世界最大の広告企業WPP、マーチン・ソレルCEOのデジタル・ビジョン

本記事は、WPPグループ最大のデジタルエージェンシー、VML株式会社の日本法人の代表と、株式会社FICCの代表取締役を兼務する、荻野英希氏による寄稿コラムとなります。

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世界最大の広告複合企業、WPP。そのCEOを務めるサー・マーチン・ソレル(TOP画像)は1996年のハーバード・ビジネス・レビューの記事で、当時ニューメディアと呼ばれていたデジタルメディアについて、以下のように述べています。

「Webを含むインタラクティブなメディアは、ブランディングやコミュニケーションのあり方を根本的に変えてしまう可能性が大いにある」。

ソレルはこの時点で、クリエイティブな広告の世界が、科学的でデータ・ドリブンなものになると確信していたと言います。

その後、2001年に、当時はまだ数少ないデジタル専業エージェンシーのVMLを買収します。2005年には初めて広告視聴データと調査データを結びつけたダイナミックロジック(Dynamic Logic)を、2007年にはアドテク企業の24/7リアルメディア(24/7 Real Media)を買収し、同年にデジタルエージェンシーのホールディングカンパニーとなるWPPデジタル(WPP Digital)を設置します。

その後、わずか3年でデジタル専任の社員を1万7400人(全社員の12%)まで増員し、2011年にはトレーディングデスクのザクシス(Xaxis)を11カ国に展開。さらに2012年には、後にFacebookやTwitter、Amazonなどとのデータパートナーシップを実現するザ・データアライアンス(The Data Alliance)を設立します。

先進的なソレルのビジョンに導かれ、WPPのデジタル化は急ピッチで進められます。収益のデジタル比率がグループの目標に設定され、現在は全体の4割、額にして69億ドル(約8188億円)までに成長しました。これは2位のピュブリシス(Publicis)と3位のオムニコム(Omnicom)のデジタル収益を合計した額を超えており、ほかの広告代理店グループを大きく引き離す結果となっています。

P.O.G.

2013年6月28日、ピュブリシスとオムニコムの合併が発表されます。実現すればWPPの収益を5億ドル(約593億円)も上回る、世界最大の広告代理店グループ、ピュブリシスオムニコムグループ(P.O.G.)が誕生します。

発表後、しばらくエージェンシー側も、クライアント側も混乱が続きました。1業種1社制が基本の欧米で、2位と3位の合併は、さまざまな利害の対立を招くのです。ソレルはこの合併がクライアントや株主にとって無益なものであると非難し、各グループ企業のトップへ以下のような指示を出したと言われています。

「お互いのデータをマージできないピュブリシスとオムニコムは脅威にはならない。ホールディングカンパニー・オブ・ザ・イヤーだけは奪われないよう、各社カンヌの受賞に励め」。

ピュブリシスはこの時点でビバキ(Vivaki:2008年~)というトレーディングデスクを設置し、データドリブン・マーケティングの知見を貯めていました。比較的事業規模の大きいオムニコムもアナレクト(Annalect:2010年~)を設置しましたが、ほかの広告代理店グループに比べ、出遅れている状態でした。

合併の本当の目的は、両社が持つインフラやデータ資産を統合することにより、積極的なデジタル投資を行ってきたWPPに追いつくことだったとも言われています。しかし、翌年の2014年5月9日、混沌とした状況を不安視した広告主から数十億ドルのビジネスを失った両社の交渉は決裂し、合併は解消されます。

ホリゾンタリティー

2014年1月1日、電通メディア(Dentsu Media)、カラ(Carat)、アイプロスペクト(IProspect)、360iなどのデジタルエージェンシーを束ねた、電通イージス・ネットワークが発足します。彼らはイージスグループのデジタルの能力と、電通の強い組織力を武器に、瞬く間に世界的なプレゼンスを創り上げます。電通イージス・ネットワークはそれぞれの会社を部署として連携させ、互いの資源をフルに活用する、ひとつの組織として機能しているのです。

WPPを始め、欧米の広告代理店グループには電通のような統制力がありません。ソレルはグループ会社間の関係を「キス・アンド・パンチ(Kiss and Punch:時には協力し、時には競い合う)」と称し、あえて競争環境を創っています。競合の力が同様に分散していれば、大きな問題はありません。しかし、優れた組織力を持つ電通と競うためには、さまざまなエージェンシーを横断的に管理し、人的・資金的リソースを集中させる必要があります。現在でも、50社以上のエージェンシーが競い合いながら、マーケティングサービスを提供しています。

