映像記録 あの日あの場所、あの人と 2015.12.31


(ナレーション)あの日の朝。
時を止めた柱時計。
今どこかで動いているのでしょうか?たぶんうちです。
ここのやと思うんですけど…。
ちょっと待ってくださいね。
あるらしいですお姉さんとこにあるみたいなんで。
今も使われて…。
今も使ってますよね?置いてあるねぇ。
はい置いてあるそうです。
柱時計は神戸灘区から兵庫県三木市へと移り再び時を刻んでいました。
あの日時計を真っ先に運び出したおじいさんは8年前に亡くなりました。
時計=おじいちゃんっていう感じやねんけどどう?そやな灘の家やな。
灘の家やなぁ。
あれやったらあのまま灘にね帰ってもらった方がよかったかも…うん。
もうちょっと長生きしてもらえたかも。
生まれ育った場所というのはやっぱり人間には大事なんかなぁと思うよね。
ボーン
(柱時計の音)ドォーン!
(爆発音)1995年1月17日。
大地震が襲った神戸周辺の街でMBSのカメラマンが記録した数々の映像。
あの人々は今どこでどうしているのか。
私たちは当時の映像を基に取材を始めました。
あっ私?「私」ですか?うぅ…。
あのときは一回死んだと思ってます。
ものすごい経験しましたな震災いうのは人生に生きていくうえでね。
手がかりは阪神・淡路大震災を撮影した取材テープでした。
ガタガタ…ガシャーン!6000本を超える当時のテープに残されていたのは息を飲む光景の連続と懸命に生きようとする人々の姿でした。
さゆりちゃん頑張れよ!頑張れよ。
あの日あの場所でカメラが出会った人々は震災からどう生きどんな人生を歩んだのでしょうか。
これはカメラマンたちが人々との再会を通して描いた震災20年後の人間の記録です。
1995年4月。
神戸市兵庫区の御旅公園では家を失った人々がなおテント生活を続けていました。
その中でおめかしをした女性が目を引いていました。
(スタッフ)家はどうだったんですか?家はもう潰れました。
全壊で。
(スタッフ)そうなんですか。
であの…ずっとテントで?はい。
2か月かな?3か月?・2か月。
2か月半テントで暮らしてたんです。
(スタッフ)どうでした?なんかこう…。
あっもうなんかすごい悲しかったですね今まであったかい家で住んでたのに。
電話もなかったからすごいなんか…一人やなぁ…なんかすごい悲しかったです。
(スタッフ)おしゃれしてなんかあったんですか?今日入学式だったんです。
(スタッフ)子供さんの?いや自分の。
18歳なんで。
あははっ!いや子供って言われた。
むっちゃ恥ずかしい!20年前この公園にあったテント村から巣立ったあの18歳の女の子を当時の映像を手がかりに捜しはじめました。
(スタッフ)震災当時のここにいた人を捜してまして。
ええ。
いやえ〜っとね震災のとき私…。
(スタッフ)いてないです?ええ。
(スタッフ)こんにちは。
震災当時はここまだ建ってなかったんです。
(スタッフ)公園でね震災当時…。
うん…。
20年前。
誰か捜しとん?
(スタッフ)この方見たことあります?はいはいはいはい。
この辺の人やな。
(スタッフ)あっそうですか。
うん。
奥さん!・えっ?ちょっと聞いてあげて。
尋ね人。
女優さんみたい。
(スタッフ)この子は知らん?うん。
知らんなぁ。
順番に聞いてこ。
(スタッフ)ありがとうございます。
息子が同級生やけど住まいはちょっと分からへん。
皆そない言うなぁ。
えっ?あっ公園の。
どこですか?これ。
ホームレス…。
あれ?あれ?これ…あっこれ知ってますわ。
えっ若いわぁ。
洋子ちゃんや娘。
姪っ子です。
あっこれそうです。
(スタッフ)何色の服着てはんねやろ?
(スタッフ)黄色の服と赤い男の子と水色の女の子。
(スタッフ)あっ娘さん。
あっこんにちは。
こんにちは。
(スタッフ)毎日放送です。
(スタッフ)洋子さん。
はい。
ひひひっ。
わっ!けばい。
あははっ!ママ。
(スタッフ)これ。
あははっ!恥ずかしいですね。
あははっ!娘です。
えっ?
(洋子)ママ。
あははっ。
ひどいな。
(洋子)「ひどいな」言わへんとって。
(洋子)忘れますねやっぱり。
(洋子)あははっ恥ずかしい。
声だけやな一緒なん。
めっちゃ恥ずかしい。
むっちゃ恥ずかしい!
