
東京オリンピック、大阪万博と国際的なイベントが相次いだ60年代から70年代、宿泊客の増大で日本はホテルブームに沸いていた。
大広間での豪華な披露宴も人気を集め、都心には次々と高級ホテルがオープン。
当時、ホテル事業は「金のなる木」とも言われていた。
その中でも、ヨーロッパ製の格式高い家具にきらびやかなシャンデリア。
ひときわ高級志向にこだわっていたのが、「ホテルニュージャパン」だった。
創業は今から55年前の1960年。
都心の一等地、赤坂にそびえる、地下2階、地上10階のホテル。
3方向に伸びる廊下の両側にある客室は全フロア豪快400室以上。
東洋一の格式をうたい文句に大宴会場、高級レストランやバー、宝石店に郵便局までもが備わっていた。
シングル1泊1,4000円、大卒の初任給が12万円だった当時、庶民にとっては高嶺の花。
歌舞伎役者や芸能人が結婚披露宴を催すことも多く、一流のホテルとして世間に知られる存在だった。
さらに、地下2階にあった高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」は、常連客に政治家や芸能人など各界の著名人が多く、入店できるだけでもステータスだったという。
誰もが認める超一流ホテル、そこで惨劇が起きた。

今から33年前の2月8日。
ホテルニュージャパンは運命の日を迎える。
そのホテルにいたのは、国内外からの宿泊客376人と従業員の27人の計403人。
大学受験のために上京していた青年、貿易会社を営む日系二世のアメリカ人社長とその部下、地方から出張で来ていた会社社長や、長年連れ添った夫婦など、376人の宿泊客たちはそれぞれの夜を静かに過ごしていた。

午前3時50分。
この日、結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦…9階の部屋で夫が異臭を感じ、目を覚ました。
匂いの出元を確かめようとドアを開けると…熱い煙が入り込んできた。
9階には他にも様々な外国人が宿泊していたが、炎が迫りみんな廊下には出られない…火の手は部屋にまで迫っていた。
地方から出張に来ていた会社社長の部屋でも…窓を開けようとしたが…開かない!!
これでは助けを求めることすら出来ない…絶体絶命であった。
誰もが憧れる豪華できらびやかな世界が、今や脱出不可能な炎熱地獄と化したのである。

午後3時39分。
新婚夫婦が火災に気づく11分前、消防庁に通報が入っていた。
真っ先に出動したのは、麹町消防署の高野甲子雄隊長率いる、第十一 消防特別救助隊だった。
特別救助隊とは、人命救助を主な任務とする専門部隊で、通称・レスキュー、消防署員の中から試験によって選抜される。
オレンジ色の制服を着ることが許されるのは、特殊な任務を背負う彼らのみ。
中でも高野らの部隊は、管轄に国会議事堂など国家の中枢施設があり、エリート部隊と呼ばれていた。

しかし…高野たちが到着した時には、ホテルの9階、10階が巨大な炎に包まれていた。
数々の火災現場をくぐり抜けてきた歴戦の高野たちですら、見たことのない最悪の状況だった。
通報を受けてわずか5分…この時、宿泊客たちの中には、深い眠りにつき火災に気づいていない者もいた。
その時…窓から身を乗り出す宿泊客の姿が見えた…高野たちの制止を聞かず、男性は熱さに耐え切れず自ら飛び降りてしまった。
地上20数メートルから飛び降りるほどの熱さ…現場はすでに地獄と化していた。
さらに、炎の勢いで割れたガラスが降り注いできた。
ロビーは逃げ惑う客でごった返しており、通用階段も避難する人で身動きできない状況。
高野たちは、火災の影響で灯りの消えた非常階段をのぼり、各階の扉を開け状況を確認。
8階までは熱も煙も感じられなかった。

そして、火元と思われる9階に着いた時だった。
扉が開かない…鉄製の扉が熱で膨張し、開けることができなくなっていた。
これは現場が長時間高温になっている時に見られる現象だった。
そして高野たちは10階へ、1秒でも早く救助に取りかかりたかった。
酸素を確保し、暗闇の中で迷わぬように命綱をつけ、10階ホールの捜索にあたった。
暗闇と煙で作業が困難な中、3名の救助に成功した。
高野たちは、取り残された人たちを屋上からロープで救出しようと考えていた。
しかし…窓から救助を求める人、外に逃げ、今にも落下しそうな人、9階と10階にはまだ100人以上の人々が取り残されていたのだ!

