に、当日になって中止していたことが、警察への取材で分かりました。
日本はテレビの放送が始まって60年以上がたつ。
テレビは戦後の日本のさまざまな事件事故を迅速に伝えまた多くの娯楽も提供してきた。
しかし今インターネットやスマートフォンなどの普及により情報を得る手段が多様化。
生活におけるテレビの占める位置は変化している。
そのテレビの世界で長年にわたって変わらぬ人気を保ち続けている女性がいる。
この方は知ってますよ。
大御所ですね。
すばらしいわよね。
聡明で。
よくしゃべる。
誰にでもズバズバ物を言う。
日本中の誰もが知っているその女性とは。
私黒柳徹子でございます。
今日はよろくお願い致します。
女優タレントエッセイストの黒柳徹子さん。
個性的なヘアスタイルと軽妙なトーク。
独特の存在感で多くのファンの心をつかんでいる。
子どもにね「パンダが来たらどうしたいの?」って言ったら「一緒にちょっとここで踊りたいの」って言うからねそれ無理だと思うって…。
音楽番組やトーク番組の司会をはじめクイズ番組の解答者などあらゆるジャンルで活躍。
どうもありがとうございます。
今日来て頂いて。
黒柳さんの番組に出演し彼女に会えた事で感激して泣きだすゲストも。
泣いちゃう…。
あら〜。
うれしい。
この番組は放送40年を超え同一の司会者による番組の放送回数が最多となりギネス記録に認定されている。
日本人にとってテレビの役割が変化する今黒柳さんが考えるテレビの力に迫る。
黒柳さんが思い出深い場所として対談場所に指定したのはNHK。
テレビ人として第一歩を踏み出した場所だからだという。
話を聞くのは東京大学大学院教授のロバート・キャンベル。
日本文学を文化や社会伝統などさまざまな視点から研究している。
これまで黒柳さんとはクイズ番組などで度々共演してきた。
どうもこんにちは。
珍しい。
よろしくお願いします。
いつも並んでいる仕事が多いから。
お顔をよく前から見たのは初めてです。
そうですね。
差しでお話しするのは初めて。
ちょっと恥ずかしいですね。
ちょっとね。
今日の収録場所をNHKに選んだ訳っていうのはどういう?私はNHKの出身なんでNHKの仕事っていうのはやっぱり私教育を受けたとこなのでやっぱりNHKの仕事っていうとうれしいっていうかねやっぱり自分の昔のうちへ帰ったような感じはしますしまた厳しい気分にもちょっとなります。
ここ…このNHKのテレビ局に来ると本当にテレビがここから始まったっていう…。
建物も少し古くなってるしすごく歴史を感じるんですが…。
そうですね。
これから始まる時に。
出てらっしゃる訳ですね。
NHKが本格的なテレビ放送を開始したのは1953年2月1日。
その後間もなく民放も放送を始めテレビはさまざまな情報を伝えていった。
皇室の華やかなご成婚パレード。
野球や相撲など闘志あふれるスポーツ中継。
日本社会が戦後復興から高度経済成長へと急激に変化していく中人々はテレビを復興の象徴と見なした。
黒柳さんがNHKに採用されたのは1953年。
テレビ俳優の第1号だった。
黒柳さんは俳優募集の小さな新聞記事を偶然見つけ倍率500倍という競争を勝ち抜いて見事合格。
俳優として第一歩を踏み出した黒柳さんは子ども番組やバラエティー番組に出演。
個性的な演技で人気者になった。
さあいよいよ魔法のじゅうたんに乗る時間が来ました。
今日私と一緒に乗って下さるお友達をご紹介しましょう。
アブラカダブラ〜!やがて黒柳さんはテレビを通して日本中に笑いや希望を伝えたいと思うようになっていった。
今からですね60年以上前の事ですけれどもテレビ女優の第1号になられた訳ですね。
音楽学校卒業してすごいソプラノ歌手になろうと思ったんですけどどうもそれがうまくいかないって分かったんでそれでね結婚するかなと思って。
でもお母さんだと掃除お洗濯とかそういうのは普通できるから絵本を上手に読んであげたい。
