花札に、小野道風が採用された理由は何ですか?
2013/9/1821:17:30
ベストアンサーに選ばれた回答
編集あり2013/9/1901:48:31
lerachiseさんが書かれているように、元々、11月の光札は単に柳に番傘が
描かれた図か、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』五段目に出てくる斧定九郎と
いう盗賊が傘を差して走っている図でした。これが明治期になって人物が
斧定九郎から小野道風に変更されたのです。
ただ、小野道風に変わった理由は教養とは関係ありません。完全に駄洒落
です。花札は江戸時代には禁止されていたのですが、明治になってからは
認められるようになったので、別に政府に媚びて教養と結び付けなければ
ならない理由はありませんでした。
まず、斧定九郎という人物が歌舞伎でどういう役回りなのかの説明がない
と駄洒落の意味が分からないので簡単に説明します。斧定九郎は悪党で、
ある娘が惚れた男のために身を売って作った50両の金を、娘の父親を殺し
て奪い取ってしまいます。ところが、斧定九郎はその後、娘の惚れていた
男に猪と間違えられて鉄砲で撃たれて死んでしまうのです。ここで出てくる
キーワード「猪」がポイントです。
花札で「猪」と言えば7月の「萩と猪」の札です。そして、斧定九郎と小野道風
の姓名を良く見てみると、姓の部分がどちらも「おの」です。そして小野道風
と言えば『秋萩帖』という名前の有名な書写を残しています。つまり、斧定九
郎が「猪」と間違われて殺されたのに引っ掛けて、姓が同じ「おの」であり、
花札の「猪」と関連する「萩」=『秋萩帖』(旧暦7月は秋)を書いた小野道風と
入れ替えたわけです。名前の読みが同じで、しかも猪と関連する萩の名の
付く書物を書いた人物=小野道風に、まるで間違えてしまったかのように
変えることで、猪と間違えて殺された斧定九郎の死に様に引っ掛けている
わけです。
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2013/9/1900:58:39
花札は歌舞伎と深い関係があります。よって斧定九郎だったのですが、途中から「教養」に偽装する目的で小野道風になってと言われています。
以下のページの中段以降に説明があります。
http://www.geocities.jp/xmbwq497/essay/hanafuda2.html
また、地方部によっては狸が描かれている札もあります。
また唯一の人間ではなく、「薄に満月」に西行が描かれている札もあります。
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