短編ぶっこみ匣
梅雨
私は座っている。
小さな駅の前の、小さな広場の真ん中の、花壇の周り。
私の周りをぽつりぽつりと、傘を杖の様に携えて人々が足早に行く。
誰もが空を見なくなった時代、こんな日は時折誰かが不安げに空を見上げる。
私は待っていた。
誰を、と問われても答える術は私にはないのだけれど。
歩いて行く人々は、何か大きなものに駆り立てられている様に見える。
…けれどよくよく思えば、私も別の大きなものに駆り立てられてここにいるのだ。
人の流れがふと絶えた。そういう時なのか、何かの前触れなのかはよくわからない。
こういう時の静寂は、好きだ。この静寂は、空の吠える声の様な気がするから。
音が灰色一色の空に吸いあげられている。風がない。
音をたてる存在が…動くものが、今私の周りにはないのだ。
静寂が、語りかけてくる。
静けさが重くなってきた頃、微かに車の行く音がその静けさを打ち払った。
そうしてまた、人が通りだす。時が、流れだす。
相変わらず前か下しか見ていない人々を、私はぼうっと眺めた。
何かがあるのは周囲と足元だけだ。特をしたければ顎を引いて歩く、それが、今。
アスファルトに固められた地にはしかし、可憐な花の一つすら咲かない。
それをもう知ってしまっているのに、人々は憂鬱な顔色で下ばかり見て歩くのだ。
頭に一つの記憶がよぎる。いや、繰り返し見て焼き付いた景色ともいえる。
あの目だけは地上を見た後、必ずその穢れを嫌うかの様に高冥を仰ぐ。
鋭い訳ではないが、とても思慮深げな目。
─誰もが、空を見ることを忘れているのですね。
─そうだ。
空から降ってくるもの等…
…これ位しか、ないのだから。
音もなく、目の前のアスファルトに暗い色の小さな円が唐突に現れた。
みるみるうちに、その数が増してゆく。
私の肩に、髪に、冷たい感触を伴ってそれは静かに降り始めた。
…堕栗花。
銀の線が縦にいくつも引かれていく。
現実を切り刻む、穏やかなノイズ。
天気予報の通りに、私の待つものが一つ、やってきた。
傘の音が通っていく。
けれどアスファルトに刺さる雨は、何の音もたてない。
あともう一人。私の待つもの。
さらさら、さらさら、遮るものに水が当たって弾ける音が連なっている。
何故かこの時期、私は毎年神隠しに会う。
会うことに、している。
毎年両親はこの時期になると私を外出させまいとするようになった。
が、堕栗花の日だけは何故か親に都合ができる。
きっと、あなたのせい。
さらさら、が、ざぁ、という音に変わりアスファルトもさざめきだす頃、銀の糸は現実を埋め尽さんばかりになっていた。
いよいよ凍え始めた頃、私は水のノイズの向こうに深い影を見た。
私は立ち上がった。びしょ濡れた顔を拭って、影を見つめる。
待ち人が。
私の前まで歩み来る。
ぱらぱら。ぱらぱら。
「…あなたらしくないですね。傘、なんて」
「臥せられては、私が困る」
らしい言葉を呟いて、らしくない傘を私に差しかける。
私はおとなしく寄り添った。黒い大傘が、丁度いい。
「待ったのか」
「いいえ、そんなには」
未だに笑いなのか溜め息なのかわからない声を洩らして、あなたは私の濡れた髪
を梳き上げる。
…あなたはこれが、好きなのだ。いつも出会う日に、これをする。
「いつも傘を持たんのだな」
「あなたの来る先触れですから」
「寒いだろう」
「…ええ」
言うとあなたは片腕を上着から抜き、私を引いて上着に巻き込める。
私はあなたを見た。
あなたは静かな目を私から反らすところだった。
私はあなたの嫌いな下を見た。
「…あなたが恥じらいもなくこんなことをするものですから、もう慣れ始めてしまったのですよ?」
あなたは目を細めて、雨を見ている。その向こうの、銀の空を見ている。「にしては度毎寒いと言うが」
私が答えに困った途端に、あなたはまた笑う様な溜め息の様な声をだした。
「…意地悪」
独り言の様に呟くと、あなたは私を片手で抱き寄せる。傘が揺れて、大きな滴が
ぱたぱたと落ちた。
「意地悪は、どちらだ?」
私は答えない。
「夏の前の長雨のうちだけしか、共に過ごさせてくれんとは」
私には、答えられない。
「私がお前を乞うてはいけなかったのかも、な」
私はうつ向いたまま、言った。
「天之川の鵲より、梅雨は長らく橋になってくれます」
きっとあなたは、空を見ている。
「あなたが言ってくれたのですよ。私がそれ以上あなたの側にいては、私が壊れてしまうから、と」
あなたを見た。
あなたは私を見ていた。
私は空を見た。
あなたといるときは、世界には雨しかないから。
「儚いな、お前達は」
あなたがゆったりと歩き出した。
私は空を見たまま着いてゆく。
また長らく、私は現から消え失せるのだ。
梅雨が、明けるまで。
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