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 五輪エンブレム問題で改めて考えさせられたデザインにおけるオリジナリティー。その意義やデザイン界が抱える課題について、美術評論家で多摩美術大教授の椹木野衣さんに聞いた。

――東京五輪エンブレム問題をどう見たのか。美術の文脈に絡めて、お聞かせください。

 サントリーの景品デザインの取り下げもあったので、佐野研二郎さん個人にいろいろ問題があったとは思うが、根本的には日本のデザイン界の問題ととらえている。

 オリジナリティー、特に作品の固有性みたいなものは、美術の世界で出てきたものだと思うが、美術でさえ、オリジナリティーという考え方が重視されるようになったのは近代以降で、それ以前はさして重んじられていなかったと思う。中世にまでさかのぼると、作者名なんて残っていないし、ギリシャ・ローマにしても、作者が誰かなど重視されていなかった。ルネサンス以降、巨匠の名前を多く見かけるようになるが、それでさえ工房制をとっていることが多く、レンブラントやルーベンスなどは集団制作で、作品というよりは製品に近いところがある。1人の力で他の人ではまねできないような優れた芸術を作りあげる天才への信奉が出てきたのは、それまでのキリスト教の権威が市民革命などで失墜したあとの19世紀くらいだろうか。芸術を支える根本が神学にはもうないわけだから、それはもう個人の中にしかないということになって、個人の中に神にも匹敵する直感を持った者がいて、常人には計り知れない能力を持った者が芸術をなすんだという神話が生まれた。ロマン主義の産物だと思うが、それ以降は近代芸術が1人の名の下に、常人にはとても追いつけないような美の世界をなすという憧れが出てきた。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、美術のオリジナリティー神話が出てきたが、同時にこの時代は、産業革命が飛躍的に進んで、アールヌーボーや、とりわけそれに続くアールデコなど、芸術の産業化が始まった時代。そうやって作られた個人の神話が、今度は新しいテクノロジーによって壊されていく時代でもあった。写真の登場なんかもこれにあたると思います。

――デザインにおけるオリジナリティーをどうとらえていますか。

 そんな時代の中で、オリジナリティーなど必要としなくても、誰もがかつて芸術の名のもとに守られていたような水準のものに触れることができるようになったのが産業化時代。デザインというのはそうした技術による恩恵の産物だと思う。デザインの名の下にオリジナリティーを追求すること自体がおかしなこと。

 本来、デザインと名のつく分野では、個人による署名はなくてよいはず。20世紀のファッションでいえば、シャネルやイヴ・サン=ローランなどがあるが、それはイコール個人の名前ではなくて、ブランド化されている。しかし、芸術の場合、ピカソやゴッホというのはブランドではなく、個人の能力を指しているので、そこは違いがある。