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┃ 満州回顧録続編 ――――――――――――― by gosakuさん
☆ あるシベリア抑留者の回顧談(1) ―――――――― 2003/09/26

1945年2月、米英ソ三国首脳会議がクリミヤ半島ある保養地ヤルタで開か
れました。米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、ソ連首相スターリ
ンが戦後処理と戦後世界の枠組みを協議した。

席上、米ソの間でソ連の対日参戦問題が話し合われ、米国はソ連の参戦を望ん
でいました。当時、米国は対日戦争は1947年まで続き、米国側将兵に百万
人の犠牲者が出ると予想していた。原爆製造のメドはつかず、日本を早期に敗
北に追い込むために、どうしてもソ連の参戦が必要でした。

一方ソ連の望みは、帝政ロシアが日露戦争の敗北で失ったすべての領土と権益
を復活することでした。スターリンは対日参戦の条件にそれを持ち出した。

樺太(サハリン)南部の返還、千島列島の引渡し、南満州鉄道の権益復活など
です。その要求が満たされるなら、ドイツの降伏後、三ヶ月以内に対日戦争に
加わると約束した。
米英は同意し「ヤルタ協定」を結んだ。これは三国の秘密の約束でした。

「当時の日本はヤルタ密約について全く知るところがなく、2月8日の非公式
放送、あるいは十二日に発表された公表文にも、ソ連の対日参戦については、
気配すら現れていません。(半藤一利氏の著書による) 日ソ間には1941年
4月に結んだ中立条約があり、スターリンはヤルタ協定から二ヶ月後の四月五
日、日本に中立条約の不延長を通告して来ました。

5月8日ドイツ無条件降伏、ソ連は兵力をソ満国境へ移し、米英との約束通り
日本に宣戦布告して満州に攻め入った。その日は長崎に原爆あ投下された日で
もありました。

日本が敗れた翌八月十六日、スターリンは極東軍司令官ワシレフスキーに電報
を発信し「日満軍のソ連領への移送は行わない、捕虜収容所は出来る限り日本
軍の武装解除の場所に設ける」としました。

ーーこの時点でスターリンは日本人捕虜のシベリア抑留を考えていなかった。
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┃対┃応が百八十度転換したのは一週間後の八月二十三日でした。
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彼は司令官に命令した。
・約五十万人の日本人捕虜を受け入れ、軍事捕虜収容所に送ることを義務付け
 る。
・日本の捕虜の中から、極東およびシベリアでの労働に肉体的に適している日
 本人を約五十万人選別する。
・ソ連邦へ送り出す前に、軍事捕虜を千人ずつの建設大隊に組織する。

わずか一週間の間に、スターリンはなぜ変節したのか?

「捕虜のソ連領への移送は行わない」とワシレフスキーの電報を発信したのと
同じ十六日、米国大統領トルーマンへ親書を送った。

「日本軍がソ連軍に明渡す地域に北海道の北半分を含めることを提案する。
境界線は釧路市と留萠市を結ぶ線で、この両市は北半分に含むものとする。
この点はソ連の世論にとって特別に重要である。周知のごとく日本は1919
年−21年、ソ連極東のほぼすべてを占領した。ソ連軍がもしも日本本土のい
ずれかに占領地を持たないならソ連の世論はおおいに憤慨するであろう」

スターリンは対日戦勝利の報酬に北海道の北半分を要求した、日露戦争で失っ
た領土と権益の全面復活ばかりか、日本のシベリア出兵への報復として本土の
領有に手を伸ばそうとした。
トルーマンは要求をはね、翌十七日「日本固有の全島の日本軍はマッカーサー
将軍に降伏するというのが私の意図である」

八月二十二日、スターリンは怒りの書簡をトルーマンに送り
「あなたの返答は意外であると言わざるを得ない」
そして翌二十三日の「五十万人の日本人捕虜連行」の決定です。
もしもソ連の野望が達せられ、日本本土がドイツの如く東西に二分されていた
ら今日の日本の姿は無かったでしょう。