2007年、Appleの急激な成長に脅かされたDellが、45億ドル(約5340億円)のメディア費をかけたコンペを開催します。勝者には、1.5億ドル(約177億円)の収益となる大型の案件です。ソレルは各エージェンシーから最も優秀な人材を1000人以上を集め、Dell専用のビスポーク・エージェンシーを立ち上げます。Dellのアカウントを勝ち取ったソレルは同年、Ford専用のチームデトロイト(Team Detroit)、2012年にはコルゲート(Colgate)専用のレッドフューズ(Red Fuse)を発足させ、エージェンシー間の協力体制を築き始めます。

この頃からWPP内では、水平統合を意味する「ホリゾンタリティー」という言葉が盛んに使われるようになります。そして、ソレルは人的リソースの連携だけでなく、各社のデータ資産の連携を始めます。

グローバル規模でのデータ・広告投資管理

2013年、それまでコンシューマー・インサイトと呼ばれていた調査部門の名称が「データ・インベストメント・マネジメント」へ、その目的も「クライアントのデータ資産の価値向上」へと変更されます。カンター(Kantar)やワンダーマン(Wunderman)が持つ、オフラインの広告視聴、購買、調査、CRMなどのデータはザ・データアライアンスによって統合され、グループM(GroupM)率いるアド・インベストメント・マネジメント(広告投資管理)部門のメディアバイイングに活用され始めます。

ソレルはこの時点で、データの時代における新たな競合環境について、以下のように述べています。

「競合が誰かと尋ねられると、私たちには先ずオムニコム思い浮かび、ピュブリシスが思い浮かび、IPG、ハバス(Havas)、電通、イプソス(Ipsos)、GfKやニールセンも思い浮かびます。しかし、今ではGoogle、Facebook、Amazon、アリババ(阿里巴巴)も思い浮かび、デロイトコンサルティング(Delloite Consulting)やアクセンチュア(Accenture)も思い浮かぶのです」。

北米ではワンダーマン傘下のKBMグループ(KBM Group)が、匿名性を担保したデータシェアリングを可能にする、「ジップライン(Zipline)」というDMPを展開しています。米国では「ジップライン」を通じて、すでにネット利用者の95%を購買データなどからターゲティングできるようになっています。調査会社フォレスター(Forrester)による2015年第4四半期のデータマネジメントプラットフォームに関する調査では、「ジップライン」がオラクルの「ブルーカイ(BlueKai)」や、Googleと肩を並べ、グローバルなデータマネジメントにもっとも適したDMPとして評価されています。

現在WPPは中国やインドなどの急成長市場に向けて、「ジップライン」の展開を進めています。圧倒的な優位性を生み出すデータ資産と、その正しい管理・活用方法を関連会社へ共有することで、エージェンシーの間に強い繋がりが生まれ始めています。

欧米ではマーチン・ソレルのようなビジョナリーと、激しい競争環境によって、データドリブン・マーケティングの分野が急成長をしています。最近ではオムニコムが、アナレクトの高い技術力を評価され、26億ドル(約3085億円)とも言われるP&Gの米国アカウントを勝ち取りました。いまやデータとテクノロジーが広告代理店の明暗を分け、新たな戦いの場を創り出しているのです。

WPPにとって、最も厳しい市場のひとつである日本では、消費者のメディア接触が大きくデジタルにシフトしたにも関わらず、欧米に比べて、広告主や広告代理店のデジタル化が進んでいません。データシェアリングにおいては、個人情報保護に対する国内の過剰なコンプライアンスも大きな障壁となっています。

日本のWPPグループエージェンシーは、今後、広告主へのグローバル水準のデータマネジメントとデータドリブン・マーケティングの提供において真価が問われることになるでしょう。それを実現させるためのデータ資産や人的リソースの積極的な連携(ホリゾンタリティ)に向け、余念がありません。WPPだけでなく日本において今後は優れたデータマネジメントの能力が、エージェンシーの競合優位性となること必至でしょう。

Written by 荻野英希
Image from Chip Cutter / flickr