通報から遡ること4時間半前。
全てはイギリス人観光客が酔って部屋に戻ったことが始まりだった。
裁判記録では、彼の寝タバコが火災の原因とされている。
それから4時間後、全ての宿泊客がチェックインを済ませた午前3時過ぎ…
フロントマンが仮眠室に向かった時のこと…あのイギリス人が泊まる938号室から煙が出ていた。
マスターキーを持ち、フロントマンたちはすぐに9階へ向かった。
この時、時刻は午前3時17分頃。
実は消防への通報のおよそ20分も前に異変は発見されていたのだ!!

938号室を開けると、ヘッドサイドから炎が上がっていた!
この直後、廊下を挟んだ斜め前の部屋に宿泊していた受験生は、いち早く火災に気づき避難した。
消化器を取りに行っていたフロントマンは、すぐに938号室へ戻り、消化を行った。
しかし…一旦は消えたように見えたが、再び燃え上がったため、急遽他の消化器を取りに走った。
その頃、フロントマンから警備室に火事の一報が入った。
だが…裁判記録によると、警備員らは火災通知ためのベルの鳴らし方を知らなかったという。
さらに、フロントマンのうちの一人は、消火栓箱からホースを取り出そうとしたが…その使い方もわからなかったという。

9階で火災を発見した従業員…しかし冷静な判断ができる者などいなかった。
裁判記録によると…「黒煙が流入してきたため、廊下全体の煙の状況もよく確認しないまま消化に向かおうとするのを危険だと判断して制止し4階へ降り、1階フロントに戻ってしまった」とある。
また、9階に向かった警備員については、「一人で対応するのに不安を覚え、火事を知らせ回ることもせず、防火戸については存在すら知らなかったため、閉鎖することなど思いも及ばず、他の警備員と共に対応しようと考え警備室に戻った」となっている。
この頃、客室では多くの宿泊客が何も知らずに眠っていた。
そして事態はさらに悪化の一途をたどる。

火元である938号室の炎が廊下へ噴出、瞬く間に燃え広がった。
しかもこの時点でもまだ通報はされていない。
このころ、火災に気づいた人々がようやく避難を開始。
しかし、あの新婚夫婦をはじめ、日系2世のビジネスマンや出張中の会社社長は、まだ火災に気づいていなかった。
9階の廊下の炎は各部屋に燃え移り、壁を焼き、ついには天井を落とした。
そして、各部屋の窓から炎が吹き出し始めた。
最初に煙を発見してから、およそ20分が経過していた。
そしてこの時、ようやく消防庁に通報が入ったのだ。
しかも、裁判記録によれば…最初に通報したのはホテルの者ではなく、燃え盛る炎を目にした通行人だったという。
一流ホテルが一転、脱出不可能な炎熱地獄と化した。
実はそこには大惨事へとつながる驚くべき真実が隠されていた。
『従業員の初期対応』

火災を発見しながら、消火栓の使い方も分からず、非常ベルでさえ操作できなかった従業員。
実は彼らは、まともな消防訓練を受けていなかった。
裁判資料によると、消火栓や非常時の設備の使い方はおろか、まともに通報すらできなかったことが火災の拡大に繋がってしまったとされている。
この対応は、当時の新聞でも厳しく報道された。
『設備の不備』

