ここは真田の里だ。
私が守らなくてどうする?戦国時代の名将真田幸村こと信繁の活躍を描いた今年の大河ドラマ「真田丸」。
「真田丸」とは大坂の陣で信繁が築いた砦の名前です。
たった1日の戦いで敵の大軍1万以上を倒したという…しかし400年後。
かつて戦場だった場所にはビルが建ち並び真田丸の痕跡は完全に失われてしまいました。
今回幻の真田丸の発見を目指して初めて科学的な調査が行われました。
すると驚くべき事実が次々と明らかに…。
こちらは非常に幅の広い堀の跡だとか…。
想像を絶する規模。
驚きですね。
これを見ると…通説を覆す不思議なかたち。
そして強力な仕掛け。
(銃声)
(被弾音)幻の要塞真田丸。
その全貌を現地調査をもとに今宵明らかにします。
戦国史上最大の戦いが始まろうとしていました。
舞台は豊臣秀吉が築いた大坂城。
天下を手中にした徳川家康が全国の大名に号令をかけ20万の大軍で迫ります。
守るは秀吉亡きあと豊臣家の当主となった秀頼と寄せ集めの兵およそ10万。
誰の目にも家康の勝利は明らかなように見えました。
ところが…。
(馬のいななき)何じゃ?あれは…。
数に勝る徳川軍は力攻めを試みますが…。
(銃声)たった1日の戦闘で1万を超える兵を失い大敗を喫したのです。
徳川の大軍を僅か5,000の兵で翻弄し震え上がらせたこの砦こそが「真田丸」。
豊臣方の武将真田信繁が築いた難攻不落の要塞です。
それから400年。
真田丸がどこにあったのかどんな砦だったのか知る由もありません。
真田丸の謎は戦国最大のミステリーの一つとなったのです。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今夜は大河ドラマ「真田丸」の放送を前に謎に包まれた真田丸のミステリーに迫ろうと思います。
真田丸とは大坂冬の陣で激戦の舞台となった砦ですが戦いの直後破壊され地中に埋められてしまったためにその実像は謎に満ちています。
最大の謎はその場所。
一体どこにあったのか?大坂城の周辺だという事は分かっていますがいまだ確認されていません。
更にその姿も謎です。
20万とも言われる徳川の大軍に僅か5,000の兵で大損害を与える事ができた真田丸とは一体どんな姿をしていたのでしょうか。
詳細はほとんど分かっていません。
今宵は真田丸の謎を400年ぶりに明らかにしてまいりましょう。
大坂の陣について記した同時代の記録…ここに真田丸の場所と規模が書かれていました。
「真田丸。
大坂本城の巽にあたり百間四方の出丸」。
「真田丸は大坂城の南東にあり180m四方」。
ちょうど学校のグラウンドほどの広さです。
実は大阪城の南東方向には真田丸があったと伝わる地域がいくつも存在します。
例えばその一つがここ。
大阪城の本丸から1.5kmほど南に来ております。
こちらなんとまあずばり「眞田丸」というのぼりが翻っておりますよ。
でここは三光神社とありますが神社なんですね。
上ってみます。
見て下さいよあちらに立派なまあ銅像が建っていますよ。
これは…真田幸村公の像。
そうこの真田丸の主真田信繁の銅像。
そしてその上には鉄砲を構えた陣地が再現されてますよ。
これはいかにも真田丸な感じがいたしますねえ。
お次は最も有力な候補地とされるこの地域。
先ほどの神社から250mほど南にやってまいりました。
ここバス停「真田山」っていうんですよ。
それに…え〜…あっ交差点にも「真田山」「真田山」。
この辺り一帯が「真田山町」というんですねえ。
真田山町では公園の名前も「真田山公園」ですし小学校も真田山の名が掲げられています。
真田山町一帯は高台になっているという事もありましてこのどこかに真田丸があったと言われてきました。
まあ町の名前自体も真田山町なんですからこれが有力候補地の一つと考えられるのはうなずけます。
