『概念分析の社会学2-社会的経験と人間の科学』(酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編、2015年、ナカニシヤ出版)

   このページは、エスノメソドロジー研究の論文集、『概念分析の社会学2』(酒井・浦野・前田・中村・小宮編、ナカニシヤ出版・2016年3月刊行予定)を ご紹介するものです。目次のほか、本文いくつかを公開しています。

  この論文集は2009年に刊行した『概念分析の社会学』の続編です。前著の紹介ページもご覧ください。

※このページは、校正前の原稿に もとづいて制作しています。引用・参照は 書籍からおねがいします。
※表紙の作品は宮山香里さんによるものです。プロフィールや他の作品は ウェブサイト Change by Gradation (blog ) をご覧ください。

更新情報
2016.01.04
目次執筆者紹介「おわりに」を掲載しました。
2015.12.28
ページ制作を開始。

目次と書誌

概念分析の社会学2─実践の社会的論理
酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編
ISBN:
定価:x,xxx円
2016年3月(予定)
ナカニシヤ出版
A5判 xxx頁
 ISBN978-4-xxxx-xxxx-x
はじめに 浦野 茂
ナビゲーション1 (前田泰樹)
第1章 「神経多様性」の戦術――自伝における脳と神経 浦野 茂
第2章 新しい分類のもとでの連帯――遺伝学的シティズンシップと患者会の活動 前田泰樹
第3章 性同一性障害として生きる――「病気」から生き方へ 鶴田幸恵
第4章 触法精神障害者と保安処分の対象 喜多加実代
ナビゲーション2 (中村和生)
第5章 彼女たちの「社会的なものthe social」――世紀転換期アメリカにおけるソーシャルワークの専門職化をめぐって 北田暁大
第6章 生殖補助医療を標準化する 石井幸夫
第7章 〈誤った生命〉とは誰の生命か――ロングフル・ライフ訴訟の定義から見えるもの 加藤秀一
第8章 「素朴心理学からDoing sociologyへ──記述の下での理解と動機のレリヴァンス 中村和生・森 一平・五十嵐素子
ナビゲーション3 (前田泰樹)
第9章 「教示」と結びついた「学習の達成」――行為の基準の視点から 五十嵐素子
第10章 授業の秩序化実践と「学級」の概念 森 一平
第11章 裁判員の知識管理実践についての覚え書き 小宮友根
ナビゲーション4 (小宮友根)
第12章 想定された行為者──プラン設計におけるユーザー概念使用の分析 秋谷直矩
第13章 柔道家たちの予期を可能にするもの 海老田大五朗
第14章 観光における「見ること」の組織化 酒井信一郎
おわりに 酒井泰斗

はじめに

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文献
Garfinkel, H., 1967, Studies in Ethnomethodology , Prentice-Hall.
Hutchinson, P., R. Read, and W. Sharrock, 2008, There is No Such Thing as a Social Science , Ashgate.
Lynch, M., 2000, “A new disease of the intellect?: Some reflections on the therapeutic value of Peter Winch's philosophy for social and cultural studies of science,” History of the Human Sciences, 13(1) , 140-56.
Ryle, G., 1949, The Concept of Mind , Hutchinson. (=1987, 坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房.)
Winch, P., 1958, The Idea of a Social Science and its Relation to Philosophy , Routledge.(=1977, 森川真規雄訳『社会科学の理念——ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』新曜社.)

ナビゲーション

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おわりに

  幸いにも前論文集『概念分析の社会学』(酒井ほか 2008、以下「前著」と略)が予想外の支持を受け、続編刊行の機会をいただけることになった。とは言っても「無名の執筆陣による・エスノメソドロジー研究の・論文集」という売れる要素がどこにも見当たらないものが普通に売れた1というほどの意味ではあるのだが、ともあれまずは前著を購入してくださった皆さんに御礼を申し上げたい。

