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くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

繰り返される小説の題材。

book Organize thoughts

戯言の迷路になってます。 以下。

 

繰り返し、同じテーマを扱う小説家がいる。
恋愛、死生のような大きなくくりではなく、もっと細かいテーマ、題材を繰り返す。
一つの犯罪行為、一つの生まれ持った枷的要素、
一つの情景、一つの関係性、一つの結末。
それは意識して、また、意思表示の上で作られた物語であるものもあれば、
本人の考える道筋に自然と入り込んできてしまっているように見えるものもある。
自然に、とは、まるで、
作家が筆を走らせる原稿用紙に、元から薄く印刷されているかのように思えるほど、自然に、だ。

無意識化でなされる(と思われる)その繰り返しは、何故なのだろう、と最近考えていた。
たまたま、そういう類の小説家の本を、続けて読んだから、気になっただけなのだけれど。

はじめはそれを、心的外傷のせいだろう、と思った。
そういう目に遭った事があるから、そういう生き方をせざるを得なかった自分がいるから、
忘れられない記憶があって、それらが書き手の無意識を、支配してしまっているのではないかと思った。
でもその結論では、あまりにも、小説家の仕事ぶりを愚弄しているような気がしてならない。
意識できない無意識、というものはたしかに、小説家を例外とすることなく誰にでも存在しているだろう。
けれど、それをこう幾度も幾度も見逃し続けて、生涯にわたり作品を作り続けているなどとは、それこそ信じられる話ではない。
読み手が気付くくらいなのだから、書き手はとっくに気付いているだろう。

なら、意識に浮いたままの心的外傷の影響なのか、と言えば、それも、原因としては不足すると思う。
事実は小説より奇なり、とは自分でもつくづく思う事ではあるけれど、こうも大勢の人間が、
そのひとつの題材に精神を支配されて、書いても書いても解放されないというのは、あまりに救いがないから。
それにその作業は、ひどく苦しいものだと思う。そうそう、気を確かに持ったままで、続けられるものではないだろう。

自分から派生した感情以外のものは、書けないのか、と言えばきっと、そんなことは無くて、
よく、悪意をあまりにリアルに表現するために、作家そのものがその思想を持っている、と言いきられているのを見るけれど、
それは違うのだろう。
そこは、それこそ作家とは職人みたいなものだと思うから、なんとか想像を巡らせるなり、丹念な取材によって知見を深めるなりして、
最後には作家の脳を通ることにはなるけれど、それなりに、自分にはあり得ない感情も、表現しているのだろうと思う。

けれど、そうは思えない、という気持ちもよく分かる。
あまりに鬼気迫った表現や、生々しすぎる感情がを見ると、作家そのものと結び付けて考えてしまいがちだ。
自分の中にある感情以外の感情、つまり他人の感情を、自分の選んだ言葉で表現する事は、真には可能とは思えないからだ。
しかし、それは、どこかの教科書に載っているからそう考えるのではない。
自分に出来ないから、という理由で他人にも出来ないだろう、と結論してしまうのだ。
人はついこうして、自分の能力の中、で答えを見つけようとしてしまう。

その依怙贔屓な物差しでの答えなのだけれど、自分も、結局のところ、自分の経験した感情を自分以外が正しく表現できるはずがない、と思っている。
自分自身にも、表現なんてしきれないのに、他人に表現しきれないだろう、と。
しかし現実には、他人に掛けられた言葉に、自分でも表わせられなかった感情がぴったりと合う、という感覚が存在する。
「その通りです」と思う事があるのだ、怖いくらいに。でもそれは、自分の意思の代弁ではなくて、偶然やあるいは理解による、優しさだと思っている。
救いというには重すぎるし狂気めいているだろうから、優しさ、でいいだろう。
あるいは、もともとが単なる、自分の言語化の劣りだったのだ。

なら、小説とは、この自分のあちこちする戯言と同じで、
ただの、言葉遊び、なのか。
繰り返されるその題材には、意味など無いのか。

その答えは、結局、何処にあるのかと言えば、小説の中に探すしか、ないのかもしれないと思う。
題材の真意も、その先にある絶望あるいは、救いも、見つけられるとすれば、小説の中だけなのだ。

繰り返されるその題材を、印刷を透かして読んでゆく。
知らない間にそれは自分のなかにも刷り込まれていって、そうしていつか、書き手が、答えを見つけた瞬間を、
自分も小説の中で、見つけられるのかもしれない。

それが、書き手にも、自分にも、無意識のうちの気付きであれば、最高なのかもしれないけれど、
やっぱり、意識のうえで、見つけてみたい、と思う。
見つけられた喜びも、見つけたその絶望も救いも、意識して、言葉として呑み込めたら、と夢見ているのだ。

しかし、たぶん、自分は、見つけられないだろうな、と思う。
それに、答えは、もう、幾度となく繰り返されているのかもしれない。
とくに自分はすごく、苦手だ、書き手の『伝えたい事』を見つけ出すのが。
学校の教師が、何度も問う、
『この作品の、伝えたい事はなんでしたか?』

そんな答えが、そうも簡単に言葉に出来るものなのなら、
小説の最後の一文に、そのままの形で明記しているだろう、と思ったものだ。
明記しないで表現する事こそが小説だ、という事なのだろうけれど、自分にしてみれば、伝わらなければ、無いと同じだ。
文字を追うだけの作業では、感想文は書けない。

でも、そうして、簡単には見つけられないからこそ、小説を読むのは、やめられない。
人間はどうしても、探求が好きだ。答えは見えない方が、わくどき、なのだ。


自分の人生で、繰り返される題材、とはなんだろう。
それは、こうして言葉を綴る中に、本当は繰り返されているのだろう。
そしてそれには、気付かない、のだ。自分も他人も。

それってすごく、不思議。

それに、答え答え、と自分は言葉を探してばかりだけれど、本当は、それは間違いだ。
この世界には、人間には、言葉が先にあるのでも、最後にあるのでもない。

言葉に出来ない、感覚や情景こそが、きっと、一番純粋な、答えなのだ。


繰り返される題材が、好きだな、というただそれだけ。
そしてその中に、無意識に透けた感情こそが、一番強く、美しい、と自分は思う。

 

さあ、戯言という名の休憩は終了。もちろん普段はこんなに小難しくも無意味な事は考えてなどいない。ただ、そこにある、小説を、読むだけである。

しかし、小説を読む、というただそれだけの行為もまた、一番純粋な、答えなのかもしれない。


くらむ