更にはこんな所にも…。
こちらの商店街も真田丸の地元という事で真田のシンボルカラー赤備赤一色。
更には真田家の家紋六文銭も掲げられています。
もしかすると真田丸はこちらにあったのでしょうか?そうらしいですよ。
この近辺一帯ずっとね大きな陣地だったそうです。
主人からね歴史はもう大好きな方なので詳しく聞いております。
やっぱりここも候補地の一つなのでしょうか。
一体真田丸はどこにあるのでしょう?ここはやっぱりちょっと南へ来すぎてる…。
去年7月幻の真田丸を見つけようと専門家による科学的な調査が行われました。
地中に残された真田丸の痕跡を探るためレーダー探査を行います。
地中に電磁波を発射。
もともとのかたい地盤の土と人の手で動かされたやわらかい土は電磁波の反射に差が出ます。
これを利用する事で地中に埋まる遺構を探す事ができます。
レーダーを搭載した車で有力候補地とされる真田山地区をくまなく走り回ります。
はいスタートします。
測定が開始されました。
何か見つかるでしょうか?配管とかはよく分かりますけども。
う〜ん。
結局真田山地区ではそれらしきものは見つかりませんでした。
調査は周辺地区に拡大されました。
すると…。
車を止めて記録を確かめると…。
人の手が加わった幅広い溝のようなものが確認できました。
見つかったのは真田山町の隣町です。
更に詳しく調査するためより深く地中に電磁波が届くレーダーが用意されました。
溝らしきものが映っていた直線道路。
地表は特に変わった様子はありませんが地下の方はというと…。
何か起伏は結構いっぱいありますね。
こういうこう落ちてってこう上がってくるみたいなのがあって…ここ溝が1本入ってる事はこういう感じで溝が入ってます。
明らかに人工的に作られた溝が埋まっていました。
深さは5m以上はありそうです。
平行している道路を調査します。
ここですね凹んでる部分。
こういう形で凹んでますね。
やはりここでも深い溝が確認されました。
溝が埋まっていたのはこことここ。
これをつなげると地中に巨大なくぼみが横たわっていると考えられます。
果たして真田丸の一部なのでしょうか?長い間謎とされてきた真田丸の場所。
今回初めてその特定につながるかもしれない巨大なくぼみが発見されました。
見つかったのは真田の名が残る真田山地区ではなくその隣の餌差町にある学校大阪明星学園の南でした。
これまで一般にはほとんど注目されてこなかった場所です。
という事は…「餌差町に真田丸があるかもしれない」という前提で資料を再検討するとこれまでは見逃されていたものが見つかるかもしれません。
全てのレーダー探査のデータが詳細に検討されました。
その報告は驚くべきものでした。
深さそれぞれですけれどもこちらだとかなり深いところまでまあ反射見えてて…こちらだと8メートルとかそのぐらいですかね。
幅も広くて特にこちらは非常に幅の広いですねこういう溝。
まあ40メートルから45メートル近くの幅ですし。
まあいう事でそういうのが堀であればいいかなあと。
堀であると面白いかなあというふうには思います。
深さ8m幅40mから45mという巨大な溝。
明らかに人の手によって掘られそして埋められたものです。
この規模からすると堀としか考えられません。
真田丸の遺構である可能性が極めて高くなりました。
しかもその大きさは大坂城の外堀に匹敵します。
だとすれば真田丸は砦というよりもはや立派な城だった事になります。
レーダー探査で発見された堀を別の角度から検証します。
千田嘉博さん。
城郭考古学の専門家です。
これまであまり注目されてこなかった餌差町に関する資料を改めて見直す事にしました。
これは太平洋戦争終結後アメリカ軍が撮った大阪市内の航空写真です。
