今年もやってまいりました「報道の日2015」。
関口宏です。
雨宮塔子です。
今年は戦後70年という大きな節目の年だったんですね。
パリであんな凄惨なテロ事件が起こった。
そうなんです、つい昨日のことのようなんですが。
そのパリに住んでいらっしゃるんでしょう?16年目になりました。
どんな感じだったんですか?あの日は金曜日だったんですね。
ちょうど子どもをお稽古事から連れ帰って、あと30分遅かったら家にたどり着けなかったというくらい、パリのテロとなった現場からも離れていないところに住んでいるんです。
もうすごく緊迫していました。
雰囲気としてはどんな感じでした?その後は家に入って、ワケがわからないんですけれども、サイレンの音とすごい騒然とした音しか聞こえないので、逆に怖いんです。
恐怖心だけが募って。
それから徐々に変わっていきましたか、街の雰囲気?もちろん警察の数がいたるところで増えましたし、厳重な体制ですね。
それから、献花です。
世界の方々からお花が届いてきまして、例えばこちら、バタクラン劇場ですね。
たくさんの方が犠牲になりました。
こちらに花束が増える一方ですね。
これはちょうど10日前ぐらいに撮影したものですが。
どんどん増えてる?どんどん増えてて、これがリパブリック広場のほうまで、長い通りなんですが。
こちらがリパブリック広場です、撮ってきました。
古いラテン語なんですが、実はパリ市の紋章にもなっているもので意味としては、荒波にもまれても船は沈まないという意味なんですが、それは今はパリは不滅という意味でまた脚光を浴びてきていまして、今やスローガンになってますね。
これはアーティストたちが何日もかけて製作したんです。
パリテロ直後からやってるんです。
そんなこともあった1年でございますが、これから生放送、6時間半でございます。
ぜひ、よろしくお願いいたします。
まずは早速、こちらをご覧ください1945年から今年の2015年まで、節目となった年の数字が並んでおります。
今年のこの番組のテーマでございますが、「ニッポン、ゼロからの70年」。
つまり、ゼロは戦争が終わった年でございます。
ここから70年たった今、私たちはどのような歩みをしてきたのか、これを振り返ってまいりたいと思っております。
その70年間の歩みを、関口さんはある方と語り合ってきたんですよね?もう皆さんもご存じだと思いますが、吉永小百合さん。
吉永小百合さんというのは、このゼロ年に生まれていらっしゃる。
ということは、今回のこの番組の象徴的なシンボルじゃないかと、我々は考えたわけです。
その吉永小百合さんも登場してくださっています、まずはこちらをご覧ください。
皆さんはあのとき、何をしていらっしゃいましたか?2015年。
世界の形が揺らいだ年でした。
国境、平和、未来。
今や確かなものは何1つなく、かわりに世界を覆うのは、混沌と不安ばかり。
そんな中、日本はどこへ。
もしかすると、手がかりはあそこにあるのかもしれない。
あのときに。
70年前、1945年、終戦の年。
GHQによってリセットされた敗戦国・日本。
驚異の技術を誇った戦闘機はすべて燃やされます。
ポスターによって広められたのは新しい憲法。
突然、みんな平等になりました。
戦後14年、1959年、伊勢湾台風による高潮があっという間に5000人をのみ込みました。
そして始まった、天空の一大プロジェクトとは。
戦後19年、1964年、国の威信をかけた東京オリンピック。
首都高速の建設、そして、あの聖火台も。
知られざるドラマを秘めていました。
戦後28年、1973年。
白昼、デパートが炎と煙に包まれました。
利益優先が招いた大惨事でした。
戦後44年、1989年。
バブル景気がピークに。
地上げ屋が買いあさったその街は今、不思議な空中都市へと変貌を遂げていました。
戦後50年、1995年、首都・東京で起きた無差別テロに衝撃が走りました。
1本のテープに残された、生々しい音声。
戦後55年、2000年、世田谷一家殺害事件。
それは15年前の今日でした。
犯人が残した40の足跡の謎。
戦後70年、2015年。
新幹線開通から半世紀、火災による初めての死者が出ました。
スクープを伝えたのは偶然乗り合わせたカメラマンでした。
そして特別企画。
前後日本と同い年の吉永小百合さんとこの70年を振り返ります。
この国はどこへ行こうとしているのか。
答えを探す時間の旅が始まります。
では、6時間ご一緒していただく方々をご紹介します。
まずは「ひるおび!」のメインキャスター、恵俊彰さんです。
こんにちは、よろしくお願いいたします。
恵さんは、何年生まれ?恵さんとか言われるとドキッとします。
恵と呼び捨てでいいの?よろしくお願いします。
1964年生まれです。
64年というと、何があったか知ってる?前回の東京オリンピックですよね。
その年に生まれたと。
だからオリンピックを見てないんですよ。
もちろんそうだよな。
だから、東京オリンピックが今度2020年あるというのはものすごくワクワクしてます。
昼の番組をずっとやっていますが、今年1年、何が印象的でしたか?関口さんもさっきおっしゃってましたけど、フランスでテロがあって、11月13日が金曜日だったというのもすごく印象的なんですけど、1年なんかずっとテロとかイスラム国とかそういうことをお伝えしていたような気がします。
変な時代になってきている気がするね。
お隣は女優でエッセイストの本上まなみさんです。
よろしくお願いいたします。
本上さん、お生まれ伺っていいですか?75年の生まれです。
何があった年なんですか?4月にベトナム戦争が終結しまして、そのすぐ後に私が生まれました。
今年は何が印象的でしたか?1年、世界のニュースを見ていても本当にあれもこれも、ちょっと胸に残るものが大きかったんですけれども、一番、日本の中で言うと、安保法案可決。
隣の岸井さんは、それが一番だとおっしゃるかもしないげと、一応ご紹介します。
おなじみです、「NEWS23」のアンカー、岸井成格さんです。
よろしくお願いします。
岸井さんは、私の1つ下でしたっけね?そうです、1944年、昭和19年です。
だから戦争中ですよね。
あの戦争のことは、ほとんど覚えてないでしょう?全然、それは覚えてないですよね。
ただ、戦後の焼け跡、大変な時代、食糧難の時代というのは記憶にかすかにありますね。
東京中が焼け跡だったですからね。
東京ですか?東京です、まさにこの近くで。
今年の印象は?先ほども話がありましたけれども、内外ともに本当に歴史の転換期だということをニュース素材を通じて、ひしひしと感じる1年だったと思いますね。
テロもありましたし、重要なのは、私が関心を持ったのはCOP21の環境問題、これは世界で相次いで人類生存の危機だと言われている、この危機認識ですね、これをどうとらえるかというのが、非常に重要な年だったと思います。
そんな話題がいろいろ出てくるかもしれませんが、「ニッポン・ゼロからの70年」でございます。
70年前、戦争が終わったとき、負けちゃったという屈辱感も日本人にあったでしょう、それから何もなくなっちゃったという喪失感、それから、やっと戦争が終わってくれたんだという解放感、そういうものがない混ぜになっていたんではないかと僕は想像するんです。
そこから日本人はどういうふうに立ち上がっていったんでしょうか。
吉永小百合さんが生まれた1945年。
敗戦ですべてを失った日本も、ゼロ歳からのスタートを切りました。
世界に追いつけ追い越せ。
超特急で駆け抜けた戦後の70年。
いろんなことがありました。
戦後日本と同じ年の吉永さん。
そのまなざしに、変わりゆくこの国はどう映っていたのでしょう。
すばらしい眺めですね。
だんだん日が暮れていくと思いますが、今年は戦後70年、もう本当に東京は焼け野原で、そこからゼロとして、ここまで大きくなったっていう、何かいろんなものをご覧いただくんですが、戦後のどさくさというのは、いつ頃を覚えていらっしゃる?どさくさっていうか、私は代々木西原で生まれ育ったので、家の庭に防空壕がありまして、それで、そこでおままごとをしたりして遊んでいたということと、家の近くに大きなお屋敷があったらしいんですけれども、それの扉の門のレールの跡しか残ってない、全部焼けたと。
そんなところから我々はね、ずっと生きてきたわけでございますから。
そうですね、ありがたいことです。
では、こちらをご覧いただけますかこれ以前に小百合さん、お生まれになってます。
昭和20年3月でしたか?3月13日です。
これは戦後はこんな感じだったんですよ。
多少覚えてますか?国会議事堂は残っていたんだ。
草が生えてますね。
これは買い出し列車でしょう。
ヤミのものとか大変だった、むしろ戦争の間よりも、戦後の物がない、食べ物がないっていう苦しさは大変なものだったということを最近知りました。
私自身は、ずっと小学校の高学年まで家が結構、相当な貧乏だったので、ずっと大変だったので、関口家と違って。
戦後は関口家も何もなかったですよ。
みんな一緒だったですよ。
この焼け野原から日本の戦後は始まりました。
続々とやってきた連合国軍。
GHQによる占領は、以後、およそ7年にわたります。
最高司令官はアメリカのダグラス・マッカーサー元帥。
日本は事実上、アメリカの統治下に置かれたのです。
GHQの本部は皇居前の第一生命ビルに設けられました。
マッカーサー元帥の執務室は、今も当時のまま保存されています。
敗戦という現実。
GHQの指導により、私たちの国はいやおうなくリセットされることになりました。
それまでの軍国主義は徹底的に否定され、残っていた武器も、ことごとく廃棄されます。
新たに民主主義を根づかせるために根幹をなす日本国憲法もGHQの草案をベースに制定されました。
その考え方をわかりやすく、そして広く世に知らしめた手段の1つがポスターです。
天皇を頂点としていた社会の仕組みは、新憲法のもとで一変します。
国民は皆平等。
貴族には×印がつけられました。
それぞれの権威が、新憲法によって運びさられたことを表しています。
では、公務員はどう変わったか。
ちょんまげ姿でいばっていた役人があらゆる国民に奉仕する立場になっています。
今でこそ、私たちの暮らしに浸透している民主主義も、70年前の日本にとっては全く新しい考え方だったのです。
いいですよね、ポスターで民主主義を学ぶ。
わかりやすいですよね。
日本人が最近もよく言われるんだけれども、自分たちでつくり上げた、勝ち取った民主主義じゃなくて、アメリカ、GHQがくれた民主主義だと言われているんです。
だから、いまだによく理解できていないかもしれない。
そういうところありますね。
だけれども、恵君も本上さんもGHQというのは何のことだか知ってました?言葉の意味ですか?わからないです。
もちろん聞いたことあります。
ジェネラル・ヘッド・クオーター進駐軍といって、ギブミーチョコレート、ギブミーキャンディーって、兵隊さん追いかけて飴やチョコレートをもらったという、そういう世代でしたね、我々の頃は。
そのGHQが乗り込んできて日本を統治するわけです。
たくさんの建物が接収されたんですが、まず、現在の新国立劇場。
こちらが占領下ではどうなっていたか。
名前が違うんです。
これは僕らも知らないよ。
アメリカンフットボール選手の名前だったそうですね。
勝手に名前をつけちゃったわけだ、進駐軍が。
戦争中は海軍のパイロットをしていて事故死されたという。
みんなヒーローの名前をつけるというね。
これはご存じですか?これは僕は知ってる。
これは日本人が入れないんだ。
これは米軍専用、またご家族の方しか入れない。
あそこに行くといいものがたくさんあると噂は聞いていた。
入っちゃいけないのよ。
米軍基地の中は全部PXになってる。
関口さんたちもPXと呼んでいたの?呼んでましたよ。
ポスト・エックスチェンジの略ですね。
これは関口さんは?僕は親父がそういう世界にいたから。
普通の人は知らないよ、これは。
普通の日本人は入れないんですよね。
これは、アーニー・パイルというのは、英雄?こちらの方は沖縄でやはり戦死された従軍記者の方の名前です。
アメリカ人の娯楽施設として使われていたそうです。
もちろん、ほかにもたくさんそういう施設があって、日本の人が入れないような場所が。
ええ。
全部接収されてしまったんですね。
占領下ってことですね、まさに。
そんなGHQなんですが、日本を根底から変えました。
今年話題になった様々な出来事も、実は、このGHQの政策とつながっています。
今年、急逝した昭和の大横綱。
相撲協会の理事長まで務めた北の湖親方は大相撲の聖地に別れを告げて旅立っていきました。
国技館です。
あまたの名勝負に沸いた旧国技館も、やはり占領政策に翻弄されました。
GHQに接収され、メモリアルホールと名づけられたのです。
なんとそこでは、アイスホッケーの試合、占領下、旧国技館での相撲は原則、許されなかったのです。
今年の流行語にもなった爆買い。
中国人観光客のお目当ては…彼らにとってメイド・イン・ジャパンは信頼の代名詞です。
しかし…GHQは日本製の商品にメイド・イン・ジャパンの刻印を打つことを認めませんでした。
その代わりに、メイド・イン・オキュパイド・ジャパン。
オキュパイドとは、占領されたという意味です。
日本から海外に輸出される商品には、すべてオキュパイドの文字が求められました。
今となってはこの刻印、ビンテージの証しです。
おもちゃコレクターで知られる北原照久さんは、横浜市の博物館で100点を超えるオキュパイドものを展示しています。
動きだとかおもしろいですよね。
オキュパイド印のおもちゃは、日本にとって外貨獲得の重要な輸出品目でした。
主な輸出先はマッカーサーの国、アメリカだったと言います。
占領下でも汗を流し続けた職人の意地。
メイド・イン・ジャパンの原点です。
伝説の女優、原節子さん。
今年、世を去った女優、原節子さん。
GHQが上映を禁じた映画があります。
終戦間もなく、軍国主義的な映画は一斉に封印されました。
その数236本。
例えば「ハワイ・マレー沖海戦」。
原さんも出演していますが、真珠湾攻撃などを描いた国策映画は上映禁止に。
終戦翌年に公開された「わが青春に悔いなし」はGHQの検閲のもとに製作されています。
原さんは強い意思を貫くヒロインを演じ、作品はGHQから民主主義的であると絶賛されました。
今年11月、初の国産ジェット旅客機が試験飛行に成功しました。
MRJ。
日本とって、それは悲願だったのです。
GHQは敗戦国に残っていた軍用機を何もかも焼き尽くします。
零戦を生んだ日本の航空技術を恐れ、新たな航空機の開発、製造、さらには研究までも禁じたのです。
零戦を送り出した三菱重工は終戦直後、技術を生かす道を失いました。
その頃つくっていたものといえば…航空機の製造に関わってきた岡野允俊さん。
7年間の占領時代が過ぎたとき、世界から大きく立ち遅れたことを痛感したそうです。
空白の7年間を取り戻し、日本が国産のジェット旅客機をつくり上げるまでには途方もない努力が必要だったのです。
ご紹介したのがこちらです。
こちら全部GHQの政策を並べてあります。
何で国技館で相撲を禁止したかって、相撲がいけないんじゃないんだって。
国技館を使いたかった、進駐軍が。
アイスホッケーしたり。
場所を貸してくれということなんですか?そういうこと。
あと、何か印象に残ったことはありますか?やっぱり僕はメイド・イン・ジャパンというのが封印されたというのはちょっと驚きでした。
要するにジャパンは我々の管轄下にあるんだと世界に言ってるわけだよね。
オキュパイド・ジャパン、いや全く知らなかったです。
飛行機とかをつくっちゃいけないというのは、何となく、零戦をつくったから、怖さというのもあったんだろうなと思いますけど、それ以外の物づくりもダメっていうのは、ちょっとびっくりしましたね。
本上さん、何が印象に残ってます?私は国技館の映像見たときに、周りが本当に爆撃されているのに、あそこだけキレイに残していたというのは、やっぱり戦争の後に…爆撃する対象というのは、戦後の日本をどうやって統治するかというのを全部計算していて、パイロットにここは爆撃しちゃいけない、ここはいいって指示があったということですね。
その後の日本をどうやって統治するのが一番有利かを考えたんでしょう。
使えるものは使う、使えるものは残す。
わざと残した?残す。
さっき、議事堂もきちっと残っていたもんね。
考え方ですけれども、日本人がこれはやられてしようがないなと思うか、そこまでやるかよと反発されちゃうということもあるわけですよ。
そういうものは残すということだったんじゃないですか。
そこまで考えていたGHQなんですが、実は、びっくりするような政策があるんです。
漢字やひらがなも禁止される計画があったんです。
終戦の翌年、新聞に抗告が載りました。
婦人警察官募集。
日本で初の女性警察官65人の採用に1600人以上が応募。
マッカーサー元帥は女性の社会進出を提唱しました。
日本の婦人を解放すること。
女性に参政権が与えられ、39人の女性議員も誕生。
これも民主化の一環でした。
私は女性の力を強く信じます。
残念ながら、女性が輝く社会の実現は遠いということでしょうか。
今年の男女平等ランキングでも日本は世界145カ国の中で101位なのです。
たび重なる空襲で灰塵に帰した東京の街。
復興に立ち上がった1人が、都市計画の第一人者、石川栄耀さんでした。
長男の允さんは言います。
その戦災復興計画は壮大でした。
当時の資料が、都市計画を専門とする早稲田大学、中川義英教授のもとに保管されています。
例えば、東京の道路計画。
これが100m道路を考えていたもの。
幅100mにも及ぶ道路で東京の中心部を囲むという夢のようなプランでした。
都市計画の第一人者、石川栄耀さんは幅100mの道路を考案しました。
1レーンの幅を3.5mとすれば、28車線です。
大型旅客機が発着する滑走路をはるかに上回る道幅でした。
しかし、GHQは予算を回せないからと計画を認めず、壮大な夢は幻に終わります。
莫大なコストと時間を要する道路建設。
今年3月に全線開通した首都高速中央環状線は構想から完成まで、50年もかかりました。
1948年、GHQは大規模な日本語テストを実施しています。
「月を見る」、「先生、お体を大切に」。
このテストの背景には、アメリカから来日した教育使節団が望んだ日本語のローマ字化があったのです。
漢字もかなも完全に廃棄してローマ字を採用することを要望する。
彼らは、日本人は読み書きができないと思い込んでいました。
日本語テストは語学力の調査のために行われたのです。
ところが結果は、受験者のおよそ7割が70点以上という好成績をおさめました。
ローマ字化計画がついえたおかげで、この12月も、恒例の今年の漢字が選ばれました。
日本語安泰の「安」です。
ローマ字化計画というのがあったんですか。
識字率が低いと思ってた。
なめんよって。
本当ですよ。
よかったね、ローマ字化にならなくて。
漢字は漢字のよさがあるもんね。
あといろいろご紹介しましたが、何かありましたか?気になるものは?100mの道路って、何で必要だったんだろうね。
