奥底の悲しみ〜戦後70年、引揚げ者の記憶〜(日本放送文化大賞グランプリ受賞) 2015.12.31


70年前。
祖国日本の敗戦。
外地に暮らしていた660万の日本人は本土への引揚げを余儀なくされました。
祖国を目指したのは軍人だけではありません。
半分は女性や子ども老人といった一般の人々でした。
身の危険が迫る中全てを捨てて本土へ逃げ帰った引揚げ者たち。
敗戦から時が経つにつれ足に履き物はなく身にはボロ布をまとうようになり見るも無残な姿に変わっていったのです。
ここ全部海やったとですけどね。
山口県の引揚げ港仙崎。
私たちはある記録を見つけました。
当時仙崎港には引揚げてくる女性たちのために相談所が設けられたというのです。
その名も婦人特殊相談所。
女性たちの中には特殊婦人と呼ばれる人たちがいてある相談に応じていたというのです。
しかし当時を知る人は…。
(スタッフ)聞いた事ないですか?特殊相談所とは?特殊婦人とは?私たちは探りました。
…っていうのはどういう気持ちだと思いますか?パパーン!と戦争の終わりは女性たちにとって新たな闘いの始まりでした。
戦後70年。
引揚げ者の記憶の奥底を見つめました。
日本海を望む小さな港町で41万人の引揚げ者を受け入れました。
博多佐世保舞鶴浦賀に次いで5番目に多い数です。
70年が過ぎる今町に引揚げの事を語るものはわずかです。
港には記念碑が。
ギャラリーには写真が20枚ほど展示されています。
当時を知る人も少なくなりました。
引揚げてくる人々にお茶を振る舞った事行き場のない人たちをひと晩家に泊めた事を覚えています。
そねえね特別な事はしてあげられん。
終戦は22歳の時。
港のすぐそばに母と妹と暮らしていました。
引揚げは翌年の暮れまで続き船が入るたびに港はごった返しました。
(中谷さん)ここ全部建物があった。
(スタッフ)小屋立ってたんですか?建物があった。
それでみんなこっちです。
(スタッフ)へえ…。
やから…。
やから引揚援護局の人たちとお医者さんと看護婦さんと…。
国は当時全国19カ所に引揚援護局を置きました。
身元の確認疫病の検査や消毒などの業務に当たり地元の人々もこれを手伝いました。
仙崎の引揚援護局が残した記録があります。
そこに私たちは聞き慣れない言葉を見つけました。
医療関係の項目にある「特殊婦人」です。
定義はこうです。
「北朝鮮や満洲からの引揚げ婦女子には現地で暴行を受けた結果体に異常を来している者がいる」国はそんな女性たちを「特殊婦人」と表現していました。
港の様子を描いた図からは中谷さんがお茶の接待をした場所から少し離れたところに相談所が設けられていた事がわかります。
港では北朝鮮と満洲からの引揚げ者について月ごとに特殊婦人の数を調べていました。
暴行を受けた女性たちの相談に乗り把握しようとしたのは妊娠や性病。
調査をした5カ月の間に相談を受けた女性の5パーセント500人以上が妊娠または性病を患っていた事がうかがえるのです。
(スタッフ)聞いた事ないですか?聞いた事ない。
もうそんな事言わんですよみんな。
あの…病人やら妊婦とかけがをした人は全部港にほど近い浄土宗極楽寺。
今は亡き先代の住職が手記を残していました。
大勢の引揚げ者を寺に受け入れ病気の治療に当たった当時の様子がつづられていました。
しかし特殊婦人については全く触れていません。
先代の住職は一枚の写真を残しました。
引揚げ者の手当てをした看護婦たちです。
その一人菊本さんが今も仙崎に暮らしていました。
(スタッフ)見ると…当時の港ですね。
港にえーと…婦人相談所っていうのがあってこれが恐らくそういう被害を受けた人たちの…。
(スタッフ)隣ですか。
(菊本さん)こんな状態は見てます。
でもね…。
菊本さんはすぐそばの医療室に出入りしていました。
しかしその菊本さんでさえ相談所の存在を知らないといいます。
ただ終戦の翌年になると引揚げてくる女性たちは見るも無残な姿に変わっていったと記憶しています。
女の人は頭を丸めてあの…帰られた…ずっとそんな状態を見ると本当に…なんて言っていいかちょっと…。
明治大正昭和と戦争を続けたかつての日本。
いくつもの国や地域を統治下に置き自国の領土と勢力圏を次々と広げていきました。