大阪は空襲で焼け野原となったため建物の下に隠されていた地形がむき出しとなった状態で写真に記録されています。
アメリカ軍は飛行機から大阪市内をくまなく撮影していました。
およそ2km移動するごとに写真を撮っています。
位置が僅かにずれた2枚の写真を左右の目で見ると重なった部分の地形が立体的に見えてきます。
この手法を「立体視」といいます。
問題の餌差町についても2枚の航空写真がありました。
千田さんは写真の中にレーダー探査を裏付けるものが見えないか立体視で調べました。
恐らくこういう…レーダーで堀が確認された場所に立体視でも堀の跡と思われるくぼみが見つかりました。
これを追っていけば全体像がつかめるかもしれません。
航空写真に残されていた堀の跡をコンピューターで解析しました。
堀はぐるりと台地を囲むように一周しています。
400年間地中に埋もれていた謎の要塞真田丸の姿が浮かび上がってきました。
場所もさる事ながら予想外だったのはその形です。
立体視で見いだされた真田丸は四角い台形のような形をしています。
これまで真田丸は江戸時代のさまざまな絵図に描かれてきましたがその形には共通性があります。
ほとんどが半円形の丸いものばかりだったのです。
驚きですねえ。
現場の徹底調査から明らかになった真田丸は巨大な四角形の城だった事になります。
明らかになった真田丸の場所。
驚くべきはその形です。
「真田丸」というより「真田四角」だったんですねえ。
四角い真田丸なんてこれまでの常識を覆す大発見!ところが実はあったのです。
真田丸が四角く描かれた絵図が1枚だけ…。
江戸時代に広島を治めていた広島藩の浅野家。
この家に全国各地の城を描いた絵図が177枚伝えられています。
代々のお殿様がこれを見て学んだいわば城の教科書です。
この中に「大坂真田出丸」と書かれた絵図があります。
江戸時代初期に描かれたものです。
全体は確かに丸というより四角い形をしています。
長らく真田丸は丸いものだと考えられてきた事からこの絵図はこれまでほとんど注目されてきませんでした。
絵図に描かれた南側の堀。
そこには「広さ24間」と記されています。
およそ43mです。
この数字はレーダー探査で計測された堀の幅40メートルから45メートルというデータに一致します。
この絵図は真田丸の姿をかなり正確に写している可能性があります。
千田嘉博さんは真田丸北側の堀と思われる場所に行ってみる事にしました。
航空写真の立体視でも堀を確認した場所です。
かつての堀が現在は道路になっているようです。
そうですね。
ははあ…なるほど。
やはりこの絵図にも堀がこう…北の方に曲がって…
(千田)この道路がこの本来の真田丸の北を囲っていた堀の痕跡名残であるというふうにですね考えていいんじゃないかというふうに思います。
続いて同じ道を逆方向に歩いてみます。
絵図と照らし合わせると…。
それで…ちょうどそこでこう曲がるわけですね。
なるほど。
へえ…。
なるほど。
だからずっと続いていってたというふうにこれ考えていいんじゃないですかねえ。
絵図の真田丸の輪郭と一致しました。
「摂津真田丸」という絵図っていうのが…まさにこの「摂津真田丸の図」こそが真実の真田丸を解明する一番の重要な史料手がかりと言ってよいと思います。
広島藩に残されていた絵図には真田丸の様子が忠実に描かれている可能性が高くなりました。
だとするとこの絵図を詳細に見ていけば謎に包まれた真田丸の実像が明らかになるはずです。
絵図によれば真田丸は大きな四角い陣地とその北側に小さな丸い陣地がくっついたユニークな形をしています。
航空写真の立体視では四角い陣地を囲んで堀が巡らされていたように見えましたが…絵図では東西は堀ではなく何やら緑色の山のような雲のようなものが描かれています。