(スタッフ)この服まだあります?もうない!捨てた。
派手でしょ?着れないですよね。
(スタッフ)襟がすごいですね。
すごいですよね。
(スタッフ)これ今着てみたい?嫌。
(スタッフ)嫌?ここだったと思います。
ここにブルーの三角形の家が…。
家じゃないねふふふっ。
テントが何個かこうありました。
(スタッフ)ああ〜。
どう?3か月ここで寝るって結構…。
えっ絶対に嫌や。
(スタッフ)絶対嫌?でもみんなやってたんやもんな。
うん。
生きてるから楽しく生きようって。
今もなんですけどモットーが毎日楽しく生きようと思ってます。
ラッキーやったんやなって思ってるんで周りも死ななかったし自分も死ななかったし。
でテントで過ごしたことが悲しかった思い出じゃなくってすごい楽しい思い出。
全部が…だめなんですよ。
地震が楽しいとかって言ったらだめなんやと思うんですけどなんかもうず〜っと楽しく生きていこうと思って今も楽しく生きてます。
ふふふっ。
結構太っててあんまりいいこととかも…。
結構ネガティブだったんですけど自分は地震からすごいポジティブな人間に変わったと思います。
(スタッフ)うんあっそうなんですか。
はい。
毎日楽しく生きていこうって。
ほんとにそれが今でもモットーかなと思ってるんですね。
小学校に避難していた人たちにお風呂を提供していた自衛隊が撤収の日を迎えていました。
ここに入らしていただいて生き返ったみたい。
ねえ何日ぶりに洗わさせてもうた…。
あのときつらかった。
ありがたい。
忘れへんもう。
なあ。
どないして恩返しできる日が来るかな思って。
すごく心残り…。
(スタッフ)どういったことが?まだ結構たくさんの方がね入ってくれてたんで。
みんなに帰らないでとかって言われてねぇもう…しかたないんですけどね。
自衛隊の皆さんありがとうございました。
また稗田小学校のこと思い出してください。
ありがとうございました。
(拍手)ありがとう。
ありがとう。
(拍手)お風呂班の皆様にはこの度の震災以来温かいお風呂を用意していただいて身も心も洗われる思いでした。
あなた方の協力に心から感謝の気持ちを送ります。
ありがとう。
ありがとうございました。
その校庭には別れを惜しむ光景が広がっていました。
あの日後ろ髪を引かれる思いで去っていった新米の女性自衛官は今…。
こんにちは。
(スタッフ)こんにちは。
福井県あわら市で2児の母親になっていました。
(スタッフ)こんにちは。
阪神・淡路大震災の年に入隊しその後8年間自衛官を務めました。
(スタッフ)そのまんまですか?
(立橋)そうですね。
ふふっこんな感じですか。
(立橋)ずっとかぶってる帽子なので外で。
あの日小学校でのお別れの日を記録した映像を20年ぶりに見てもらいました。
悲しいかな。
(スタッフ)お風呂の湯加減とかどうでした?ありがたい。
ここへね1週間ばかりねあれしてここに入らしていただいて生き返ったみたい。
ねえ何日ぶりに洗わさせてもうた…。
あのときつらかった。
よみがえってきたのは被災者たちと校庭で過ごした日々でした。
なあまたいいことがあったらなええけど。
(立橋)被災者の方にどう接したらいいのかっていうのでうん…悩んだこともありますけど…あははっ。
意外と被災者の人の方がなんか結構強いなっていう…頑張ってるんだなっていうのは思ってましたけど。
立橋さんには忘れることのできない少年がいました。
当時5歳だった一希君です。
(立橋)どんなふうな大人になったのかなぁって。
会ってみたいなって思うときありますね。
(スタッフ)あっそうですか。
うん。
(立橋)もう成人ですよね。
成人してますよね。
ふふふっ。
もう一度会いたいという立橋さんの思いを私たちは一希君一家に伝えました。
あの稗田小学校の校庭を元自衛官の立橋さんは20年ぶりに訪れました。
(立橋)わあ〜懐かしい。
カオリちゃんですよね?一希君ですよね?
(一希)はい。
当時5歳だった一希少年は25歳。
1児のパパになっていました。
あんまし覚えてはないんやけど。
やんちゃな男の子でしたけど立派になられて。
(一同)あははっ!いやほんとに…はい。
映像に残るやんちゃな一希君の姿です。
(スタッフ)ここのお風呂入った?いっつも入っとうよ。
(スタッフ)いっつも入っとったん?誰?
(スタッフ)ん?ふふふっ。
見えとん?ほんま見えとん?こうやってずっと自衛隊の仕事を見とったんやろな。
立橋さんにとって一希君の面影は遊び相手になっていたあの頃のものです。
(一希)もう一回やろ。
(立橋)もう一回?5歳のときの震災の記憶はすでにおぼろげになっていました。
(一希)もっとあのときの…。
記憶を持っときたかったなっていうのは感謝めっちゃ今もしてるんですけどやっぱあんときもっと考えることができとったんやったら…。
ただ遊んでもらってでもう帰られたときはバイバイって感じだったんで。
今はありがとうとしかほんまに。
遊んでくれてありがとうかな僕の場合はたぶん。
お風呂とか頑張ってくれたんもありがとうやけど。
こうやって20年ぶりやけど会えてよかったと思います。
もしかしたら好きやったかもしれないですね。
うん…19歳のおねえちゃんやから。
はいチーズ。
(一希)俺だけ少年?
(立橋・一希)あははっ!動かんかったからよかったんちゃうかな?動けとったら入り口の方に来とるからガンとあったんや。
(スタッフ)こっちは1階なんですか?ここ2階なんです。
ここ1階。
これが下が1階。
もうペシャッてもうとる。
そうそう。
(スタッフ)ペチャンコになってる…。
そうドシャッだから。
押し潰された住宅から50時間ぶりにおばあさんが助け出されました。
藤田晶子さん67歳。
ご主人の姿が見えません。
こっち?こっち?こっち痛い。
奇跡的に救出された藤田さんの現在の手がかりを求めて知り合いを訪ねました。
これ私違うん?思い出しました。
思い出した?このおばあちゃん今…。
(原)震災2日目か。
ずっと埋まってたおばあちゃん。
(スタッフ)そうです覚えてはります?覚えてます。
(原)おとうさんあっこ病院入院してる。
ご主人。
このおばあさん?うん。
ご主人入院してはる。
(救急隊員)心配してましたんで連絡頼みます。
おばあちゃんやん。
そうよおとうさんが「ばあちゃんが埋まってる」って捜して歩きはったんや。
そうそう思い出したわ。
「ばあちゃんの姿がない。
ばあちゃんがいない。
家の中に埋まってる」言うてず〜っと歩いてたんよおじいちゃんが。
そうそう。

(弥吉)ああ〜。
あっ旦那さん…ご主人来られました。
ご主人。
(弥吉)ばあちゃんばあちゃん。
(原)助かった。
(弥吉)ばあちゃん。
よかったな〜。
(弥吉)ばあちゃんばあちゃん。
ううぅ…。
(原)よかったわ。
(弥吉)何回も呼んでんでじいちゃん。
よかったねぇ。
よかったねぇ。
分かる?おばあちゃん。
分かる?分かる?うぅ…。
おじいちゃん分かる?ううぅ…。
おじいちゃん分かる?よかったねぇ。
助かったん?助かったん?よかった。
よかった。
おじいちゃんよかった。
よかった〜。
(弥吉)寒いんちゃうの?