人形劇こういうのやったら子ども喜ぶかもしれないからそういうのどういうとこ行ったら教えて頂けるのかなと思って母に聞いたんですよ。
「そういうのどこ行ったらいいの?」って。
母が「新聞に出てんじゃないの?」って言ったのね。
で新聞を開いた真ん中にねそれが本当に私がこの道に入る本当に偶然なんですけどNHK一日しかそういうの出さなかったんですね。
これからテレビを出るのにあたって俳優を募集するっていうのが出てたんです。
NHKに行けばね絵本の読み方ぐらい教えて下さるだろうと思ってそれでNHKにね…受けたんですよ。
そうしましたらねまあテレビっていう事なもんだから女優さんや何かね映画女優さんとか当時は舞台女優さんがたくさん6,000人もNHKに来てね。
同じ場所に?そう。
でもそういう演技の練習も経験も踏まずに採用されて実際にテレビ女優第1号になった時は職場の人やあるいは見てる一般の視聴者の方々の評価っていうのは?当時笠置シヅ子さんっていう方が大全盛でね・「東京ブギウギブギウギ」ってやってらっしゃる後ろを通るんですよ。
その時に歌ってらっしゃるんですから何となく見ながら通るじゃない。
「は〜い!は〜い!」って上の方からね「今後ろ通ったお嬢さんキョロキョロ見ないでスッと前行って。
スッと」って言われるの。
だから私は見ないようにして。
だってお魚屋さんの前で歌ってるの。
おかしいでしょ?こんなスカートはいて歌ってる人がいた。
歌う訳ないですからね。
うん普通は歌わないですからね。
初めはそれでもよかったんですけどだんだんやるに従って「あなたちょっと個性ね邪魔」。
それでね「お嬢さんね帰っていいや」って言われちゃって…。
毎日行って「帰っていいや」って言われててね。
そのうちに「来ちゃったの?」ってやんない前から「帰っていいや」って言われて…。
だから「普通にして普通」って。
私は普通って分かんなくて「普通みんなこうじゃない?」と思って。
速いって。
まずしゃべり方が速いとかいろんな事言われたんですけどね昭和30年ぐらいになったら次の年ぐらいから世の中が個性化。
個性化時代ってなったんですよ。
これ時代の…。
もう時代が。
それでね新聞見てもみんな個性化って書いてあんの。
そしたらびっくりしたんですけどNHKの偉い人がね「どんどん出して下すっていいですから」って言うんですよ。
でも今まで引っ込めろっていうのは何だか分かんないのにどんどん出してって言われても私分かんなくてね本当に悩みましたけどただその時に「ヤン坊、ニン坊、トン坊」って番組が始まった時に書いて下さった劇作家の飯沢匡先生って方はジャーナリストだったんだけど「あなたのその個性が欲しいんだから…」。
私は先生にね「私みんな変だって言いますから直しますし私の個性も引っ込めますしちゃんとやります」なんて言ったんですよ。
そうしたらね「いいえあなたの個性が欲しいからそのままでいて下さい」って言われたんですよ。
それすごく大きな変化じゃないですか?それで私はこの世界に入れたんだと思います。
そうでなかったら辞めてますよ。
そういう意味では戦後の日本の民主主義といいますか社会をこれから作っていくような新しいメディアだったのかなって…。
その時にねNHKがこれから始まるっていう時に昭和28年から始まったんですけどNBCっていうアメリカの3大ネットワークの一つのプロデューサーの方がいらしてねいろんな事を教えて下さったんですよ。
それ研修の時。
そうそう。
それでみんなにもいろんな技術的な事をお教えになった時にちょっと講演をレクチャーなさったのを私聞いてたらねふ〜んと思ったのはその時にね「テレビっていうのは今世紀で一番大きいメディアだと思います。
それでねテレビを通して知らない国の結婚式もそれからもしかしたら戦争も全部テレビを通して見る事ができます」って。
「だから国がよくなるか悪くなるかはテレビに懸かってると自分は思う。