これは一体何でしょうか?更に注目して頂きたいのは真田丸の中に描かれている赤い四角。
全部で6つありますがそれぞれ「寺」という文字が見えます。
とりでの中に寺が6つあるというのも何だか不思議です。
絵図に緑色の雲と6つの寺。
これは一体何を意味するのでしょうか?…というわけで現地を確認しにまいりました。
こうやって絵図を持ってですね照らしてみますとああこの道沿いにお寺が確かに3軒並んでますよ。
絵図のとおり。
そしてこのお寺さんが…あっ心眼寺。
あぁ「真田幸村出丸城跡」と書いてありますね。
そしてねこの絵図と照らしてみますとこの真田丸の北東の隅にあったと考えられるのがこちらの心眼寺さん。
では中入ってみましょう。
ここは都会のお寺さんの墓地ですねえ。
あちらにだっておうちが見えますもの。
そして…ここ。
この…これを見て驚きますがこの墓地の高さとですねあのマンションの3階が大体同じぐらいなんですよ。
ですからここ一段…こうして見ますと周りよりも高くなってる事がよく分かります。
この絵図緑色の雲のように見えた所はこれ崖だっていう事ですね。
ここが高いという事をそれが描かれてるんですね。
上空から見ると寺の敷地に沿って崖が巡っている事が分かります。
更に寺の建物は戦の時には大変重宝します。
高い石垣の上に塀を巡らせている事から守りが堅く寺自体が小さな砦の役割を果たします。
火をかけい!寺の屋根は…民家や櫓の屋根はまだ草や板ぶきの時代瓦ぶきは戦に最適でした。
更に広い本堂は本陣を置いたり傷ついた兵を収容したりする施設にも使えます。
そして何より塀に囲まれた敷地に広い空間がある事。
大勢で野営する事が可能です。
よみがえった真田丸の姿です。
周りに巨大な堀を巡らせ天然の崖とその上に建つ寺を改修した城壁。
もともとこの地にあったこれらの寺を利用する事で鉄壁の守りを固める事ができた真田丸。
しかしいくら防御に優れているとはいえ20万もの大軍に大打撃を与える事ができたのはなぜでしょうか?真田丸をめぐる戦いはこれまで映画やドラマでも度々取り上げられてきました。
記録には12月4日早朝徳川の大軍に対して真田丸の方からあざ笑う声が聞こえてきたと書かれています。
退屈しのぎにこの出城を攻められてはいかがか?さあさあ試されよ。
早う早う!
(笑い声)何〜!聞き捨てにはできん!もみ潰してくれる!挑発に乗せられた徳川軍は一斉に攻撃を仕掛けてきました。
真田丸がたたき潰されるのは時間の問題かと思われました。
ところが…。
(銃声)真田丸からの激しい銃撃により徳川軍の死傷者は一説には1万5,000とも。
たたき潰されたのは逆に徳川軍の方だったのです。
しかしここで疑問がわきます。
徳川軍は数にものを言わせ真田丸を包囲すればあらゆる方向から攻撃できたはずです。
それなのになぜ僅かな将兵しかいない真田軍に撃たれるがままになったのでしょうか。
その秘密も実は寺にありました。
こちら江戸時代初期の大坂の絵図です。
真田丸の中にあった3つの寺が描かれています。
そしてその南にもたくさんの寺が並んでいます。
真田丸の場所は寺町の一番奥の一角を占めています。
つまり…こうした状況を踏まえて真田丸の戦いの様子を再現してみましょう。
12月4日早朝濃霧の中真田丸からあざ笑う声が聞こえてきました。
退屈しのぎにこの出城を攻められてはいかがか?さあさあ試されよ。
早う早う!・
(笑い声)何〜!聞き捨てにはできん!もみ潰してくれる!挑発に乗せられた徳川軍は真田丸へ向かう道を通って一斉に攻め寄せます。
しかし寺に挟まれた道は狭く大軍でやって来た徳川軍の利点が生かせません。
すると…。
視界から急に道が消え兵士たちが落ちたのは真田丸の巨大な堀の中。
そこへ…。
撃て〜!
