1文字も進んでいないジェンダー論のレポートを書こうとして、思うことがある。
よく、海外の子育て優遇策などは綺麗なものに優しい人達が嫌でも教えてくれる。
ヨーロッパはこんなにも良いんですみたいなことを伝える。例えば、同棲でも子育てで優遇が受けることが出来るとかシングルマザーの支援が厚いとか女性の社会進出を奨めるための子育て支援がすさまじいとか、同性愛が認められているんですとか。
正直、自分はこういうものを読んだり、聞いたりして不安になる。
というのも、容姿が醜い自分に何かフォローがあるというようなものを見たことがない。
おそらくないのだろう。
以前、勧められて読んだフランス人作家ミシェルウェルベックの「闘争領域の拡大」は経済的には「勝者」である容姿が醜い男性が一生、女性に愛されず死んでいくという救いのない話だ。
容姿の醜い人間が金を持っていても、性的魅力がないと一生愛されないという経済的な闘争だけではなく、性的魅力の闘争もやらなくてはいけなくなったというフランス人の状態なのだろう。
基本的にウェルベックは現代フランスを批判する作家だから、女性の社会進出などが進んだなどを背景として容姿が醜い男女の救いがない状態について描いたはずである。
まぁ、フランスの状態がウェルベックの言う通りなだけではないだろうが、子育て支援などの裏にはこのように救われない人間がいるのではないかということは容易に想像できる。
そして、現代日本でも性的淘汰は進んでいると友人と上野動物園を歩き感じた。容姿がいい子供が多いのだ。
醜い子供はますます孤独になる可能性があるし、実際自分は醜く生まれ孤独だ。
先日、幼い頃から抱えた持病の主治医に、容姿の改善がないようなことを言われたし、マシにする整形もあまり乗り気なような、歯切れが良くない回答をもらった。
いま、レポートを書かなければいけないのは転部をするのに有利な状態にするためであるわけである。
このような性的闘争では負けるのが確実である事実が、転部という闘争をする気力を削ぐ。
受験勉強だって容姿が悪くて高校の時色々言われたのがモチベーションを凄まじく落としたのは事実だ。