  前著「おわりに」に記したように、もともとこの企画はナカニシヤ出版から編者の一人(酒井)にいただいた単著刊行リクエストに対して──長らく社会学を愛好してきた者の一人として、この学に多少なりとも恩返し的なことをしてみようとの考えから──出版社の意向を曲げるかたちで応えたものである。前著では、そこで私がエスノメソドロジー(以下EMと略)を選んだ理由については述べる余裕がなかったから、本書ではそこから話を始めよう。>>続きを読む/閉じる

1. 2015年12月現在、第n刷が書店に並んでいる。

  私のような門外漢にとって、社会学の面白さは、その知見が抽象性と具象性を兼ね備えたかたちで提示されるところにある(どちらかだけであれば、他に相応しい学科やジャンルを当たればよいが、両者を自覚的に・同時に追求している分野はそんなにはない)。だから本書を最初に構想した際にも、この特徴を中心に据え、かつ職業研究者たちには手の出しにくいやり方で応えるのがよいだろうと考えた。ところで、社会学の具象性は、それが経験的な学を目指している──したがって何らかの具体的な資料やデータにもとづいて議論が展開する──ところに由来するのだろうし、抽象性の方は、拠り所となる制度的基盤──たとえば政治学にとっての国家、経済学にとっての市場のようなもの──を持たず、非定型的なものや一時的なもの、通常は重要だとは見なされないありふれたものまでも含めた様々な、あまりにも多様な事柄を扱わなければならないところに由来するのだろうと思う。ところで後者は、伝統的には主として「理論」という形をとってきた2。しかしもし抽象性の由来が上述のところにあるのであれば、それには別の仕方でも対応できるはずである。そして実際、EMはその実例を与えている3のであるが 、それが「別の仕方での対応である」ということこそ、これまで標準的な社会学がEMを適切に評価することを妨げてきた理由の一つなのだろう。だとするとEMは、〈社会学の核心に関わりかつ社会学には取り上げにくいもの〉だといえる。これが選択理由の片面である。

2. こうした事情を外から眺めた報告として バーク1986 を挙げておく。
3. 多くの事柄について広く通用する(という意味で一般性を持つ)整合的な主張群を研究者が獲得することが理論構築の課題であるが、EM研究は別の方向へと進む。つまり、社会学者たちを理論構築に取り組ませることになる課題が、もともとは社会学の研究対象の側で取り組まれている課題に由来することに注目し、それによって、それを単なる研究者にとっての課題として扱うのを辞めるのである(後述)

  他方、EMの方に目を転じると、そこには別の事情があった。輸入期をある程度過ぎて以降、日本のEM者たちは「様々な事象を実際に分析できる」ことを売りにしてきたように見える。もちろん、この方針は健全かつ重要なものだ。だがおそらく、それだけではプロモーションやリクルーティングには向かなかったのである。というのは、これまでのところ結果として得られたのは、「確かに分析らしきことができているようではあるが、何をしているのか・何の意味があるのか分からない」というパブリック・イメージであったようだからである。だとするとここには、もっぱら「実際に分析できる-ことを示す」ことに注力せざるを得ないEM研究者たち自身には手の出しにくいプロモーションの仕事があると考えてよいだろう。これが選択理由の裏面である。

  管見の限り、社会学のなかにEMと同程度の水準で具象性を備えた抽象性を追求している流儀はなく、しかし──私にとっては幸いなことに──そのことは社会学の内部で見逃され続けてきた。ならば自ずと為すべきことも決まる。すなわちEM研究がもともと備えている抽象性──その研究を支えている理屈4──に定位したプレゼンをおこなえば、それがそのまま社会学への貢献にもなるはずだ。

4. とはいえEMの場合、理屈をそれだけで手際よくまとめて見せればよい、というわけにはいかない。私個人の経験からいっても、EMの難しさは、単に理屈の難しさだけによるものではなく、その理屈が個別の分析のどこにどのように働いているのかを見て取ることの難しさだと思うからである。編者が執筆者たちに要求できるのは、理屈の明快な定式化を具体事例の分析とセットで提示することまでであり、両者を照らし合わせる形で個々の論文の組み立てを読み解いていく作業は読者に一つ一つおこなっていただくしかない。