(原)よかった〜。
おばあちゃん分かる?毛布持ってきてあげる。
毛布持ってきたる。
着とき。
毛布があるから。
持ってくるから。
毛布余っとうから。
毛布余っとるから。
おとうさん。
(原)もう分かってる。
(弥吉)分かっとう?分かったんや。
うぅ…。
ばあちゃん。
分かっとう?おとうさんやで。
よかったなぁ。
手出してる。
(原)ああ〜分かった。
よかったよかった。
よかったよかった。
よかったなぁ。
よかった。
よかったほんまに。
藤田さん夫婦はその後灘区の復興住宅に入っていたことが分かりました。
(スタッフ)すみませんね。
このねこの方…。
ああ〜おじいちゃん亡くなったわこのおじいちゃんは。
(スタッフ)あっご存じですか?ええ人やったけどねぇ。
おばあちゃんが先亡くなって。
救出後歩くことができなくなった妻の晶子さんは10年前にそして献身的に介護を続けたという夫の弥吉さんは去年3月86歳で亡くなっていました。
おばあちゃんが生きてる間はなんでもうれしそうにね話したり行動してたけど亡くなったらもうあんなもんかね思うぐらい力落とすいうんかね。
張り合いがなくなるんかねぇ。
よかったねぇ。
(加野)こんなんちゃんとこれあるんやねぇ。
(原)ご主人…よかった。
ばあちゃん。
(スタッフ)地震前と地震後で弥吉さんって変わった…。
変わった変わった。
うん。
おばちゃんが助け出されてからねよう優しなったわ。
うん。
よう面倒見てたもんね。
(スタッフ)なんでそんな優しくなったんでしょうね?ばかみたく遊び回っとるから自分の好きなことして。
後悔したんと違う?
(加野)もうあちこち車椅子で散歩させたりね。
ようきれいにしてたよ体もちゃんとして拭いて洗濯もしてねきちんとしてた。
死ぬまでちゃんと面倒見たらなあかんいうてね後悔するからいうてね言うてたわ。
(加野)あんだけ面倒よう見んやろね。
もう付きっきりやったもんそばにおって。
テント生活を強いられていた岩屋公園で暖を取っていた家族。
立石千鶴子さんは両親と子供たちと共に壊れたマンションを出てテントに身を寄せ合っていました。
(千鶴子)誕生日なんですよって。
2月7日誕生日なんですよ。
なんか持ってきて言うて。
(一同)あははっ。
立石さんの次女・ゆみこさんの13歳の誕生日。
(千鶴子)お姉ちゃんもこっちおいで。
ポン!
(一同)わあ〜!
(千鶴子)お誕生日おめでとう。
(ゆみこ)あははっ。
テントの中に小さなケーキと大盛りのサラダが並んでいました。
・Happybirthdaytoyou
(ゆみこ)もうええって。
・Happybirthdaytoyou
(一同)・Happybirthdaydearゆみこ
(一同)・Happybirthdaytoyouわあ〜!えらいどないしたんや?今日。
ちょっと待ってよ。
えらい上品やないか。
「ありがと」は?もうええのに。
あははっ。
よかったやん。
ささやかでも楽しそうな光景。
今この家族と会ってみたい…そう思って映像を頼りに立石さんを捜しました。
ゆみこさんの母親の立石千鶴子さんは現在復興住宅で暮らしていました。
こっち入って。
こっち入って。
なりました。
それでは開けますよ?
(ゆみこ)あははっ。
恥ずかしい。
ポン!
(一同)わあ〜!
(千鶴子)お誕生日おめでとう。
わあ〜すごいすごい。
(千鶴子)はいゆみこちゃんどうぞ。
13歳やね。
もうちょっとお利口さんなろうね。
はい。
うぅ…。
(千鶴子)はい。
(ゆみこ)あははっ。
ああ〜もう。
有馬温泉行っとってよかったわ。
ふふふっ。
(千鶴子)ゆみこちゃんおめでとう。
(千鶴子)記憶ほとんどないです。
ないんですけどもあっこんなことしてたんだという…。
(スタッフ)これは何歳のお誕生会でしょうかねぇ?中学1年ですので13歳ですかね。
(スタッフ)13歳ですか。
これはどうしてお誕生会をしようというふうに…。
ん〜…。
(スタッフ)思ったんでしょうか?別れた主人が大阪からお見舞いじゃないんですけど震災見舞いに来てほんでもう2月が…お誕生日だったので一緒に祝いたいということでお祝いしたんです。
(スタッフ)そうですか。
みんながそれぞれやっぱりつらい思いしてると思うんですけどこのときだけはなんか震災のことをしっかり忘れてみんなでお祝いしてるって感じですよね。
(スタッフ)そうですね。
立石さんには3人の子供がいました。
震災当時は中学生と高校生。
離婚した直後だったため3つの仕事を掛け持ちしながら育ててきました。
ささやかでも楽しそうな誕生日の映像を見て立石さんはその後の日々が胸の中に去来したのです。
(千鶴子)ちょうど
(千鶴子)なんていうのかな…気持ち?