スターリンの腹の底には、日本を南北に分けて、連合国は日本を分割占領すべ
きであるという意向が明らかに看取され、九州、四国は中華民国に、本州の南
半は米英に、そして北部・・・奥羽地方の三十八度線以北ぐらいはソ連が占領
管理するという下心が含まれていたのではないかとさえ思われます。
時の蒋介石中国総統の特使としてマッカーサー元帥と会見した張羣特使はソ連 の野心を看破し 「北海道にソ連軍が進駐した場合、日本の国土は完全に二つに分裂され、思想 的にも分裂と混乱をきたし、政局は常に安定を欠き、経済復興が遅れるばかり か、共産主義勢力の太平洋進出となって、アジア及び世界の平和にとって重大 な危機を招くでしょう」 と進言し、中国の日本進駐を固く辞退したのです。マッカーサー元帥はこれを 支持して、頑強に日本分割統治を主張するソ連のテリビヤンコ中将に、知日派 の対日理事会会長アジソン大使は将総統の日本分割統治反対と中国軍進駐辞退 の事実を基礎としてソ連の要求を粉砕したのです。 これに対しテレビヤンコ中将は、ソ連は必ず貴官(マッカーサー元帥)を最高 司令官の職から罷免させる、と脅かして、たとえ承知しようがしまいがソ連は 日本に進駐する、とまで極言した。そこでマッカーサーも「もしソ連兵が一兵 たりとも許可無く日本に侵入したならば、テレビアンコ中将を含めてソ連代表 を全部即座に投獄する」と言って応じ、ソ連の野望は潰えたのです。 論語憲問編(第14): 或る人曰く、徳を以って怨に報いば如何。子曰く、何を以ってか徳に報いん。 直きを以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん。 今大戦において最も被害、犠牲の大きかった中国が自発的に賠償請求放棄をし た歴史的勝利宣言の一説です。 八月十五日、蒋介石総統の「交戦勝利にあたり全国軍民及び世界人士に告ぐ」 は、敗戦にうちひしがれた日本にとっては神の声にも等しく、特に火事場泥棒 的スターリン首相の言辞と比較すると、正に悪魔と神ほどの差がありました。 この中国の人道的処理は対日戦に参加した各国にも意外の衝撃を与え、日本を 徹底的に骨抜きにするまで賠償を吸い上げようとした態度に大きなブレーキを かける役割を果たしたに違いありません。 【大久保伝蔵著「忘れてはならない歴史の一頁」(P109-126)時事通信社発行】 ┏━┓ ┃近┃代戦争の戦後処理で、スターリンが行ったシベリア抑留ほど野蛮な行為 ┗━┛はない。軍事捕虜を、戦利品代わりに自国へ強制連行して過酷な労働を 課し、日本人だけで6万を越す人々を死に追いやった。 国際法に違反したこの行為の残虐さと悲惨さは、これまで多くの人々によって 体験記やルポルタージュとして書き記されてきた。それがどんなに残忍で酷薄 な仕打ちであったかはいくら強調してもし過ぎることはない。 シベリア抑留の物語は読む者には、いつも暗くて重いものしか残さない。戦争 の勝利者は、如何なる非道残虐なことをしても裁かれることはないのか? 第一級戦犯として裁かれ、死刑にされた日本の戦争指導者は言うに及ばず、 フィリピンやインドネシアなどで捕虜虐待の罪で死刑になった多くの日本軍人 より、六万人余りを餓死、過労死させたソ連軍関係者を国際法廷はなぜ黙認し ているのか? 機会を見て、勝者が敗者を裁いた東京裁判というものの矛盾を検証していきた いと思っています。 戦後半世紀余の時を経て、戦争にまつわる話の聞き取りは時間との競争ではな いかと思われます。体験者が高齢化して、年々というより日々その作業は難し くなっています。 或る抑留者からの聞き取りをご紹介したいと思いますが、彼はもう84歳。 現在病床にあり、いかんせん60年になんなんとする空白があり、しかもシベ リア強制収容所という閉ざされた世界の出来事で、事実誤認も含まれていると 思います。読者の皆様のご指摘とご教示をお願いいたします。                   = この稿つづく:次の記事へ = ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘ └→ 感想や激励をよろしくお願いいたします。
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