通常火災時には、スプリンクラーが作動するはず。
だがこのホテルの場合、一部を除いて客室部分にスプリンクラーは備えられていなかった。
裁判資料によれば、スプリンクラーの全館設置工事は、事故の2日前に決まったもので、事故当時、工事はまだ進んでいなかったという。
さらに、この時点で取り付けられていたスプリンクラーも、一部配管が繋がっておらず、水が出ることはなかったという。
その上、非常ベルや非常放送も整備不足などで全く鳴らなかったという。
そのため、宿泊客の多くが火災に気づかず、結果 100人以上もの人が取り残されてしまったのだ。
『異常乾燥』

季節は冬、特にこの当時は乾燥注意報が頻繁に出るほど、空気は乾ききっていた。
にも関わらず、ホテルの加湿装置は停止されていたのだ!
ホテルなどでは通常、屋外の空気を取り込み、そこに水をかけて加湿。
その後、適温に温めて暖房として各部屋に送る。
だがこのホテルの場合、外気を取り込み加湿する装置を停止し、各部屋の空気を巡回させ 加熱だけを繰り返していた。
そのため、空気は徐々に乾燥していき、火事が起こりやすい状態になっていたのだ。
『内装の欠陥』
通常、ホテルやマンションなどでは、どこかの部屋で火災が発生した場合、炎はもちろん煙も通さないよう各部屋が密閉されるような作りになっている。
仮に廊下に燃え移っても、防火戸で一定区画をしきり、燃え広がりを防ぐ手だてがされている。
だが今回、炎や煙はフロア全体に広がってしまった。

その原因はこのホテルの内装にあった。
鎮火後のホテル館内を捉えた映像を見てみると…部屋を仕切る壁はブロック作りとなっているのだが…
裁判記録によると、積み上げたブロックの所々に、木製のレンガを配し、そこに木材を打ち付けその上にベニア板、そして可燃性の壁紙を貼り付けたものだったという。
間仕切りにブロックを使うことに問題はないのだが、その積み方が問題だった。
ブロックを積む際、通常は隙間をモルタルで完全に埋める。
だがニュージャパンの場合、隙間が完全に埋められておらず、壁紙とベニアを燃やした炎がその隙間を通り、隣の部屋に燃え移ったという。
さらに、配管用に開けられた穴なども、きちんと埋め戻されていなかったため、炎がそこを通り燃え広がる原因になったとされる。
しかも、客室のドアも木製だったため、次々に燃え落ち、延焼を食い止められなかった。
また、延焼を最低限に食い止めるための防火戸にも、ある重大な欠陥があった。
裁判資料によると…両扉が自動的に閉鎖する仕組みになっていたが、床面の絨毯が防火戸下部に引っかかり、閉鎖の妨げとなっていたため、正常に作動しなかったという。
のちに、ずさんな防火管理体制として大きく報道された。

さらにもうひとつ、ホテルのデザインにも問題があった。
このホテルは、エレベーターを降りるとY字型に廊下が伸び、その先もまた同じY字型に分かれていた。
そのため、初めて来た者は自分がいる場所がどこなのか瞬時に判断できない。
つまり、方向感覚を失いやすい構造だった。
非常口への誘導表示はあったものの、宿泊客が火災を知った時にはすでに煙が充満しており、表示を確認することができなかったのだ。
いくつもの問題が重なり、大惨事となったホテルニュージャパン…宿泊客の安全を約束するホテルとしては、まさに最悪の環境だったのである。

東洋一の格式をうたい文句にし、政治家や各界の著名人が愛した超一流ホテル、誰もが憧れるステータスシンボルだったホテルニュージャパン…
だが、その実態は見せかけだけのハリボテ…砂上の楼閣だったのだ!
いつ崩れるともわからない楼閣の中で、宿泊客たちはそれぞれが力の限り戦っていた。
逃げ遅れた外国人客の中には、雨水の配管を見つけ、それをつたって逃げようとし者もいた。
ある人はエレベーターで8階から1階へ下りようとしたのだが、皮肉にもエレベーターは9階へ。
しかも、ドアが開かずに閉じ込められてしまったのだ!