(千鶴子)不謹慎かもしれないけど私にとっては
(千鶴子)ような気がしますね。
ゆみこさんが結婚したとき母親の重責を果たせたと立石さんは心の底から喜びました。
(千鶴子)あれですけども三宮がこう見えるんですよ。
地震のときは西の空が真っ赤だったんですね火事で。
今はネオンできれいです。
眺めたから震災のことを思い出すってことはないんですけどね。
まあ…思い出しません。
話すこともないです。
(スタッフ)あれから20年ですね。
これが20年なんですよほんとに。
忘れちゃうんですねなんでも。
ただいいことだけしか思い出しません。
(スタッフ)そうですね。
つらかったことなんか思い出さないもの。
全壊した建物の解体工事が進みはじめたある日。
東灘区のとある路地の奥で懸命にビデオカメラを回している少女の姿がカメラマンの目に留まりました。
ファインダー越しに一瞬互いの視線が合いました。
(スタッフ)何を記録してるんですか?何を記録してるんですか?これ家がもうこんなんなってしまったんでもうどんな感じかなぁって。
(スタッフ)どこから来たんですか?大阪の西区の方にいたんです。
(スタッフ)もうだいぶそれで撮影しましたか?あっはい。
(スタッフ)どの辺まで?そこの甲南本通の所とかあと妹や弟の通ってた所とか。
(スタッフ)ここに住んではったんです?はい。
(スタッフ)この今撮ってる場所に?母屋です。
(スタッフ)母屋どこにあるの?ここに建ってたんですけど。
(スタッフ)地震のときはあなたもここにいたんですか?はい。
(スタッフ)そのときどんな揺れ感じました?もうゴォ〜っていう音と同時に家ごと左右に揺れてもう何がなんだか分からない状態で…。
(スタッフ)それ撮ったやつをずっと保存するんですか?ビデオに残しておこうって家族で言ってるんです。
(スタッフ)分かりました。
続けてください。
ごめんね邪魔して。
少女はあの日カメラで何を見つめどのように自分の街を記録したのでしょうか。
東灘区に住む少女の父親のもとには今もあのときのビデオカメラが残っていました。
その少女・岡本直子さんは私たちと出会った直後に白血病に倒れこの年13歳の短い生を終えていました。
まあせっかくねぇああいう震災で拾った命をまた別のかたちで同じ年に亡くすっていうのをもう…どうなってんのかなって思ったことも正直ありますね。
でもこればっかりはあの子の…ねえ天命っていうんですか定めって言うたら怒られるかもしれませんけどもそれに従っていかなきゃいけないんだろうなとは思ってはおりますけどね。
あの日直子さんが撮影した映像です。
自宅に程近い甲南本通商店街とその周辺の様子を広範囲に撮影。
全壊した自宅も丁寧に記録されていました。
(庸雄)中の映像撮れないと思うよ。
自転車が…。
お母さんとおじいちゃんの自転車がガ〜ンってこっちのとこに…。
そしてビデオの最後には直子さんがレンズを向けたMBSのカメラマンの姿。
(スタッフ)何を記録してるんですか?直子さんが映る映像は20年を経て両親のもとに届きました。
あの…生前の姿とか声を聞いてちょっと感動いうたらおかしいですけどもあの…ねえ思うところもありましたし…。
あの子が残してくれた…どういうんですかね…思い出になるんでしょうかね。
20年たってよみがえる思い出と言ったらいいんでしょうか。
ちょっと言葉では表しにくいんですけども。
そんな気持ちですね。
んん〜。
(スタッフ)どう?甘い。
(スタッフ)甘い?うまい?うまい。
う〜ん。
(スタッフ)ふふふっ。
神戸で地震があったの知ってる?うん。
(スタッフ)習った?そりゃだって習うで。
(スタッフ)ふ〜ん。
なんて言ってる?先生神戸の地震のこと。
ん?神戸の地震のこと?ええ〜!それはちょっと分かんない。
(スタッフ)あんまり知らんか。
何月にあったか知ってる?忘れた。
(スタッフ)忘れたか。
(スタッフ)地震の話は聞く?学校で。
ある!ある!1月とかするよな。
知らん。
忘れた。
1月の…。
1月の…。
5時何分か。
そう。
5時何分ってことしか知らへん。
午前5時46分の地震発生直後長田区各地で上がった火の手は街を焼き尽くしました。
私たちは鷹取地区である撮影ポイントを探しました。
鷹取商店街の…。
(スタッフ)もうちょっと向こうにね。
燃えたとしたら。
(スタッフ)鷹取商店街。
鷹取商店街ここよ。
(スタッフ)ここら辺が鷹取商店街?20年前のカメラマンが鷹取商店街周辺を高台から撮影した場所へ行きもう一度同じ所から撮るためです。
アーケードあったのになくなって。
(スタッフ)「鷹取商店街」。
トントントン…
(太鼓の音)街並みはすっかり変わってしまい当時の映像を手がかりに探す作業は難航しました。
僅かに残る1軒のお店が当時の街のことをよく覚えていました。
(スタッフ)20年前のね僕らの先輩が撮った映像をおんなじ場所から撮りたいないう。
これはねJRが見えとうから…。
ここやろ?ああ〜この位置からやったらこの辺やな。
この角のビルやろ。
(スタッフ)この角のビル?白い…。
これ今マンションやわ。
(スタッフ)あっ今まだあります?まだある。
火の手を逃れたマンションにたどりつきました。
当時のカメラマンはこの屋上から一面焼け野原となった商店街周辺を撮影したようです。
屋上の部屋に夫婦が住んでいました。
あっこれここらやな。
ここらやと思うわ。
ここのマンションだけ残ったからな。
(スタッフ)そのときここ住んではったんですか?なんすか?