(ナレーション)果てしない満洲の大平原に見渡す限り大豆の実り。
新天地での成功を夢見て多くの日本人が海外へ渡りました。
また満洲には国策としても農村の土地不足などを解消するため20万を超す人々が移り住みました。
そして敗戦。
海外に取り残された日本人はそれぞれが本土を目指しました。
しかしソ連軍の占領下にあった満洲と北朝鮮からの引揚げは大幅に遅れます。
数カ月から1年以上その地に居続ける事になってしまったのです。
海外にいた660万の日本人のうち最終的に引揚げる事が出来たのは630万。
満洲と北朝鮮ではおよそ21万人が引揚げを終える前に命を落としました。
特殊婦人の疑問。
私たちは引揚げ者を訪ねました。
山口県周南市の深澤幸代さん89歳。
19の時北朝鮮から引揚げました。
向こうで覚えた朝鮮漬けは今も毎年作ります。
私らが教室にねストーブ3つ置いとるんよ。
それで学校行くまでにまつげが凍るんよ。
深澤さんは北朝鮮の南部平壌に近い鎮南浦で敗戦を知りました。
その後まもなく町の様子は一変します。
ソ連軍が押し寄せてきたのです。
深澤さんの両親は年頃の娘を2カ月間天井裏に隠しました。
ソ連兵の暴力から逃れるためです。
19の深澤さんは男のように頭を剃り食料は天井の隙間から入れてもらいます。
用を足すのはつぼの中寝るのは鴨居の上でした。
怖いとかなんとかはもう通り越してねどうしたら生きられるだろうかという感じ。
それは第一に何を目的にするかっていったら女性なんです。
そうすると私たちが一番ひどい目に遭ってるわけ。
当時の国会の議事録の中に現地で日本人女性に被害を及ぼすソ連兵に関する記述を見つけました。
「ソ連兵は粗野で一面野獣的な性格を所有しシベリアの囚人をかり集めて組織されていた」本当やられた人はたくさんおる。
小さい子どもね…1歳2歳やなんかの子どもを持ってる親はどこに逃げても声がするから駄目じゃないですか。
友達もたくさんいたずらされてる。
死んだ人もたくさんいる。
(スタッフ)当時やっぱり向こうではどうしようもなかったんですか?どうしようもない。
それが戦争に負けたという事でしょ。
日本人が手助け全然出来ないもの。
逃げる事で一生懸命。
どこに手助けが来ますか?日本から来る事は全然ない。
(深澤さん)だから私たちもクラスの中で3分の1は帰ってないからどういう死に方してるかわかりません。
山口県長門市に住む金谷美沙子さん77歳。
金谷さんも北朝鮮から引揚げました。
平壌の南日本の製鉄所が立ち並ぶ兼二浦。
金谷さんの住む町も敗戦後様子は一変しました。
当時父親はすでに戦死していました。
ソ連兵たちに町を占領された時から母親の苦労は始まりました。
母たちも皆丸坊主に頭をしましてねそれでもう男の服を上下着てそして「ソ連兵が来た!」って私たち子どもが言うと母は押し入れの中に隠れてねソ連兵に見つからないように。
そしてまだ母たちも33でしたから…。
今で言えばまだ33の方って若いですよね。
金谷さんが母親と博多港にたどり着いたのは敗戦から10カ月後。
引揚げる船の中でも女性たちに悲劇があった事をあとになって聞かされました。
(金谷さん)若い女性の方たちがね海に飛び込んで死んだっていう話をね…。
私はそれは後に知った話です。
やっとこさふるさとに帰った。
でも自分には自分が望んでいない子がね宿ってる。
金谷さんが引揚げた港へ向かいました。
国内最大の引揚げ港博多。
かつて大陸からの引揚げ者で溢れ返った港は今韓国や中国から多くの観光客が押し寄せています。
空襲で焼け野原となった町に正式な引揚げ船以外の闇船も含めると150万を超す人々が上陸したといわれています。
女性たちが身投げをしたという博多港では引揚げ船の中である呼びかけをしていました。
「不幸なる御婦人方へ至急御注意!!」と始まる一枚のビラが配られていたのです。
望まぬ妊娠と性病を申し出てほしいと呼びかける内容でした。
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられ体に異常を感じつつある方には上陸の後速やかにその苦しみに終止符を打ち…」と周囲にはわからぬよう言葉を選んで書かれています。
被害を受けた女性たち特殊婦人を慎重に探し出そうとしていました。