僕も知らない。
これは関東大震災の後、有名な100m道路、ただ、あのときは、いざ戦争になったときの滑走路とか、そういうことも想定には入ってたんです。
飛行機が離着陸できるように。
そういうことなの。
イメージが進駐軍は嫌だったのかな?進駐軍だったら逆に、ただ冷静になっていきますから、使う可能性があったかもしれないですね。
進駐軍が使えなくはないもんね。
やはり女性の解放ということで、選挙権とかがなかったというのが驚きですし、本当にそう思えば今は恵まれているというと、本来であれば平等なのに、まだまだそこまでいけていない日本というのがあって。
ランキングで101位って。
まだ足らんのよ。
でも、足りないって思うところいっぱいありますよね。
一番大きいのは議員の数ですよ。
常にそれ言われます。
地方議会でも中央議会でもね。
それから、企業の管理職の数、これが圧倒的に少ない。
単純にクラスで男子と女子が半分ずつと考えれば、議員の数が半分ずつが、ひょっとしたら普通なのかもしれないですね。
まだまだ努力しなきゃいけない。
でもGHQというのは、ここまでやるかっていう、もっとたくさんあるんですよ、GHQがやったことは。
これだけ見ても占領ってそういうことかと。
徹底したんですね。
ただ、両面ありまして、1つは、日本を理想の国につくろうとして、まずは軍国主義の芽を一掃しようとして、民主化、自由化を徹底するということがまず1つですね。
それから理想の国というのはちょっと難しいんですが、私は一時、占領時の取材をしたことがあるんですが、それは徹底してましたね。
ただ、それは同時に、アメリカの価値観の押しつけでもあるんですよ。
だから、日本時にとって両面あったんですね。
本当にそこまでやるか、俺たちの生活まで全部変えちゃうのかといういら立ちがある反面で、あ、民主化ってこんないいこともあるんだと。
農地開放があった、財閥解体があった、戦前の軍人や役人の追放をやった、教育改革、まさに民主化教育を徹底したんです。
番組はまだまだ続きます。
ここでいったん、JNNニュースを挟みます。
年末年始の帰省ラッシュが各地で続いている。
新幹線は東京や大阪などから地方に向かう下り線で混雑のピークを迎えている。
JR各社によると、東海道新幹線は、東京駅を6時に出発した「のぞみ1号」で自由席の乗車率が200%になったほか、午前中の指定席はほぼ満席。
午後は指定席に若干の余裕があるとのこと。
東北新幹線では自由席の乗車率が110%を超えた列車があったが、一部を除いてまだ指定席に余裕があるとのこと。
一方、空の便だが、日本航空と全日空の羽田から地方に向かう便には席に若干の余裕があり、今日の予約率は9割ほどだとのこと。
新幹線も空の便もUターンのピークは1月3日で激しい混雑が予想されている。
今年最後の取引を迎えた東京株式市場では平均株価が一時、1万9000円台を回復している。
東京証券取引所から中継。
アメリカで原油の先物価格が上昇したことを受けて、今朝の東京株式市場で平均株価は値上がりはしていますが、市場関係者が期待していた2万円の大台には届かないまま年を越すことになりそうです。
今朝の東京株式市場で、日経平均株価は一時100円以上値上がりし、1万9000円台を回復して午前の取引を終えている。
平均株価は終値でも4年連続で前の年の年末より上昇して終わる可能性が高くなっている。
今年の日経平均株価は4月に15年ぶりに一時、2万円台を回復したものの、夏以降は、中国経済の減速やアメリカの利上げが新興国の経済にマイナスになるのではという懸念から不安定な値動きを繰り返した。
来年も日本の株価は海外のリスク要因に振り回されると専門家は見ている。
来年株価は、1万6000円台まで下落する可能性があるという指摘も出る中で、日本経済は、新たに自ら成長する要因を見つけることができるのか、実力が試されることになる。
大阪府門真市でマンションの部屋から切断された遺体が見つかった事件で、逮捕された女と行方不明になっている25歳の女性が1カ月前まで一緒に暮らしていたことが警察への取材でわかった。
大阪府門真市の自称イラストレーター、森島輝実容疑者は、自宅マンションで遺体をバラバラに切断した死体損壊などの疑いが持たれていて、風呂場の浴槽からは頭蓋骨が見つかっている。
森島容疑者の知人で、25歳の女性が今月25日から行方不明になっているが、その後の警察への取材で、2人が1カ月前まで門真市内のシェアハウスで共同生活をしていたことがわかった。
警察は、遺体はこの女性と見て、身元の確認を急いでいる。
イラクやシリアで空爆を行っているアメリカ主導の有志国連合は過去1カ月の間に過激派組織イスラム国の幹部10人を殺害したと発表した。
有志国連合司令部のウォーレン報道官は29日、過去1カ月に行った空爆で、イスラム国の幹部の10人を殺害したと発表した。
先月発生したパリ同時多発テロの実行犯と直接つながりがある人物も含まれていたとしている。
また、一部は欧米への新たなテロを計画していたとのこと。
ウォーレン報道官は、イラク軍がイスラム国から中部の主要都市ラマディを奪還したことにも触れ、重要な節目だと評価した。
自爆テロで70人以上が死傷。
AP通信によると、パキスタン北西部マルダンで29日、男が政府関連施設の入り口にオートバイで乗りつけ、銃を乱射した後、爆弾で自爆した。
当時、施設の周辺は身分証の発行などを求める人たちで混雑しており、26人が死亡、45人がケガをしたイスラム武装勢力パキスタンのタリバン運動の一派が東京タワーでございます。
お登りになったことは?あります、2度ほど。
お仕事で?仕事じゃなくて、「母べえ」という映画をやったときに映画をやったときに、子どもたちの役をやった子たちと東京タワーに登ったのと、あとはいつ登ったんだかあんまり覚えてないんですけど、多分10代の頃に1度上ってると思います。
私、恥ずかしながらね、ちゃんと登るのは今日初めてなの。
でもこれは、ちょっと調べました。
小百合さんが13歳のときにできたんです。
私もちょっと調べました。
今日は、そんな話をいろいろしながらおつきあいいただきたいと思いますが。
ひとつよろしくお願いします。
あっちが正門だそうです。
恥ずかしながら、スカイツリーはまだ上ったことがないんです。
ええ、私も。
よかった、同じで。
2人が向かったのは、高さ150m東京が一望できる大展望台。
窓がここですね。
ここから見えるようになるんですよ。
見ながら行きましょう。
今日、でも雨にならなくてよかったですね。
昨日は氷雨が降ってました。
かつて日本一高かった東京タワー。
ここで時間を戦後ゼロ年へと巻き戻しましょう。
戦後ゼロ年、1945年。
日本一高い建物は…国会議事堂でした。
高さはおよそ65m。
それから早70年。
ここがそう?じゃ、降りましょう。
東京は一変しました。
焼け野原だった町はビルの森です。
高さ100mを超すビルがおよそ400。
こんな未来図、誰が想像したでしょう。
ビルだらけですね。
できたての頃は、多分何もなかったんじゃないかしらね。
今、どれがどのビルなんだか、もうわかんないよね。
すごいね、ニョキニョキ、ニョキニョキ。
東京がどんどん変わって、それを見続けている東京タワーですね。
東京タワーが完成したのは1958年。
日本中から人が押し寄せ、初めてのパノラマにくぎづけになりました。
気づけばそれは、いつも私たちのすぐ横に。
さながら戦後を照らす灯台のように経済成長のシンボルとなった東京タワー。
首都の変貌を見続けてきました。
これこれ。
雪の日?東京タワーから撮った。
これ霞が関ビルかな?1968年、日本初の超高層ビル、霞が関ビルディングが誕生。
そして、火蓋を切ったのが、天を突くビルの建設ラッシュです。
東京は猛スピードで空へと伸び上がっていきました。
変わっちゃうもんですね。
だから恐らく50何年の間に、こんなになっちゃった。
変わり行く東京の風景画。
その変貌に誰より驚いているのは、このタワーかもしれません。
海が見えてきたよ。
あれがレインボーブリッジでしょう、恐らく。
吉永さんの目に、今の東京はどう映るのでしょう。
きれいですよ、東京なんだけど東京でないような。
私たちの東京ではない、新しい感じすべてを失った終戦から70年。
今へと続くその道は、決して平たんなものではありませんでした。
復興という坂道を駆け上ったあの時代。
天空で繰り広げられた壮大なプロジェクトがありました。
高らかに平和を歌い上げた東京オリンピック。
あの聖火台に秘められた1人の官僚の知られざる覚悟とは?列島を震撼させた戦後最悪の事故の数々。
その教訓が日本を変え…天変地異に挑む研究者の発見が多くの命を救いました。
国は時に迷走し、その背後に戦争の影が忍び寄ったことも。
一触即発、封印された国家的危機とは。
そして凍りついた天皇の会見場。
タブーに切り込んだ勇敢な記者がいました。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」すべては今につながっています。
再び「報道の日2015」、テーマ、「ニッポン・ゼロからの70年」でございます。
JNNの数々のスクープ、そして秘蔵映像とともに日本の歩んだ70年を振り返ります。
午後5時半までの生放送です。
皆さん引き続きよろしくお願いいたします。
恥ずかしながら岸井さん、東京タワー、僕、初めて上りました。
岸井さんは?何回か登ったことありますけどね、だけど東京の人って、あんまり登らないんですね。
いつでも行けると思っちゃうんですね。
真っ先に登りましたけど。
東京の方ですよね?僕、鹿児島です。
鹿児島、タワーがないからね。
そのとおりです。
今、見ててね、東京タワーというのはまさに日本の戦後の復興と世界から奇跡と言われた発展・成長の本当にシンボル的象徴なんですよね。
だから戦後の日本をずーっと見てきたっていうその感がありますね。
あれをテーマにしたのは「三丁目の夕日」だったかな。
あの映画よくできてるね。
TBSの皆川玲奈アナウンサーが先ほどからスタジオで用意してくださってるんですがどうでしょうか?こちらはなんと竜巻を発生させる装置なんです。
今、この円盤の中心にお湯が入っているんですけれども、そこにドライアイスを大量に入れました。
解けて白い煙のような蒸気がもくもくと広がっています。
この装置でどのくらいの竜巻がどうやって起こるのか、この後2時15分頃、スタジオで竜巻を発生させたいと思います。
これからセッティングをします。
このスタジオに竜巻が起こるんだって。
結構先の話なんですね?今からもう?へえ〜続きましょう、雨宮さん?「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
戦後10年目の節目はこちらになります、1955年です。
戦争が終わってやっと10年か、そんな感慨とともに迎えた節目は大きな時代の変わり目となりました。
日本はどこへ向かって走り出したんでしょうか。
これ、自民党ができたときですね。
まだ政治のこと、この頃わからないでしょ?はい、もちろんわからなかったですね。
今の総理のお父さんが頑張っておられます、おじいちゃんか。
戦後10年、みんな無我夢中でした勢力を拡大させる社会党に対抗し自由党と日本民主党が保守合同。
自由民主党が生まれたのは、この年です。
岸信介幹事長は、安倍総理の祖父に当たります。
よくも悪くも、私たちの暮らしを大きく変貌させたのが、この年から始まった55年体制と呼ばれる自民党政権です。
多くの人たちが笑顔を見せるようになりました。
10年前に味わったどん底の記憶も少しずつ薄れてゆきます。
デパートには人があふれました。
空を賑わせるアドバルーンが百貨店の大売り出しを伝え…見上げる誰もが胸をときめかせたり…乗客が増えて混雑する駅には押し屋なんていう仕事も。
ようやく訪れた豊かさ。
国産の高級車、トヨペットクラウンや…電気炊飯器。
世界で初めてトランジスタラジオもお目見えしました。
神武景気と呼ばれた戦後最大の好景気が幕を開けたのです。
きっかけは海の向こうの戦争でした。
戦争に負け、戦争で息を吹き返した私たちの国。
翌年の経済白書には、こんな言葉が躍りました。
たかだか10年よ。
もう随分変わってるよね。
本当ですね。
力強いのかな、日本人って?すごいですね、この活力というものちょっと考えられない、だからそこが奇跡って呼ばれるんでしょうね。
海外から見るとね。
だけど、この55年体制ができたって、自民党結党でものすごく日本で大きいんですよ。
その後、40年近く続く戦後の保守政治と革新政治、基本的な政治の枠組み、これができたのがこの年なんですね。
ただ忘れていけないのは、ちょっと出てましたね、みんなわからないのかなと思うんですけれども、戦争で負けたのに、戦争で儲けた。
何のこと?と思うでしょ。
朝鮮戦争特需というやつなんですよ。
米軍が朝鮮戦争に行くのに、全部、日本が助けたということでねだからこの55年体制ができる背景に冷戦がスタートしたっていう、東西冷戦がスタートしたという背景があることを忘れちゃいけないですね。
こちらに今、ご紹介したのが。
何か気になった事柄はありますか?僕は石原慎太郎さんの「太陽の季節」というのもあるんですけど、この55年にクレージーキャッツ、僕、同じ事務所なんですけど、結成なんですね。
当初キューバンキャッツと言っていたらしいですけど、54年には「ゴジラ」が公開されているんです。
そうすると54年、55年、そして58年ぐらいには長嶋さんが巨人に入ったり、東京タワーでしょう。
やっぱりこの頃から、芸能・スポーツ55年体制というかもう既にスタートしているのかなという。
元気になっていく。
すごい元気になっていく。
そんな気がしました。
本上さん、押し屋がわからなかったんですね?押し屋という言葉を初めて知りました。
そんなもんなんだな。
電車、入らないですよ。
押す人でしょう?押すだけなんですよ。
ガラスが割れてね。
だって満員なんですから、やりましたよ。
それだけ経済状態がよくなったってことのね。
一気によくなったんですね。
電化製品の三種の神器。
トランジスタラジオ、欲しかったんですって?欲しかった、高かったんだよ。
発売されてからいつ頃手に入りました?何か買ってくれた。
どこかの大統領が皮肉で日本人はトランジスタのセールスマンだと、それだけで伸びてきてるっていう、ものすごい皮肉ったことがある。
小さいのはみんなトランジスタだよ、小さい女の人をトランジスタガール、グラマーなら、トランジスタグラマー。
そうでしたね。
流行語的な感じだったんですね、トランジスタって。
そうそう。
もう絶対、流行語大賞になってた。
そんな10年後の節目なんですが、日本はどこへ向かって走り出したんでしょうか。
こちらをご覧ください。
1957年、吉永さんは、ラジオドラマ、「赤胴銅鈴之助」でデビューします。
小学6年生でした。
あれは何ですか?オーディションか何かで?オーディションで1万人の応募があってその中で4人受かったんですね。
藤田弓子さんと私が女の子では受かったということで。
もうわけもわからずにね、真夜中にやるんですよ。
皆さん忙しくて、当時、声優さんたちっていうのはホント忙しかったので、その時間じゃなきゃ集まれない。
じゃ、夜録音して?夜中12時ぐらいから3時ぐらいまでやって家に帰って寝て、朝、学校に行かなきゃいけないんですけど、眠たくて行きたくないんですよ。
で、親に叱られて、必死で行きましたね。
映画デビューはその2年後。
この年、日本には明るい未来を予感させるうれしいニュースが続きます。
この結婚はどういうふうに受け取っていらっしゃいました?これはもう、すばらしかったですね本当にすてきで。
どういうところが?美智子様のたたずまいとか、皇太子さまの雰囲気とか、もう私たちみんなで喜んでましたね。
この東京オリンピックを開催することが決まったのがこの皇太子さまと美智子さまのご成婚の後なんです。
これが決まったっていう。
うれしいニュースだったし。
だから何か日本が明るい話題が多かったですよね。
そうですね、これから少しずつ頑張って元気になっていこうという感じでしたね。
日本の空の玄関口、羽田空港。
海外から著名人が降り立つこの光景もすっかり定番になりました。
ダイレクトにつながる世界と日本の首都。
今年、話題をさらったヒーローたちもやはり凱旋は羽田でした。
オリンピックまでにさらに発着枠を増やすことが検討されていてますます便利になる羽田。
しかし、かつては周囲が渋滞する不便な空港だったのです。
ハネダ・アーミー・エアベース、これが戦後すぐの羽田です。
GHQに接収され、名前も横文字に変わりました。
それから6年、GHQのマッカーサー元帥がアメリカへ帰国したときも羽田から飛び立ちました。
その一部が日本に返還されたのは、1952年。
日本の玄関口として再スタートを切りました。
しかし道路はこの大渋滞。
新宿まで2時間以上もかかったのです。
そんな中、開催が決まったのが東京オリンピック。
渋滞解消と日本のメンツをかけ首都高速道路の建設を急ぐことになりました。
当時、東京都の職員として建設に関わった堀江興さん。
ところが土地の買収からつまずきます。
このままではとてもオリンピックに間に合わない。
そこで編み出された奥の手が…用地買収の必要のない川や道路の上に高速道路をつくるものでした。
オリンピックまでに完成させることになったのは、およそ33km。
できるだけ川の上を通るルートが選ばれました。
空を道路が走る。
各地で見たことのない光景が出現します。
橋脚でヤジロベエのようにバランスをとりながら徐々に伸びていく高速道路。
少しずつ距離を詰め、空中でつなぎ合わせるのです。
日常の営みを止めることなく着々と進む工事。
そして…見事につながりました。
川の上に高速道路をつくる空中作戦。
国立競技場までのルートには日本橋がありました。
日本橋といえば、日本の道路網の起点。
その上に道路を通す計画は、大変な物議を醸しました。
それは逆風の中で下された苦渋の決断でした。
親しんだ風景から奪われた空。
国の威信を賭けた便利な道路と引きかえに東京が失ったのは江戸の情緒でした。
日本橋の老舗の人たちは…格好悪いながらも、何とかクリア。
しかし、さらなる難問が待っていました。
オリンピックに向けた首都高の突貫工事。
羽田空港と国立競技場を結ぶため空港の脇を流れる川に橋を架ける計画でした。
その直前、空港からまさかのストップが。
しかし、今さら海底トンネルを掘る時間はない。
追い詰められたそのとき、ひらめいた荒技…それは、水中作戦。
これが、その実際の映像です。
船が引くのは長さ56mもの巨大な箱。
上に立つ人と比べると大きさがよくわかります。
その工法は極めてシンプルでした。
中が空洞のこの箱、沈めるとそのままトンネルになります。
たった一日でセットでき、あとは水を抜くだけ。
仕上げに箱の蓋を外せば…トンネルの貫通です。
工期は大幅に短縮。
このトンネルは無事、オリンピックの2カ月前に開通にこぎ着けました。
これにより羽田から国立競技場までの移動はわずか30分に。