そして、貿易会社を経営する日系2世の男性、ムツトさんは迫り来る炎と煙の中で必死に宿泊客を誘導していた。
それを見た部下のクラハットさんはあることを思い出した。
それはムツトさんの家で行われたホームパーティでのこと。
「日本の素晴らしさは人々の親切心だ。それは日本の血が流れている私の誇りでもあるんだ」と話していた。
親切な心を失わないこと…それが彼の誇りだった。
実は、日系人である自分が訪れるたび、いつも温かく接してくれる日本の人々に彼はいつも心から感謝していたという。
ホテルの従業員は誰一人いない状況…それでもムツトさんは一人、誘導を続けたという。

そして消防隊員もまた地獄のような状況の中で最善の努力を重ねていた。
隊員たちは屋上からロープなどを使って、9名を救い出すことに成功していた。
だが…取り残された人物を発見した高野隊長。
と、次の瞬間、隣の部屋で爆発が起きた…フラッシュオーバーだった。
フラッシュオーバーとは、炎によって熱せられた室内の可燃物が瞬間的に燃焼し部屋全体を爆発的に燃やし尽くす現象である。
その温度は最高で900度にも達するとこともあり、防火服でも耐えられないという。

宿泊客がいる部屋もいつフラッシュオーバーが起きてもおかしくない状況だったが、突入を指示。
指名された浅見隊員は、隊の中で最も俊敏だった。
高温に耐えるため水をかぶっての決死の突入!
フラッシュオーバーの危険がありながら高野が突入を命じたのは、「浅見ならできる」そう信じていたからだった。

立ち込める煙。
一刻も早く救い出す必要がある。
すると…倒れている男性を発見。
それは確かに先ほどの男性だった。
だがその時、警告音がなり響いた。
それは酸素ボンベの残量が少なくなった合図だった。
浅見は10階で誰よりも激しく動いていた。
そのため、酸素の減りが早かったのだ。
浅見はやむなく撤退した。

浅見はボンベを交換したらもう一度行かせて欲しいと高野に志願。
しかし、あの部屋でフラッシュオーバーが起きるのは時間の問題…
だが、確かに助けを待つ人がいる。
高野は、自分が現場に向かうことにした。
ギリギリの選択だった。
高野は隊長になった時から、最も危険な現場には隊長たる自分が行く、そう決めていた。
炎の中へ向かう高野。その思いは果たせるのか?

ホテルニュージャパンの防災意識の乏しさ…数々の欠陥…一流とは思えない防火設備。
そこにはある人物の存在が大きく影響していた。
ホテルニュージャパンは、高度成長期の1960年にオープン。
東京オリンピック開催に伴う観光客の増加を期待し、都内に高級ホテルが続々と開業した頃だった。
建築や設計は一流の設計士やデザイナーが手がけたという。
だが、新しいホテルが次々と建設されると競争が激化し、次第に経営が悪化。
創業から20年が経とうとする頃には存続の危機に瀕していた。
そんな時、ホテルを買収しようという人物が現れる。
当時、株式の取得でいくつもの企業を買収していた横井英樹だ。

彼は、独自の手法でホテル再建に取り組み、買収から2年を待たずに見事一流ホテルとして復活させてしまった!
だが、その経営方針は驚くべきものだった。
彼の手法、それは…「徹底した支出の削減」だった。
このホテルが建てられた60年代当時は、今と違い消防法も厳しくなく、防火設備が乏しくても営業に問題はなかった。
しかし、横井がホテルを買収する5年前、消防法の改正によって大型ビルではスプリンクラーや防火戸の設置、内装を不燃性の物にすることなどが義務づけられた。
つまり、元々無かった防火設備を新たに取り付ける必要があったのだ。