博多で引揚げを語り継ぐ活動をする…。
パネル展や講演会を開き引揚げ者同士のつながりを大切にしながら活動を続けてきました。
森下さんが仲間と作った証言集には特殊婦人と呼ばれた女性たちのその後の事が詳しくつづられていました。
望まぬ子を宿し博多港に引揚げた女性たちは…。
当時法的に許されていなかった堕胎中絶が極秘に行われていたのです。
そしてお医者さんたちも自分たちがもうそれこそ堕胎罪で罪に問われるかもしれないのにそれをとにかくきれいな体にして故郷に帰したい。
第二の人生をね過ごさせたいっていうので…。
終戦翌年の3月。
博多から20キロほど離れた二日市にその施設はつくられました。
特殊婦人の堕胎や性病に対応する二日市保養所です。
町の片隅には今も水子地蔵があり毎年供養祭が行われています。
二日市保養所は引揚げ援護をする医師や関係者によって自発的につくられました。
人道的立場から女性たちを救うためでした。
また国もこれを黙認し協力していました。
2人の医師と10人の看護婦が手術に当たりました。
医師の報告書によると望まぬ子を宿した妊娠を不法妊娠とし堕胎は妊娠後期の8カ月や9カ月になっても行われていました。
1年で400〜500人に上ったと医師は証言しています。
この隠された事実を語り継ぐ活動を続けてきた看護婦がいます。
この春亡くなりました。
村石さんは堕胎の様子をこう証言していました。
「麻酔無しの手術に皆声も出さず耐えていた」「赤ん坊の泣き声をきくと母性本能が目覚めるので声を聞かせないよう幼い命を始末したがバケツの中で息を吹きかえし泣き声を挙げることもあった」私たちは手術に立ち会った看護婦の一人に話を聞く事が出来ました。
大分県杵築市に住む…。
人助けが信条で72歳まで看護の仕事を続けました。
二日市保養所の堕胎の仕事は本当は断りたかったという青坂さん。
これまで多くを語りませんでしたが90を過ぎた今これも私の役目と重い口を開きました。
お産もねやっぱり臨月に足らない人を堕ろすんだからやっぱり大変だったです。
やっぱりね私たちは仕事だからあれだけどやっぱり引揚げて強姦されてねつらい思いして帰ってきた人がやっぱりふるさとにも帰られんで海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。
だけどもやっぱりあれして…上陸してねそれで療養所に運ばれてきた人はねやっぱり身ぎれいになった人たちはね喜んでね…。
病院からねさよなら言ってねあとは振り向かずにみんな帰っていったですよ。
女性たちのためを思い人道的立場から手術に当たった医師や看護婦たち。
しかし一方で厚生省の記録からは別の側面が浮かび上がってきます。
それは国が堕胎を医療ではなく検疫として行っていたという事。
つまり外から入ってくる妊娠と性病をコレラやチフスなどの疫病と同じように水際で徹底的に食い止めようとしていた事がうかがえるのです。
堕胎は女性たちのためだったのか?それとも国のためなのか?私たちは長崎県の佐世保へ向かいました。
自衛隊とアメリカ軍の基地の町です。
博多に次いで2番目に多い139万人が引揚げました。
当時佐世保にも厚生省の引揚援護局が置かれました。
引揚げ者で溢れ返ったその場所は今…大型のテーマパークに様変わりしています。
佐世保引揚援護局でも特殊相談は行われました。
15歳から50歳までの女性たち全員に話を聞いたという記録が残っています。
その献身的な行動で引揚げてきた女性たちを感激させたというのです。
相談員を務めたのは佐世保友の会の婦人たちでした。
全国で2万人が活動をする友の会。
生活全般についてともに学びボランティアにも力を入れています。
佐世保友の会では先輩が活躍した70年前の引揚げの事が今も語り継がれています。
引揚げてくる女性に相談員として向き合った当時の会員たち。
その一人故・西村二三子さんの娘が母親と同じように佐世保友の会で今も活動をしています。
当時まだ幼かった中山さんは母が毎晩遅くに消毒のにおいをさせて帰ってきた事を覚えています。
母親たちは相談の内容を問診日誌に記録していました。