永久の平和はテレビを通して私は得られると信じています。
本当にみんなのためを思う番組を作ってほしいと思います」っておっしゃったんですよ。
それで私はねふ〜んって。
テレビってそういう事ができるんだって思ってそれから62年。
私ず〜っとやっぱり今でもねうまくテレビを使えばみんながそういう平和をね何か自分たちの手でとる事ができるんじゃないかって思い続けて出てきたんですよ。
あの方のあれは今でも耳によく残ってます。
黒柳さんはテレビが持つ大きな影響力を心に刻み番組を作る時の指針とした。
(2人)「NHK紅白歌合戦」。
女優という枠にとどまらず歌番組の司会やクイズ番組などにも挑戦。
独特の個性を発揮し活躍の場を広げていった。
ゲストの鈴木浩介さん黒柳徹子さんお入りになります。
よろしくお願いしま〜す。
(拍手)彼女のライフワークにもなっているトーク番組がある。
ゲストにはノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥さんや世界的ミュージシャンのオノヨーコさんなど国内外から多彩な人々を招いている。
放送開始から40年を超え今年6月には放送1万回を迎えた人気番組だ。
ふだん聞けないような事をズバリお聞きになられる…。
男性の芸能人の方がはっきり言われ過ぎてくじけてるところとか…ですね。
ゲストの事をよく調べてるというか知ってるしそれの話の導き方が面白いですよね。
軽妙なトークの秘密。
そこにはゲストの素顔を引き出す黒柳さんならではの工夫とこだわりがある。
その一つが机の上に置いてある資料。
ゲストの知られざる素顔やエピソードを自ら取材してまとめたものだ。
達筆でいらっしゃいますね。
いやいやよくね日本料理屋のメニューみたいって言われます。
これ読める人ほとんど今もういないぐらいでしょうね。
若い人こういう字書かないから。
だからちょっとね暗号みたいでいいかなとも思ってるんですけど。
この日のゲストは俳優の鈴木浩介さん。
学校は随分長く…1年で休学してしまって劇団に入ってしまった…劇団というか研究生になったので全体で言うと2年休学含めると7年半かかってます。
月謝払ってます?月謝払ってます。
母親が。
あら〜。
お母様大変でしたね。
頑張ったと思います。
お母様ありがとうございました。
鈴木さんがこうした母親とのエピソードを語る事はめったにない。
ものすごい緊張してるんですけど何か話しやすいというかお話聞いて下さるのもどういうふうに自分がしゃべればいいかも何か割とこう…。
でも見たらドギマギしてるんですかね。
ちょっと自分では分からないですけど。
お笑い芸人の椿鬼奴さんはこの番組への出演が夢だったという。
(笑い声)泣いちゃう…。
あら〜。
うれしい。
うれしい?皆さん本当にこういうね…。
(椿)もう「徹子の部屋」ファンとしては本当にうれしかったです。
何かやっぱりね雰囲気が全体的にこうお優しい雰囲気がするんでそれも何かじんわり感動してうれしかったです。
テレビ番組にものすごくたくさん…新しい番組からもうずっと最初から関わっていてほとんど全て長寿番組ですね。
一番この番組が始まるにあたってやっぱりこだわってここは曲げないというところって何ですか?人です。
テレビは人ですよやっぱり。
作ろうという人が本当に情熱持ってやってるかどうかとかね。
「このぐらいやってればねテレビを見てる人は喜ぶんですよ」みたいな言ってる人の番組は絶対出ないですよ。
初めは分かんなかったけどだんだんだんだんやっていくとみんなが見たいという番組になって視聴率も上がってくるっていう。
それで長くやれるっていう事になってね。
やっぱり作るのは人間ですからね。
その人間と一緒にやっていけるかどうかっていう事がまずありますよね。
その非常に豊かな…いろんなそれこそ個性であったりいろんな本当に感情や表現の日本語そのものの引き出しをいっぱい持ってらっしゃる黒柳さんですけれどもあらゆるジャンルの番組に挑戦してらっしゃるんですね。
