田萌さんにお話伺いました。
皆様本当どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
2016/01/05(火) 02:00〜02:46
NHK総合1・神戸
いつか来る日のために「証言記録スペシャル 学校で命を守る」[字][再]

大震災の日、学校には多くの子どもたちが残っていた。大津波が迫る中、教師たちはどこに逃げるか厳しい判断に迫られた。貴重な体験談をもとに学校で命を守る知恵を探る。

詳細情報
番組内容
東日本大震災が起きたのは平日の午後。学校には多くの子どもたちが残っていた。かつて経験したことのない大地震で混乱する中、教師たちは津波到達までの短い時間にどこへ逃げるか厳しい判断をせまられた。あの日、教師や保護者たちは、子どもの命を守るために何を考え、どのように行動したのか。巨大津波に襲われた学校の校長と教師をスタジオに招き、壮絶な体験を語ってもらいながら、次に来る大災害に備える知恵を読み解く。
出演者
【出演】宮城教育大学教授…田端健人,タレント…福田萌,戸倉小学校元校長…麻生川敦,戸倉小学校元教諭…斉藤早苗,【司会】與芝由三栄

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい

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