(スタッフ)ここ住んでたんですか?地震のときに。
地震のときおった。
逃げたけどな。
もう火の海やったわ。
そんなん思い出したくないわ。
怖かったもんもう。
家焼けた人もそら大変やけど残っても怖いね反対に。
もう家の中ぐちゃぐちゃやで。
もう火つけられへんか…恨まれへんかとか。
なんであっこだけ残っとんねんいう感じやわな。
ほんまな。
怖かったわ。
周り全部焼けとんのにな。
ここだけが残ったからね。
(スタッフ)どこら辺に出て撮ってました?そこ…いちばんそこの…先から撮ってましたよ。
(スタッフ)その角?はあはあはあ。
ここから。
ここから撮ってましたよ。
恥ずかしいわ。
ここから。
ちょうどここからね。
この辺ぐらい。
あっそこやね。
今カメラの下には住宅地が広がりその向こうには高取山が見えます。
(スタッフ)真ん中に見えるのは鷹取商店街。
南北の鷹取商店街です。
(スタッフ)現在時間は8時半です。
阪急三宮駅はぐちゃぐちゃに崩れています。
ピーポーピーポー
(救急車のサイレン)ウゥー!
(消防車のサイレン)四輪車これはまったく通行できません。
通行するのであれば徒歩もしくは自転車…。
液状化したポートアイランド。
震災の当日奇跡的に営業していたスーパーがありました。
「シャウエッセン」となんやったっけ?あっウインナー!そうなんです。
「シャウエッセン」のウインナー。
(金谷)「シャウエッセン」のウインナー持ってきて。
なんでもいいです?ウインナーやったら。
なんでもいいです。
ごめんなさい。
それと単三を8本。
(金谷)紙コップ1つね。
紙コップはもうないんですよ。
これしかないんですけどよろしいですか?
(金谷)商品は豊富にあったのはあったんですよ。
よかったのはよかったんですけどもね。
(スタッフ)この混乱を避けるためにわざと…わざとっていうかシャッター…。
シャッター開けなかったんです。
開けたら今さっき流れてたようにパニックになるのが分かってたからね。
(スタッフ)烏龍茶をこうやって…。
はい烏龍茶…ふふっ。
こういう状態で…。
(スタッフ)通るんですか?
(金谷)いっぺんしてみますね。
(スタッフ)こんなふうにされてたわけですか?
(金谷)こういう状態ですね。
ギリギリ…ギリギリです。
これがもうちょっと大きかったんですけどね。
(スタッフ)でも受け取れますね。
(金谷)はい。
こういう状態で…。
(スタッフ)大変ですねこれ引っ張らんと。
ああ〜すごい。
幅がもうちょっと広かったと思うんですけどね当時はね。
(スタッフ)でも当時も引っ掛かりながら…。
そうですね。
引っ掛かりながらギリギリ通るか…通るぐらいだったと思います。
今思ったらほんま…今やったらできないでしょうねこういうことは。
(スタッフ)あっそうですか。
こんな商売もしきらへんやろうしここまでタフもないと思います。
(スタッフ)ああ〜。
(金谷)朝の9時ぐらいから夜中の1時までですから何時間ですかね。
店長の金谷さんにとってあの日1月17日は絶対に忘れることのできない1日です。
紙コップはもうないんですよ。
これしかないんですけどよろしいですか?最高に充実した日やったんじゃないかなと思いますね。
あの15時間ぐらいの仕事が食事もしなくても過ごせたいうのは皆さんやっぱり大変やから少しでもお手伝いができたらいいなっていう気持ちがあったんやないかなっていうふうに思ってますけどね。
(スタッフ)平野市場どこでしたっけ?
(スタッフ)平野市場…そっちやなかった?
(スタッフ)「平野市場」。
(スタッフ)すみませんお忙しいとこ。
はい。
(スタッフ)これを探してる…。
あっこれ私とこですわ。
向こうから映したとこ。
はい。
もう…。
(スタッフ)このお向かいの漬物屋さんですか?こっちがそうなんですか?そうそう。
インスタントのお湯入れたらいいだけの…。
みんな10個10個言うてね私ら皆長田とかああいうとこ皆持っていくいうてこのお味噌が。
ガスが使えないでしょ?ガスが使えない。
たくあん。
たくあんが…おむすびに。
たくあんだけがいいでしょ?兵庫区の平野市場は震災の3日後に営業を再開し食料を求める人たちが神戸各地から押し寄せた所です。
(スタッフ)700円。
うん。
高かってね。
めちゃくちゃ高かってあの年は。
ええ。
ここら辺に漬物屋さんがあってほいでここへ道がずら〜っと向こうまで一本道があってほいでそこへうなぎ屋さんがあったんがそこの下でうなぎしてもう2軒…。
(スタッフ)今映ってる?
(峰松)ちょうちんがあるでしょ?あそこが残っとるだけですわ。
もう2軒残っとるだけ。
はははっ地震から20年で…20年でもう2軒しか残ってないですわ。
(宗方)ちょっとおかあさんイケダさんが載っとう20年前のとき。
まだ死んでないとき。
(山形)イケダさんどこに?