その原動力のようなものそれが何だったかを聞かせて下さい。
私自身が面白いって思うものは…私多岐にわたって面白いと思う人間なんでしょうけどそれは面白いって自分でねそれもっと知りたいとかって。
面白い方だなと思いました。
4年ほど前に初めて黒柳さんと番組でご一緒した時に私の近所で豆腐のおからで作ったドーナツを差し入れに持ってきたんですけどそれを一個取って打ち合わせをしてる間にクルクルッと紙を取ってみてちょっとこう匂いを嗅いでまたもう一度こう包んで置いて面白い事をされる方だなと。
そういう珍しいものを見た時にあのねそのまま…何て言うの?そのままじゃ過ごせないっていうかね。
通過しないっていう。
私生放送のニュース番組に出たんですよね。
普通のニュース番組なんですが初めて出たんでね。
天気予報やってたんですよね。
そしたら「5月の連休のこの日は雨が降ります」とか言ってたら「え〜雨!」とか私が言ったらみんなが笑っちゃってねこんな天気予報でいちいちリアクション…。
感動したり。
感動したりする人いないです。
それから今週はこういうニュースがありましたって5つぐらいあって「この中のニュースで気になるのはどれですか?」って聞くんだけどそのニュースがありましたっていう時に「あら〜すごい」とかね「やだそれ知らなかった」とかいろんな事言ったんですよ。
そしたらみんながねもう笑っちゃってね。
でもニュースってこのぐらいねみんなが好奇心を持ってていいんじゃないですかねって。
今年5月上旬黒柳さんは舞台の稽古場に姿を現した。
テレビ人としての原点は俳優。
忙しい司会業の合間を縫って今も演じ続けている。
チャーリー…チャーリーじゃない。
ケン!ケン!ケンウォッカよ。
演じるのは舞台のみと決めている。
そこにはテレビへの強いこだわりが込められている。
まず初めはテレビドラマに出てたんですよ私。
ところが「徹子の部屋」が始まった時にテレビドラマやってるとテレビドラマの役のイメージで「徹子の部屋」をやってるっていう。
私がインタビューしてるとみんなが勘違いしてるって事が分かったのでテレビではもう一切ドラマには出ないって事決めたのね。
だからテレビは自分だけで出るものにして舞台は別にして。
一日芝居が舞台が終わったら自分の気持ちは変わりますか?テレビの時と。
もう私はすぐ変わりますね。
舞台やってる時はテレビの本番やって稽古行く時もあるじゃないですか。
でもテレビの時の私と役やってる時の私とは全然違うと思いますよ。
だって描かれている訳ですから役はね。
だからその役のセリフを言ってそういうふうにやってればその人みたいになるじゃないですか。
いやそれ楽しいのかなと思って。
私面白いと思いますよ。
黒柳さんが大切にしてきたテレビの世界。
しかし今インターネットやスマートフォンなどメディアの多様化によってテレビの視聴時間が年々減っている。
あんまりテレビ見ないですね。
なくてもいられる…ただ流れてるって感じ?そう。
スマホとかでやっぱニュースとか見れるしそこに面白いアプリとかもあるので。
昔はテレビとかラジオだけのものだったんですけども得るものが。
今はインターネットとかSNSとかっていうところでテレビそのものに対する価値観っていうのがだんだん薄れているっていうのがありますね。
今テレビから若い人たちが離れていく。
テレビ離れがよくいわれ進んでるというふうにいわれてますけれども…。
若い人の生活知らないけど大体の人はうちに帰ってまずテレビのスイッチを入れて何やってるかって事は別としてもやっぱり落ち着いた感じがうちに帰ったっていう感じがテレビ見るとするっていう時代がまだ残ってると思うんですよ。
だから今のうちにそこでいいものを。
もう「あっ何だろうこれは」って思うような番組をみんなやっぱり作んなきゃ駄目でしょうね。