もちろん、新社長もこれらを知って買収したはずなのだが…
裁判記録によると彼は…消防署に工事を督促されていた。
全館にスプリンクラー設置の必要があると聞かされ、ホテル建物が老朽化しているため、給排水、電気関係などの全面的な改修のほか、防火区域の設置が必要である旨を説明されていた。
だが、その進言や上申に耳を傾けようとせず、彼がしたと事と言えば、消火器を買い増すように指示しただけだったという。
彼は、予算がないことを理由に防火設備の改善になかなか着手しようとしなかったのだ。
その一方で、インテリアは豪華なものにするように指示していた。
高級インテリアは客の目にとまり、ホテルの豪華さを演出できる。
宿泊客の増加につながりそうなことには、惜しみなく資金をつぎ込んでいた。

度重なる指導に応じない社長に対し、ついに麹町消防署長による面談が行われた。
防火設備の改善がされないと営業停止にするという言葉に横井社長は、内装とスプリンクラー設置の工事を始めたという。
しかし、ホテル内の一部にのみ設置されたスプリンクラーは、水の出ない見せかけのものだった。
見栄えのするところには惜しみなく金を注ぎ込み、安全設備への投資はほどんどしない方針の社長。
買収される前は定期的に専門業者による安全設備への点検が入っていたのだが…買収後、新社長は正規料金の支払いをせず、業者は撤退。
そのため火災当時、安全設備は故障が放置されたままだったのだ。
加湿装置が止められていたのも、電気代を節約する…ただそれだけの理由だった。
また、日銭欲しさに駐車場を有料化し、あろうことかその受付を安全管理が本業の警備員にさせ、それまで行っていた彼らによる深夜の巡回は全廃。
人員まで減らす徹底ぶりだった。

そんな横暴な経営方針についていけない従業員は次々と辞め、また社長の意にかなわない者は容赦なく首を言い渡された。
開業当時320人いた従業員は、火災時には134人にまで減っていた。
フロント業務、安全対策、顧客対応などその人事は崩壊し、社員たちは専門分野以外の仕事もしなければならなくなった。
必要最低限の人員で業務をこなさなければならないため、まともな消防訓練を行う余裕はなかった。
その結果、災害時の指示系統も確立せず、緊急通報など訓練さえ受けていれば当然できることが何一つできなかったのだ。
過酷な仕事量、給料の遅れなどから仕事への士気も低かった。
常に社長の顔色をうかがい、事故当時 宿泊客の安全よりも、大事に至らなかった場合、大騒ぎをしたとして社長に叱責されることを恐れ、客室を軽くノックして回っただけだったという。
一流ホテルとして見せかけを飾り、その裏では客の安全を軽く見ていた社長。
裁判記録には、「客を欺くのに等しいと言われても仕方がない」とまで書かれている。

安全よりも金儲けに執着したホテルニュージャパン社長・横井英樹とは一体どのような人物だったのか?
横井本人に直接取材した大下英治氏がのちに出版した書籍をもとに彼の人物像に迫っていく。
横井英樹は、大正2年、愛知県で横井家の次男として生まれた。
本名は千一、祖母が名付けたという。
千人に一人の大人物、文字も千に一で「千一」となった。
しかし、父は先祖代々守ってきた土地を手放し、酒に浸り、彼が生まれた頃には一家は貧乏のどん底だったという。
しかも、父は学校の鞄を隠したり、教科書を破ったりしたこともあったという。
それでも彼は、父の目を盗むようにして遅刻してでも小学校に通った。
千一は頭も良く、字も上手かったという。
また、隣家の畑の端を借り、自ら作ったジャガイモや白菜を売り歩き、その金で母にご馳走を買うこともあった。

そして11歳の時、「出世をするまでは帰らない」と告げ上京、繊維問屋に就職。
商才を発揮し、17歳で独立すると繊維問屋「横井商店」を開業した。
太平洋戦争が始まると、軍需品に目をつけ「横井産業」を設立。
29歳で社員3000人を擁する大企業の社長となった。
終戦時、彼の自宅には札束が詰まった大きなリュックが積まれていたという。
英樹と改名したのはこの頃だった。