訪れた外国の選手や観客たちは戦後の復興ぶりに目を見張りました。
日本の技術を世界に見せつけた首都高。
高度成長を支える屋台骨となったのです。
そして今、海を越えたトルコに安倍総理の姿。
ボスポラス海峡の海底トンネルが日本の技術で完成したのです。
流れの速い海峡での難工事。
使われたのは、あの箱を沈める工法でした。
50年前の荒技が日本のお家芸に成長していたのです。
したたかだった戦後のものづくり。
2020年に向け、再びその真価が問われています。
うれしい?いや、締め切りを設定されると燃えるんですね。
燃える、知恵も出る。
すごいですね、アイデアがちょっと…。
でも、アイデアが出てもその技術がなくちゃ。
それを開発しちゃうんだから。
それが間に合っちゃうという。
オリンピックに高速道路をつくる競技があったら日本は金メダル取れるかもしれませんね。
物すごいですね、はめ込もうって。
ほかにもあの技術はどこかに生かされてるんでしょう?技術の輸出といえば、この頃、日本の新幹線システム、あれが今月、インドの鉄道高速システムに導入されるということですね。
だけど、日本橋のところで本上さんがリアクションしてたね、何ですか?高速道路の方に日本橋っていうプレートがあるから、あっちが日本橋って思っちゃいそうな。
本物は隠れちゃったからね。
本物はその下ですもんね。
今となっては、周りの商店街の人たちも情けねえ、どけてくれと言い出してるらしい。
日本人というのは、1つの目標を見つけるとざっと行くと。
その背景にもう1つあるのは官民一体という、官僚主導で悪くも言われますけど官主導による国家一体のやり方で技術立国と輸出立国を目指したんですよ。
その裏には何があるかというと、安保防衛はアメリカに任せちゃおう、その代わり、その余剰になった資金や人力を全部経済に注ぎ込むというそういう流れ、考え方があった。
技術大国日本というのもこの時代から始まったんですね。
ときどきアメリカからただ乗りと言われるんですよね。
続いて、首都高速も大事なインフラなんですけれども命を守るインフラというのがこの時代は圧倒的に欠けていました。
技術の力で命をどうやって守るのか。
男たちの闘いのドラマです。
ヘリコプターから自衛隊員がつるされて下に下りてきました。
今年9月10日。
台風18号は河川の氾濫による大洪水を招きました。
この関東・東北豪雨では8人の死者と49人の負傷者が出ています。
いかにして台風から身を守るか。
日本の戦後は、自然災害と格闘する70年でもありました。
終戦から一月もたたない9月7日、枕崎台風が西日本を直撃。
犠牲者は3756人にも上りました。
大型台風はその後も甚大な被害を及ぼし続け、死者の数がひと噴き1000人と呼ばれるほどの猛威を振るったのです。
日本史上最も犠牲者が出たと言われる終戦からの15年、中でも最悪なのは1959年、伊勢湾台風です。
後に伊勢湾台風と名づけられた台風15号は、9月26日夕方、紀伊半島の潮岬に上陸。
1959年9月26日の夜、伊勢湾台風は名古屋市を襲いました。
上陸時の中心気圧は929hPa。
この50年、日本が経験していない強さです。
死者・行方不明者は5098人を数え、戦後最悪の台風災害となりました。
お天気キャスター、森田正光さんは9歳のとき、地元・名古屋で伊勢湾台風を経験しています。
くつ塚と書いてあります。
ここがくつ塚ですよね。
伊勢湾台風のときに亡くなった方とか、あるいは靴がいっぱいここに流れ着いたと。
台風が去った後、このくつ塚には亡くなった人々の靴が無数に集まったといいます。
甚大な被害をもたらした原因は、高潮でした。
当時、名古屋港では観測史上最大、3m89cmもの高潮を記録。
この影響で、一時は名古屋市の半分近くが水に浸かったのです。
港に近い海抜0m地帯には高度経済成長による住宅難から市営住宅がひしめいていました。
その家々は堤防が決壊するとあっという間に水にのまれたのです。
当時、この辺り、どんな状況だったんですか?ここ全部、水がね。
今年92歳の森本まつ子さん。
家族とともに近所の家の屋根に上がって一晩中助けを待ち続けたそうです。
戦後の気象予報は手さぐりでした。
当時、名古屋地方気象台の予報官だった島川甲子三さんです。
島川さんは、後に日本気象協会に移り、森田さんをお天気キャスターに導いた人でもありました。
当時、これ台風の予測なんですけれども、どうやってやってたんですか?伊勢湾台風が上陸したとの天気図です。
この時代は各地の観測所からモールス信号で送られてくる電報をもとに、すべて手書き。
名古屋地方気象台も被害を受けました。
台風上陸の日、傘で風雨をしのぎながら1時間ごとに天気図を作成。
台風の進路は予測できましたが、それは上陸の直前でした。
警報を十分に行き渡らせることは困難だったのです。
こうした悲劇を二度と繰り返すわけにはいかない。
台風の進路を早く正確に予測するには、日本一高い富士山にレーダーを建設する必要があったのです。
当時、5カ所あった気象レーダーは探知範囲半径およそ300km。
伊勢湾台風の上陸をとらえたのは、わずか3時間前でした。
富士山レーダーができると半径は800kmに広がり、伊勢湾台風なら18時間前にキャッチできます。
困難を極めた富士山レーダーの建設は、後に映画化されました。
その名も「富士山頂」。
標高3776mの山頂で行われた前代未聞の建設工事。
吹き荒れる防風の中、作業は文字どおり、命がけでした。
豪華キャストで描かれた「富士山頂」。
主演は石原裕次郎さんです。
裕次郎さんのモデル、レーダー設計を担当した木名瀬武男さん。
同僚、神戸康吉さん。
私たちは、映画づくりの参考となった貴重な記録映像を入手しました。
富士山頂でのレーダー建設は地上では考えられない過酷さを伴いました。
最大瞬間風速は、ときに100mを超え、厳冬期には氷点下30度を下回ります。
空気は平地の3分の2。
意識がもうろうとすることも少なくありませんでした。
幾多の困難を乗り越えてようやくレーダーの土台が完成。
けれど、最大のヤマ場はレーダーを風雨や雪から守るドームの輸送でした。
600kgのドームを運び上げるのはヘリコプター。
平地なら可能な重量も、空気が希薄な富士山頂への輸送は極めて危険でした。
パーツをバラして運んでも強風がたたきつける山頂で組み立てることは不可能です。
パイロットは決断しました。
富士山頂付近は世界有数の危険空域。
ドアも副操縦士の座席も外してヘリが舞い上がります。
燃料さえギリギリまで削られました。
すべての人の視線がただ1点に集中したそのとき…こうして富士山レーダーは完成。
より早く、より正確に台風の動きをとらえ、これにより、犠牲者は激減したのです。
1964年の設置以来、台風の砦となったレーダーも気象衛星や新しいタイプのレーダーの登場で1999年、その使命を終えました引退したレーダーとドームは富士山のふもとに、今も展示されています。
災害から国民を守った一大プロジェクトを語り継ぐために。
まずはこちらのグラフをご覧いただきたいんですが、台風による死者・行方不明者数の推移なんですが、こちら、ご覧いただきました5000人以上もの犠牲者を出した伊勢湾台風です。
この反省から、こちら見てください激減しているんです。
これにはどういった要因があるかといいますと、1961年に災害対策基本法が制定されまして、ここで地方自治体による防災対策が義務づけられたんですね。
そのことと今ご覧いただきました富士山レーダーの稼働、これが大きく関連している。
1964年なんですね。
ここから本当に減っているんですが、さらにもう1つ要因があるんですね。
それがこちら、白黒テレビ、そしてカラーテレビの普及が、やっぱり情報、早いんでしょうか。
テレビから伝わる情報で準備できるわけだからね。
だから、これだけ被害が少なくなってるんだ。
こんなに減りました。
今、衛星からだから、本当に正確になったでしょう。
そういう情報というのはすごいですね。
今見てても思うんですが、あれ、富士山レーダーって、本当に命がけでしたよね。
大変なピンポイントであそこに下ろすというのはね。
だけどああいうの見てて思うんですけど、あの成功例というのを見ると、あのとき大変な話題になりました。
ほかの分野の人たちも、俺たちも頑張れば、また違う挑戦ができるという、自信を与えるんじゃないですかね。
それがまた波及効果になって。
すごい技術ですね。
本上さん、何を感じました?やはりテレビの普及とともに情報が行き渡るようになって被害を食い止めるための要因になったというのは、メディアの力は大きいんだなって思いますね。
それまではラジオで放送されていたということでしょうね。
ラジオで聞くしかなかったんでしょうね。
続いては1960年代です。
東京オリンピック、そして好景気と日本は華やかな時代を迎えるんですが、その熱気の陰に、知られざる影がありました。
まずは、15歳になった吉永小百合さんのVTRからご覧ください。
1960年。
日米安保条約の改定をめぐり、連日、国会前にデモ隊が集結、警官隊と衝突しました。
吉永さんは15歳でした。
60年安保なんていうのは?私は姉が6つ上なんですけれども、当時大学生で、安保のデモに行ってましたね。
そして、樺美智子さんが亡くなったというのは姉から聞きました。
ちょっと、自分ではうまく消化できないっていうか、受け止められないというか、大変大きなことが起こってるんだとは感じました。
15歳のとき、この年に日活と専属契約したの?はい。
家が結構大変でしたし、それを小学校から子役として出演したりして、家計が少しよくなったということもあったので、俳優として、そんなに自分が強い、映画俳優になろうなんて思ってはいなかったんですけれども何となくそういう道に乗ってしまったんですよね。
キューポラ、小百合さんというと代表作は何かというと、必ず「キューポラ」って入るでしょ。
これはこの頃やっているんですね?そうですね。
そうですね。
1962年に公開された「キューポラのある街」。
吉永さんは鋳物工場の街、埼玉県川口市で貧しくも前向きに生きる中学生を演じ、多くの賞に輝きます。
貧しい中で一生懸命勉強して、定時制に行くという少女の役で、自分と重ね合わせる部分もありましたし、ただ、私は山の手で育って、山の手の貧乏だと。
浦山監督は、下町の貧乏もあるんだよっていって、川口の鋳物工場に行って皆さん働いている姿を見たら、私もこういう大変な場所もあるんだとわかりました。
そしてこの年、橋幸夫さんとのデュエット、「いつでも夢を」が大ヒット。
一躍人気スターに。
吉永さんも戦後日本も青春真っただ中でした。
もうひたすら、ひたすら仕事してましたね。
これずっと見たって、映画を何本録っているんでしょうね。
もう10本以上、1年16本撮ったこともあります。
休みなんかないね?そうですね、2〜3週間で1本録って、ダブっていくんですよ。
よく乗り越えてきましたね。
体が丈夫だったから。
新幹線、どんな感じでした、初めて乗ったとき?やっぱり速いっていう、ただただ速いし、富士山がきれいだった。
これが要するに東京オリンピックに間に合わせるために頑張ったんだと。
オリンピック始まりましたよ。
これはどこかでご覧になっていた?これはチケットをもらって、田中聡子さんの背泳ぎを見に行ったんですよ。
水泳をご覧になった?はい。
聡子さんも、その前のオリンピックではメダルをとられたんですけれども、そのときは4位だったんですよね。
本当に惜しかったんですけれども、初めて最初で最後のオリンピックでした、私にとっては。
生を見たのは。
今月22日、ついに決まった新国立競技場の新しいデザイン。
2020年のオリンピックに向け、ようやく動き出しました。
旧国立競技場の建設は半世紀以上前に行われました。
建てたのは、この人。
建設省の課長、角田栄さん。
戦時中、官僚でありながら反戦を唱えた異色の人物でした。
かつての東京オリンピックの舞台が秘める、1人の男の知られざる思いとは…国立競技場の前身、明治神宮外苑競技場です。
戦後はGHQに接収され、ナイルキニック・スタジアムと呼ばれていました。
日本に返還されたのは1952年。
その後、アジア競技大会の開催を機に新しい競技場をつくることになったのです。
横浜市港北区。
当時、建設の責任者を務めた角田さんの自宅です。
残されていたのは…角田さんの従軍記録。
戦地に赴いたときの階級は最も下の位、2等兵でした。
1944年、反戦の思いを胸に激戦地、ビルマへ送られた角田さん激戦の地、ビルマで角田さんがとった驚きの行動。
なんと、敵ではなく空に向かって鉄砲を撃ったのです。
強い反戦の思いからでした。
その後、負傷し戦地で終戦を迎えた角田さん。
復員後は建設省で日本の復興に邁進します。
そして、任されたのが、国立競技場の建設でした。
それは明治神宮外苑競技場を建て替える計画。
角田さんの頭に浮かんだのは…戦時中、学徒出陣の壮行会がここで開かれたのです。
若者を戦地へ送った場所を、平和の舞台に。
建設が始まったのは1957年でした。
当時の映像に角田さんの姿が。
責任者として、当時の皇太子さま、現在の天皇陛下を案内する様子です。
角田さん、意外なものも設計していました。
聖火台です。
高さ2.1m、重さ3t。
聖火台の設置が済めば完成です。
無事、幕を開けたアジア競技大会。
その翌年でした…東京オリンピックの開催が決定したのです。
このとき、スタンドの増設工事を指揮したのも角田さんでした。
聖火台も一番高い場所に移されました。
開会式の2カ月前、聖火がアテネを出発します。
太平洋戦争の激戦地をめぐる聖火リレーは角田さんが送られたビルマへも。
そして…1964年10月10日、東京オリンピックの開会式。
聖火リレーの最終ランナーは、原爆が落とされた8月6日に広島で生まれた坂井義則さんでした。
平和の火は、角田さんが設計した聖火台へ。
1993年に亡くなった角田さん。
晩年に描いた国立競技場の絵が残っていました。
その中心に、聖火台。
1964年から2020年へ。
1人の男の平和への思いもリレーを待っています。
そして、決まったんでしょう。
はい、それがこちらです。
いかがですか、印象は。
これになったんだなと思いましたけどね。
緑多いですね。
それがテーマでしょ。
森の中にあるような感じで、千葉すずさんに聞いたら、遠くから走ってくるときに、マラソンランナーはわかるのかなっていう意見もありましたよ。
本上さんの意見は?いろいろゴタゴタあり過ぎたので、やっとというのもありますし、でも、もうちょっと予算的にも何かもうちょっと抑えられたんじゃないのかなというのはありますよね。
今、テレビをご覧の皆さん、何で私たちは立っているのかとお思いですよね。
実は仕掛けがございます、何で出てくるんですか?1964年の東京オリンピックのときに実際に使われたトーチが用意してあるんです。
皆川さん、お願いします。
こちらが実際に使われたトーチです。
当時のものですね。
触っていいのかな。
1964って書いてありますね。
全長が64cmで重さが1.2kg重いね。
これをつくったのが日本工機という会社で、雨でも絶対に消えないようなトーチをつくってほしいというつくってほしいという注文があったそうです。
日本は雨が多い気候ですからね。
ここ伏せちゃってるけど、ここに火がつくんだろ?消えない火ってあるの?消えないんですよ、何で消えないのか気になります?実験で検証しましたので、そちらの映像をご覧ください。
まず、火がついたトーチを水の中に入れますよ。
消えませんよね。
炎が出てますね。
炎がバチバチと飛び出ているんですよ。
どうしてだ?吸い込まないように、吐き出すようにつくってある?噴くようになってますよね。
なぜ火が消えないのかといいますと、こちら、あらかじめトーチの中に入っている燃料に酸素が含まれているため、水の中でも消えない。
要するに、酸素があれば燃えますよね。
だから、燃料の中に酸素が入ってるから、水の中でも消えないですし、例えば、極端な話ですけれども、宇宙空間でも、実験は行っていませんが、燃え続けるかもしれない。
そういう技術だったの!あの当時、我々聖火リレー、あれ、消えちゃうんじゃないかっていつもハラハラして見てた。
風も吹いてるし。
それ思い出しましたね。
これ、1度火をつけると、14分間燃え続けて、このトーチをつくるのに、なんと6年かかったそうです。
そんなに?消えない技術の開発のために?それも日本の技術なんですよね。
だから、恵君はこれつくってるとき生まれたんだね。
このオリンピックに生まれるんだから。
この年ですから、生まれたの。
持ちます?せっかくですから、ホント、重みがありますね。
ちなみにこの会社は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けてまた新しいトーチをつくっているそうです。
同じ会社なの?まだ採用されるかどうかはわからないんですが。
そこも競争なんですね。
そうなんですよ。
今、歴史を見ていて、新しい競技場とかエンブレムでいろいろもめたじゃないですか、今年。
当時のああいう夢を追うとか、挑戦するっていう覚悟、違うな、今はそれがないな、言っちゃうと。
何か違うのね、あれを知ってる我々としてはね。
やはり背景にストーリーがあって、信念がある人がというのが今回、その映像を見てわかりましたね。
続いて雨宮さん。
「報道の日ニッポン、ゼロからの70年」。
戦後20年目の節目は、1965年です。
オリンピックの翌年、日本が豊さへとひた走る中、置き忘れてきてしまったものがありました。
1965年というのは、小百合さん、大学行かれるんですよそうですね。
吉永さん、早大生に。
大ニュースになりました。
ちなみに、専攻は西洋史でした。
あれは、なぜ大学へ行くことに?その前の年に日活に組合ができたんですよ。
それで、今までのように真夜中まで撮影をしないということが決まって、基本的には夕方5時で終わるということになったんです。
それだったら何かできると、でも、もし、私は自分でこつこつ勉強するタイプじゃないんですよ。
本当なの、怠け者なんですよ。
学校行けばちょっと勉強できるかなというのと、この世界だけしか知らないというのは、ちょっと怖いなという気がしたので、もっと広くいろいろなことを知りたいし、友達も欲しいということで。
だけれども、世界は大変だったんですよ、そのとき。
アメリカがベトナムへ北爆を開始した。
これは何か、不吉な予感が僕らしましたね。
そんな簡単にいくのかみたいな。
だから、日本の中でも学生運動がだんだん…。
枯葉爆弾ね。
戦後20年、みんな、胸を張っていました。
東京オリンピックで世界に触れた日本。
続く追い風は、大阪万博の開催決定を告げるニュースです。
1兆5000億円以上と言われた経済波及効果に、高速道路は延び、重工業も発展します。
大量生産の時代を迎えて、欲望は刺激されました。
あこがれのマイカーさえ、手の届く値段になったのです。
でも、いいことばかりではありませんでした。
早くも現れたひずみ。
車社会は交通事故の急増を招き、この年だけで1万2000人以上が亡くなりました。
覆面パトカーが街を走り始めます。