  そうしたわけで前著では、

  • EMのパブリック・イメージを形作ってきた会話分析とは異なるタイプの研究に(も)取り組んでいる中堅の研究者たちに集まってもらい、やや多めの紙幅を使って、こうしたタイプの研究群の輪郭を見てとれるよう提示することを目指した。その際、
  • すでに参加者たちの一部が注目していたイアン・ハッキングの「人々をつくり上げること(making up people)」という研究プロジェクトを取り上げ、ハッキングの仕事から会話とは異なる対象の分析のやり方を学びつつ、改めてEMの研究方針について、ごく基礎的なことから再確認してもらった。そして数年にわたる研究会でのやり取りをへて、
  • EMの研究方針に できる限りシンプルで明快で抽象的な表現を与えて欲しいという私のリクエストに対して、「概念連関をたどることによる実践の記述的解明(=概念分析の社会学)(以下Cと略す)という回答が与えられた、

というわけである。

  ところで、こうした狙いをもった論文集を実際に刊行してみると、

「EMが何なのか分からなくなった」
「これのどこがEMなのか。会話分析と違いすぎる」
「言説分析とどう違うのか分からない」
「このやり方では会話分析のような精緻な分析はできないだろう」

といったたくさんの反響をいただくことになった。そうであるからには、前著の試みはまったくおかしなものであったか、それともこれまでEMにきちんとは出会ってこなかった人たちにまで届いたかのどちらかだろう。しかし反応の内容は私の当初からの狙いとぴったりと噛み合っているのだから、後者であることの方がもっともらしい。つまり前著は低い水準で成功したということなのだろうと思う 。以下、こうした反響も振り返りながら、ポイントαβγに即して前著と本書との関係について述べてみよう。

5. なにしろ、「分かっていなかった」ということが分かることは学習の重要なステップなのだから、これはこれで重要な貢献だろう。
γ 概念分析の社会学という方針について

  EMの方針に抽象的定式を与えるという課題6について考えるには、注2で述べたことに立ち返るのがよい。EMは、「一般性」を、単なる研究者にとっての課題として引き受けるのを辞め、その代わりに研究対象が備えている一般性の方に定位する。それは、〈他の状況でも使用できる(という意味で一般的な)能力や道具や装置その他の資源を、或る特定の状況に適ったやり方で使うことによって、その状況に適切に参加し・そこに固有の課題に取り組む〉ということが、その状況の参与者たち自身にとっての課題であることから生じるものである。そこでEM研究は、〈特定の状況への参加者たちが、どのように状況を──物や場所や時間を、そしてまた人々を──分節化し、その下でどのような実践を産出するのか〉を、〈一般的に使えるもの-の-個別的な状況に適った使い方〉というペアを切り離さずに取り出してくることによって、解明していこうとする。だからEM研究の抽象性は、我々の社会生活がもともと備えている抽象性に、その出所と権利を持っているのである。

6. 当然ながら、「EMとは何か」への回答はいくつ試みられてもよい。回答が複数得られた際には、それらの相互関係が問題となるだけである。我々のバージョンの回答は、いわゆる「ウィトゲンシュタイン派」と呼ばれる流儀に倣ったものである。
  なお、我々が用いた「概念分析」という表現は、直接にはピーター・ウィンチを典拠としているのだが(「はじめに」文献 Winch 1958=1977)、まことに遺憾なことに前著ではこの点を記し忘れた。ウィンチの語用と分析哲学者の通常のそれとの関係は20世紀イギリス哲学史に属する論点だろうが、これについては、現時点では私の友人の哲学者たちにも不明な点が多いようであり、今後の研究が俟たれるところである。

  我々の社会生活における個々の営みは──不可能でも必然でもないという意味で──偶然的であり、分節化の方も──状況に応じて、また歴史的に変わり得るという意味で──偶然的である。しかし、個々の状況における分節化は個々人が勝手に行うことが出来るものではなく、その下での諸実践に対して可能性条件の位置にある7(歴史的アプリオリ)。Cに謂う概念連関をたどるとは、この分節化の把握を意味している8のであり 、Cを継承しているという点で本書は前著の続編なのである。