(宗方)ここここここ!これイケちゃんの半纏やねん。
これ。
なっイケダさん。
(山形)ヒガシウラのおばちゃん。
(宗方)これ私もらって今家で着とんねん。
(スタッフ)えっこれ?
(宗方)うん。
もう死んですぐ。
震災後すぐ。
(山形)これ地震のあと?
(スタッフ)地震のすぐあとです。
(宗方)そのあとのすぐ…あとに死んで。
まあ懐かしい。
(山形)これ1枚だけですか?
(スタッフ)これ今着てんの?おかあさん。
(宗方)私着てんの。
彼女死んで…もらって。
(山形)お友達やねんこの人の。
ちょっとミッちゃんヒガシウラのおばちゃんこんな若いねん。
ちょっと来て!
(宗方)亡くなった皆。
(山形)亡くなってないよう言うわ。
(スタッフ)あはははっ。
何を言うとる…。
(スタッフ)どんな20年でした?どんな20年ってう〜ん…まあ震災の…震災からやっぱり緩いだなもうやっぱり。
目に見えてガタッ!じゃないよ。
徐々に徐々に徐々になやられてきたいうかな…。
まあそんな感じやな。
(スタッフ)おかあさんとこは…。
私ら今日はここは全然…。
(スタッフ)売り上げどうですか?してません今日は。
(スタッフ)今日お店してない?お金…服売ってませんいうねん。
今日は売り上げなし。
恥ずかしいね。
(スタッフ)ああ〜。
震災直後には市民の台所を支えた市場でしたが今訪れる客はまばらです。
(スタッフ)地震で店潰れんかったけどこうやってダメージが…。
そう。
あとがねぼちぼちぼちぼちねボディーブローみたいなもんですわへへへっ。
あとからぼちぼちぼちぼちこたえてくるねいうような。
ほんまね地震のときは市長さんも来て「頑張ってくださいよ!閉めんと頑張って開けといてください。
みんなの市民のために開けといて」って来てはったけどようなったら知らん顔や。
あははっ。
シャッターが閉じられた大半の店の跡地は今マンションの建設計画が持ち上がっています。
震源地に近い淡路島旧一宮町。
カメラマンが駆けつけたとき押し潰された家屋の下から少女が運び出されるところでした。
大丈夫?頑張れ頑張れ!頑張れよ。
頑張ってね。
頑張れよ。
行こう行こう行こう。
さゆりちゃん頑張れよ!頑張れよ。
東さゆりさん。
中学1年生でした。
(北川)なんとか一命さえ取り留めてくれればなぁと思ったんですけども…。
さゆりさんの訃報を生徒に伝えた担任の教師に会いに行くため淡路島へ渡りました。
北川貴子教諭。
今も中学校の教壇に立っていました。
震災でただ一人亡くした教え子さゆりさんの写真を持ち続けています。
(北川)めちゃ無邪気なかわいらしい子で懐っこい子でもうしょっちゅう「先生先生」って来て「先生なんの花が好きか知っとる?ゆりが好きやねん。
名前にゆりって入ってるから」とかって言ってたりとか…。
新人教師だった北川さん。
さゆりさんの記憶は鮮明です。
4月から12月なので8か月ぐらいですかね。
もっともっと話もできたしもっともっといろんなことができたやろなとも思うし…。
さゆりさんの両親は今も同じ場所で暮らしていました。
(スタッフ)ごめんください。
(昇)はい。
(スタッフ)毎日放送の者なんですけど東昇さん…。
(昇)はい。
(スタッフ)はじめまして。
(スタッフ)テレビなんですけど伺えたらと思いまして。
突然の訪問でしたが私たちを迎え入れてくれました。
(スタッフ)震災の日のことっていうのは…。
う〜ん…ねえ。
めったに二人でも話はしぃひん。
しないね。
ちょっと避けとるいう感じはある。
東さん夫妻はさゆりさんと同時に中学3年生だった長男の比呂文さんも震災で亡くしていました。
(昇)息子の方はもうその状態でだめだったんです。
妹の方だけは救急の…救急車の中で施していただいたんですけれど…。
だめで…。
ねえ…生きていたらどんな人生送ってるかなって。
時々話すんですけどねそういうことは。
この日東さん夫妻は多くを語ろうとはしませんでした。
初めての訪問から1か月。
私たちが案内された部屋には震災後一度も触れることができなかったという箱が並んでいました。
(里美)テニス部のなんかあれやね。
テニス部かなんか。
(スタッフ)中学のとき使ってた…。
(里美)そうそう名札ですね。
これ…見て。
ん?見て。
見る?
(昇)あっこれか。
ああ〜!
(スタッフ)それ昔のおうちの…。
そうそう…そうですね。
いつもほんまに笑ってるんですよ。
(スタッフ)うん。
この子は。
(スタッフ)いてます。
何人?