排気ガスに工場の煤煙。
東京に初めて光化学スモッグ警報が出て、公害問題が深刻化しました。
繁栄が運んできた光と影。
大量生産と大量消費は、大量のゴミを生み出します。
東京23区のゴミ排出量は年間200万t以上。
10年間で4倍に増えました。
6月、ゴミ処理場だった江東区の埋立地、夢の島にハエが異常発生。
近くの小学校では…自衛隊と消防庁が出動して、火炎放射器による鎮圧作戦が行われました。
それでも私たちの国は、立ち止まることなく走り続けたのです。
さて、20年たちましたね。
ここに並んでいますが、印象的なことは何ですか?やっぱり前年に東京オリンピックがあって、次の年には大阪で万博をやることが70年にやることが決定したというのが、前に進もう前に進もうという東京の次は大阪でという感じがしますね。
よく出てくる日韓基本条約というのはここで、だから今年50年。
で、急いだんでしょう。
急いだというか、とにかく50年の記念の年にとにかく決着させたいという両国の首脳の意思が強かったと思います。
文革大革命、ここでは取り上げませんが中国では大変なことが起こっていて大変なニュースでした、毎日毎日。
これがどうなっていくかということでございましたが。
1960年代後半になりますね。
この時代は経済発展の中で生まれた矛盾が激化していく時代なんですが一体私たちの周りで何が起こったんでしょうか。
1966年、吉永さんが通っていた早稲田大学では授業料アップを阻止すべく学生たちが大学を占拠。
半年にわたり警官隊との衝突を繰り返しました。
学生たちのいろいろストライキもありましたしみんな、各ブントというんですか、そういうので皆さんが行動してましたね。
このとき、どうしてました、学校の方は?学校はもう休校になるから行かないんですよ、ほとんど。
講義ないもんね。
だから近くの喫茶店とかそういうところでみんなで勉強をちょっと教えあったりはしましたけれども。
1968年、吉永さんは「あゝひめゆりの塔」に出演。
太平洋戦争末期に散った沖縄の少女たちの物語でした。
沖縄に行ってビーチで遊ぼうとかそういう気持ちになれないんですね。
すごく申し訳ないな、沖縄の人たちにっていう気持ちがどうしてもとれない。
本当に悲惨な、映画を、4分の1の方が亡くなった沖縄の戦争ですよね。
だから、何かそれを乗り越えてもっといい形で沖縄の方たちと明るい方にいきたいなと思っているんですけど、今またちょっと、とてもつらいですよね。
これか…、これはどういうふうに受け止めてらっしゃった?これはなんかとても悲しく受け止めましたね。
悲しさは、何の悲しさですか?やっぱり最高の学校がこういう形で壊れていってしまうというような思いがしました。
さらに学生運動はエスカレートしますが。
だからこれが出てくるんだ、フォークゲリラ。
これはご存じだった?そんなに詳しくは知らないですね。
だから暴力じゃなくてね歌でもって世の中変えようよみたいな雰囲気があって。
「友よ」っていう歌が、みんなで歌いましたよ。
1970年、大阪で開かれた万国博覧会。
期間中、およそ6400万人を集めたイベントは日本の高度経済成長を強く世界にアピールしました。
戦争で焦土と化した街は四半世紀を経て国際都市の1つへと変貌を遂げたのです。
万博開催に向け、大阪ではインフラの整備が進みました。
地下鉄網も広がり、満を持して開幕の日を迎えます。
合言葉は「人類の進歩と調和」。
けれど大惨事はそれから一月を経ずに起こりました。
4月8日、夕方。
すさまじいガス爆発が繁華街・梅田に近い天神橋6丁目を火の海に変えます。
世に言う、天六ガス爆発事故。
この地下鉄工事は、地中に埋められているガス管をそのままにして掘り進む方法がとられていました。
工事中、地上には分厚い覆工板を敷き車が通行していたのです。
爆発の原因は漏れ出したガスが地下にたまり引火したことでした。
爆風で吹き飛んだ覆工板は1500枚にも及び、死者79人、負傷者400人以上。
インフラもマヒし、都市災害という言葉が生まれました。
万博にパビリオンを構えていたガス会社は一時、公開を中断します。
けれどなぜ、これほどひどい爆発事故になってしまったのか。
あのとき間近に事故を目撃した1人、木田弘正さん。
爆風にのみ込まれ、全治1カ月の重傷を負いました。
記憶は今も鮮やかです。
午後5時15分、木田さんは地中から噴き出す茶色い煙を見ました。
やがて、住民たちも集まってきますそれがガス漏れだとは木田さんを含む誰1人気づきませんでした。
ほどなくガス会社のパトロールカーが到着。
いったん止めたエンジンを再びかけた午後5時39分…噴き出していたガスに引火し、車が炎上します。
その真下に、ガスは充満していました。
一触即発の事態にもかかわらず増していく見物人。
しかも…ガス漏れの発生から32分。
午後5時47分のことでした。
それは突然の大爆発でした。
衝撃で、工事現場に敷かれた1枚重さ400kg近い覆工板がことごとく吹き飛びました。
事態を見守っていた木田さんにも爆風が襲いかかります。
被害が拡大した一因は、煙や炎に無数の見物人が集まってきたこと。
一方で、この天六ガス爆発には世の中のひずみも隠れていました。
事故直後、原因の調査に当たった人物がいます。
当時、消防士長だった瀬尾理さんは爆発の一報を聞き、現場に駆けつけました。
後の調査で瀬尾さんは衝撃を受けます。
直径30cmのガス管はつなぎ目が完全に外れていたのです。
ガスが漏れたのは、ここからでしたすべては、ずさんな地下鉄工事の結果です。
地中に埋められていたガス管は、頼りないワイヤーで宙づりにされていただけ。
地上を走る車の振動が伝わり、ガス管のつなぎ目は、徐々に緩んで外れてしまったのです。
実は、この場所では今回の事故以前にもガス漏れ騒ぎがありました。
そのとき原因が追及されていれば…裁判では、大阪市と工事会社の責任者らに有罪判決が出ています。
都市開発を急ぎ、後回しにされた安全。
時代のひずみは多くの人命を奪いました。
何だろうな、急ぎすぎたかな。
最近、中国とか韓国で起きている安全基準の曖昧さというか、お伝えしたような気が今年もするんですけど。
こうやって見ていると日本も人ごとじゃないというか。
これは70年代ですか。
国がこうなっていくとき何か裏に隠された落とし穴みたいな、これが見えていないんだろうね。
時代としては、戦後復興のまさにピークですよ。
60年代後半から70年代前半。
それがひずみとか、そういうもののツケが来ているというか。
やっぱり急ぐとこういうことが起こるんですかね。
まだまだ続きます。
続いては、バスの事故です。
天六ガス爆発事故の2年前。
岐阜県白川町の国道で起きた観光バスの転落事故も、戦後まれに見る悲劇でした。
豪雨による土石流に押し流され、バスは濁流渦巻く飛騨川へ。
亡くなった乗客・乗員は104人にも上ったのです。
その多くが女性や子ども。
戦後最悪のバス事故にも、高度経済成長の影が落ちていました。
所得も増え、暮らしに余裕ができると、旅行を楽しむ人々が増えました。
バスによる団体旅行にも人気が集まります。
1968年、名古屋の団地住民を対象に、乗鞍岳でご来光を楽しむバスツアーが企画されました。
700人の参加者がバス15台を連ねて出発したのは、8月17日の午後8時。
夜の国道41号を北上します。
バスの運転手だった石川栄吉さんと整備士だった坪井清さん。
後に、8月17日豪雨と呼ばれる集中豪雨で国道41号の脇を流れる飛騨川は増水していました。
白川町で土砂崩れが発生したのは午後11時半過ぎ。
進路をふさがれたバスは名古屋に引き返そうと決めます。
ところが、引き返す途中には既に別の土砂が立ちふさがっていました。
バスが崖から離れて停車します。
石川さんのバスを含む6台が立ち往生すること1時間半。
午前2時11分。
先頭の2台が土石流に押し流されて一瞬で飛騨川に転落。
乗客は一斉に最後尾へ逃れました。
運転席の石川さんが、崖の異変に気づき、豪雨の中、バス2台が飛騨川に転落運転席の石川さんは、崖の異変に気づき、慌ててバスを動かしました。
亡くなったのはバスもろとも濁流にのまれた104人。
女性と子どもが6割を占めていました。
転落した2台のバスは、1台は折れ曲がり1台は500m下流まで流されました。
事故の背景には、道幅を広げるなどの工事が優先された一方で、山肌の安全対策が二の次になっていた現実がありました。
道路管理に問題があったと国を提訴した遺族会に対し裁判所は国の責任を認めます。
事故翌年には、この現場で日本初となる大雨のときの通行規制が始まりました。
例えば雨量規制があった方がよかったなとか、その辺りは今、振り返って思われますか?戦後、生まれ変わった私たちの国は成熟するまでにさらに多くの犠牲者を必要とするのです。
1973年11月29日。
炎は熊本市内のデパートを瞬く間に修羅場へと変えました。
鎮火まで8時間あまり。
命からがら逃げ延びた人は言います。
104人もの死者を出した大惨事。
大洋デパート火災です。
熊本の街もまた、空襲による焼け野原から再出発しました。
終戦から7年。
創業した大洋デパートは復興のシンボルとして人気を誇ります。
けれど、高度経済成長期、続々とライバルのデパートが登場すると増改築を余儀なくされました。
大火災が起きたのは、まさにその頃です。
42年が過ぎた今年11月29日。
始めて慰霊碑に花を手向けた高宮晃裕さん。
あの日、高宮さんは妻と3人の子どもと一緒にデパート7階のレストランにいました。
午後1時15分。
火の手は2階と3階につながる階段に積まれていた段ボール箱から上がります。
たちまち3階全体に広がった炎は、煙とともに、階段やエスカレーターをはい上がりました。
駆けつけた消防隊も炎の勢いに阻まれ2階より先には進めなかったのです。
見上げる窓には、助けを求める人影火元より下の階では従業員たちが商品を運び出していました。
7階のレストランで料理を待っていた高宮さん親子は異変に気づきました。
天井に煙が…店を飛び出した高宮さんは、おしぼりを子どもたちの口に当てさせます。
長女、伸枝さんの記憶。
外からの放水では火の勢いを弱めることができず炎と煙は瞬く間に上の階に迫りました。
一家が目指した階段からも、猛烈な黒煙が上ってきます。
エレベーターホールに殺到する人々。
これで降りるのは危険だと思ったその矢先…混乱の中で、妻と次女がエレベーターに押し込まれてしまったのです。
降下するエレベーターの先には、燃えさかる炎。
人々が殺到し、エレベーターに押し込まれた妻と次女。
高宮さん一家は、離ればなれになってしまいます。
取り残された7階にも、炎と煙が迫りました。
高宮さんは既に足元しか見えないフロアをしがみつく2人の子どもを連れてさまよいます。
かすかな光を目指してたどり着いたのは、屋上へ続く階段でした。
屋上には100人を超える人々がはしご車を待っていました。
中にはロープで降ろされる人も。
JNNのカメラは、高宮さん親子をとらえていました。
長男は消防士の腕の中。
そして長女を背負った高宮さん。
九死に一生を得た高宮さんは、妻と次女の姿を探して途方に暮れます。
次々に運び出される遺体。
絶望に駆られたそのときでした。
2人は、無事だったのです。
妻と次女を乗せたエレベーターは炎を抜けて奇跡的に地上にたどり着いていたのです。
エレベーターが下りたのは、この1回だけでした。
妻、紀美代さんもまた運び出される遺体の中に夫と子どもたちを探していたと言います。
炎を加速させたのは階段に積み上げられていた年末商戦用の商品。
スプリンクラーや防火シャッターが未完成だったことも明らかになりました。
館内放送による避難誘導もなく、炎と煙に追い詰められて犠牲となった104人。
問われたのは消防からの指導にもかかわらず売り上げを優先して防火対策をおろそかにした経営姿勢でした。
高度経済成長期の黄昏に相次いだ戦後最悪の事故は奇跡的だね。
あのエレベーターが火の中をああやって。
あの1回だけだったそうだね。
もうあれで壊れちゃって、あのエレベーターはね。
何だろうね、これは。
でも、廊下というか階段のところに年末商戦のとか、結局儲け優先みたいなところなんですか。
今じゃ考えられないですけど、スプリンクラーとか未完成だった。
一応あることはあったらしいからね。
決まり的にはあったんでしょうね。
だけど何かこういうことを経験して賢くなってますかね、人間は少しはそうだと思います、特にこの時代というのは今ずーっと見てて思うんですけど、大洋デパートってまさに熊本支局が最初の勤務地なんです。
ただ、その勤務地を離れた直後にあの火災なんですけどね何で離れたかというと、公害が全国に広がって公害国会が開かれることになったんですよ。
それについて各新聞社、テレビ局に公害専門記者というのが東京には当時いなかったんですね。
全国の公害を担当している記者がみんな呼び寄せられたっていう、私はたまたま熊本で水俣病とサリドマイドをやっていたので、それで呼ばれてなんと巡り合わせなんですけど、環境省の名付け親にまでなってそれが政治と関わる最初、そういう流れがありましたけど、だからあの頃を考えると本当にそこからは公害の防止の技術とか、あるいは意識とか、企業の感覚とかっていうのは随分変わったなという気はしてます。
次に進めます、雨宮さん。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
続いては戦後30年目の節目、1975年になります。
オイルショックの余波から必死に立ち直ろうとする中希望と不安の交錯する30年となりました。
戦後30年、みんな不安でした。
オイルショックで物価がはね上がり大不況の波が押し寄せたのです。
インフレが加速しました。
重化学工業の勢いは、一気にかげります。
経営に行き詰まる企業が続出。
この年の完全失業者数は戦後初めて、100万人を超えたのです。
そして政府は起死回生の策を打ち出しました。
果たしてそれが正しかったのかどうか。
政府が赤字国債の発行に踏み切ると経済は安定しました。
けれど、その後も発行が繰り返され今年6月、国の借金は1057兆円に達しました。
1975年は借金元年だったのです。
衝撃もありました。
本土復帰から3年。
沖縄海洋博が開かれたこの年、皇太子ご夫妻は初めて沖縄へ。
反対の声も上がる中、ひめゆりの塔へ。
花を捧げようとされたそのときでした…男が投げつけた火炎瓶。
事件の後も、予定どおり戦場跡へ。
お二人は今も沖縄へのご訪問を続けています。
戦後30年がたったということになります。
こちらに主な見出しがありますが恵君は何ですか?1975年ですよね。
74年に長嶋さんが引退なさってるっていう。
おお詳しいね。
僕は10歳だったんで、何となく世の中が変わる感じがしてました。
この頃から。
本上さんはこの辺りでお生まれになった?そうですね、75年。
この頃はそんな時代だったんですよ。
不況になっているときというね。
うれしいニュースもありまして。
例えば、日本女性初のエベレスト登頂ですね。
女性の活躍といえば、こちらも。
全英テニスダブルスで日本人で初めて受賞。
田部井さん今でもお元気だもんね。
第1回サミット開催、フランスのランブイエ、これは日本人にとってえっと驚くと同時に非常にうれしいニュースだったんですね。
アジアで唯一、先進国の仲間入りをしてサミットに初めて参加した。
でもその裏では、欧米の中ですっごいやりとりがあってね、なぜ入れるんだと、日本をというのに対して今から日本がすごく強くなっちゃって世界経済を乱すかもしれないから枠組みの中に閉じ込めるというか、取り込んじゃえという、あれが強くなって入ったという動きがあったんですね。
日本は、逆に経済では目立っていたんですか?ものすごく目立ってた。
世界で。
サミットに入ったというのは、よくわかんない人は鼻高々でしたよね、日本だってよ〜みたいな感じになったんです。
そんな中で、この年表にもあるんですが戦後30年のこの年、昭和天皇が初めて会見を開きました。
1975年。
昭和天皇が初めてアメリカの土を踏みました。
終戦から30年。
このご訪問は、日米友好を強く印象づける出来事になりました。
1945年8月15日、昭和天皇初の肉声が終戦を告げました。
その2年後の貴重なカラー映像が残っています。
昭和天皇の広島巡幸です。
背広姿で現れたかつての現人神。
カメラは、人々の驚きの表情をとらえていました。
天皇が向かったのは爆心地。
原爆で壊滅した広島のまさに中心部でした。
大歓声で迎える人々に昭和天皇はこう言葉をかけられました。
それから28年後。
1975年、広島と原爆をめぐる昭和天皇の発言が大きな波紋を広げることになったのです。
それは、皇居宮殿で行われた記者会見での発言。
昭和天皇にとって初めての記者会見でした。
そもそも天皇に面会がかなうのは担当の記者でも年に1度、那須の御用邸でだけ。
それまでは天皇の言葉を記者がメモすることさえ禁じられていたのです。
その慣例が変わるきっかけが、あの訪米でした。
このとき画期的なことが起きたのです。
それはアメリカメディアによる昭和天皇の単独インタビュー。
宮内庁は、アメリカ人に皇室をよく知ってもらおうと国内では応じたことのない単独会見を相次いで受けたのです。
それを知った国内メディアから、宮内庁に取材申し込みが殺到します。
そこで142のマスコミが加盟する日本記者クラブが記者会見の開催を要請。
宮内庁はついに会見を開くことを決断したのです。
出席を許されたのは50人。
最前列は、宮内庁を担当する記者が占めていました。
激震が走ったのは、ある質問が飛んだときのこと。
それは最後列、49番の席に座る記者が発したものでした。
質問の主は、広島の中国放送、秋信利彦記者。
地方局の記者ですが、たまたま抽選に当たり会見に出席することができたのです。
長年、広島の原爆問題を取材してきた秋信記者は核兵器の非人道性を告発するドキュメンタリーを数多く制作してきました。
母親の胎内で被ばくし、脳や体に障害を持って生まれた原爆小頭症患者。
粘り強い取材でその存在を明らかにしたのも、秋信記者でした。
会見前夜、秋信記者は日本記者クラブを訪ねています。
当時、会見を取り仕切った桂敬一さんはその夜の記者の様子をよく覚えていました。
話とは、翌日の会見のこと。
どうしてもしたい質問があるといいます。
教えてもらったのは関連質問という方法。
そのとき秋信記者が記したメモには自らに言い聞かせるように、こんな言葉が。
当時中学生だった息子の典也さん。
いつもは仕事の話をしない父がこのときだけは口にしたといいます。
そして迎えた昭和天皇初めての記者会見。
会場の空気は張り詰めていました。
段取りどおり進む会見。
果たして原爆の質問などできるのか。
と、そのとき…口火を切ったのは外国メディアに勤める日本人記者でした。
そういう言葉のあやについては私はそういう文学方面はあまり研究もしてないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
タブー視されていた戦争責任についての質問。
会場の空気が一変します。
記者会見場が凍りついた重量級の質問。