7. この〈偶然的なもの-と-その産出の可能性条件〉、〈偶然的な実践-と-それが生じる可能性空間〉という組み合わせに相当するものは、様々な社会学理論に見て取ることが出来る(例えばルーマンの〈作動/システム構造〉のペアのように)。異なるのは、その「可能性」の性格の特徴付けであり(例えばルーマンの「システム構造」は意味的に分節化される予期という特徴を持つ)、したがってこの抽象水準に定位すれば かなり多くの社会学的議論を系統的に比較できる筈である。そして前著本書の刊行によって私が訴えたかったのは、EM研究もその水準で読まれ・検討されるべきだということなのであった。
8. この点については「はじめに」やナビ4においても解説したが、こうした言葉づかいをとらえて、「EM研究は言語に偏重している」とか「そのやり方では非言語的なものは捉えられない」といった批判を受けることがしばしばある。こうした論難が行われるときに、言語についての常識的な直観がそのまま議論の資源として持ち込まれているように見えるところがまずは気になるが、それをさておくとしても、こうした論題については──〈言語的/非言語的〉のような制御の難しい空虚な区別を振り回すのではなく──、「どのようなデータが入手可能・利用可能なのか」・「データから得られる知見の身分はどのようなものなのか」といった方向で争論を組み立てたほうがよいと思う。
α 論考の主題と資料の多様性について

  本書では、「会話分析以外の」という制約を取り払うとともにゲストも加えて執筆者をほぼ倍増した。これについては二つのことを述べる必要がある。

  一方では。抽象水準を上げて方針を定式化してみると、Cは社会学内外の様々な研究においても(しばしば目立たないかたちで)行われていること・行うことが可能であること9が視野に入ってくる。今回は、そうした可能性を掘り起こすために、加藤秀一・北田暁大の両氏を招き、彼ら自身の仕事を方針Cのもとでおこなうよう試みていただいた10。他方では。今回は、録画データを主要資料とする若い世代の研究者などにも声をかけ、やや少ない紙幅で、研究の拡がりをカタログ的に示すことにした。後者についてもう少し補足しておこう。

9. EMはその方針を明示的・反省的・組織的に追求しているだけだとも言える。もちろん、探究を組織的に行うか否かは小さなことではないが。
10. 私の見立てでは、標準的な社会学とEMとの位置関係に照らすと、北田さんは より社会学に近いところ、加藤さんは より遠いところにおり、今回両氏が実例を提示してくれたことで、社会学の中にEMとのコンタクトポイントが かなり広範に存在することを示すことができたと思う。

  会話分析は、会話のターン毎のステップに着目した分析を行うことで豊かな成果を上げ、それによってEM研究群の中心に位置してこの分野の研究を牽引してきた。ところがその成功の影でその研究方針の方はしばしば見逃され、〈EMは会話(という特殊な対象)のみを扱うものであり、またそれのみに通用するものだ〉という印象も生じてしまった。だから前著で我々は、それ以外のタイプの資料に拠り・それ以外のタイプの実践を扱った論考を揃えたうえで、研究方針とセットで提示したのである。しかし一旦そうしたからには、次には、様々なタイプの資料を使った研究が同様の方針の下で行われていることを示すのがよいだろう。そんなわけで本書では、資料や対象に関する制約を取り払い、代わりに方針Cにより鋭く定位して分析を提示するよう注力してもらうことにした。