(スタッフ)2人。
5年生と2年生。
ほんま?いいなぁ子どもさん。
5年生いちばんいいときやな。
これからな。
これから大変やけど…。
ほんまに子どもさん…思いやりのある子どもさんに育ててください。
うちとこも二人な妹はほんま思いやりがあったわ。
お兄ちゃんもあったやないの。
お兄ちゃんはな結局妹のな影いうかな妹と合わしよったわ。
妹の方がやっぱ顔見てもおてんばやわ。
だけど妹がほんと兄貴の味方するのよ「お兄ちゃんお兄ちゃん」いうかたちで。
ほんでもうなんぼ何があっても「お兄ちゃん」というかたちでへばりよった。
1階がベシャやけどこれ2階の状態なんですよね。
これが1階なんですよね。
娘はちょうどこの道路側のね入ったとこでひと間入った中側かな?なんでやねんいう気持ちだけやねあのときは。
言いようがないんですよ娘の顔見ても息子の顔見ても。
目の前で見とるんですから。
(スタッフ)それやったら鮮明に覚えてらっしゃいますか?ですね。
ただ体に一切の傷はなかったんです。
それがいちばんありがたいんです。
僅かな…僅かな時間やろうけど助からんもんですね。
ほんのちょっとの違いなんですよね生きる人と亡くなる人の差いうのはあんなときは。
これまで胸の奥に閉じ込めてきた子どもたちの記憶をこの日は手繰り寄せるように東さんはカメラの前で話し続けます。
子どもとおったら1日1日が長かったんです。
20年はあっちゅう間なんです。
1年…。
って話すればほんだら二人のことを思い出すんですよね。
(スタッフ)やっぱずっとおんなじとこそれで頭の中が巡ってる…。
くるくるくるくる回っとるんです。
だからどっちも口には出さんのかもしれん。
たま〜に母さんが出すんですよねやっぱりよその子ども見れば…。
思うんでしょうね。
(スタッフ)どんなことをおっしゃられるんです?お母さん。
やっぱり年頃が来れば女の子は…。
男の子…うちの息子は娘はどないしよるかいうのは出ますやん親とすれば。
答えがありませんやん。
もう泣く。
もう嫌もう嫌。
思い出したらつらい。
ごめんけど。
ええ若い人になっとってくれればね。
あなた方と一緒で今頃子どもが2人3人おるかもしれん。
今や夢ですかね。
長い時を重ねてきても心の中はあの日のまま時間が止まっていました。
20年という年を迎え今東さんは新たな時を刻もうとしているようでした。
震災のありのまま自分の…いつか聞いてほしいなっちゅうのはあるんちゃいますかね。
これから先話することたぶんないと思う。
言えらんこととかその当日あなたにお話ししましたけど瓦が落ちてくる。
嫁さんが埋もれとる。
そういうお話したのが初めてですもん。
ですから1つの区切りかもしれん私ん家でも。
震災以来手にする気になれなかった趣味の釣りざお。
20年ぶりに使おうという気持ちになりました。
(スタッフ)またやろうと思ったのはなんか心の変化ってあったんですか?いややっぱり友達なんかがもうええやないかといっぺん外へ出てみらんかと。
仲間がおるでと。
いろんな人がいますからね。
いろんな職種の人がいますからほんといまだに勉強ですねいろんなこと教えてくれますから。
浩ちゃん50か?もう50なんねん。
(2人)あははっ。
(スタッフ)お店で地震の頃の話ってするもんなんですか?しませんね。
僕は嫌いなんであんまり…。
だから震災…HATに震災記念館ですか?あんなんあっても見には行きたくないですね。
(スタッフ)嫌いなんですか?いろんな…何って言うんですかねことがありすぎて…。
見たくもないもんも見てますしねやっぱり。
普通に亡くなった状態じゃないですから。
地震で圧死した状態でそれを引き出して並べてるわけやから見たくないですよねかわいそうすぎて。
そのときってどないもできひんかったもんねあんときって。
そんなんはいちばん嫌やわな。
でも地震なかったらどないなっとったと思う?何してたと思う?何しとるやろね地震がなかったら。
(寺田)考えもつかへんね。
比較もできひんしな。
(スタッフ)兵庫区から長田区に入りました。
地震から3日目の朝にまた火災が起こっています。
親戚を助けようと駆けつけた人たち。
親戚のな金だけ出してきてくれ言うとんねんけど。
開かへん。
(辻原)今遺骨を掘ってきた。
で学校に持っていって…伯父さん夫婦。
(スタッフ)どなたかお亡くなりになられたんですか?私の伯父さん夫婦…兄。
(辻原)金庫開けたら…。
ほんで金庫がある言って金庫開けてんけどもうだめ。
金庫の中ってこんなことになっとる。
ほら。
(スタッフ)これは…お金ですか?これ。
通帳とか。
そっとしてな。
これ通帳ほら。
ほらほら。
(スタッフ)あとお金とかも入ってたんでしょうね。
お金もいっぱい入っとった。
一万円札があったな。
(辻原)札束見せてあげるわ。
これこれこれこれ。
(辻原)見せてあげるわ。
これ札束。
これ。
こっちを…。
(辻原)これ一万円札ですよ。
(スタッフ)これ札束ですか?
(辻原)そうですこれ一万円札。
一万円札…金庫に入っとった一万円。
(スタッフ)これはだめですね。
(辻原)ねえ。
これ通帳ね。
近畿銀行へ問い合わしたら…問い合わしたらね。
これ一万円札。
(辻原)一万円。
声はしてんけどはたまで寄られへんなんだからね。
せやから見殺しなんですよ。
それが怖い。
むなしいねぇ。
(スタッフ)助けられない?助けられない。
そばにおっても火が来る。
自分が危ない。
それがむなしいね。
(スタッフ)すみません。
お仕事のときすみませんね。
(辻原)仕事仕事…。
(スタッフ)すみませんお忙しいとこいろんな人が映ってて…。
(辻原)これが私やな。
(スタッフ)えっ!?これそうなんですか?そうですね。
ここへ来て掘りよった。
これがうちの妹。
(スタッフ)あっこれ妹さん?