それは、広島の思いが詰まったものでした。
この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒であるがやむを得ないことと私は思っています。
秋信記者の取材ノートです。
「やむを得ない」天皇の言葉とともに、その印象が記されています。
非常に率直であった。
昭和天皇の言葉は論議を呼びました。
被ばく者団体からは反発の声。
一方で、急に聞かれて対応できなかったのではと擁護する発言も目立ちました。
後に秋信記者は、あの質問は批判を受けても聞くべき質問だったと語っています。
元新聞記者で後に広島市長を務めた平岡敬さんは、あの質問を高く評価しています。
1989年1月、昭和天皇、崩御。
やむを得ない、その真意を聞けぬまま昭和が終わりを迎えた。
翌日、日本中が追悼ムードに包まれる中広島の中国放送ではやや趣の異なる番組が放送されました。
「天皇とヒロシマ」。
昭和天皇が戦後3回広島を訪れた事実とともに広島の人たちの言葉を伝えたのです。
この番組の責任者が、当時、報道部長だった秋信記者でした。
あのときの記者会見でのやりとりも改めて取り上げています。
やむを得ないことと私は思ってます。
しかし、その言葉への論評はしていません。
それが、秋信記者が貫いた、この天皇の言葉への向き合い方でした。
彼は退職後も原爆小頭症患者の支援を続け、2010年に亡くなりました。
その取材ノートは今、広島の原爆資料館に保管されています。
1人の記者が信念を持って戦後を生き抜いたその証として。
もう本当にご覧になった方々の中にまたいろんな意見、出てきますよねそこで、この秋信さんという人は論評はしないと、聞いた方に任せる、これは記者としてどうなんですか、岸井さん?なかなか難しいですけどね、私は今見てて改めて思いますけれども、大変なこれはニュースになりましたけど偶然じゃないな、つまり日本の戦争についてつまり日本の戦争について戦争責任がどこにあったのというのがまず1つ。
それからあれだけの戦争をどこかで止められなかったのということ。
そのことについてズバッと入っていったというのは、秋信記者の記者魂、これは聞かざるを得ない質問だったと思うんです。
ただ、いろんな目配りをしなければならない、気配りもしなければならない、そしてちょっと最後にありましたけど、天皇は天皇の立場があるんだろうな、その辺を勝手に忖度していいのかなというのがあるんですけど、これは私の取材ですよ、最近、今の天皇陛下が昭和天皇から繰り返し言われて、絶対忘れるなよと言われてきたことが2つあるんです。
1つは、なぜあの戦争を止められなかったのか。
その責任はどこにあるのか。
なぜ政治家は軍部を止められなかったのか。
2つ目が、なぜ広島や長崎で原爆投下されるまでに止められなかったか。
これが昭和天皇の最後まで悔い、後悔なんですね。
そのことを絶対に忘れるなよと言って今の皇太子が伝えてると、その2つと聞いています。
私は聞いてます。
だからそういうことを考えると、やむを得ないという言葉は自分は止められなかった、その後悔の言葉の裏返しかもしれません、その辺は忖度になっちゃいますが。
戦後30年目の節目は1975年です。
アメリカで活躍するある日本の研究者が画期的な発見をします。
今も私たちの命を守っているその発見とは何だったんでしょうか。
竜巻のようなものが発生しています。
どす黒い雲にのびる不気味な渦。
竜巻です。
2015年、日本での観測件数は50件を超えました。
竜巻には、陸上で発生するものと海上で発生するものがあります。
観測される多くが見通しが利く海上での竜巻です。
継続時間が短いため映像に残すことが難しく、研究もたやすくはありません。
局地的な現象ですが、時に風速は100mを超えます。
文字どおり、たたきつけるような風強烈な風は家屋を吹き飛ばす力さえあるのです。
飛んできたのは、屋根の一部でしょうか。
そのすさまじい破壊力。
ほら、家飛んじゃったよ。
やはり異常気象の影響か、このところ、私たちの生活を脅かす竜巻が多発しています。
原爆投下直後の広島。
激しい火災によって発生した上昇気流が川の水を吸い上げました。
ビデオカメラなどない時代、その恐怖は絵で伝えるしかなかったのです。
TBSに残る竜巻の映像は、最も古いものでも1990年。
けれど、撮影自体も難しい竜巻にいち早く挑んだ日本生まれの研究者がいました。
彼の名は今、広く世界に知られています。
アメリカ映画「ツイスター」。
ある夫婦が巨大な竜巻に接近しメカニズムを解き明かそうとする物語は迫真の映像で話題を呼びました。
その中に…映画に登場した藤田スケールは竜巻の研究者、藤田哲也さんの名前にちなんでいます。
1920年、福岡県に生まれた藤田さんは現在の九州工業大学を卒業。
その後、アメリカに渡りました。
そこは、竜巻の本場。
年間1200を超える発生件数は世界のおよそ8割にも達します。
けれど当時は、発生数だけが注目され個々の威力については問題にされていませんでした。
藤田スケールは、竜巻の強さをF0からF5まで6段階に分類しその風速を推定するものです。
これによって、竜巻対策は大きく進歩しました。
F1では、屋根瓦が飛びガラス窓が割れる。
F2になると、屋根がはぎ取られ大木が倒れる。
日本で観測された最大規模の竜巻はF3。
夜中に発生し、死者1人を出した千葉県茂原市のケースや、工事の作業員9人が亡くなった北海道佐呂間町のケースなどです。
竜巻の上の雲を探るため飛行機からの撮影も行った藤田さん。
巨大な竜巻には小さな竜巻が幾つも潜みそれぞれが渦を巻いて襲ってくることも解明し世界の竜巻博士と呼ばれたのです。
その竜巻博士がさらなる発見を成し遂げるのは1975年。
ニューヨーク・ケネディ空港で起きた航空機事故。
着陸直前だったイースタン航空66便が突然墜落し、乗客・乗員113人が犠牲となりました。
政府関係者は、パイロットの操縦ミスが原因だと指摘。
これを不服としたイースタン航空が藤田さんに調査を依頼します。
事故機の記録などをもとに、藤田さんは飛行機がたどった航跡を明らかにしました。
青の点線は通常の航跡ですが、事故機は、波打つように降下したことがわかります。
各ポイントの矢印は風向きと風速。
着陸直前に向かい風で持ち上げられそうになった後、機体には、上から押しつけられるような風が吹きつけていました。
藤田さんはこの風こそが墜落原因だと分析したのです。
竜巻と同じように、発達した積乱雲が起こす突風、ダウンバースト。
渦巻く上昇気流で地上のものが吸い上げられる竜巻とは逆にダウンバーストは強い下降気流が真上からたたきつけてきます。
地上で放射状に広がる風は竜巻に匹敵する破壊力があるのです。
このダウンバーストに突っ込んだ66便は向かい風にいったん浮き上がりそうになり慌てて機首を下げ、降下を続けますところが、今度は強烈な下降気流によって滑走路にたたきつけられたのです。
ダウンバーストによる航空機事故は日本でも起きています。
1993年、岩手・花巻空港でダウンバーストに遭遇した日本エアシステム451便。
滑走路に接触した期待は炎上・大破して58人の負傷者を出しました。
目に見えない恐怖、ダウンバーストそのリスクを藤田さんから直接教えられたのは元パイロット、上田恒夫さんです。
藤田さんの提案で、今、国内9つの主要空港にはダウンバーストを予測する気象レーダーが設置されています。
このレーダーによって、パイロットは危険を回避できるようになったのです。
1998年に世を去った藤田さん。
その研究は、世界の空の安全に大きく貢献しました。
スタジオでも、竜巻が起こるという…。
こちら今、円盤の中心にお湯を入れてその中に大量のドライアイスを投入しました。
ドライアイスが溶けて、この白い煙のような、雲海のような蒸気が足元に広がっているわけですが、それでは、早速いきますよ。
竜巻発生スイッチ、オン!この足元に広がっていた蒸気が徐々に徐々に回転をしていって今度は上へ上へと立ち上っているわけなんですけど。
無事に竜巻が再現できました。
こうなるものなのか。
上のプロペラが高速回転することによって上昇気流が発生しているんですね。
ですから、実際の竜巻の場合も積乱雲に伴って上昇気流が発生してこの空気の渦が徐々に上に上がっていってそれが竜巻となっているんですよ。
上昇気流なんだ。
すごいですね。
2mぐらい高さがありますね。
竜巻博士の藤田さんもこういったマシンをつくって実際に研究をされていたわけなんですけれども、ただ、今のこの時代でも竜巻の発生のメカニズムというのはまだまだわからないことが多くて、ですから今後の大きな研究課題となりそうなんです。
お見事、お見事!こんなうまくいくとは思わなかった。
すごい上昇気流なんですね。
お天気に詳しいじゃないか。
いや僕詳しくないですよ。
やたらお天気をやってるじゃない?やってます、やってます。
初めて見ました。
ただ最近、ここ2〜3年かな、藤田スケールってよく使われるようになってる。
日本も竜巻が多くなってる。
大したもんね。
すごいですね、これを生でやってしまうというのがすごいよね。
これ、研究してる道具でしょ、それをお借りしてきたわけですね。
まだまだこれから研究の余地もありそうですね。
ありがとうございました、次いきましょう。
1976年になります。
ソ連の戦闘機が突然、許可もなく日本の飛行場に着陸しました。
国内は騒然とします。
そのとき、政府が直面した深刻な危機をご覧ください。
今年9月、野党の強い反対で国会が混乱する中、成立した安全保障関連法。
その審議の中で、自衛隊を選挙で選ばれた政治家が統制するというシビリアンコントロールも議論となりました。
このシビリアン・コントロールが大きく揺らいだ出来事があります。
一触即発の事態が起きたのは39年前でした。
1976年9月6日。
正体不明の戦闘機1機が北海道函館上空に飛来。
爆音をとどろかせて函館空港に着陸しました。
灰色の機体には、赤い星。
ミグ25と呼ばれる、当時ソ連軍の最新鋭戦闘機です。
着陸直後、空に向かってピストルを撃ったのはソ連軍のパイロット、ビクトル・ベレンコ中尉でした。
米ソ冷戦下、ベレンコ中尉が望んだアメリカへの亡命はすぐに認められます。
置き去りにされたミグ25はシビリアン・コントロールが問われる危機的な事態を招きました。
当時、自衛隊で部隊運用の法律分野を担当していた大小田八尋さんは…終戦と同時に武装解除された日本に自衛隊が発足したのは9年後でした。
専守防衛を掲げる自衛隊は、シビリアン・コントロールのもと出動にも厳格な手続を必要としたのです。
あのとき函館は緊張に包まれていました。
ソ連がミグを奪い返しに来るのではないか。
事実、北海道周辺に識別不明機が頻繁に出没。
日本漁船のだ捕も相次ぎます。
そして、恐るべき情報がもたらされました。
アメリカからの極めて信頼性の高いA1情報でした。
1機の戦闘機をめぐってソ連と戦争か。
しかし自衛隊は武器や戦闘の準備にも手続を待たなければなりません。
防衛出動待機命令です。
これは防衛大臣が総理の承認を得た上で文書により発令されるもの。
さらに武力行使に当たっては文書による総理の防衛出動命令が必要です。
ところが…このとき永田町は全く次元の違う戦争の最中でした。
三木おろしの逆風は時の三木武夫総理を攻め立て7割を超える国会議員が退陣を求めます。
田中角栄前総理を逮捕にまで追い込んだロッキード事件。
三木総理による責任追及に対して田中派を中心とした反対勢力が結束を固めていたのです。
三木総理の側近として激烈な三木おろしを見ていた秘書官、中村慶一郎さんは言います。
一刻も早い命令を待つ自衛隊は沈黙する政府にじれていました。
この時代、陸・海・空の自衛隊の間にも溝がありました。
陸上自衛隊のトップは、すぐにでも総理から命令が出ると信じ敵が函館空港に侵入したら迎撃するよう口頭で指示を出したと言います。
指示を受け、自衛隊函館駐屯地では一気に緊張が高まりました。
全隊員700人あまりが泊まり込みで勤務につきます。
いつでも使えるように弾薬が配備され隊員は戦闘服にブーツで眠りました。
第3中隊を束ねる大北太一郎中隊長。
隊員たちを集めてげきを飛ばしました。
中隊長の言葉に応え、誰もが足を踏み出しました。
その夜、函館駐屯地には空からの攻撃に備えるL90高射機関砲が運び込まれました。
陸上での戦闘を想定して当時、主力だった61式戦車も2両、配備されていたのです。
同じ日、片や永田町の政治家たちは三木おろしに躍起になっていました。
紛糾した閣議は5時間に及び三木総理と退陣を求める反対派が鋭く対立するばかり。
ミグについて議論されることはなかったのです。
翌日、函館駐屯地に響きわたったのは非常呼集のアナウンスでした。
函館南西沖200kmを識別不明機が接近中。
ついにソ連軍がミグを取り返しにきた。
いや、破壊ではないか。
第3中隊は出動態勢を整え、戦車2両を従えた車列が正門を目指します。
シビリアン・コントロールが機能しないまま出撃態勢が整えられたのです。
正門前では、およそ100人の隊員が今や遅しと出撃命令を待っていました。
駐屯地に設置された高射機関砲にも接近する識別不明機を迎撃するため弾薬が装填されます。
レーダー上の3機は今や距離5000mに迫ってきました。
高射砲の隊員が双眼鏡に機影を確認。
識別不明機が射程距離に入るまで、あとわずか。
高射機関砲はまず弾道を光の筋で知らせるえい光弾を発射。
光の軌道で実弾の方向を確認するためです。
自衛隊の歴史始まって以来の敵機攻撃。
ついに、発射ボタンに手がかけられた、その時でした。
近づいてくる3機は、なんと航空自衛隊の輸送機だったのです。
連携を欠く陸上自衛隊と航空自衛隊がそれぞれ独自にソ連への対応を準備した結果の一触即発。
しかも、それは総理の命令もないまま行われた事実上の防衛出動だったのです。
同じ日、永田町の三木おろしはようやく収束しようとしていました。
解散の見送りを条件に三木総理の続投が決まります。
シビリアン・コントロールについて議論されることは最後までありませんでした。
ベレンコ中尉が置き去りにしたミグ25は、2カ月後、ソ連に返還されました。
この年の12月、総選挙の大敗を受けて三木内閣は退陣。
自衛隊では、一連の出来事を後世に伝えるため事件記録の作成に着手しました。
ところが防衛庁からの命令ですべての資料が焼却処分となったのです。
自衛隊の公式記録は事実上の防衛出動には一切触れず代わりに、わずか2行で、こう記しています。
誰が見ても、いいんですか、こんなことでと言いたくなるでしょう。
本当ですよね、許されることじゃない。
岸井さんも政治の方で忙しかったんじゃない?両方です、あのね、まさかここまで一触即発の寸前までいっててシビリアン・コントロールなしでいっちゃうかもしれない、ひょっとしたら戦争始まったかもしれないんですよ。
そんな状況になってたとは全く当時は思わなかったですね。
直前まで私、今の防衛省、防衛庁担当だったんですよ、それが次のロッキード事件と三木おろしの方に一気に変わっちゃったんです、担当が。
そういう中でしたけど。
しかも記録廃棄ですよ。
とんでもないことですよね。
そういう大変なことが一瞬でもあったってことがやはり記録に残さないと。
シビリアン・コントロールの重要性はそこにあるわけですよね。
やっぱり自衛隊はそうですよ、何か攻めてきたら戦わなければならない任務があるからやっちゃうんだろうけど、それは誰が判断するんですかってことですよ。
すごいですよね、この記録は、この取材も。
あの当時、ソビエトのミグ、あれが来たっていうんで見たい見たいって人がいてだから隠すでしよ、見せないように最後どうするんだ?と言っていたんですよ。
結局、返した?返しました。
それでよかったかな?アメリカが持ってっちゃうんじゃないのって言う人もいた。
もっと言う人は、いろんなことが謀略的になるんですけどちょうど日本の政治が大混乱で一番混乱してるときでしょう。
アメリカとソ連が両方、日本の政治を試したという説がある。
そのぐらいのことをやられてもおかしくない。
それに関する取材を私、アメリカ側から受けたことがあった、当時。
怖いですよ、これ。
願わくばこういうことが今後、増えないでもらいたいと思いますよ。
事実を明らかにしてほしいですね、改めて。
起こったことはね。
まだまだ緊迫したものが続くんですが、空前の反映となる80年代を目前にして日本を震撼させるある事故が起きました。
日本坂トンネル火災です。
JNNのスクープ映像をご覧ください。
1979年、高速道路から煙が。
日本の大動脈、東名高速を2カ月間マヒさせた高速道路史上最悪のトンネル火災の発生でした。
その直後、現場の最前線に向かった1人のカメラマンがいました。
ぬかるんだ道で車を押す男たち。
終戦直後の日本ではこんな光景が至るところで見られました。
当時の日本の大動脈、国道1号でさえ舗装されていたのは、ほんの一部。
1956年、アメリカの調査団は、こう酷評しています。
それからおよそ10年後の国道1号です。
舗装こそ進んだものの経済成長とともに車が増え、渋滞と事故が慢性化していました。
今なら6時間の東京−大阪が3日がかり。
新たな大動脈の建設は国民の悲願となっていました。
1968年、ついに東名高速道路が開通します。
夢の高速の誕生にこの祝福ムード。
ノンストップで時速100kmというハイウェー時代の幕開けでした。
このとき、開通式の模様を撮影した静岡放送の松永信夫カメラマン。
まだ入社2年目でした。
しかし、夢のような開通式から11年後、悪夢のような事故に遭遇したのです。
始まりは1本の無線。
取材を終え、テレビ局に戻る途中に飛び込んできました。
現場は静岡市と焼津市にまたがる日本坂トンネルの下り線。
全長2kmの東名高速一長いトンネルは日本の大動脈の心臓部です。
その中から大量の煙が噴き出していました。
内部はどうなっているのか、消防隊さえ足止めを食う中、松永カメラマンには、ある確信が。
松永カメラマンが確信したとおり煙はトンネルの東側へ流れ出していました。
一方、トンネルの西側…煙は見えません。
ここからなら行けるはず。
風向きを熟知していた松永カメラマン。
西側からなら入れると踏んだのです。
しかし、決死の覚悟でトンネルの中へ。
東名高速日本坂トンネルの火災事故。
松永カメラマンが飛び込んだトンネルの中は、まさに灼熱地獄でした命がけの消火作業にもかかわらず、燃えさかる炎。
そのカメラがとらえたのは、中まで焼け焦げた乗用車。
その上に、トラックが乗り上げています。
火災の原因はこれら6台の車による玉突き事故。
事故の衝撃とガソリン火災で7人が亡くなりました。
さらに、一時1000度にまで達した炎は事故に気づかず進入した後続車両を次々と襲います。
ドライバーが脱出した後、なんと173台もの車が全焼したのです。
トンネルから引き出された大量の車は高速道路の上に何週間も放置されました。
完全復旧までの2カ月間、一般道路は連日の大渋滞。
これにより、全国の物流がマヒしたのです。
焼き尽くされたトンネル。
なぜこれほどに被害が広がったのか。
松永カメラマンは、その原因の一端をとらえていました。
