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“灘中→麻布高校→東大”で、抱き続けた劣等感

プレジデント 1月5日(火)8時45分配信

■「悔しいのですが、天才はほんとうにいる」

 「劣等感にずっとさいなまれてきたから、私しか持っていない力で勝負してやろうと生きてきました。私の力では、絶対に勝てない人たちはいます。悔しいのですが、天才はほんとうにいるのです」

 東京大学地震研究所の准教授だった都司嘉宣(つじ・よしのぶ)さん(68)が、自らのキャリアを振り返った。長年にわたり、津波や歴史地震学の権威として精力的な研究活動を続けてきた。2011年3月11日の大震災では、発生直後からNHKの番組などで津波についての解説をしたことでも知られる。

 12年3月に64歳で定年退官し、現在は、深田地質研究所(文京区)の客員研究員などを務める。東北大学の研究者らとともに調査をし、論文を精力的に書く。一方で、海外の研究者が来日すると、東北などの被災地を英語やロシア語を駆使して案内する。

 都司さんは甲子園球場の近くの小学校に通っている頃は、常に1番の成績だった。灘中(神戸市)に進学すると、1学年150人ほどのうち、130番前後になった。

 「はじめて強烈な劣等感を持ちました。私の学力ではかなわない生徒ばかりだったのです」

 中学2年から3年になるとき、父の仕事の関係で都内に転居し、麻布中(港区)に転校した。一学年270人で、成績は常時、50番以内になった。

 東大(理科一類)の受験では、得意の地学でほぼ満点だったという。

 「あの頃、東大の試験で地学を受ける人は少なかったのです。穴中の穴でした。数学の点数も高かったと思います。英語は、抜群にはよくなかったのかもしれませんね。英語には前々から、劣等感を抱いていたのです」

 1966年、現役で東京大学に入学する。3年からは、工学部の土木学科に進む。地球物理学科に進みたかったが、家庭の事情もあり、70年、土木学科を卒業した。その頃を「(土木学科は)自分が本来、いるところではないと思っていた」と振り返る。

 卒業後は念願だった、大学院の理学系研究科修士課程(地球物理学専攻)に進む。就職することは考えなかったという。

 「土木学科の学生の中には、その後、大手建設会社の社長になった者もいますが、うらやましいと感じたことはありません。企業で出世したいと思ったことがないのです。同窓会で彼らと会っても、話はあまり合いませんね。そもそも、東大卒ということで優越感を抱いたこともありません」

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最終更新:1月5日(火)11時0分

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