(辻原)うん。
妹妹。
(スタッフ)これ顔汚れて…。
(辻原)汚れて。
そうそう。
ほいで灰になって触ったいかん言うたけども札はぐちゃぐちゃになって…。
これが私ですわ。
(スタッフ)これ取ってはる今。
取ってはりますね眼鏡…。
(辻原)そうそう眼鏡掛けて防水の帽子かぶって。
(スタッフ)これってお金換えれないんですか?換えれないねもう。
(スタッフ)換えれないんですか。
でも今見たら何十万かある…。
そうやね。
そんなんもうねぐちゃぐちゃですわ。
しかしようこの写真写してくれてはんねんな。
ほな今度母親捜しに行かないかんから…。
(スタッフ)お母様もどこか…。
避難しとう…避難しとうから。
ほんでその今の鉄人28号のとこになんとかいうて小学校か…学校があってそこへ避難しとって。
(スタッフ)ああ〜。
毛布1枚でねおばさんと2人。
それを捜しに行くのがもう大変やって。
家なんか燃えとるの置いとこういうてほんで捜しに行ってまあ会って…。
あの震災からやっぱ母親がおかしくなったね。
(スタッフ)あっそうですか。
頭がね…。
(スタッフ)やっぱショックもあり…。
そうやね。
ショックやねやっぱし。
ほんで昔の人は空襲で…この辺も空襲あったからそれでやっぱりそういうつらい目に遭うてまた二の句やからそら頭おかしなるわねもう80歳近くになっとったからね。
ものすごい経験しましたな震災いうのは人生に生きていくうえでね。
いわゆる人のありがたさそれから自分がやっぱしお金を持っとかなんだらいわゆる回復が遅い。
それからまあ震災してそういう助けてくれる人とのつながりができてそれが大きいね人生。
せやからいうたら解体屋さんとも親しくなり電器屋さんにも親しくなりそういう店屋さんの人にも今ここらの酒屋さん行かれたらいうけどヨコタさんにはお世話になって…。
人の温かさが分かったから私は人にしてあげたいと思うけどできんなぁなかなか。
人にはできへん。
もうめっちゃお世話になりましたな皆に。
せやから後付けやなんやで…あるけど…僕は今こないして仕事しとうからできへんけどいつかは無になって人にしてあげたいいうことは教えられましたな。
(辻原)今この軽四のあるとこ。
(スタッフ)軽四のあるとこが…。
軽四のあるとこがその米屋さんやってん。
ここが角ですわ。
そうですか。
この辺にじゃあ…。
悲しみ苦しみ絶望。
突然の大地震に打ちひしがれた人たち。
あの日あの場所から20年という年月をかけてそれぞれが前を向いて歩んできました。
(スタッフ)ありがとうございます。
この人々の記録を未来へ。
(岡本)地震で死んだ人をおまつりしてあるのよ。
ここに俺のおばあちゃんがおる。
(岡本)おるん?なんちゅう名前?スケナカシゲコ。
(岡本)スケナカシゲコさんがそうか。
おばあちゃんか。
おばあちゃん。
そんな方がやっぱりおられるのでちょいちょいその親御さんやなんかが参りに来とってんねん。
(スタッフ)おばあちゃんじゃあ震災で…。
そう。
あの〜お母さんを守るようにまずテーブルで椅子に座っとってほんでおばあちゃんは下敷きになってそのテーブルの。
それでいっぱいのしかかってお亡くなりになった。
(スタッフ)おばあちゃんの下にお母さんがいたの?
(岡本)なあ…親は子供を死なしたらいかんと思って助けるんやこうやってな。
あんたらもよう覚えときよ。
あんたらとおんなじような年の子もこの中におるんよ。
来年20年になるからな慰霊式やろかいなと思っとんねやけどな。
あんたらした方がええか?そんなもんやめといた方がええか?
(子供たち)やった方がいい。
(岡本)やった方がええか?やっぱりここで地震で死んだ人をいつまでも思うためにした方がええなぁ。
(子供たち)はい。
キーンコーンカーン…
(チャイム)
(子供たち)・いろんな花を見ていた
(子供たち)・ひとそれぞれ好みはあるけど先生が怖いねんって!ナカタさん…。
子供だけ?子供とお年寄り!下がって下がって!もうちょっと下がってください!狭なってきたよ。
はい。
僕僕持ってけ。
はい僕持ってけ。
持ってけ持ってけほら。
年いった子は?年いった子ほら…。
並んだってよ〜!ちっちゃい子おる?1枚取ったらもうあかんで。
もうないねんから。
(4人)しゃがめ!立〜て!
(一同)あはははっ!2015/12/31(木) 05:25〜06:50
MBS毎日放送
映像記録 あの日あの場所、あの人と[再][字]

1995年のあの日、MBSのカメラマンが被災した街で出会った人々。その後20年という年月は人々をどう変えたのか、人間を見つめる映像の記録集。

詳細情報
お知らせ
この番組は2015年1月11日に放送されたものです。
番組内容
1995年の神戸。肉親を、家を失った人々は懸命に生きようとしていた。
MBSの報道カメラマンはそれらの人々を記録した。あの日、あの場所で出会った人々は震災後、どう生きてきたのか…。2014年、カメラマンは一人ひとりを再訪。そこには、たくましく優しく、そして切ない人生があった。震災から20年という年月をくぐり抜けた、15人の言葉が胸に迫る。
 
出演者
神戸市、淡路市、芦屋市、西宮市で被災した人たち15人を中心としたドキュメンタリー。
その15人の周辺の人たちも出演していただいています。
おことわり
番組の内容と放送時間は、変更になる場合があります。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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