  資料タイプの違いを超えた方針の統一性の如何についてはナビ4でも触れたから、ここではそれを踏まえて前掲の懐疑的な反響いくつかについて考えてみたい。「概念分析の社会学」とは、対象である社会的実践(活動や行為)の研究を行う際に概念連関に照準することを述べたものだった。他方、「会話分析」という語は、分析の対象が会話という活動であることを述べているだろうし、「言説分析」のほうは、分析のための資料が「話されたり書かれたりものの痕跡」であること──もしくは、そうした資料を遺すことになった諸実践が分析の対象であること──を述べているだろう。語「概念分析」は資料タイプについては何も述べていないのだから、用いる資料が「言説分析」のそれと重なりうることに何の不思議もない。またもし資料の特徴を話題にしたいなら、会話分析については録音録画データとその扱い方を取り上げるべきだろう。単にこうした事情だけから言っても、「概念分析」と「会話分析」や「言説分析」とを並べ、比較観点も示さずに同じだとか違うとか云々するのは比較のやり方を誤っているのである。

  ちなみに、「テクストの分析は会話分析と同様にはできないのではないか。会話分析のような精緻さは期待できないのではないか」といった趣旨の疑問・質問は、前著刊行以降様々な機会に特に繰り返しいただいたものである。疑問者たちによれば、こうした疑念が生じるのは、読み書きにおいては、お喋りの場合よりも、たとえば受け手の不確定さや理解の不確定さが大きいからなのだという。これについて論じるべき事柄は多いが、手短に述べられることだけに絞って述べてみよう。

  こうした疑問が生じるのは、分析対象と分析を切り離したうえで分析だけを複数並べ、それらの精緻さを比較しているからである。確かに お喋りと読み書きは相当に異なる活動であって、たとえば お喋りにおいて参加者たちは、非常に短いタイムスパンで──順番交代を含む──たくさんのことを行わなければならないのに対し、読み書きの場合はそうではない。だからそれに応じてお喋りの分析の方も、短い時間内に生じるたくさんのことを追う──という意味でなら読み書きの分析よりも精緻な──ものになるのは当たり前である。ところで、もし読み書きという実践が疑問者のいうような特有の難しさをはらむものなのだとしたら11、それは分析者にとってよりも前にまず参加者たちがすでに直面しているはずのことであり、そうした実践が まさにそのように成立するための契機にもなっているだろう。だから、あるタイプの資料の分析の難しさが もともと研究対象の側にある難しさに由来するなら、それは研究に対して困難だけでなく指針をも──その対象を成立しているあり方に応じてその対象を分析せよ(→ナビ1 p.xx)──与えてくれるはずなのである。分析結果だけを取り上げて精緻さを比較するなら、こうしたことのすべてを無視することになる。

11. 「発話の宛先をどのように選び・示すか、そのためにどのように発話をデザインするか」というのがお喋りの参加者たちにも恒常的に付きまとう問題であることを想えば、また我々が、多少なりとも込み入った話をしようとする際に、内容次第で或る場合には対面のやり取りを、また別の場合には文書でのやり取りを選ぶことを想えば、疑問者たちのこうした前提自体も怪しいように思うが。要するに常識的に考えて、「精緻さ」も一枚岩ではないのである。というだけでなく、その都度の場面においてどの程度の「精緻さ」が必要なのかということからしてすでに参加者たちの問題なのだから、それはそのようなものとして取り上げて分析すべき事柄であるはずだ。
β 「人々を作り上げること」プロジェクトについて

  前著で我々が参照した科学哲学者イアン・ハッキングの研究プロジェクト「人々を作り上げること」(以下MPと略す)は、『何が社会的に構成されるのか』(ハッキング 2006)や『歴史的存在論』(ハッキング 2012)などに述べられているように、もともと二つの研究関心を織り合わせたところに生じたものである(以下、両書の参照箇所を 略号 SC・HOと邦訳頁で示す)。一つは、ミシェル・フーコーに発する近代的な個人──何かを識り・他人に働きかけ・規範のもとで自らを律するなかで成立する自己──の登場に関するものであり、それは様々な文献においてしばしば「主体化」なるジャーゴンで呼び馴らわされている[HO 3]。もう一つは、ネルソン・グッドマンに発する「概念変容」に関する関心であり、「新しい種類[~分類]はどのように存在するようになるのか」とか、「我々はどのように新しい種類[~分類]を選び編成するのか」といった問いに関わるものである[SC 282]。両者は〈或る種類の人間であるこ-が備えている-可能性の空間〉という焦点によってブリッジされ、ここにフーコー的な主題へのグッドマン的な観点からのアプローチが成立する。