それからやっぱり視聴率視聴率ばっかり言ってないで本当にみんながいいと思うものを作っていって少しでもテレビ離れしないようにさせる事が重要だと思います。
今でもみんなが見る番組いっぱいあるんですよね。
やっぱりそういう番組よく見てるとその中で面白いって事が一つあるんですけど面白さもいろんな…笑うだけじゃないのね。
「わっ変わってる」とかいろんな事あるんですけどやっぱりそんな中で人の命を大事にしようっていう事がとっても重要になってきたりするでしょ。
それから人を愛するとかね。
これから5年10年先にどういう番組があったらいいと思いますか?まずうそのないですよねドラマでも何でも。
本当に心底人間ってこういうものなんだなって思えるような。
どんな人だって感情があるんだろうから。
人間っていうのは一緒に暮らしていくっていう事をちっちゃい時から教えておけば私そういうふうにならないと思うんですよ。
誰か周りにいる人がやっぱり人間は愛し合うものだってね。
そのために生まれてくるんだっていう事を教える事必要と思いますよ。
一番大事なものっていうのは昔はお金じゃなくてももっと大事なものがあるというのを教わってたじゃない?古いかもしれないんですけどやっぱりそういうふうにね優しい気持ちを持って人に接するようなものがちょっとあれば随分違ってくるんじゃないかと思うのね。
1984年黒柳さんはユニセフの親善大使に就任し世界の子どもたちを救う取り組みを始めた。
これまでアフガニスタンやスーダンなど30か国以上を訪れ80歳を越えた今も世界各地を飛び回っている。
訪問先では毎回必ずテレビカメラの前でリポートする。
内戦や貧困に苦しむ子どもたちの現状をテレビを通して訴え続けているのだ。
今私たちにできる事はやはり井戸を掘る。
お水を…きれいなお水を出す。
そしてそれでかんがいをして畑を作って木を植えて少しでも雨が降るようにと努力してるんです。
親善大使になって30年以上。
これまでに50億円を超える募金を集めた。
体の続く限りテレビを通して多くの人たちにさまざまな情報を伝えていく。
私が行く時は必ずよそのテレビ局が一緒に行って下さって全部その状況を映すのでやっぱり私が行ってそしてやってる状況を説明すると日本の皆さんも「ええ〜こんなにひどいの」。
それでそういう飢えてるだけじゃなしにさらわれて少年兵にさせられて8歳ぐらいからピストル持って人を撃たされたりレイプされたりとかもういろんな事がありますよね子どもたちの。
そういうのを30年間ずっと毎年行ってみんなに見て頂いてきたんで随分日本の人たちがよその国の事考えるようになったの。
それもすごくよかったと思う。
だからそれはテレビの大きい仕事だと思います。
私戦争中子どもで戦争の事知ってましたから。
本当に食べ物がない。
それから空襲がある。
東京大空襲の時まだ私東京にいて自分が飢えた事とか全部やっぱり自分の中にあるので子どもたちが今どういう状況にあるのかやっぱり戦争知ってる者だから分かる事も多少ありますよね。
だからそういう事では今のうちにみんなに伝えておかなきゃっていうふうに思うの。
初めて行った国はタンザニアでしたけどタンザニアはまあ一応内戦なんかはやってなかったんですけど水が全然なくて雨が降らなくてもうみんなが飢えて子どもが死んでたんですよね。
それが80年代90年代私も鮮明に覚えているんですけれどやっぱりあの時代の日本の経済で本当にまあものすごく本当にバブルがはじける前の時代にあっ黒柳さんがタンザニアに行ったりこういう所に行ってテレビで直にその姿を伝えて下さっているという事をやってるっていう事は経済的に成功している国民としてのこう…何て言うんでしょう?まあ責任っていうとちょっと言い過ぎかもしれませんけれどそういう気持ちというものが芽生えた事をよく感じましたね。
向こうに行ってる時はね行く前に勉強…全部国の政治から何から勉強して行くのでそんな驚かないですよ。
帰ってきて驚きますよね。