(銃声)真田丸から堀の底の兵士たちに弾丸の雨が降り注ぎます。
徳川軍は慌てて狭い道を引き返そうとしますが次から次へとやって来る後続の兵士たちとぶつかり戻るに戻れません。
そこへまた銃弾の雨が。
(銃声)狭い寺町の中で徳川軍の被害は時間を追うごとに拡大し真田丸の戦いは豊臣方の一方的な勝利となったのです。
まさに真田丸が強かった理由あるいは落ちなかった理由というのが…あるいはその道に沿って攻めていく時に前線の部隊が押し出されてしまって簡単に退却する事もできないというですね自由に大軍が動けなかったというところが非常に大きな要因ではないか。
「大坂真田丸」の絵図から見えてきたのは真田丸をめぐる戦いが実は町なかで行われていたという事。
これは従来のイメージとは大きく異なる戦いの様子です。
そして絵図にはもう一つ真田丸の常識を覆す驚きの事実が隠されています。
注目して頂きたいのは真田丸の北側の部分。
ひびが入っているように灰色で描かれていますがこれは深い谷が広がっている事を表しています。
これまで真田丸は大坂城と密着した小さな砦として描かれるのが普通でした。
しかしこの絵図のように北側に谷が広がっていたとしたら…城が完全に孤立していたという事は…いかに巧みに陣地を築いたとしても大変危険な状況に陥ってしまう事は想像に難くありません。
なぜこのような危険極まりない城を築いたのか。
それを理解するためには真田丸の主真田信繁の半生を振り返ってみなければなりません。
大坂の陣緒戦。
徳川の大軍は真田丸を目指し攻め寄せました。
(兵たちのおたけび)味方の応援が期待できない中大軍を一人迎え撃った真田丸の主が真田信繁です。
心の声さあ来るなら来い!この信繁が徳川勢を全て引き受ける!信繁は信州上田の小さな大名真田家の次男でした。
信繁には一つの役割が期待されていました。
それは有力大名への人質です。
小国が生き残るには周りの大国に恭順を示すよりほか術がなかったのです。
幼い頃は甲斐の武田家で人質として過ごしその後は越後の上杉家に。
本拠地上田よりも信繁は他家で過ごした時間の方が長かったのです。
そしていつしか21歳に…。
心の声私は死ぬまでこのような人生を送らなければならないのだろうか。
家督を継げない次男坊として生を受けた信繁の避けがたい運命でした。
そんな信繁に転機が訪れます。
それは大坂に送られた事。
人質として肩身の狭い境遇が続くかと思いきや…。
真田信繁なかなか見どころがある。
よしお前はわしの息子も同然。
大坂城を我が家と思って過ごせ。
新しい主は天下人・豊臣秀吉。
実子に恵まれなかった秀吉は各大名の人質を家族のように扱いました。
信繁は秀吉から豊臣の姓まで与えられ一人の大名として遇される事になったのです。
心の声天下人たる御方からここまでして頂けるとは…。
まるで夢のようだ…。
信繁にとって大坂は第二のふるさととなりました。
ようやくできた後継者。
秀吉は愛情を注ぎ込みました。
信繁。
わしはもはや老い先短い。
まだ幼い秀頼の事が心配でならぬ。
ご安心下さい。
私が命に代えて必ず秀頼様をお守りいたします。
(秀吉)かたじけない。
頼んだぞ信繁。
その後秀吉が亡くなると天下を握ろうとする徳川家康の動きが国を二分する動乱を引き起こします。
信繁は関ヶ原に向かおうとする徳川軍本体を上田城で足止めする活躍を見せます。
豊臣家の天下を狙う家康め!そうはさせんぞ!しかし関ヶ原の合戦は家康の勝利となりました。
家康の怒りをかった信繁は紀伊国現在の和歌山県に流されます。
歳月が信繁から生きる気力すら奪っていきます。
心の声もはや秀頼様を守る事もできず私はこのわびしい土地で一生を終えるのか…。
そんなある日。
信繁のもとに知らせがもたらされます。
豊臣は徳川と戦をする決心をしました。
真田殿にも是非御味方頂きたい。
天下を手中にした家康はいまだ力を持つ豊臣家を葬り去ろうと大坂城を攻め落とすべく準備を進めていました。
家康の大軍を迎え撃つために…心の声今こそ亡き秀吉様の御恩に報いる時だ!今すぐ大坂城へ行こう!信繁は紀伊国から脱出。
大坂城へ向かいます。