  我々が何者であるかという問いは、われわれがこれまでにしてきたこと、今していること、これからすることのみを問うているのではなく、われわれが過去に何をしえたか、今そしてこれから何ができるかをも問うているのである。「人々を作り上げる」ことによって、「ある人物であること」の可能性の空間自体が変容するのだ。[HS 223]

  そして、ハッキングは、この「可能性の空間」に照準しながら、児童虐待や多重人格や肥満といった様々な実例に即した研究を進めてきたのである。──と、ここまでのところは上掲両書を併せ読めば簡単に確認できる。それを指摘した上で考えてみたいのは、前著にいただいた次のようなコメントである:

  • 前著論考には、専門的知識が変更されないものが含まれている。そこではループは生じていないのだから、この論文集には相応しくない。
  • 分類の被適用者から分類提供者へのフィードバックが起きたかどうかを確認するには詳細な資料が揃っていなければならない。だからループ効果の研究は一般に難しく、このプロジェクトの射程は限られたものだ。

  これらの主張には、

  • MPや「ループ効果」に関する研究は、「歴史上のある時点において、人間の制作やループが事実として生じたかどうか」を資料によって確かめることを目標にしている

という前提があるだろう。しかし前著においても本書においても、我々は こうした見方はとっていない。たとえば前著において我々は、「ループ効果」について、

人々の分類・記述に用いることができる専門的な知識や概念や方法が日常生活に提供され,分類・記述された当の人々によって,それらの分類・記述が,引き受けられたり・拒絶されたり・書き直されたりするといった現象のことを指す言葉 [前著 70]

  だとまとめた上で、こうした現象を研究する際に注目できるフェーズを次のように下位分類した:

[p] 人間に関する科学的・専門的な概念は,どのようにしてその意味を獲得し,日常生活との関連性を持ちうるのか。
[q] 人間に関する科学的・専門的な概念が日常生活に入り込んでくるとき,そこでどのような経験の可能性が生じるのか。
[r] 新たな経験にもとづく知識は,専門的な知識にどのような効果をもたらしうるのか。[前著 70]

こう記した際に前提としているのは、MPが可能性に関する研究だということである 。ところが上掲のような疑問は、まさにこのことを踏まえてらず、しかも r のことしか話題にしていない。ここでハッキング解釈について争うつもりはないが、少なくとも、可能性に定位した我々の方の議論は、たとえば、「MP を研究する際に、r が生じなかった事例を取り上げてもよいし、r に焦点化しなくてもよい」と考えるくらいには初めから柔軟に組み立てられているのである。

12. pqr のどれも、「ある人が・特定の状況において・どのような誰で有りうるか」という可能性に関わっているのである。

  もう一つ重要なことがある。ハッキングのMPのうち、たとえば「自分に対する分類の使用」や「人間に関わる専門的な知識」といった契機の方はフーコー的な関心──「自己」や「未成熟な科学」──に対応しているだろうし、「新たな分類による経験や行為の可能性の変容」といった契機はグッドマン的関心に対応するものだろう13。そして前著においては我々も、これらの契機をゆるやかに共有したのである。ところで、こうした契機の一つ一つについてバリエーションを考えてみると、かなり広大な研究スペクトルを考えることができる。つまりたとえば「専門的ではない」知識・分類に関する研究、「他人に関する」分類や「人ではないもの(~物や場所時間など)」の分節化についての研究、あるいはまたそもそも「可能性が変容しない」現象に関する研究などなど14。こうした研究はすべて、MPを取り上げる時と同じ姿勢で行える15。そう考えれば、ある研究がMPに属するかどうかは、こうした研究スペクトルの中における強調点の違いだと言えるし16、これが前著と本書の関係にも相当する。本書の論考には、前著と同様にMP的契機に注目したものもあれば、そうでないものもある。しかし後者も、前著のそうした契機は踏まえたうえで、それと関連付けが可能な仕方で仕事を進めているわけである。