スプリンクラーの水がわずかしか出ていなかったのです。
これがきっかけとなり、スプリンクラーは大幅に改良されました。
あの火災から36年、日本坂トンネルでは事故に対応する実戦さながらの訓練が今も続けられています。
さらに、トンネルの手前には高速道路初の信号機。
異常を知らせる情報板も増やされ全国のモデルケースとなっています。
事故が残した最大の教訓です。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
戦後40年目の節目、続いては1985年です。
あの事故が日本中に衝撃を与えました。
これだ、御巣鷹だ。
これはね、やっぱり九ちゃんが亡くなってますからね。
まあ九ちゃんだけじゃないんですけど、本当につらい、つらい事故でしたね戦後40年、みんな模索していました。
行政改革を断行した中曽根総理は戦後の総理として初めて靖国神社に公式参拝。
中国で起きたのは、反日デモ。
総理の靖国参拝は日中関係の緊張を生むようになります。
新たな躍進もありました。
つくばで開かれた科学万博の目玉は日本の半導体などハイテク技術です。
コンピュータも普及。
この年、日本語入力が可能になると多くの企業が一斉に導入を始めます。
民営化されたNTTは日本初の携帯電話、ショルダーホンを発売。
重さ3kg、通話料は1分100円でした。
1985年は現在の当たり前が世に出始めた年です。
浮かれる人も少なくはありませんでした。
円安を背景にして、日本の自動車や家電がアメリカを席巻します。
すると、ニューヨークのプラザホテルに集まった先進国の財務相らが円高ドル安を導く政策を決定。
いわゆるプラザ合意です。
急激な円高は輸出産業に大打撃を与えました。
そこで政府は、低金利政策を打ち出します。
資金調達がたやすくなったことでたちまち土地や株への投資が殺到。
地価や株価の高騰が始まりました。
そう、翌年からバブルの時代がやってきたのです。
だんだんお二人さんも我々の中へ。
つい最近な感じもし始めましたよ。
本上さんもね?そうですね、見慣れた映像です。
とは言っても、私、まだ10歳だったんですね。
なので、テレビでニュースを見たりしてたんですけど、一番恩恵を受けたのは、バブルではなくて阪神タイガースの日本一です。
私、関西なんですけれども、担任の先生がものすごい阪神ファンで、日本一になったら宿題1カ月なしにするってもうみんなでものすごい応援して、無事に日本一になり、無事に1カ月、宿題がなく。
ヤマネ先生。
ただ、岸井さん、私たちはこの頃、パソコンっていうのがだんだん進化して。
そのとき見下してたんですよ、ゲームだろ、どうせなんて言ってやらなかったの。
置いてかれちゃった。
もう遅いですね。
今不可欠なものでしょう。
スマートフォンなんて、まさにね。
しまったなと思って。
戦後40年の節目を過ぎた翌年になります。
ついに日本はバブルに突入します。
いびつな時代の始まりでした。
話し込んできまして、だんだんビルに明かりがついて。
きれいですね。
なんか日本じゃないみたい。
白いもの、そうですかね。
1986年、前年のプラザ合意による金融緩和の影響で株価が高騰。
狂乱の季節がやってきます。
この頃からかな、バブルが始まったんです、日本は。
あ、バブルが始まる、そうなんですか。
やれいけ、それいけで。
何かね、あんまりそういうことと縁がなく私はじけても、始まっても、何か普通に淡々と生きてるかもしれないですね。
東京・新宿の一角にある住宅街。
一見、普通の街のようですが…実は、商業ビルの屋上にあるのです地上10mの不思議な町。
生んだのは、あのバブル景気でした終戦直後の東京証券取引所。
当時、この建物はGHQに接収されていました。
取引が再開されたのは、4年後。
初日の平均株価の終値は176円21銭でした。
それが1980年代の後半、200倍以上にはね上がったのです。
実体よりはるかに膨らんだ泡のような好景気。
バブルの到来でした。
1986年10月、日本各地に長い行列が。
彼らのお目当ては、これ。
これ、天皇在位60年の記念金貨。
1枚10万円。
東京の北新宿にも長蛇の列。
その数、なんと2万5000人。
こちらのお目当ては、マンションです。
1戸6000万円台の物件に、買い手が殺到しました。
誰もが土地の値段は上がり続けると信じていました。
当時、世間を騒がせた言葉があります。
地上げ。
本来、都市の再開発などのために土地を買収して回ることを言います。
しかし、バブルの時代、地上げ屋は暴力団と組みどう喝まがいのやり方で住民に立ち退きを迫る事件も起きました。
地上げに翻弄された人がいました。
三輪健治さんです。
三輪さんが暮らしているのは9月にできたばかりの新居。
実は三輪さん、この屋上の町の住人なのです。
バブルさえなければ今も地面に足をつけて暮らしていたはずでした。
新宿の中心部という好立地ゆえに地上げ屋に狙い撃ちされた富久町。
バブル時代には地上げの象徴と言われました。
その一角で電器店を営んでいた三輪さん。
当時をこう振り返ります。
250軒以上あった住宅が半分以下の120軒に…まるで嵐のようでした。
地上げで住民の6割が消えた新宿区富久町。
しかし、間もなくバブルが崩壊、町の時間は虫食いのまま止まります。
空き家の不法占拠に放火騒ぎ。
このままではゴーストタウンになってしまう。
危機感を募らせた住民たちは、ついに立ち上がります。
専門家の協力を得て、虫食いだった土地を1つにまとめることにしたのです。
探ったのは、持ち出しゼロで住み替える道。
そして今年9月、ようやく完成したのが…55階建ての高層マンションとあの屋上の町でした。
住民たちは持っていた土地を同じ評価額の新居と交換したのです。
バブルとは何だったのか。
地上げの象徴といわれた街が30年の歳月を費やし、たどり着いた姿です。
新生JRだ、小百合さん42歳ですそんな、全部、年で言わないでくださいよ。
計算しやすいんですよ。
僕ら国鉄がなくなるとちょっと寂しかったです。
国鉄ね、言ってましたね。
国鉄って言えなくなることが寂しかった。
JRイーストですもんね。
あっ、代わります、昭和から平成。
どんな感じがしました?やっぱり新しい時代に動いていくってことだと思いましたね。
この頃、バブル絶頂期になるんです株価が3万8900円台に乗せる。
私、株って1株も持ったことないです。
あら、そう。
あまり自分でいいことをしているようには思わないんだ、株を持つっていうことに。
いや、そういう余裕もないし、ただ、株に一生懸命になっている人が仕事をおろそかにしていることを見たことあるから、ちょっと怖いなって。
そんな午前中、撮影しててちょっとすいませんと10時頃出かけて行って見たりなんかする方いらっしゃるじゃないですか。
あれはないわと思いますよ。
いましたよ、そういう人。
私も何人も知ってます。
誰だか気になりますね、撮影を抜け出してって。
しかしね、もうお二人はバブルがおかしい状態になってるのはご存じ?子どもなので、特に何も恩恵は…。
あんまりピンとはきてない?僕は子どもじゃなかったですけど、世の中が大騒ぎという感じはありました。
皆さん、実感してください。
そうですね、こちらにバブルはどういう時代だったかってことでグラフをご用意しました。
銀座5丁目鳩居堂の路線価。
30年連続日本一と。
鳩居堂、ご存じですよね。
1平方ですから、このぐらいですよ1坪ないんですよ。
1坪になると、1億になっちゃう。
どうします?多分ね、1億出しても商売にはならない、それに上に乗せないと商売にならない。
そんな時代を私たちはね。
80年代後半がバブルがバーッと行くでしょう。
私はものすごく記憶してるのは80年代前半は日本人が海外でバブルだったんです。
すっごい評判だった。
日本人のバブルぶり、爆買いが。
例えばね、アメリカでニュースになっちゃったんですけどね、ティファニーのショーケース、日本人が入ってくると、その端から端までって。
そういうのとか、エンパイアステートビルを買いたいって不動産屋さんがいたり、ニュースあったですね。
有名なビルとか、映画会社とか。
ハワイの土地とかね。
ハワイはホテル、ほとんどワイキキは日本人が買っちゃった。
それが80年代前半なんですよ。
映画に出てくるテレビが全部日本製だったりとか、そういう印象ですよね。
でもね、おもしろい一面もありましたけど、これはやめた方がいい、二度とやらない方がいい。
では、次。
この番組では戦後70年の歩みを検証していますが、その検証していく中でスタッフはあることに気がつきました。
というのはですね、ビッグニュースが時に同じ日に起こってしまうんですね。
そういうことってありますか、皆さん?いや、むしろ、そういうことの方が多い気がしますね。
大きいニュースは同じ日に起きる気がしますね。
実はそういうのをまとめてみたんですがテレビ局が大変という一日です。
混乱した現場をご覧ください。
1963年11月9日。
三井三池炭鉱で炭塵爆発事故が起きたのは午後3時12分でした。
その日、午後9時51分。
横浜市鶴見区で貨物列車による多重追突事故発生。
同じ日の大事故で600人あまりが命を落としました。
1972年11月6日。
福井県・北陸トンネルを走行中の列車で火災事故。
犠牲者30人。
その日、羽田−福岡の日航機が浜松上空でハイジャックされています。
キューバへの亡命を望んだ犯人は羽田に戻ったところを逮捕。
同じ日に起きた2つの大ニュース。
テレビの速報性は容赦ない現実をリアルに伝えてきました。
1993年8月6日も…1993年8月6日。
55年体制と呼ばれた自民党の一党支配が終えん。
細川連立政権発足の歴史的瞬間が生放送の報道特別番組で刻々と伝えられていました。
初の女性議長は土井たか子議員。
総理指名の選挙が始まった直後でした。
飛び込んできたのは鹿児島で土石流発生の一報。
中継がつながったのは12分後でした。
大規模災害が起きる気配。
夕方からの集中豪雨で市内の広範囲が冠水していました。
住民たちが各地から助けを求めてきます。
同じ頃、国会も混乱していました。
一部議員の投票漏れが判明し指名選挙はやり直し。
報道特別番組はすかさず鹿児島の水害を伝えます。
中継映像を送り出す南日本放送も浸水の危機にさらされていました。
電気室が水没すれば放送が止まります。
懸命に水をかき出すスタッフ。
テレビが速報を伝える一方でラジオでは安否情報を流し続けました。
当時、鹿児島地方気象台の予報課長だった前田一郎さん。
水没した車から流れ出たと思うんですがガソリンのにおいもしてました。
この日夕方、既に竜ヶ水地区では土砂崩れで道路が寸断されていたのです。
視聴者のカメラは、孤立した人々の姿も記録していました。
陸の孤島となった竜ヶ水地区に船で向かった記者がいます。
相次ぐ土砂崩れで陸の孤島となった鹿児島・竜ヶ水地区。
漁船で現地を目指した南日本放送の記者は目の前の光景に驚愕します。
陸地の上から手を振っている人が見えて、そのなんで手を振ってるのかも、まずわからなかったです。
誰もが青ざめた顔をしていました。
諏訪園記者は、乗ってきた漁船を提供して人々を沖合のフェリーへ。
まさに、その頃…総理指名の選挙開始から3時間を経てようやく細川新政権誕生。
日付が変わろうとする午後11時半過ぎ、半ば水没した南日本放送からは新たな取材班が出発。
危機を伝える特別番組を未明まで続けたのです。
翌朝、被害の全貌が徐々に明らかになりました。
死者・行方不明者49人を出した大水害と歴史的政権交代。
今振り返れば、同じ日に起きたこの2つの大ニュースは、政治の迷走と多発する自然災害の予兆だったのかもしれません。
恵君、鹿児島だよ。
いなかったんでしょう?いなかったです。
でも南日本放送は何度かお邪魔させてもらってるんですが隣にすぐ川が流れていて川の横なんで、川の水がすごく氾濫するとああいうことは想像はできましたが。
あの近くなんですか?僕自身の家もすぐそばです。
親戚その他は?被害は出てないです。
こういうことがあると、本上さん、2つ重なるとどっち見たくなります?テレビ見てる人として。
やはり生命の危機っていうの、ちょっとね。
政治は後から話聞きゃいいよって、鹿児島を伝えてくれよと、僕は確かそう思って見ていた。
ただ先ほども出てきましたけど55年体制、自民党一党体制が始まったのも歴史的でしたけど、それが40年近く続いてきたのが壊れたんです、この日。
戦後の政治史のうちの一番大きなトピックがこの日なんですよ。
大ニュースなんですね。
だけど、その後、今、数えてみたんですが宮沢、細川から始まって22年間で15人目なんです、今の安倍総理。
そのうち5年半、小泉さんがやってるんです。
それを聞くと、総理大臣1人1年。
あの日以来、経済も政治も大混迷がずっと、一度も日本は豊かになっていないんですよ。
混乱続きですね。
続けましょう。
JNNのカメラは日本全国であらゆる映像を撮り続けているんですが中にはびっくりするような映像もあります。
今回は動物でまとめてみました。
1959年、札幌のサーカス小屋から出火。
観客が逃げまどう中、ゾウのユウ子さんも外へ飛び出しました。
火事と象で大混乱です。
いずこともなく走り去ったユウ子さん。
転がり込んだ先は、民家でした。
車が突っ込んだようなありさま。
お茶の間もメチャクチャです。
しばらくしてようやくお縄となりました。
ユウ子さんもほっと一息。
熊本の郵便配達員が遭遇したのは…キジ。
エサが気に入ったのか、やけになつくキジ。
でも…1人と1羽の、ちょっぴり痛い友情でした。
なぜか採石場に迷い込んだカモシカの子。
急斜面に一歩踏み出した、そのとき…危機一髪、雪がクッションとなりました。
犬のももちゃんの特技はなんと二足歩行。
散歩はいつもこんな感じ。
最高3kmはいけるとか。
自分は人間だと思っているのかもしれません。
早朝の住宅地が騒然。
なんと子グマです。
必死に木にしがみつく子グマと何とか振り落とそうとする警察官。
そして…罪状は、近隣住民への危険罪と警察もユーモアたっぷり。
臭い飯を食べて、翌日釈放されました。
山口県宇部市の中学校になぜかたびたびやってくる1羽のペリカン。
生徒たちともすっかり仲良し。
まるで監督のようです。
キャッチボールも、お見事。
こちらは近くの幼稚園。
園児たちとも息ぴったりです。
市内の公園で放し飼いになっているペリカン。
ちょっとした地元のアイドルなのです。
京都の鴨川、上空に現れたのは…人の食べ物を奪う、空の無法者。
正体は、トビ。
餌付けされ、人間の食べ物に味をしめたようです。
瀬戸内海の鹿久居島と頭島が念願の橋でつながれて9年がたった頃。
夜、橋を渡ってやってくるのは…瀬戸内海の鹿久居島と頭島を結んだ念願の橋。
その立派な橋を渡って、夜ごと、頭島にやってくるのは、なんとシカの群れ。
目当ては頭島の農作物。
満腹になって帰っていくシカ。
頭島では、せめてもの抵抗かこんな看板をつくりました。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
戦後50年、半世紀に当たる1995年はまさに大きな時代の節目となりました。
これはショックだった。
先に私の感想言ってしまいましたが。
そうですね、本当に高速が落ちてたり、そういうの、それこそ、朝ですよね、これね。
朝起きてテレビで見て衝撃を受けました。
ただ、やっぱり関東にいるから、本当の悲惨さはわからなかったと思うんですよ。
だけど、高速道路がひっくり返ったりしたのを見たり、ああ、こうなるもんなんだってことがね。
しかも、そこでは地震はあまり起きないだろうというところで起きてるわけですからね。
戦後50年、みんな過去を振り返りました。
日本の総理が初めて公式の場で示した謝罪の言葉。
以来、村山談話は政府の公式見解となりました。
一方で未来への予感も。
ウィンドウズ95の発売がまだなじみの薄かったインターネットへの接続をたやすくしいよいよネット時代の幕が上がります。
パソコンは一気に一般家庭にも広がりました。
キーボードに困惑していたお父さんも興味津々です。
けれど若者たちは、あえいでいました。
バブル崩壊から4年、日本経済は不況の底。
円高が進み、輸出企業は採算が悪化大手企業も人員削減に走ります。
しわ寄せは就職を控えた若者たちに向かいました。
大卒の就職率、67.1%は当時としては最低です。
確かだった何かが、音を立てて崩れ出していました。
1995年3月20日。
死者13人、重軽傷者6300人近くを出した地下鉄サリン事件。
地下鉄の車内にまかれたのは猛毒サリンでした。
化学兵器による無差別テロが首都・東京の朝を襲ったのです。
麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、オウム真理教教祖としてこの犯罪を指図しました。
私たちが入手した1本のカセットテープ。
そこに記録された声は日本の安全神話を崩壊させた戦慄の朝を伝えています。
今から20年前、首都・東京で起きた地下鉄サリン事件は世界を震撼させました。
終戦翌年からの犯罪認知件数を調べるとサリン事件発生の1995年以降件数は急増しています。
この年を境に日本の安全神話は崩れたのです。
オウム真理教が狙ったのは中央官庁や警視庁、裁判所などが集中する東京・霞が関でした。
実行犯たちは、霞ヶ関駅に乗り入れる地下鉄、千代田線、丸ノ内線、日比谷線の5つの車両に猛毒サリンをまいたのです。
カセットテープには、事件発生直後の混乱を生々しく物語る警察無線が録音されていました。
最も被害が大きかったのは日比谷線の2つの車両でした。
午前7時43分、北千住駅発の車両に上野駅で乗車した実行犯。
新聞紙に包んだサリンの袋を傘で刺し秋葉原駅で下車します。
異変に気づいた乗客が次の小伝馬町駅で袋を外に蹴り出しました。
けれど、車内には毒ガスが充満。
4駅先の築地駅で次々に乗客が倒れます。
築地駅周辺は大混乱に陥りました。
一方、午前7時59分、中目黒駅で乗り込んだ実行犯は恵比寿駅で犯行に及びます。
サリンを吸った乗客たちがたまらず飛び出したのは3駅先の神谷町駅でした。
その車両は、サリンの袋を乗せたまま次の霞ヶ関駅で停車します。
事件の朝、警視庁本部で無線を聞いた杉山克之さんは現場鑑識班の1人として直ちに現場に向かいました。
日比谷線で、一体何が起きたのか。
車載無線に耳を澄ませていた杉山さんは最も近い霞ヶ関駅を目指します。
通常、無線装備を持たない鑑識班。
体1つで地下3階のホームへと急ぎました。
でもこのとき無線は、神谷町駅の異様な状況を伝えていたのです。
杉山さんは猛毒サリンのことなど知るよしもなく注意喚起の無線も聞くすべがなかったのです。
車両を確かめようとする杉山さんは全くの無防備でした。
液体が恐ろしい毒物とも知らぬまま車内に飛び込み、換気しようと窓を開け放ちます。
まさにその瞬間の写真が残されていました。
サリンで濡れた床には不審な包み。
杉山さんが包みに使われていた地下鉄サリン事件発生直後、警視庁鑑識課の杉山さんは猛毒が充満する車両で不審な包みに目をとめました。
一刻も早く地上へ。
けれど途中で力尽きます。