心の声家康はこちらをはるかに超える大軍で攻めてこよう。
この強敵から豊臣家を守り抜くには…うんこれしかない!そして取りかかったのが真田丸の建設でした。
それは大坂城と谷を挟み補給も退路も絶たれた孤立無援の城。
しかしそれこそが信繁のねらいでした。
そういう意図を持った城だと。
敵を引きつける事で何としても秀頼と大坂城を守る。
心の声さあ来るなら来い!大坂城には指一本触れさせんぞ!20万もの徳川の大軍に僅か5,000の兵で立ち向かった真田信繁。
圧倒的な兵力差にもかかわらず緒戦では見事敵を撃退する事に成功します。
しかし対する徳川家康も歴戦の強者。
ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。
戦いの様子を描いた同時代の貴重な史料です。
ここに双方の戦法が記録されています。
真田丸では寺を改修して築いた櫓に鉄砲を構えた兵が並んでいます。
一方真田丸と対峙している徳川の大軍はどうでしょうか。
兵士たちが竹の束を持っています。
真田丸から放たれた弾丸を防ぐ盾です。
その後ろに描かれているのは小さな山。
背後には銃を手にした兵士たちがいます。
これは真田丸に対抗して徳川軍が築いた…築山より奥に目を転じると兵士が列になっています。
上半身しか見えませんが彼らの下半身は「仕寄」という地面に掘った通路の中。
これは今で言う塹壕。
敵の弾をよけるためのものです。
銃撃を防ぎながら少しずつ塹壕を掘り進め城に近づいていくモグラ作戦です。
できるだけ城に近づいたところで土を盛り上げて射撃陣地を築き反撃に出ます。
こうして塹壕で弾をよけながら徐々に真田丸に近づこうとした姿が絵図に描かれていたのです。
今回真田丸の場所を探るために行った立体視の過程で新たな発見がありました。
航空写真から徳川軍の射撃陣地を初めて見つける事ができたのです。
(千田)ここの所に…見つかった築山は3か所。
更にこれらの位置には共通点がある事が分かってきました。
それは真田丸との距離がどれも100m余りという事です。
これより離れていれば攻める側にしてみれば安全ではありますけども真田丸の側を攻撃する事ができない事になりますのでまさに…しかし不可解な点があります。
築山が真田丸からの火縄銃の射程ギリギリの所につくられたとすれば築山の後ろ側つまり弾が飛んでこない所に弾よけの塹壕が掘られた事になります。
これは一体どういう事でしょうか?この謎を解く手がかりがやはり「冬の陣図屏風」に描かれていました。
鍵は真田丸の攻撃力です。
櫓の上にいる兵士たち。
不思議な事に2人から3人が固まって銃を構えています。
真田丸以外では一人一人の兵が銃を構えているのと比べると明らかに不自然です。
真田丸には特別に…
(銃声)大阪府内の旧家にそれは伝えられていました。
こちらの銃普通の火縄銃の2倍近くの2mにもなる巨大なものです。
重さも20kg近くになります。
(取材者)大きな銃ですねえ…。
これは大狭間筒ですからとっても一人では持ち上げられません。
ちょっとこれを持ち上げて…。
先ですか?はい。
このようにして大体構えるものですけれど…。
(澤田)この大鉄砲は野戦に持ち出して一人で扱う事はできません。
そして城壁に迫ってくる敵の人馬を攻撃するためのもので専守防衛のための守城砲これが大狭間筒の役目です。
大狭間筒の破壊力はどのようなものだったのか実験を行いました。
的は戦国時代のものと同じ材料鉄板に板を張り付けて漆を塗って補強した甲冑です。
(銃声)
(銃声)
(被弾音)甲冑の背後に回ると鉄板に穴が。
直径2.5cmの弾丸が貫通している事が分かります。
普通の火縄銃ならはじかれてしまうところです。
しかし徳川軍が最も恐れたのはその有効射程距離でした。
そのために普通の火縄銃が届かない所でも徳川軍は塹壕を掘らざるをえなかったのです。
巨大銃を擁した真田丸。
対するは塹壕をはうようにしてモグラ作戦を展開する徳川軍。
両者の間では壮絶な戦いが繰り広げられました。
大狭間筒の攻撃をしのぎながらなんとか塹壕を前進してきた徳川軍。
(銃声)そして…。
銃声が…やんだ!よし今だ!かかれ!