13. グッドマンが「変容」について詳しい議論をしてくれないことに不平を述べた箇所で、ハッキングがまた──通常の哲学の流儀とは異なって──特に「詳細な具体例」、しかも「千年かかった進化の事例ではなく、ここ二、三十年の進化の事例」[SC 282]を要求していることは(彼が別の研究テーマにおいては──通常の哲学の流儀と同様──思考実験などを使った論文を書いていることと併せて)強調しておいてよい。「可能性の変容」は、一般的な類型が成立するかどうかも怪しいような、そして常人の追想や想像力では追いつかないような、複雑な仕方で生じるのである(→ナビ4)。当然ながら我々はこの箇所に、ハッキングの哲学的・概念的な議論と、社会学のような経験的研究分野との最初のコンタクト・ポイントを見ているわけである。
14. ハッキングがMPプロジェクトに注力したのは、人間に関わる科学が日々「新しい分類」を提供しており、それが人間に関わるものであるがゆえにループ効果が生じやすく、したがって「種類の制作」というハッキングにとっての端緒的な哲学的問題を検討する際に、そうした現象に注目することが好便だったからである。しかしまたそうした状況においてしばしば、関与者たちにとって非常に切実な──したがって学問的に取り上げてよい──道徳性を帯びた問題が生じるからでもあった。とはいえ切実な問題は専門的な知識によってだけ引き起こされるわけではないし、また社会学はもっぱら切実な問題だけを取り上げるべきだなどということもないだろう。
15. ついでに言えば我々はだから、ハッキング自身が巻き込まれた「自然種と相互作用種は完全に区別しきれるのか」などなどといった哲学的な議論にはまったく関知しない。というのは、仮にこうした点についてどのような決着がついたとしても、社会学者が行うべきこと・できることは変わらないからである。そして、この点について(社会学にとって)もっとも重要なのは、こうした哲学的問題が解決されなくても、社会学の仕事はまったく問題なく進められる、ということだろう。
16. たとえば、人々を作り上げることは「不運にも選ばれてしまった者だけでなく、われわれ皆に当てはまることなのだ。作り上げられるのは、多重人格者やウェイターといった以前に存在しなかった種類の人々だけではなく、われわれの各々が作り上げられるのである。」[HO 229]と述べるとき、ハッキング自身にもこうした発想はあるように思う。

  前著に関しては、既存の研究伝統における様々な「枠組」との相違を論じて欲しいとの多数のリクエストを受けたが、今回もそれは果たせなかった(それは論文集でおこなう仕事ではないし、そもそも本企画の目標には「新規性ある枠組の提起」は含まれていないのである)。代わりに、本書参加者たちが公刊した関連文献を本稿末尾の「文献2」にリストしておいたので、関心のある方はそちらをあたっていただきたい。[後略] (酒井泰斗)

文献1
ピーター・バーク, 1986, 『社会学と歴史学』(森岡敬一郎訳, 慶応通信).
イアン・ハッキング, 2006, 『何が社会的に構成されるのか』(出口康夫・久米暁訳, 岩波書店).
イアン・ハッキング, 2012, 『知の歴史学』(出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘訳, 岩波書店).
酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生, 2008, 『概念分析の社会学──社会的経験と人間の科学』, ナカニシヤ出版.
文献2

※下記のほかにナビ1文献の 鶴田・小宮 2007、浦野 2007、石井 2013、ナビ3文献の 前田 2008、Lynch 1993、ナビ4文献の 前田 2015 なども参照して欲しい.

