津軽が忘れてはならないこと
昨日のBlogで書き漏らしたことがありますので、改めて津軽が歴史から学ぶべきこと顧みるべきことを記しておきます。
津軽の歴史において一番大きなできごとは、何といっても藩祖・津軽為信公の南部氏からの独立です。
南部氏より一足早く小田原に駆けつけて豊臣秀吉に所領を安堵され、その後関ヶ原の戦では東軍に自分と次男・信牧公がつき西軍には長男・信建を向けるという両面作戦をとり、徳川の時代になっても信牧公は元々の正室であった石田三成の娘を側室におとして家康の孫娘・満天姫を正室とするという、生きのびる手だてを必死にさぐっていきました。
その後、現在では破綻した東照宮が全国で初めて日光以外に建立されるほど徳川からの信任を得て幕末まで津軽を治めることになったのですが、それにもかかわらず大名としての地位を認めてくれた豊臣への恩義をひっそりと堅く守ってきたことは、ほとんど知られていません。
為信公の祖廟は革秀寺にありますが、そこに安置されている豊臣秀吉像は元々本丸北の石垣に隠されて祀られていたのだそうで、自らの礎の場におくという思いがあったことがうかがわれます。
これだけの恩義を忘れないという思いがどこかで薄れていき、現代にはまったくといっていいほど伝わっていないことが、津軽が歴史から学ぶことをしていない証明であり、本当に残念に思っています。
これだけあれば、歴史に学ぼうで済むのですが、時代を下るに従って都合の悪いことは伝えないという悪弊が上塗りされてきました。その最大のものは、斜里での蝦夷地警護殉難の秘史です。
1807年にあったこの事件は、あろうことか藩の日記にもふれられず戦後になるまで知られていなかったのですが、幕府からはその働きが認められ十万石へと加増を受けているのです。
この事件が、歴史に向き合うことを避け、歴史から学ぶ姿勢を失わせる転機になったと、私は考えます。
当時の藩主をはじめとする方々も、その時その時での最善の判断と思って事件の秘匿や脱盟をしてきたのでしょうが、その歴史を引き継いで津軽の地に生きる者としては、その事実を知り評価しながら今に生かすことをしなければなりません。
ことに殉難と脱盟の件は、自分たちさえよければという発想が強いだけに、反面教師として学ばなければならないことだと思いますが、豊臣秀吉像を納めて築いた弘前城築城400年に東日本大震災がおき、自分たちのためでなく東北のために桜まつりを開催しよう震災支援に取り組もうとしたことは、こうしてみると歴史の流れを変える、津軽の気風を古に戻す大英断だったと評価できると思います。
その意味でも、歴史に学び未来につなげる取り組みを広げることも、歴史を専攻した者の務めです。
【追記】
この二つの投稿に、さまざまな形で意見をいただきました。ありがとうございます。
コメントとしてではなく、追記の形で回答としたいと思います。
藩の行いで津軽の人々を決めつけるのは〜ということに関しては、会津の「ならぬものはならぬ」は士族階級の教えだと思いますが、それをもって会津の精神といわれるように、当時の藩の姿勢で語るしかない時代と階級社会という制約があると思います。
その農民の方々が苦しんだ天明・天保の飢饉は江戸時代の津軽にとっても一大事であったと思いますが、これを受けて武士階級で変わるものがあったかといえば疑問符がつくのも、時代のありようだったと思います。
このような、民衆の側から考えられるだけの資料があれば改めて見直すべきだと思いますが、当時の政事を動かしていた立場にあった人たちの所業から読み取れるものを抽出したのだと、ご理解ください。
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