(中山さん)お母さんの目の前で銃を突きつけられて娘が犯されるっていうのはどういう気持ちだと思いますか?そして赤ちゃんを身ごもってで身ごもった体で日本には帰れないって日本の島々が見えた時に身を投げたっていうその…。
それをお母様がね淡々と語られる。
語られた事を書き表すという…。
見るも無残な姿で引揚げてきた女性たちの悲しみが日誌にはつづられていました。
「ソ連兵から要求され未婚の婦女子47名を出しましたがそれでも足りないので第二班として合計80名を出しました」性的な暴行は必ずしも力ずくではなく仲間たちのためにと身内から差し出される場合もありました。
「16歳の女学生が危うく陵辱を受けるところを見るに見かねて飛び込み身代わりとなりました」「強引な要求をついに拒みきれずとうとう我が娘を出しました」「皆の見ている目の前で犯されました」「63歳になる老婆さえ暴行を受けました」昭和22年に行われた天皇への上奏の中にも特殊婦人に関する記録を見つけました。
特殊相談はそれぞれの引揚げ港で実施し問題解決のための処置つまり堕胎は全国の国立病院で無料で行ったというものでした。
つまり二日市保養所と同じ事が山口県をはじめ全国各地で行われていたのです。
引揚げ港仙崎で私たちが最初にぶつかった特殊婦人の疑問。
看板や記念碑からは想像もつかない悲しみがその向こうにはありました。
山口放送では今年に入って引揚げに関する特集を放送しています。
こちらご覧頂けますでしょうか。
このように多くの方々から貴重な体験記をお寄せ頂いています。
本当にありがとうございます。
その中から下関にお住まいの75歳の女性の手記の一部をご紹介させて頂きます。
「昭和21年9月行方不明の父を残して私たちは出発しました」「その頃満洲はもう肌寒く野宿の寒さと空腹で体は痩せ細っていきました」「たった1つのリンゴを私たち子ども3人で分け周囲に気づかれないように母の股の間に頭を突っ込んでかじった事を今も思い出します」引揚げの体験を聞かせてほしいと呼びかけたところ多くの反響がありました。
私たちは引揚げ者を訪ねました。
山口県美祢市に住む新田浩治さん78歳。
昭和21年の秋満洲から引揚げました。
(鈴)引揚げの道中で弟を3人亡くしています。
新田さんは胸の奥にしまっていた幼い頃の記憶を文字にしてくれました。
引揚げ前の満洲の暮らしから手記は始まります。
一番見やすいのは…「来なさい」っていうのは相手の事は「ニーデ」って言いますから「ニーデライライ」ってね。
「向こう行け」ってのは「ニーデライベチューバ」って言うんですよね。
一番基本的なのは「ありがとう」。
「シェイシェイ」。
シェイシェイ。
シェイシェイっていうのは誰でも知ってますよね。
当時傀儡国家といわれ事実上日本の指導下にあった満洲国。
新田さんは最大の都市奉天に暮らしていました。
国民学校の校長を務める父と優しい母。
5人兄弟で一番上の新田さんは当時8歳でした。
3人の女中と2人の運転手を抱える生活は子ども心に最高の待遇でした。
しかし敗戦間際満洲にソ連軍が攻め入ると状況は一変。
奉天の町も占領されます。
ソ連兵は銃を撃ちながら家の中に押し入り金目のものは全て奪っていきました。
どの家も父親は出征していて母親と子どもと老人だけ。
ただ怯えるしかありませんでした。
(新田さん)ちょうど皆兵隊にとられてますしね。
家には子どもと奥さんしかおらんでしょう。
皆奥さん方は軍服を着てちゃんと戦闘帽子も被ってるけどやっぱ女ってわかるじゃないですか。
それで全部トラックに乗せてね強姦しとるわけですよ。
新田さんが見ている目の前でソ連兵に連れて行かれた女性たち。
近所の家の母親も強姦されました。
その後さらなる悲劇が起こります。
辱めを受けたその母親は子どもを道連れに手榴弾で一家心中をしたのです。
うちの隣の隣ぐらいやったですけどバーンっていうたから僕らが走って出たらブワーッとものすごい爆風でしてね。
肉片が飛ぶでしょう。
その飛んだのを犬がくわえるのを僕は目の当たりに見たんですよ。
だからその頃食糧ないでしょう。
コーリャンとか粟とか乾パンとか芋しかないのに腹がすいてるにもかかわらず4日ぐらい飯は食えませんでしたね。
ある集団自決の記録があります。
佐世保友の会の問診日誌に記された引揚げ者の証言です。