前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編, 2007, 『ワードマップ エスノメソドロジー』新曜社.
鶴田幸恵, 2009, 『性同一性障害のエスノグラフィ──性現象の社会学』ハーベスト社.
石井幸夫, 2009, 「境界の言葉──永井潜著『医学と哲学』について」 『ソシオロジスト』 11, 武蔵大学社会学会.
石井幸夫, 2009, 「言語をいかに問うべきか」 『社会学年誌』50, 早稲田社会学会.
小宮友根, 2011, 『実践の中のジェンダー――法システムの社会学的記述』新曜社.
前田泰樹, 2012, 「経験の編成を記述する」 『看護研究』 45(4).
浦野 茂, 2014, 「保健医療分野におけるエスノメソドロジー――診断をめぐるいくつかの論点について――」『保健医療社会学論集』第25巻第1号, 10-16.
前田泰樹,2015,「物語を語り直す──遺伝子疾患としての多発性嚢胞腎」『N:ナラティヴとケア』6: 84-91.
石井幸夫, 2015, 「歴史の概念分析の分析──記述について」 『ソシオロジスト』 17, 武蔵社会学会.
前田泰樹,2016,「人間の科学の諸概念に対する社会学的概念分析」平子友長・景井充・橋本直人・佐山圭司・鈴木宗徳編『危機の時代に対峙する思考』梓出版,66-83.

執筆者紹介

※執筆順

浦野 茂うらの・しげる

慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。三重県立看護大学教授。 >>業績

前田泰樹まえだ・ひろき

一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。東海大学准教授。 >>業績

鶴田幸恵つるた・さちえ

東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。千葉大学文学部准教授。 >>業績

喜多加実代きた・かみよ

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程単位取得退学。社会学専攻。福岡教育大学教授。 >>業績

中村和生なかむら・かずお

明治学院大学大学院社会学・社会福祉学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。青森大学准教授。 >>業績

北田暁大きただ・あきひろ

東京大学人文社会系研究科博士課程退学、博士(社会情報学)。東京大学情報学環教授。 >>業績

石井幸夫いしい・ゆきお

早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学。社会学専攻。早稲田大学他非常勤講師。 >>業績

加藤秀一かとう・しゅういち

東京大学大学院社会学研究科Aコース単位取得退学。社会学専攻。明治学院大学教授。 >>業績

森 一平もり・いっぺい

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。教育社会学専攻。帝京大学講師。 >>業績

五十嵐素子いがらし・もとこ

一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。北海学園大学准教授。 >>業績
  • 『ペダゴジーの社会学』〔共著〕(学文社,2013年)
  • 「保育実践における子どもの感情経験の取り扱い――エスノメソドロジーの視点から」(『子ども社会研究』第17号,2011年)
  • 「『相互行為と場面』再考――授業の社会学的考察に向けて」(『年報社会学論集』第17号,2004年),他。

小宮友根こみや・ともね

東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。東北学院大学准教授。 >>業績
  • 『実践の中のジェンダー』(新曜社,2011年)
  • 「評議における裁判員の意見表明――順番交代上の『位置』に注目して」(『法社会学』77、2012年)
  • 「裁判員は何者として意見を述べるか――評議における参加者のアイデンティティと『国民の健全な常識』」(『法社会学』79、2013年)、他。

秋谷直矩あきや・なおのり

埼玉大学大学院理工学研究科理工学専攻博士後期課程修了。博士(学術)。社会学専攻。山口大学助教。 >>業績

海老田大五朗えびた・だいごろう

成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。博士(文学)。コミュニケーション学専攻。新潟青陵大学准教授。 >>業績
  • 「障害者の労働はどのように「デザイン」されているか?――知的障害者の一般就労を可能にした方法の記述」『保健医療社会学論集』第25巻2号〔共著〕(2015年)
  • 「柔道整復師はどのようにしてその名を得たか」『スポーツ社会学論集』第20巻2号(2012年),他。

酒井信一郎さかい・しんいちろう

立教大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学専攻。兼業主夫。 >>業績
  • "Envisioning the plan in interaction"〔共著〕(John Benjamins、2014年)
  • "Learning to become a better poet"〔共著〕(Information Research 20(1)、2015年)、他。

酒井泰斗さかい・たいと

大阪大学大学院理学研究科(物理学専攻)修士課程中退。音楽制作会社を経て現在は金融系企業のシステム部に所属。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。 >>業績

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