こんなぜいたくな事してていいんだろうかと思って。
日本がね。
もうスーパーマーケット行けば何種類のジャムも売ってて何種類のお紅茶も売ってるというような状況でしょう。
水もない。
泥水飲んでる子どもたちがいっぱいいるのに。
だからそこではねやっぱりああもし私ユニセフの親善大使にして頂かなかったら私はぼんやりした芸能人のままで一生終わったなと思ってね。
それはとても感謝してます。
黒柳徹子さんに自分を表現する漢字一文字を書いてもらった。
選んだ字は「優」。
そこにはどんな思いが込められているのか。
やっぱり優しくありたいと思いますかね。
優しいという…。
優しいっていう字。
…っていう字ですね。
すてきですね。
優しさって何ですか?やっぱり理解する事。
全てを。
だって理解しないと優しくもできないでしょ。
まああんまり優しくないからじゃ…。
達成目標ですか?そうそう。
達成目標。
だから私人とね…芸能界入ってすごいのは「黒柳さんケンカしないんですか?」ってみんなに言われんの。
一回もケンカした事ないです私。
大概みんなねついねケンカする人多いんですよ。
本当の意味で優しい人間になるっていう事はなかなか難しいと思いますよね。
だってその人の全部を分かってそれで分からなくてもとにかく優しくしてあげようって思う訳だから。
子どもに対しても何でもね。
黒柳さん自身がこれからテレビの世界の中で新たに挑戦したい作ってみたいやっていきたい事ってありますか?みんなは笑うんだけどあと10年はね「徹子の部屋」が50年になるから50年までは一応今のままでやってみようと思ってるんですけど私90になっちゃうんですよね。
でもそのあと勉強してこれ私できるかどうか分かんないですよ。
これだけ政治見てきましたから私は人道的な立場でしか物を言わないので政治的発言は今してないんですよ。
「徹子の部屋」でも何でも。
でも「徹子の部屋」がもし50年で終わったらあとはもう何でも言えるのでそれから政治の勉強してね100ぐらいになったら100歳で政治家に質問するそういう仕事…。
インタビューをしたり対談をしたり…。
「総理!総理!総理!」。
「総理!」って。
100歳のおばあさんが「総理!」って言ってるんですからそんなにべもなくそんな通ったりしたらよくないですよ…。
やっぱいけないからそれちゃんとおばあさんにちゃんと答えないといけないっていうのをやってみたいと思うんですけどそろそろ勉強を始めないといけないと思ってね。
あの徳川家康が最も恐れた戦国時代最強の武将真田信繁。
2015/12/30(水) 18:05〜18:35
NHK総合1・神戸
Face To Face〜黒柳徹子〜[二][字]
今年、放送開始90年を迎える日本。浮き沈みの激しいテレビ業界で、半世紀以上にわたって第一線で活躍し続ける黒柳徹子さんが、テレビの魅力と未来を徹底的に語る。
詳細情報
番組内容
今年の紅白歌合戦の総合司会に決定した黒柳徹子さん。テレビ放送がスタートした1953年にNHK東京放送劇団養成所に入り、テレビ女優第1号として人気者に。その後、数々のテレビ番組で女優や司会を担当し、日本のテレビ業界をけん引してきた。そんな黒柳さんが、今回、テレビ業界に入るきっかけとなった面白エピソードや、今でも心に残る言葉、テレビの力に対する思いなどを存分に語る。聞き手はロバート・キャンベル氏。
出演者
【ゲスト】黒柳徹子,【きき手】東京大学教授国文学者…ロバート・キャンベル,【出演】椿鬼奴,鈴木浩介
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
情報/ワイドショー – 芸能・ワイドショー
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
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