「金品のみならず女性を求めるソ連軍の圧力は日に日に強まりやむなく開拓団の老若男女全員での自決を強行」「何もわからない子どもたちは薬だと言って青酸カリを飲まされぐずぐずしている老婆は団長から首を切られ辺り一面は修羅場と化した」とその場を脱出した女性が証言しています。
山口市に住む小林茂さん81歳。
北朝鮮から引揚げました。
小林さんの手記は90ページに及びます。
10年先の戦後80年にはもう生きていないかもしれない。
去年の夏から少しずつ書き進め地図などの資料も併せて作りました。
(小林さん)これ父の転勤したコースなんですけどね。
番号…。
ここでね球場っていうとこですけどねここで敗戦になったんですよ。
敗戦当時小林さんは11歳。
父親を戦地へ送り出し家の中は母と子どもたちだけでした。
敗戦後すぐに町はソ連軍に占領されます。
その後1年間毎日のように日本人が住む長屋にやって来たソ連兵。
「マダムダワイ」女を出せと大声でわめき発砲したのです。
抵抗するのは撃ち殺すんですよ。
マンドリン銃っちゅうてこのぐらいの小銃に弾が入った…マンドリン銃っていうたんですけどねそれでねガーンと撃つんです。
そういったのをね見てるんですよ。
全部裸にされるんですよね。
そして後ろ向けっていうような格好なんですよね。
だからね犬が盛っているような感じのね言えば男女間のセックスをしてるんですよ。
口の中にね銃を持っとるんですよ。
周りにね男性が1人か2人おるんですよ。
次の人が待っとる。
それで強姦しよるんですよ。
それでこんちくしょう体を開かんとなったらボンッて撃つんですよ目の前で。
それでそれを引きずり出して次の人を連れてくる。
そんな事考えられます?今の状況の中で。
(スタッフ)昼の日中でも?そうです。
雪の中でもそう。
道路の中でもそうです。
恐怖と興味が交ざり合う心で初めは遠くから見ていたという11歳の小林さん。
しかし幾度もその場を目にするうちに変わりました。
ソ連兵が去ったあと放心状態で動けない女性のために服を拾い湯を沸かし体を拭き自分に出来る精いっぱいの事をするようになったのです。
そんな11歳の記憶を子や孫たちにもいつか知ってほしいと手記にしました。
書き終えて肩の荷が下りたといいます。
重かったですねそれを抱えてるっちゅう事が。
だからね家族にも言えんし今初めて話すんですけどね。
家族にも言えん…秘密っちゅう事はないけどね自分のこの負の世界というのをね抱えとるっちゅうのは本当に苦しかったですね。
でまさかこういうふうにしてね読んでくださるとは夢にも思わんでただ原稿募集してますよっちゅう事で出したんですけどねだから今考えてみたら幸せやなあ聞いてくださる方がおられるっちゅう事は幸せやったと思ってね。
ごめんなさい。
だから子どもも戦争のあとのつらさっていうのはあったんですけどね子どもを持ってる親がまだつらかったと思うんですよ。
無事に連れて帰らにゃいけんしね。
光市に住む枌谷勝二さん79歳。
敗戦の翌年満洲から引揚げました。
いつも笑顔を絶やさない事が枌谷さんの信条だといいます。
当時暮らしていたのは北朝鮮との国境に近い龍井。
町は敗戦とほぼ同時にソ連軍に占領されました。
銀行マンだった父とよく気がつく母2人の姉と弟。
枌谷さんは当時9歳でした。
ソ連兵による性暴力は占領後すぐに始まりました。
シベリア兵っちゅうて最低の兵隊だったんよね。
ロスケロスケと言いよったけどそれが女は犯す…。
幸い姉は無事でした。
しかし枌谷さんの母敏子さんは夫の見ている目の前でソ連兵に連れて行かれたのです。
パパーン!とだからもう仕方がないですよ。
それは親父は…。
そしたらやっぱり…。
かえって男の方がね亭主の方が…。
おかしい事したらバーンって脅し射撃やるんですからね。
空に向けてババーンって。
だから…。
逆らう事出来んかったのいね。
親父なんかもね。
泣きながらでもどんなつらかったろうと思うね。
自分の女房が連れてかれるんよね。
それはただ事じゃないね。
(智江子さん)恥になるって今まで内緒で黙ってた…。
とうとう言ったねお父さん。
恥ずかしいこんな事誰にもわしは言わんて…。
いくつもの国や地域を統治下に置くなどして領土と勢力圏を広げたかつての日本。
35年間植民地として支配した朝鮮半島にも多くの日本人が渡りました。