そして…不動産に目をつけると、買った土地は次々と値を上げ、戦後3年でその資金は当時の価値で20億円に膨れあがっていた。
その後も不動産取得に専念、
そんな中、百貨店の先駆け的存在であり、当時、日本中に存在した老舗デパート白木屋が経営不振で倒産寸前であることを知る。
商才に自信があった彼は、白木屋の株式を買い集めた。
老舗の経営に関わることで一流の財界人として認められるという野望を抱いたのだ。
しかし、白木屋の社長から「どのような手段で株を集めたのかは知らないが、どこの馬の骨かわからん者を迎え入れることは絶対にできない。」と言われ、横井の顔色が変わった。
彼は金しか信じない野心家となった。
そして多くの財界人を巻き込み、時には法スレスレの手段を用いて、1954年、江戸時代から引き継がれた白木屋の経営陣を一掃することに成功した。

この事件で「乗っ取り屋」として名を馳せた横井はその後、実業家として「ホテル経営」に乗り出した。
その1つがホテルニュージャパンだったのである。
ホテルニュージャパン社長就任時の訓示ではその経営方針が次のように語られた。
「去年は43億売り上げたけど今年は60億くらい売りたいと思う。来年は80億。目標は高くして客は盗んでくるんですよ。そこまでみんなががめつくやってください。汚く儲けて綺麗に使おうじゃありませんか。」
儲けのみを優先した社長の方針の中、ホテルニュージャパンは運命の日を迎えてしまったのだ。

信用を欺かれた客は炎の中、懸命に脱出を試みた。
脱出に成功した者もいたが、無念にも地上に叩きつけられた者もいた。
そして、命をかけていたのは消防隊員たちも一緒だった。
窓から客室に飛び込んだ高野。救助ロープを結びつけあとは運び出すだけ、その瞬間!
フラッシュオーバーだった!
煙の中部屋に入った高野を炎が襲った。
しかも、立て続けに2度。
1度でも耐え切れないほどの炎を2度も浴びてしまったのだ!

高野は生きていた。
炎に焼かれた高野は喉に火傷をしており、息すらまともにできない状態。
そんな中、高野を動かしたのは、「目の前のこの人を助けたい」その思いだけだった。
そして高野は、仲間の待つ屋上へ繋がるハシゴを掴んだ。
懸命に命綱を引く隊員たち。
そして、自らの命もギリギリの中、高野は男性の救助に成功したのだ!
高野は全身に火傷を負いながら、救助続行を志願したが…同行していた救急隊に止められ、病院に搬送された。

午前4時。
悪化の一途をたどる事態に消防庁は空前の指令に踏み切った。
それは、第四出場。
東京23区全域の消防力を総動員するという最高ランクの出動形態だった。
さらに、救急など他の舞台からも応援部隊を出場させる「増強特命出場」も同時発令。
消防総監が直々に現場の指揮をとるとう、まさに消防庁の総力を挙げての消火・救助活動となった。
助ける側も、それを待つ側も、決して諦めず炎と戦っていたのだ。
だが、その惨状を目にした社長は…当時の雑誌報道によると、何も指示を出さず、ただ黙っていたと元部下が語っている。

ホテルに取り残された人々に炎が迫る!
あの新婚夫婦は「死ぬ時は一緒だ」と覚悟を決めていた。
と、その時、10階の宿泊客がシーツをつなぎ火の手の回っていない下の階へ下りようと言ってきたのだ!
実はこのホテルには隣の客室が見えないように、各コーナーに目隠し用の壁が取り付けられていた。
10階から降ろしたシーツを下の部屋のものと繋ぎ合わせ、それを持ちながら目隠し用の壁を足場にして降りようというのだ。
まずは、外国人が壁伝いに7階まで下りることに成功。

夫婦も同じように下りる決意をしたが足場の壁まではわずか数センチの窓枠を伝っていかなければならない。
夫が慎重に壁へと向かう。
そして、壁を掴むと妻へと手を伸ばした。
壁へたどり着いた妻はシーツを使い、無事7階へ。
その後、夫も7階へたどり着き、火の気のないその階の階段から脱出に成功した!