運び出してくれたのは同僚でした。
意識を失った杉山さんが病院で目覚めたのは2時間後のことです。
事件の翌月には退院。
山梨県にあったオウム真理教施設の捜索にも加わりました。
実行犯5人の中で、唯一、死刑判決を免れた教団幹部、林郁夫受刑者。
彼の自白で事件解明は大きく進みました。
取り調べをした元刑事、稲冨功さんそのときを鮮明に覚えています。
全面自供で捜査に協力し、無期懲役となった林受刑者。
今年、地下鉄サリン事件で送迎役を務めた高橋克也被告の裁判に出廷しています。
証言に立った林受刑者は突然、切り出しました。
裁判長は、裁判に直接関係のない証言を認めませんでした。
読み上げられなかった林受刑者の言葉。
関係者を通じて、全文を手に入れることができました。
23枚に及ぶ書面は、こう結ばれています。
これはショックだったね。
震災の後、すぐ起こるんだよ、サリンがね。
何か日本中が暗くなったね。
岸井さん。
そうでしたね、ちょうど私、新聞社の政治部長で、年明けからずっと忘れようとしても忘れられない年でしたよね。
大きな時代の転換だとひしひしと感じさせる1年でしたね。
事件も、政治の世界もそうでしたけどね。
本上さんは大阪の方?私は阪神・淡路大震災は実際に体験しています。
何か被害はなかったんですか?当時、住んでいた家の瓦が半分落ちまして。
ただそのときは本当に神戸の被害が甚大だったので、全部そちらの方にいくんですよね。
大阪は助かったという感じがあるのかな?そういう印象もあって、復旧までには時間もかかりましたし。
あと、やはり私、当時仕事をしていたので東京と行き来していたんですが、関西での体験した人たちの心情だったり東京に来たときの温度差にやはり結構開きがあるなとは感じていました。
次、いきますか。
地下鉄サリン事件の6年後、ニューヨークで同時多発テロが起こります。
時代は大きく動いています。
2001年9月11日、世界が忘れ得ぬ日がやってきます。
アルカイダによるアメリカ同時多発テロ。
およそ3000人の死者を出した残虐なテロに誰もが言葉を失いました。
そのとき生放送でご覧になった?ええ、途中から生で見ました。
どんな感じ受けました?ちょっと真実と受け止めがたいというか、大きな映画とか、そういうフィクションの世界のような。
現実として受け止められない。
そう考えてしまいましたね。
これはどういうふうに受け止められた?これはよかった、5人の方が帰ってらして本当によかったと思いましたよ。
だからいろいろあるでしょうけど、こちらからも行って、コンタクトとることが大切なんだとこのとき思いました。
イラク戦争。
結局、これ…。
大量破壊兵器ですね。
これはもうね、ちょっと…、これはやっぱり一番つらい戦争というか、侵攻でしたよね。
実際に住んでいる人たち、イラクの人たちが一番つらい思いをして、悲惨な目に今も遭ってるわけですよね。
これが最近のテロ問題に大きなきっかけをつくっちゃったんじゃないか。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
戦後60年目の節目、2005年です。
小泉政権が劇場型の選挙で選挙の常識を変えました。
戦後60年、みんなという言葉ではもうくくれないかもしれません。
この年、日本人の出生数は過去最低総人口が初めて緩やかに減り始めます。
危ぶまれる未来。
消費税率引き上げが議論されるようになったのです。
あの戦争は、かさぶたを残したままでした。
国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す日本は採択される一歩手前にありました。
国連も、それを明言したのです。
ところが猛反発したのは中国でした。
北京の日本大使館前では1000人規模の反日デモ。
両国の溝は、今も埋まっていません時代の混沌はわかりやすい指導者を求めます。
人はそれを小泉劇場と呼びました。
法案が否決されると…衆議院を解散して、郵政選挙に打って出ます。
反対する議員の選挙区には次々に刺客が送り込まれ…小泉チルドレンなる言葉も生まれました。
演説に長けた劇場の主は人々をひきつけ、選挙でも大勝利をおさめます。
郵政民営化法を成立させた手際はその是非を別として大きな注目を集めました。
この年の流行語大賞も…さあ、大分近くなってきましたね、現代にね。
あちらに60年目戦後、いろんな出来事が書いてありますが、恵さんは何ですか?10年前なんですね。
でもやっぱり今の郵政選挙、印象的でした。
あれ、「ひるおび!」はいつ始まったんだっけ?7年目なんでね。
このときまだ始まってない。
伝えてないです。
選挙のやり方も変わっちゃったですね。
全く変わりましたね。
それから政治の質もガラッと変わっちゃいましたね。
小泉さん、郵政選挙って、郵政民営化に対して反対する議員さんは公認しない、公認しないどころか、対抗馬、刺客を送り込んでつぶすというすごい選挙をやったんですよ。
これは独裁体制づくりですよね。
だから、あれ以来、議員がみんな上の言うことばかり聞くようになった。
これは政治の質を本当に悪くしたんですね。
私は小泉総理にそのとき直接言ったことがあるんですよ。
あれは小選挙区制の一番悪い弊害なんですよ。
小選挙区制を導入するときにマスコミも小選挙区導入に賛成して推進した立場があったんですけどその当時、一番反対してたのは小泉さん。
何でかというと、独裁政治になるから、日本人には絶対向いてないって、必ず独裁政治になるからと、小泉さんがそう言って反対していたの。
だから郵政選挙やったので、私は小泉さんにあなた、あれだけ反対してたのに、あんなことやったと、こんないい制度があるのに使わないバカいるかって言うんですよ。
政治家っていうのはすごい感覚だなって。
それは知っててやった。
それ以来、みんな、ものを言わなくなってしまった。
1つのテーマで解散って行われるんだなって思いましたね。
生活にはいろんなことがあるわけじゃないですか。
郵政の問題だけで総選挙が行われるんだって。
印象的でしたね。
1つに絞っちゃって、それが小泉劇場という、熱狂させちゃったんですよね。
本上さんなんかも政治の方がだんだん変わりつつあるのは感じてました?感じてましたね。
やはり小泉さんの発言力というか、アピールの仕方というのは、これまでの政治家の方とはまるで違っているっていう印象を受けましたし、本当に、見せるのが上手、お芝居というか、エンターテイメントみたいな見せ方をされているのがすごく印象に残ってますね。
政治にポピュリズムを生んでしまうことがあってそこに小選挙区制が重なるとそのときの勢いとか、風に乗って議員が当選していくんですよ。
それがチルドレン現象だったんですよね。
「チルドレン」という言葉がそこから生まれたような気がしますね。
刺客という言葉もありました。
そして日本はこの出来事に衝撃を受けます。
東日本大震災です。
2011年3月11日。
巨大津波と原発事故が日本をぐらりと揺るがしました。
吉永さんが明かしたのは福島への強い思い。
福島の人たちが、まだ10万人以上も2011年3月11日、東日本を襲ったマグニチュード9.0の巨大地震。
そして起きた原発事故は戦後に築き上げた日本の礎を根底から覆しました。
日本人の意識まで…これ、どこにいらした?このとき。
歯の治療をしてて、渋谷で、それで麻酔をして、それがとれて、歩いていたんですよ、渋谷、西武に向かって。
めまいがするような感じだったんでもしかして、この麻酔が悪かったんじゃないかと一瞬思った。
そうしたら両側のお店の人たちがバーッと飛び出してきたんで、あっ、これはそうじゃないんだ、地震なんだと思って。
あのときの地震の大きさっていうのはちょっと半端じゃないと思いました。
初めてだった、東京の人間にとっては。
でも、タクシーももちろん拾えないし、交通機関はダメですから、歩いて家まで帰りましたけど。
それから後に大変な津波が起こってね。
そう、津波、その後知りました。
また、しばらく置いてから原発の事故を知って…。
あれはまだ多くの日本人が引きずってますよ、あのショックは。
忘れちゃいけないことだと思うんですよ。
特にね、福島の人たちがまだ10万人以上も故郷に帰れないでいることを忘れて1億総活躍とか言ってはいけないんじゃないかなっていう気が、本当に、行ったんですよ、帰還困難区域とかに。
そして放射性廃棄物がビニールみたいな大きな袋に包まれて田んぼや畑に置いてあるんですよね。
それはもう、ちょっとどうにもならないくらい、つらい光景でしたね。
原発のことも、みんなで痛みを分かち合わないと私たちは関係ない、私たちは汚染が怖いからとか、そういうことじゃなく、この国に暮らしてる人たちが、もっと考えていかないといけないと思うんですけどね。
大きな津波にのみ込まれた跡がくっきりと残されています。
震災直後の陸前高田市。
変わり果てた市街地にそのビルはありました。
そして、今も。
被災した建物はほとんど解体されましたが、ここだけは持ち主が保存を決めたのです。
陸前高田市で生まれ育った米沢裕一さんです。
ビルを残したのは、あの日を忘れないためでした。
2011年3月11日。
町が巨大津波に襲われた、あの日。
米沢さんが気づいたときにはもう屋上に逃げるしかありませんでした。
さらにその上の煙突のてっぺんへ。
既に津波は煙突の上の縁まで迫っていました。
当時、上空から撮られた映像です。
高さ15mあったビルもわずかにてっぺんが見えるだけ。
津波のただ中に取り残されてしまった米沢さん。
そんな極限状態の中で、カメラを回していました。
屋上に突き出た煙突の上で津波に耐えていた米沢さん。
極限状態で撮った映像がこれです。
この状態で1時間、耐え続けていました。
あと20cm波が高ければどうなっていたことか。
破壊された町。
幸いにも高台へ逃げた妻と子は無事でした。
でも両親と弟は助かりませんでした。
3人が逃げた市の指定避難所、市民会館が津波に沈んだのです。
陸前高田市の死者・行方不明者は1800人を超えました。
この多大な犠牲の陰に1つの盲点があったのです。
戦後0年からしばらくは海沿いの低地に、まだ町はありません。
1960年、三陸をチリ地震津波が襲った直後、高さ5.5mの防潮堤が築かれました。
当時、都市計画に関わった市の元幹部は言います。
その安心感からは市街地が一気に海沿いへと広がったのです。
中心部に建つ店舗ビルを購入した米沢さん。
津波への警戒心は全くありませんでした。
復興が進み、被災した建物が次々と撤去されていきました。
あの市民会館も。
跡形もなく消えていく悲劇を伝えるものたち。
仕事を再開した米沢さんの心の中で津波を忘れてはいけないという思いが膨らんでいきました。
誰かが伝えなければ、また同じ犠牲を払うことになる。
ビルの保存を決めた米沢さん。
語り部の活動も始めます。
伝えるには目に見えるものが一番と考えました。
そんな米沢さんが自分の体験を最も伝えたい人。
娘の多恵ちゃんです。
震災の1カ月前に生まれて今年4歳になりました。
もう津波のこともわかります。
死の恐怖の中、カメラを回したのも多恵ちゃんに伝えたい一心でした。
あの3月11日は多恵ちゃんのお宮参り。
おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に過ごした最後の時間でした。
今年の3月11日、両親と弟の命日この日、この場所で、米沢さんは初めて自分の体験を多恵ちゃんに伝えました。
あのとき必死で上った煙突の上。
ここで津波を思い起こし、記憶を新たにするのです。
しっかり伝えていくために。
今、新しい防潮堤の建設が進んでいます。
高さ12.5m。
でも、それで安心してはいけない。
あえて残したこのビルは未来へ送る、あの日からのメッセージなのです。
本上さんの記憶にある大震災、どういうふうに残ってますか?当日はたまたま自宅に、家族全員いたんですけどやはりまだ娘が小さかったこともあって非常に怖かったですね。
ビルを残すって決めた、あの方の思いも非常によくわかる気がしますね。
僕はこのとき、何か日本が変わるなって感じがしたんですが、残念ながら、また元へ戻りつつあるような気がしてる。
あのとき受けたショックは大きかったですよ、日本人として。
のど元過ぎればとか、記憶が薄れるということになるとしようがないけれど、どう感じますか?改めてこういうVTRを見ると、この震災以前は今日、家族と連絡が取れなくても別に何にも気にしていなかった毎日だったと思うんです。
当たり前のように電車が来て、当たり前のように仕事に向かってた気がするんですけど、この地震以降は心配になりましたね。
何が起きるんだろう、今、誰がどこにいるんだろう、大切な人と連絡がちゃんととれるのかなとか、そういうことを考えるような日常にちょっと変わったような気がしました。
それを本当は大事にしなきゃいけないんでしょうね。
岸井さんどうです?ホントに風化させないために、目に見える形でああやってビルを保存するというのがあるんですけど、でも被災者はそこにあるように生まれ育った土地に戻れない人がこれだけの人がまだまだいるということ。
一番大きいのは放射能の汚染の問題とか事故の問題は目に見えないんですよね。
それだけに非常に深刻だなって。
例えば溶け落ちた、メルトダウンした核燃料棒はどうやって取り出すんですか、日々出てる汚染されたいろんな廃棄物があるんですよ。
これ、どうやって始末するんですかとか、何にも決まっていない。
収束のメドが立っていない、そして今や汚染水が限界に来てるんです。
たまりにたまって。
むしろ状況は非常に深刻になっている、そういう認識が非常に大事ですよね。
来年が丸5年になりますね。
またいろんなことを考えなきゃいけないときが来ると思いますが続きますか。
戦後70年を検証するこの番組ですが、いよいよ今に近づいてきました。
2013年、戦後2度目の開催が決まった東京オリンピック。
喜びに沸いたあの日から2年。
東京オリンピック、決まる、みんな喜ぶ、だけど、というのがつきますね、今回のオリンピックは。
いろいろなね、国立競技場のこともそうですし、エンブレムとかね、どうしちゃったのというようなことがね。
まだ時間がありますからちょっと一回、原点に立ち戻って考え直してほしいね。
浮かれたままいかないで、きちっとね。
どうだろう、何だかまだ日本全体として納得のところへはいってないかなという。
だって9条というものがあって戦争しませんって言ってるんですからそれはアメリカの政府とかもわかってくださると私は思うんですけどね。
しっかり言えば。
ちょっと、この決め方もね、強引過ぎなかったなかという気がしています。
そうですね、国会っていうのをもっと子どもたちに国会の審議を見てもらいたいなと。
そしてああいう形でヤジとか、本当の審議をしないで、いいかげんになっていくのを見たら子どもたちも変だなと思うし、そういう子どもたちが見てたら、あのおじさんたちも、ちゃんとしなきゃと思うんじゃないかなと。
何かちょっとね、見苦しかったな。
悲しいですね。
国会中継をテレビで見ていると情けなくなってくるんですよ。
小百合さん、今年「母と暮せば」って映画、あれ、テーマはやはり長崎でしたよね?そうです。
戦後70年の今年、吉永さんは119本目の映画、「母と暮せば」に出演しました。
舞台は終戦から3年がたった長崎。
亡霊となって会いに来たのは原爆で死んだはずの息子でした。
原爆をテーマにしてるんですけれどもその一方で、山田さんがずっと追求してこられた家族、日本の家族というものを見つめている作品だと思いますしね。
戦後70年という年にね、この作品にめぐり会って、やらせていただいたというのはとてもよかったと思いますね。
やはり小百合さんの女優さんとしての生き方の中に原爆というものをテーマにするということがありますね?いろんな節目で、原爆を扱った作品に出会ったり「戦争と人間」とか「ひめゆりの塔」とかそういう作品をやることで、ああ、こういうことがあったって資料を読むだけでも知ることがありましたし、戦後70年ということなんですが、ずっと戦後であってほしいという思いはね、しますね。
「報道の日2015ニッポン・ゼロからの70年」。
今年6月、東海道新幹線の列車内で火の手が上がりました。
そのときの緊迫した瞬間をJNNのカメラがとらえています。
今年6月30日。
下り新幹線「のぞみ225号」の車内に突如あふれたすさまじい煙。
この映像を撮影したのは、偶然にも乗り合わせていた1人のカメラマンでした。
原因はガソリンによる焼身自殺。
間近で煙を吸い込んだ女性1人が亡くなり、28人が重軽傷を負いました。
もしも、過去の教訓を生かした防火対策がなければ被害はさらに拡大していたはずです。
終戦直後、鉄道は復興を支える要でした。
当時の時刻表によれば、午前8時半に東京駅を出発した列車が大阪に到着するのは午後7時19分。
今や、東京−新大阪は最短で2時間22分。
半世紀を超える歴史に今回のような車内火災は、かつて一度もありませんでした。
けれど…まさかの出来事に遭遇した毎日放送の佐藤慎亮カメラマンは大阪の本社に帰る途中でした。
助手とともに座っていたのは15号車。
火元となる1号車ははるか前方です。
新横浜駅を過ぎた午前11時半頃…佐藤カメラマンは火災が発生した1号車を目指します。
車内の混乱を予想して撮影にはスマートフォンと小型ビデオカメラだけを使おうと決めました。
4号車後方デッキで同僚の記者と合流。
避難してきた乗客への聞き取りを始めた記者を残し自分は1号車へ。
折しも、昼の生放送の時間帯。
スマートフォンなら映像をすぐテレビ局に送れる。
とっさの判断でまずはスマホを構えながら進みました。
その映像。
煙は既に2号車をのみ込んでいました。
逃げてきた乗客の映像を遅れて駆けつけた助手に託しその場でテレビ局に送るよう指示。
今度は小型ビデオカメラで前進を試みました。
ところが、迫る来る煙に息もできずいったん退却。
2号車後方のデッキで呼吸を整えていた佐藤カメラマンに乗客の思わぬ協力がありました。
マスク5枚を重ねて装着。
その上にブランケットを押し当てて再び前へ。
煙を避け、腰をかがめて進んだのです。
1号車後方デッキでは…犠牲になった女性の姿がありました。
1号車は依然、もうもうたる煙。
再び2号車後方まで戻ると映像を送り終えたスマホを手にします。
何とか出火現場を撮影できないか。
煙が収まるのを待ちカメラマンは再び1号車を目指しました。
煙の中を進み、たどり着いた先には…そこには熱で溶けて垂れ下がった天井がありました。
火災現場をとらえることができたのです。
実はこのとき、カメラマンは画面を見ずに撮影していました。
火災発生からおよそ1時間後…佐藤カメラマンの映像とともに同行記者の電話リポートが伝えられました。
今回の火災、実は過去の教訓がさらなる被害拡大を防いでいたのです。
1951年、横浜の桜木町駅で切れた架線が木製の車体に触れて発火、106人が亡くなる大惨事がありました。
日本の鉄道史上、最悪の火災事故です。
この事故が火災対策の原点になった、新幹線開発に携わった石澤應彦さんは言います。
車両には燃えにくい素材を用いること。