その植民地に小林さんも一家で暮らしていました。
朝鮮の方っていうのは植民地になったため…。
天皇の皇民ね。
多くの差別があったという小林さん。
配給制度では一等皇民の日本人には米が。
二等皇民の朝鮮人には米と雑穀のコーリャンが半々に。
その他の三等皇民にはコーリャンだけでした。
日本語を教育するなど現地の人々を日本人化するための皇民化政策も進められました。
そして敗戦。
支配する側に立っていた小林さんは…。
ちょっと恥ずかしいですけどね頭たたかれたのがね…。
これちょっと押さえてみてください。
(スタッフ)あっ本当だ。
こことここも陥没してますね。
これはね随分たたかれたんですよ。
日本人のために僕らこんな苦労せんにゃいけんこんな貧乏せんにゃいけんっちゅう事で殺されるんじゃないかと思うほどね殴られるんです。
頭の形が変わるほど顔中に傷痕が残るほど現地の子どもたちから度重なる暴力を受けました。
しかしそこで初めて日本がしてきた「支配」という事を考えたのでした。
そういう理解が出来たんですよ殴られて初めて。
たたかれて初めて。
(スタッフ)すごいですね。
手榴弾による一家心中を目の当たりにした新田さん。
本土へ引揚げたのは終戦の翌年でした。
その道中で8歳の記憶に残ったのは嫌な体験だけです。
(スタッフ)終戦迎えられてソ連軍が侵攻してきた…。
(スタッフ)ちょっとこれどう行って帰ったのか…。
そこは全然記憶ないです。
わからんですそういうのは全く。
この地図は…。
(スタッフ)奉天から…どの港から出たっていうのは…。
いやそれもちょっと覚えてませんね全然。
母親と子ども5人の逃避行でした。
8つの新田さんがすぐ下の妹の手を引きました。
身重だった母親が2歳と1歳の弟を前と後ろに抱きました。
ほとんど飲まず食わずで何日も歩き続けたのです。
満洲や北朝鮮からの引揚げは道中にも略奪や暴力が横行し多くの人が飢えや疫病にも苦しみました。
新田さん一家も同じでした。
最初に1歳の弟を亡くしました。
2カ月後には2歳の弟。
さらに生まれたばかりの弟も。
(新田さん)列車の中とか道中路ばたとかそういうところでみんな亡くなっていっちょるんですよ。
それはそのままドーンですいね。
おふくろがね3人の名前を呼んじゃあね寝ずに泣きよったんですね。
こうやって泣きよったんですね。
新田さんも貨物列車に揺られながら病と闘いました。
(新田さん)大も小も垂れ流し。
そこへものすごい臭いがする。
しかもちょうど発育盛りで食べ物がないところに栄養失調で出来物が出来るんですよね。
私も足のつま先から全部出来物が出来たんですよ。
で出来てこれが全部膿むんですよね。
膿むけどかく力もないっちゅうか。
だからそこへブトやらハエやらたかるんですよ。
たかるけどそれを追い払う気力もなくなるぐらい衰弱しちゃったんですね。
そういう記憶があります。
だから本当はそういう事を思い出すと涙が出ますけどね。
そういう経験をした者じゃないとわかりませんよ。
だから今息子たちにそういう話をしてもお父さん生まれた時代が悪かったほいねって言うようなもんですね今の若い者っちゅうのは。
だけど本当体験した者じゃないとわかりません。
敗戦から1年後小林さんは占領されていた町を集団で脱出しました。
38度線を越えるまで40日間歩き続けようやくソ連兵のいない安全な場所にたどり着きました。
その道中も現地の人々から度々暴行を受けたのでした。
持ってるものってなんにもないんですけどね履いてる靴を取られたりとかね着てる服を取られたりとかね。
ちょっと袋だたきになるっていうかほとんど裸にされましたよね。
だから板きれを拾って下駄の代わりに履いてそしてヒモでくくって帰るっていうのをね。
今じゃちょっと考えられんのですけどね。
そしてだからその頃っていうのはもう内地にたどり着くまでにはあの当時で2歳…2歳以下それから65歳…60過ぎとったのうもう65歳ぐらいから上っていうのは九十何パーセントみんな死んだ。
食べ物ないし病気に倒れても薬はないしね。
母親がソ連兵の被害に遭った枌谷さん。
終戦翌年の夏もう二度目の冬は越せないと一家は集団で町を脱出しました。
道端の草や泥ブナを食べ逃げるように西へ西へとさまよいました。