(兵たちのおたけび)行け〜!行け〜!登れ〜!塹壕から兵士たちは飛び出し攻撃を仕掛けます。
しかし…。
(銃声)引け〜!引け〜!砦に近づくと銃弾の雨が…。
徳川軍は急いで塹壕に戻ります。
真田め…。
しつこいやつらじゃ!そして次なる一手が打たれます。
竹束で弾丸を防ぎつつ土を盛り上げ射撃陣地を作ります。
しかし動かない的こそ大狭間筒の格好の餌食。
撃て〜!
(銃声)うわ〜!大丈夫か?決死の竹束隊。
その背後で射撃陣地を作る兵士も決して安全ではありません。
山の高さを稼いだところでようやく反撃開始です。
撃て〜!撃て〜!あの山じゃ!あの山を狙って下され!
(兵たち)おう!
(銃声)
(被弾音)おら帰りてえ…。
わしもじゃ…。
真田丸の守りを破ろうと徳川軍は度々攻撃を仕掛けるものの決め手に欠け戦線は完全にこう着します。
両軍の間を大量の銃弾だけが飛び交う消耗戦に陥ってしまったのです。
1か月にわたるこう着状態に陥った真田丸をめぐる攻防戦。
しかし戦いの行方は信繁の思わぬ形で決着がつく事になります。
そして「歴史秘話ヒストリア」。
真田信繁と徳川家康最後の戦いが始まります。
戦い開始から1か月。
家康は長引くこう着状態に業を煮やします。
心の声このままではまずい!現れたのは特注の大砲。
命中精度は高くはありませんが射程が長い大砲を遠くイギリスにまで発注していたのです。
(砲声)そして真田丸と大坂城に昼夜を問わず撃ち込みました。
侍女に死者が出ます。
これに恐怖した秀頼の母淀殿の独断で和睦を結ぶ事になりました。
心の声戦は味方が優勢。
しかるになぜ和睦を…。
こうして大坂冬の陣は終結しました。
家康は和睦に際しある条件を残して大坂を後にします。
家康の条件それは大坂城の堀を埋めるというものでした。
本丸を除く全ての堀が1か月の間に埋められました。
この時…心の声家康が豊臣家を滅ぼす事を諦めるわけがない。
すぐにまた大坂城へ攻め寄せてこよう。
冬の陣から5か月後。
家康は再び大坂城に向け出陣しました。
心の声あのいまいましい真田の出城は今や影も形もない。
この戦もはや勝ったも同然よ。
しかし…。
申し上げます!それは本当か?家康の目の前に出現したのはなんとなくなったはずの真田丸。
そしてそこに陣取っていたのはもちろん真田信繁その人でした。
突如として現れたもう一つの真田丸。
それは文献にはこう記されています。
茶臼山は今でも残っています。
大坂城から南に5km。
ここが信繁が陣を構えた山茶臼山です。
茶臼山にやって来ました。
現在は天王寺公園の一角で市民憩いの場となっております。
あちらうっそうとした森に覆われていて信繁が本陣を置いた当時の面影はもうありません。
なぜなくなったはずの真田丸が突如として現れたのか。
その秘密は山の麓に建てられた石碑から読み取る事ができます。
「夏の陣真田幸村本陣跡」と刻まれたすぐ横に「冬の陣徳川家康本陣跡」とあります。
つまり前回の戦いで家康が本陣を置いたこの茶臼山を信繁は再利用していたのです。
あの真田丸の絵図が伝えられていた広島藩にはもう一つこの茶臼山の絵図も残されていました。
山の周囲にしっかりとした堀を巡らせ堅牢に整備されていた家康の本陣。
これを利用し改造する事で信繁は新たな要塞を誕生させたのです。
注目はこの西側の「丸馬出」と言われる陣地。
丸馬出は敵に向かって騎馬隊を出撃させるための出丸です。
千田さんはこの丸馬出は信繁が茶臼山を改修した時新たに付け加えられたものだと見ています。
もし家康がこの馬出を作っていたとすれば攻めるべき大坂城はこの北側という事になりますからこの馬出は北に向かって出ていく口として作る必要がありました。
それに対しまして…ですからこの茶臼山の本陣にわざわざ信繁が馬出を作って南に出撃できるというそういう機能を特に強めたというのは…新たに築かれたこの丸馬出にこそ信繁必勝の作戦が秘められていると考えられます。