ほかにも教訓となった事故があります。
1972年、北陸本線で起きた食堂車の火災。
トンネルの中で緊急停車したため、逃げ遅れた30人が一酸化炭素中毒で命を奪われました。
今回の火災は、トンネルの連続する区間で起きました。
火災発生を知った運転士は減速してトンネルの中を避けて停車させています。
先月、JR東海は車両に防煙マスクや耐火手袋を備え付けることを決め、避難訓練を実施しました。
開業51年を経ても新幹線が夢の超特急であるために。
実は先ほどの東日本大震災のVTRで米沢さんのお名前のスーパーを間違ってお伝えしました。
正しくは、ご覧のとおりです。
お詫びして訂正いたします。
そして今の話題に戻りますが、プロ根性というのかな、ジャーナリスト根性というのか。
カメラマン魂すごいですね。
トンネル事故もありましたけどね。
そういうことで頑張ってくれる人がいるから我々は情報を知ることができるんで大事だと思うでしょう。
生放送やってて痛感しました。
同時に記者の方も電話でつないで対応してくれましたからね。
状況を番組で伝えてくれたんで。
だんだん時間がなくなってきました。
最後は何ですか?最後は15年前の今日になります。
大きな事件がありました。
世田谷一家殺人事件ですね。
JNNは極秘資料を入手しました。
重要な犯人の手がかりがあったんです。
2000年12月30日。
世田谷に暮らす一家が何者かの手で殺害されたのは20世紀が終わろうとする夜でした。
会社員、宮澤みきおさんと妻、泰子さん、長女、にいなちゃん、長男、礼君を手にかけた犯人は今も闇に消えたまま。
事件7年前、偶然、取材映像に残された泰子さんとにいなちゃんです。
発生から今日でちょうど15年、時効の壁を突き崩したのがこの事件でもありました。
無数の遺留品には犯人の衣服さえ含まれていたのに事件はいまだ解決を見ていません。
私たちは独自に入手した捜査資料から犯人の足跡に注目しました。
明らかになった足跡は40カ所。
殺害された宮澤泰子さんの姉、入江杏さん。
去年8月、事件以来初めて世田谷の現場を訪ねました。
その家には老朽化による取り壊しの話も出ていたのです。
姉妹は隣り合って暮らすほど仲が良かったといいます。
入江さん一家は左の家、右隣が宮澤さん一家の家でした。
入江さんが最初に入ったのは、当時の我が家です。
室内にはおいに当たる礼君のお気に入りも。
続いて入江さんは、事件現場となった家へ入っています。
警察官が立ち会い、撮影は許されませんでした。
15年前のあの日、第一発見者となったのは姉妹の母親でした。
そのときの母親の言葉を入江さんは鮮明に覚えています。
大みそかの朝、入江さん一家と同居していた母親は電話に出ない泰子さんが気がかりで隣の家を訪ねたのです。
ドアには鍵がかかっていましたが母親は合鍵で室内へ。
正月の準備が整った玄関は前日と変わらぬ様子でした。
けれど、入ってすぐの、みきおさんの書斎に異変を感じます。
乱雑なデスク、床に散らばった書類奥の階段で、息をのみました。
みきおさんは、階段に足をかけたまま既に冷たくなっていたのです。
動転した母親は、みきおさんの遺体を越えて中2階へ。
駆け上がった先で目にしたのが泰子さんとにいなちゃんの変わり果てた姿でした。
うずくまって倒れているにいなちゃん。
寄り添うように息絶えていた泰子さん。
その顔には、なぜか白いタオルがかけられていました。
さらに足を進めると、部屋の端に置かれた二段ベッドの下の段にうつぶせの礼君が。
いくら揺さぶっても、目覚めることはありませんでした。
これは家の間取りです。
1階が書斎、つきあたりにみきおさんが倒れていました。
台所と居間がある2階の裏側。
中2階に、にいなちゃんと泰子さん礼君が倒れていました。
隣は浴室です。
上のロフトは普段、泰子さんとにいなちゃんが休む寝室でした。
事件の1年後、泰子さんの母親は現場を目にした衝撃を語っています。
犯人逮捕の知らせを聞くこともなく泰子さんの母親は4年前に世を去りました。
犯人の足取りもつかめずにきた15年。
捜査本部が描く犯人像は身長170cm前後のやせ形。
比較的若い男で右利き。
血液型はA型。
今年新たに犯人の指紋について明かされたことがあります。
渦状紋といわれる指紋の中でも中央に2本の線が入った特殊なものでした。
現場の痕跡から、私たちが注目したのは足跡です。
犯人の靴は、韓国製のスラセンジャーのテニスシューズ。
サイズは27.5cmと既に判明しています。
今回私たちは、独自入手した資料に基づいて足跡を徹底検証してみました。
犯行現場の家からは40カ所で足跡が採取されています。
その足跡から何がわかるのか。
1階書斎には、一直線の足跡がありました。
中2階への階段でもすべての段から足跡が採取されました。
実は、この足跡の中には血液が付着したものもあったのです。
赤で示した、血のついた足跡は二段ベッドが置かれた中2階の部屋、台所や居間のある2階で特に多く発見されています。
けれど、その上のロフトでは足跡は1つも採取されませんでした。
長く鑑識の第一線に立ってきた齋藤保さんは足跡の重要性を力説します。
屋外では主に石膏を利用して行う足跡の採取。
一方、屋内の場合は粘着シートでわずかな痕跡を写し取り画像解析にかけるのだといいます。
今回明らかになった足跡とこれまでの取材から犯人の異様な動きが見えてきました。
暗闇の中、犯人は、中2階の浴室窓から土足で室内に侵入したと見られます。
同じ階の二段ベッドがある部屋でまず、礼君を殺害。
ここで犯人の足跡が採取されています。
次に向かったのは1階。
足跡が横向きに残されていたことから犯人は足音を忍ばせるように密かに階段を下りたのではないでしょうか。
手にしていた包丁で1階にいた、みきおさんを殺害すると今度はロフトを目指します。
そこには、泰子さんとにいなちゃんが寝ていました。
2人を襲った犯人の包丁は、このとき、刃先が折れたと考えられます。
なぜなら床からは破片が発見されているのです。
しかし、ロフトに足跡はありませんでした。
靴を脱いだのでしょうか。
一端ロフトから下りた犯人は2階の台所へ向かいます。
刃の折れた包丁をそこに置き代わりになる包丁を探し出すと再びロフトへ引き返そうとしました。
ところが、ロフトから降りてきた泰子さんとにいなちゃんと鉢合わせになり、犯人はその場で2人にとどめを刺したと思われます。
足跡は4人を殺害した後も犯人がしばらく家の中にいたことを物語っていました。
血のついた足跡が2階の居間に通じていたのです。
犯人はそこでアイスクリームを食べました。
スプーンも使わず、絞り出すように居間には、犯人のヒップバッグ、血のついたラグランシャツ、ジャンパーやマフラーも残されていました。
逃走前に犯人は、この場で着替えたに違いありません。
1階でパソコンを操作した痕跡も認められました。
何かを物色したのか、書類なども散らかしています。
玄関の上がり口ギリギリにまで残っていた足跡。
けれど、鍵が開けられた様子はありません。
血のついた足跡は浴室からも採取されました。
犯人は、物色した書類を浴槽に捨て再び、この窓から逃走したと思われます。
窓枠に自分の血痕を残して。
しかし、逃亡先などいまだに一切が不明です。
以前なら、今日で15年、時効を迎えるはずでした。
戦後0年当時は、殺人事件の時効は15年と定められていました。
それが撤廃されたのは2010年のことです。
撤廃の背景には世田谷の事件を含む遺族たちの深い無念がありました。
捜査は明日からも続きます。
でも大切な人を失った悲しみは決して消えることはありません。
今日も現場近くの駅では情報提供を呼びかけるチラシが配られました。
毎月30日は一家4人の月命日。
遺族は一日も早い解決を願い続けてきました。
自らが残した痕跡が犯人を追い詰める日は来るのでしょうか。
これでね、時効がなくなったんですよね。
これは皆さんが働きかけたのかもしれないけど大きかったかなと思っています。
さあ、時間がなくなってきました。
長い時間でしたが、どんな印象ですか?改めていろんなことが起きていて当然なんですけど、起きてることをどう生かすかということが問われているんだなと思いました。
何か学んでいるところはあるね。
出来事が起こるたびにね。
特に今回は戦後ということで取り上げていましたけれども、本当に戦争というものがどれだけ人間の生活に影響を及ぼしてくるのかというのを今回改めて学ぶところが大きかったですね。
岸井さんは?いろんな節目節目を見てきましたが今年は本当に大きな節目だなと。
世界もそうですけどね、日本も戦後の70年でこびりついてきたものがこのままいくのか、大丈夫なのか、そういう心配を非常に持った1年でもありましたね。
それはどう思いますか?テロが世界へ広がりそうだし。
これ2020年に東京でオリンピックがあるわけじゃないですか。
大きな出来事がいっぱいありますからね。
それに日本はちゃんと向き合えているのかなという気がします。
パリでもって大きなテロがあった、それを体験してる。
それは学ぶことが多くて、日本もちょっと心配です。
なぜか変な時代に入ったと思いません?それと、今度は舞台がパリですけどテロと同時にCOP21もあったでしょう。
フランスのオランド大統領が2つとも21世紀の人類が直面している最大の危機であり、これを解決できるかどうかが挑戦だと言って各国首脳がそれに同意している、すごい時代だなという感じがしました。
環境の方は何度も言いますがどうしても自分事にならないでしょ。
何かどこかおかしいなとは言いながらどうにもならんのですよね。
深刻に考えれば21世紀末、もう間もなくですよ、人類生存の危機に陥ると言われてるんですよ。
このまま放っておくと、環境問題がだからパパであり、ママであるわけだから、その子どもたちへの責任という意味でも、これから大きくなるんじゃないかな。
ちょっと私たちの世代は脳天気でしたからね。
意識を持つことが大事だなと、まずはそこからだと思いました。
長い時間でしたが。
皆さんお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
どうもご苦労さまでございました。
竜巻もうまくいってよかったね。
それではまた来年お目にかかれるでしょうか。
戦後70年、悲喜こもごもの1年があと1日で終わろうとする今、あなたは何を振り返りますか。
容赦ない悪意が嵐のように吹き荒れ始めました。
男たちの果敢なトライが私たちを勇気づけました。
多彩な外国語が飛び交い街の表情も変わり始めました。
国のあり方に抗議して、いつまでもシュプレヒコールが響きました。
明日を担う若者たちが中心となって時代を動かそうとしています。
絶望であれ、希望であれ、すべてを糧にたどり着いた私たちの今。
未来とは、今日の結果なのかもしれません。
瓦礫の街から始まった新生日本で誰が、今のような時代を予想したでしょうか。
私はね、あまり明日のことを考えないんですよ。
今日を精いっぱい生きると、それが明日につながる。
過去のこともあまり振り返りたくない。
そうすると、そこで止まっちゃう。
前に進めない。
今日頑張る?今日できることをやるっていうか、あまり無理しない。
あの復興が奇跡だったとすれば私たちのDNAには力が眠っていると信じたい。
未来に向けて、新しい奇跡を起こす力が。
慰安婦問題をめぐる日韓の政治決着について元慰安婦の支援団体がソウルで大規模な集会を開き、改めて合意は受け入れられないと反発した。
元慰安婦の支援団体、挺対協が慰安婦問題合意後、初めて開いた定例集会には普段の3倍に当たる700人を超える人が参加した。
こちら道路は参加者で埋め尽くされています。
そして警備のために、大勢の警察官も動員されています。
挺対協は日本大使館前に少女像を設置した団体で日韓の政治決着について、改めて受け入れられないと非難、像も撤去しないと強調した。
韓国政府は、引き続き元慰安婦らに政府間合意の趣旨を説明して理解を得たい考え。
大阪府門真市でマンションの部屋から切断された遺体が見つかり自称イラストレーターの女が逮捕された事件で女の部屋からノコギリが押収されていたことが警察への取材でわかった。
森島容疑者を乗せた車が出てきました。
これから身柄が検察庁へ送られます。
今日送検された大阪府門真市の自称イラストレーター、森島輝実容疑者は自宅マンションで遺体をバラバラに切断した死体損壊などの疑いが持たれている。
風呂場の浴槽からは頭蓋骨が発見されたほか、冷凍庫からは遺体の一部も見つかっているが警察へのその後の取材で遺体を切断するのに使ったと見られるノコギリが室内から押収されていたことが新たにわかった。
森島容疑者の知人で25歳の女性が今月25日から行方不明になっていて警察は遺体はこの女性と見て身元の確認を進めている。
今年最後の取引となった東京株式市場では年末の株価としては19年ぶりに1万9000円台となったが申年の来年は、株式相場に波乱が起きるという見方も出ています。
年末恒例の大納会。
株価は年末の終値として19年ぶりに1万9000円台となり、4年連続で前の年の年末を上回ったものの2万円台には届かなかった。
今年の前半は株価は右肩上がりで上昇し、4月には平均株価が15年ぶりに一時2万円の大台を回復。
しかし、8月に中国を震源とした世界同時株安、チャイナショックが日本にも直撃する。
日経平均株価は一時900円以上下落し、秋以降も荒い値動きが続く。
今月にはアメリカが利上げに踏み切ったことを受けて新興国から資金が流出するのではという懸念が日本の市場でも広がった。
市場関係者の間では株価上昇を支えてきた日銀による金融緩和の効果が薄れてきているとの指摘も出ている。
来年は申年で、証券業界では騒ぐ年と言われ、株価が大きく動く傾向があるとされているが…日銀の金融緩和に頼ったままで新興国など海外のリスクに対応していけるのか、横転したパトカーに後続の車が次々と追突した。
今日午前11時前、石川県金沢市の北陸自動車道上り線で富山県警高速隊のパトカーがガードレールに衝突し、横転した。
事故を避けようとした後続の乗用車など4台が追突。
このはずみで交通整理をしていた警察官がはねられ、足の骨を折る大ケガをした。
警察ではパトカーを運転していた男性巡査長がハンドル操作を誤ったものと見て、原因を調べている。
健康保険証の番号や加入者の氏名、住所、電話番号などおよそ10万3000人分の個人情報が流出し名簿業者が一部を転売していたことがわかった。
流出した人は沖縄県をのぞく46の都道府県に及んでいる。
流出した情報には複数の保険の運営主体のものが含まれていることなどから厚生労働省は、医療機関や薬局から患者の情報が流出した可能性があると見て調査を開始した。
中国東部・山東省の石膏鉱山で25日に起きた崩落事故で地下の坑道に閉じ込められている作業員17人のうち、8人が生存していることが確認された。
健康状態は安定しているとのことで、懸命の救出活動が続いている。
8人以外の安否はわかっていない。
崩落事故では作業員29人が巻き込まれた。
ここからはスポーツ。
スピードスケートの全日本スプリント選手権で高木美帆選手が初の総合優勝に輝いた。
1日目総合トップに立った高木美帆。
本来は中長距離が専門だが地元・帯広でスプリント能力の高さを見せた。
まずは500m。
去年より2kg減量した効果でスタートからグングン加速。
自己ベストを更新し、2位に入る。
そして前日に国内最高記録をマークした1000m。
磨き上げてきたコーナーワークでスピードに乗る。
最後までロスの少ない滑りで全体トップの1分16秒20。
地元で見事、短距離初の総合優勝を果たした。
全国高校ラグビー2回戦。
優勝4回、赤のジャージー、伏見工業は前半、スピードと展開力で3つのトライを重ね、19−14とリードを奪う。
後半、いったんはリードを広げた伏見工業だったが、伝統校のディフェンスも青森北の力強いフォワードに攻め込まれ26−21。
食い下がられる苦しい展開に。
それでも後半26分、多彩な攻撃力を発揮する。
一進一退の攻防を何とかものにした伏見工業、3回戦進出。
明日のボクシング世界戦を前にチャンピオンの井岡一翔選手と高山勝成選手が調印式と計量に臨んだ。
3階級王者の井岡一翔と4団体制覇の高山勝成が2人そろって会場入り。
計量ではともに1回でクリアし順調な仕上がりをうかがわせた。
ところがグローブチェックで会場が騒然となる。
チャンピオン井岡には黒、挑戦者レベコには青のグローブが用意されたが、レベコ陣営が黒を使いたいと強硬に主張。
調印式は30分以上も中断したが井岡は終始冷静さを保ち、会場を後にした。
あさってのニューイヤー駅伝に向け、最終調整を行う選手の中に特別な思いを持つ選手がいる。
糟谷悟32歳。
2年前、糟谷は悪性リンパ腫を患った。
8時間に及ぶ大手術の後、6カ月の抗ガン剤治療。
体と心への負担は大きく不安が募る毎日だった。
しかし、入院2カ月後、光が差し込む。
テレビで世界陸上を見ていたとき乳ガンと闘いながら走り続ける選手の存在を知った。
同じ境遇の選手から希望を見出した糟谷は先月、2年4カ月ぶりに駅伝の舞台へ復帰する。
駅伝日本一へ、病魔を乗り越えたランナーがニューイヤー駅伝に挑む。
気象情報です。
この年末年始は太平洋側の地方を中心に晴れるところが多いでしょう。
明日朝9時の予想天気図です。
明日は日本海側地方にあります低気圧の影響で大気の状態が不安定になります。
北陸を中心に落雷や突風に注意です。
元日になりますと西高東低、冬型の気圧配置になり、北日本を中心に北風が強まるでしょう。
1月2日になると高気圧が進んできます南から暖かい空気が入ってくる影響で西日本や東日本を中心に気温が高くなり、15度前後まで上がる見込みです。
2015/12/30(水) 11:00〜17:30
MBS毎日放送
報道の日2015 ニッポン・ゼロからの70年[字]
1945年の終戦から奇跡の復興を成し遂げたニッポン、その70年の光と影を追う。時代の転換点は?事件 事故・政治・自然災害などさまざまな分野から検証する。
詳細情報
番組内容
☆戦後70年を迎えた日本の「ゼロからの歩み」
☆GHQ占領下のニッポン!あの場所が意外な名前に?
☆“1964年東京五輪”成功(秘)作戦
☆1970年代に「史上最悪の大事故」が連続した理由
☆昭和史を揺るがせた「昭和天皇記者会見」秘話
☆“ミスタートルネード”日本人竜巻博士の意外な大発見 ほか
出演者
【司会】関口宏
【ゲスト】恵俊彰 本上まなみ / 岸井成格
【アシスタント】皆川玲奈(TBSアナウンサー)
公式ページ
◇番組HP http://www.tbs.co.jp/houdounohi/
おことわり
番組の内容と放送時間は変更になる可能性があります。
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ニュース/報道 – 報道特番
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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