高野隊長の離脱後も懸命の救助は続いた。
地方から来ていた会社社長は、自ら窓ガラスを叩いて活路を開いた。
エレベーターに閉じ込められていた男性は、応援に駆けつけた高野たちとは別の消防隊によって救助された。
雨水の配管を伝って下りていった外国人は、なんとか地上にたどり着いた。
長年連れ添った老夫婦は…2人で体を寄せ合って亡くなっていた。
そして、日系2世のムツトさんは、部下を逃がしたあとも、宿泊客を誘導し続け、亡くなった。

それでも救助隊は66名を救助、負傷者は34名。
火元のイギリス人は廊下でその遺体が発見された。
その他、台湾からのツアー客は帰国を翌日にして13名が亡くなり、激しい炎に炭化した性別の分からない方や、胎児を身ごもったまま亡くなった方もいた。
高野が救助した男性は…残念ながら後日、搬送先の病院で息を引き取った。
33名の尊い命が失われた。
そのうち13名は転落死だった。
出動車両、全123台。
出動人員は649名。被害総額は17億円以上。

早朝、横井英樹社長はようやく取材陣の前に姿を現し、こう話した。
「9階と10階の一部だけに火事を食い止めましたことは不幸中の幸いでございますが、大事なお客様のご遺体があるということを考えますと、本当に申し訳なく思っております。」
彼は火災から11年後、業務上過失死傷の罪で禁固3年の実刑判決を言い渡された。
そして、午後0時36分鎮火。
火災発生から9時間後のことであった。
こうして前代未聞の壮絶な炎との戦いは終わった。

決死の救助で自らも大火傷を負った高野甲子雄隊長は、現在どうしているのだろうか?
私たちは高野さんの元を訪ねた。
高野さんは現在66歳。
消防隊長まで勤め上げ、引退していた。
今はボランティアで東日本大震災の被災地を回り、支援活動に尽力。
防災や救助の講演活動も行なっている。
高野さんにフラッシュオーバーの中で行ったあの救助について伺った。
「自分たちがやらければ、あとは誰もやれないからやるんだという気持ちで助けたというのを記憶してます。最終的には技術ではなく気持ちがすごく左右すると思うんです。その人を絶対に助けたいという気持ちがないとそういう行動には移れないし、1人の命から10人、20人、30人の命は助けられるので、まず一人を助けないとそのプラスアルファはないと考えているので、まずは一人を大切にしていきます。」
と語ってくれた。

ホテルニュージャパンの大火災から33年。
当時、直接社長の横井を取材し、のちに書籍にまとめた大下氏は彼の人生をこう語る。
「誰よりも努力して石垣に爪をたてるようにして崖の上を登っていったんでしょうけどね。やっぱりしょうがない崖から落っこちゃったような人生ですね。因果応報。1つの事件が起こる、それは突然ではないよね。過去の積み重ねがそこで火を噴くんであって」
火災当時、仮通夜が行われた港区の増上寺には命を落とした33名の冥福を祈るための観音像が建てらている。
「ホテルニュージャパン羅災者のみたまとこしえにやすらかんことをお祈りして…」
これは事故から5年後に横井によって建てられたものである。
事故当時、ホテルに宿泊して煙にいち早く気づいて避難することに成功した予備校生は今…
「若い頃は自分はラッキーだったという思いはあったんですけど、私は助かったけれども助からなかった人たちもいるという事実を重く受け止めるようになってきた」と話してくれた。

自らの命と引き換えに最後まで宿泊客の誘導を続けた日系2世のムツトさん。
彼がアメリカに残した娘たちを訪ねた。
父の行動を彼女たちはどう思っているのか?
「あの行動は父の性分からだったと思います。父は寛大で奉仕の精神に溢れた人でしたから、全く驚きません。彼にとっては当たり前の行動でした。」
「父の教えてくれた日本の親切心は、私たちにとっても財産です。」
と話してくれた。