さあ来い家康。
また真田の戦ぶりを見せてやる。
茶臼山は街道が集まる交通の要衝です。
徳川の大軍が大坂城へ向かうためにはここを通らねばなりません。
真田丸と同じく茶臼山もひときわ目立つ高台の砦。
徳川軍のかっこうの攻撃目標になります。
そこが信繁のねらいでした。
徳川の大軍勢の先頭に集中射撃で大打撃を与えて足止めします。
敵の意識が茶臼山に向けられたその間に西に設けた丸馬出から騎馬隊が出撃。
手薄になった家康本陣の側面に斬り込んで家康の命を狙います。
5月7日早朝…茶臼山第2の真田丸をめぐる攻防が始まろうとしていました。
強力な射撃陣地と化した茶臼山が敵を待ち構えます。
心の声まだじゃ…。
西の丸馬出では騎馬隊が今や遅しと出撃の合図を待っています。
心の声まだ撃つなよ…。
ところが…。
申し上げます!お味方の毛利勢はや徳川方越前松平勢と戦を始めましてございます!なんだと!?この時茶臼山の東四天王寺口に布陣していた豊臣軍が焦って徳川軍に攻撃を開始してしまいました。
心の声なぜだ!なぜ待てぬ!作戦は失敗でした。
信繁たち真田軍が茶臼山に居続ける意味はもはやありません。
心の声ここでは勝てぬ。
山を下りて乾坤一擲の勝負に出るほかない!信繁は茶臼山の陣を捨てる事を決断します。
戦場の混乱に乗じて一気に家康の本陣まで突撃する作戦に出ました。
(信繁)狙うものはただ一つ!真田左衛門佐参上つかまつった!大御所の御首頂戴いたす!怒とうの勢いで家康本陣に迫った真田軍。
記録によれば猛攻にさらされた家康はもはやこれまでと二度まで切腹を覚悟したといいます。
しかし徳川軍主力を十分に茶臼山におびき寄せていなかった事もあり家康本陣の守りはなおも固いままでした。
信繁の運命を懸けた突撃は失敗に終わりました。
兵のほとんどを失った信繁は茶臼山に程近いこの神社まで押し戻されました。
信繁は傷つき疲れ果てここにあった松の木にもたれかかっていたと伝えられます。
命を燃やし尽くした信繁を徳川方の兵が囲みました。
茶臼山第2の真田丸を使った信繁の作戦は実現する事はありませんでした。
同じ日大坂城は炎に包まれ落城。
豊臣家は滅亡したのです。
(祝詞)かつて大坂の陣で真田と戦った越前藩。
ここに信繁の遺品が伝えられています。
幸村所用の…真田丸の激戦で徳川軍を震え上がらせたこの采配。
そこには信繁のものと思われる血痕が残されていました。
たとえ可能性は僅かでも最後まで信繁が勝利を諦めていなかった事をこの采配は物語っているのかもしれません。
大坂城に信繁が造り上げた要塞真田丸。
激闘の瞬間を封印したままそれは大都市の地中に今も眠り続けています。
2016/01/06(水) 22:00〜23:13
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリアスペシャル▽徹底解明!これが真田丸だ〜地中に残された幻の城[解][字]
今年の大河ドラマ「真田丸」。真田丸とは400年間どこにあったのかさえわからない謎のとりでだ。地中に埋まるこの幻の城の存在を科学のメスで初めて明らかにする。
詳細情報
番組内容
今年の大河ドラマ「真田丸」。真田丸とは、大坂の陣で真田信繁(幸村)が激戦を繰り広げた有名な歴史の舞台だが、実はこの400年間どこにあったのかさえわからない謎のとりでだ。今回、専門家の協力のもと、史上初めて科学のメスで地中深くに埋められた“幻の真田丸”の存在を明らかにする。真田丸の真の姿とは?そこに秘められた真田幸村の知られざる戦略とは?従来の戦国史の概念を打ち壊す真田丸研究の最前線を拡大版で送る。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
サンプリングレート : 48kHz
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