そして数カ月後満洲の首都新京でついに母親が動けなくなってしまったのです。
子どもたちを守るためにソ連兵の言いなりになった母。
少ない食糧を5人の子どもに分け与え自分は衰弱していきました。
おふくろが着物を持ちきれんほど持っとったからそれを中国人に…結局物々交換ですよ。
でもその時にはもうおふくろは栄養失調で…。
新京で栄養失調で亡くなったんですよ。
新京で栄養失調で死亡。
母親は。
当時39歳。
枌谷さんは生まれた頃の自分を抱いた母の写真を2つに折りたたみ靴底に隠して持ち帰りました。
今も母の夢を見ます。
しかし元気だった頃ではなく別れる直前の姿なのです。
そしたら次は太るの。
太るんじゃなくて腹水がたまるんですよ腹に。
バーッと腹が膨れてねいかにも太ったように見えるんですよ。
そしてその腹水がスーッと引いたらもう絶対助からんのですよ。
目ばっかりキョロキョロキョロキョロしてからね。
ひっくり返ったままね目だけがキョロキョロキョロキョロしちょる。
今でもその顔を思い出すんですがね。
目だけがキョロキョロキョロキョロしてから。
あの頃はもうだからこんな事言うのは…。
だからもう駄目かもしらんもう駄目かもしらんって子どもながらにね親父やらおふくろが言いよったからねだから今でもね不思議に死ぬっちゅう事が恐怖感がないんですよ僕ら。
70年前のあの気持ちが今でもあるんですよ。
くーっと身に余る体験っていうのは本当…。
だから僕は…極力忘れるために明るく明るく明るく振る舞ってるつもりなんですよ僕は。
同じ一生を送るんだったらくよくよして送るよりも楽しく送った方が同じ一生でも楽しい方が得ですからね。
昔の事は忘れよう忘れようって。
忘れられないんですがね…忘れようと…。
なんかこういうお話をしているとね自分がスーッとね忘れられる。
これでもう忘れる事が出来るっていうようなね…。
まあちょっとああいう気持ちになりますよね。
すいません。
ごめんなさい。
もえちゃんが生まれた時は一番やっぱりね…。
小林さんは家族に手記を読ませたあと直接自分の口からも伝えました。
これでいつかひ孫にも伝わるだろうと胸をなで下ろしています。
笑って生きよう。
今は亡き父親の教えです。
引揚げで妻を亡くした父親は貧しくも男手一つ枌谷さんを育て上げてくれたのです。
残りの人生も笑って生きたいと枌谷さんは言います。
福岡県の二日市。
堕胎手術で消えていった小さな命に今年も人々は手を合わせました。
(読経)悲劇を語り継ぐ努力は静かに続いてきましたが関係者の高齢化は進んでいます。
私たちは知りました。
引揚げ者は今も心の奥底に悲しみを湛えて生きている事を。
そしてわかりました。
今この瞬間も薄れていくその記憶を伝えつなげる事が出来るのは今を生きる私たちだけなのです。
繰り返さないために同じ悲しみを。
2015/12/31(木) 06:00〜07:10
読売テレビ1
奥底の悲しみ〜戦後70年、引揚げ者の記憶〜(日本放送文化大賞グランプリ受賞)[字]

「特殊婦人」とは…「特殊相談所」とは。敗戦後の「引揚げ」は、海外にいた日本人女性にとって新たな闘いでもありました。戦後70年、引揚げ者の記憶の奥底を見つめます。

詳細情報
番組内容
山口県長門市の仙崎港は、全国でも5番目に多い41万人が引揚げた港です。そこで引揚げの援護業務にあたった厚生省の記録を探ると、聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」の文字です。それは一体何を意味するのか…私たちの取材が始まりました。全国で最も多くの人が引揚げた博多港、そして佐世保港へと取材を進めるうちに、当事者たちの記憶の奥底には、家族にも打ち明けられなかった、深い悲しみがあったのでした。
おしらせ
※山口放送、2015年5月30日放送分です。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

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日本語ステレオ
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