短編ぶっこみ匣
翡翠璃黒曜石英海松雲母虎目炭玉紅炎
翡翠格子
寒い…
そんな感覚に、少女は仕方なく目を開いた。
「……え」
翠。
少女の目に映ったのは、翡翠色の木々。
「…森…?」
冴え冴えとして、しかし鬱蒼と広がる森の中に、少女はいた。
少女は焦った様に体を起こす。
「…何で…」
昨日、少女は確実に自宅で寝付いたはずだったのだ。
それが涼やかな碧の苔絨毯の上で目を覚ましたともなれば
不安になるのも然りである。
軽くふらつきつつ少女は立ち上がった。
「本物…?」
言いつつ、少女は足下の苔に触れ、低木の葉を触り、
木々の向こうの景色を見やる。
「本物だ…」
そこは、樹海とでも言うべき所だった。
海の中の様に深く、澄み渡った空気が世界を満たしていた。
多くの木が生い茂り空を隠していたが、
不思議な事に葉の翠に染まった光が森の明るさを保っている。
下の方には苔むした岩があり、岩の合間を綺麗な水が川となって流れていた。
藻の緑もまた美しい。
低木と倒木がいくらか見えるが、それも天鵞絨のような苔が覆っている。
美しい森だった。
「何でこんな…?」
少女は戸惑いながら辺りを見渡す。夢でもなんでもなく、それはただ、現実。
「…?」
少し歩き出し、何かに躓いて少女はよろめいた。足下を見れば…
「っ!?」
実物に遭う事は滅多にないのに子供すらそれを知っている物。
…人間の、頭蓋骨だった。
黄ばんだ茶色の上には、苔も大してついてはいない。
「何でこんなの…」
少女は怯えて下がり、再び躓いて今度は尻餅をつく。
「!」
やはりそれは人の骨らしかった。少女は泣きそうになりながら立ち上がる。
声も出ない。
美しい森に、多くの人骨が転がっていた。
少女は怯えながら、辺りを見回す。
この森には、異常な程生命の気配がなかった。
と、少女が一点で目を止めた。
黄ばんだ紙。…一冊のノート。
縋る様に、少女はそれに駆け寄った。
走り書きの様に残された文字…それは。
『ていこうしても たすからな い ばけもの が』
黒ばみは…血だろうか。
「う、わ…ああぁあぁぁ…っ!!」
そこは、翡翠色の、牢獄だった。
瑠璃奔流
少女は少しだけ落ち着きを取り戻し、僅かに血の染み付いたノートをめくっていた。
ノートの持ち主も、少女と同様目を覚ましたらこの翡翠の森だったらしい。
そうしていくらかさまよい、やはり少女と同じ様にこの骨達を見付けて恐怖し、絶望した。
『ここへ来て4度目の夜が明けた。ここの植物はどれも苦すぎて食べられない。
とても空腹だ。それにこの森は寒すぎる。ろくに眠る事も出来ていない。
…思考力が落ちているようだ。もう限界かも知れない。
…先ほどから妙な音が近付いてきている気がする。ずるずるという音だ…』
読んでいて、少女もふと空腹を感じ始めてしまった。
しかし動く気にもなれず、再びページをめくる。
そのページには、今までを遥かに上回って乱雑な文字が並んでいた。
『あれが生き物だと誰が思うんだ?見たこともない化け物だ、
あれは怪物だいまいきている自分がふしぎでならない…六本足?六本足の何だあれは!
蛇か何かかと思えば虫のあし…何なんだあの舌は?
どろどろずるずるあの音はあの体がたてるおと。
数十本の触手がのたうちながらせまってくる、あんな怪物がこの森にいる?
あの骨は…エサ場なのか?あのおとがわすれられない。
ずるずるずるずるはいずってキテこちらをミツけた途端に…体をツきやぶってくろい、足が…ぎしぎしときしむオとをたてて怪物が追ってきて…数十もある牙ガすぐうしろで音をたてる。
ぎじゃり、ぎじゃり、…恐ろしいおとをたてる。
駄目だ、じっとしていられない。急いであのエサ場から離れなければ。しかし』
そこで少女はノートを一気に閉じた。
音が…したからだ。
ずる、ずる、ずるり。
濡れた何かを、引きずる様な音。
少女はノートを放り捨てた。
翡翠色の森の中、ここは骨のある所。
エサ場。
少女は走り出した。
方向なんてどうでも良かった。とにかくエサ場から離れたいから。
ずるり、ず、ずる、ずる。
音が少し遠くなった気がして、少女は安心して速度をゆるめる。
…ふと。
「何だ、見付かってしまったのか」
森に誰かの声が広がった。
少女がびくっとして声の方…樹の上を見上げた。
翡翠色の葉と枝が揺れているだけ。既にそこには誰もいなかった。
「…誰かそこにいるのね!?」
返事はない。
その代わり、少女のすぐ後ろでずるり、という音がした。
少女がばっと振り向く。
それは、何とも形容し難い生物だった。
深い暗い青紫色の、とげのある蛇かナメクジのような体。
顎の咬み合わさる所には牙が剥き出しで、全体が虎挟みの様な形になっていた。
白銀に濁った眼が6つ。
そして、黒く節のある虫の様な足が六本あり、さらに対表から太い触手が幾本も伸びている。
神々しくすら見える、怖ましさ。
「そんな、嫌…なんでこんな…」
少女が脅えて退がる。しかし目線を反らせはしない。
ぎぐぁぁあああ!
その生き物が濁った声で鳴く。幾重にも並んだ牙が擦れてぎじゃり、と音を立て、
7、8本に先が分かれた舌が見えた。
「きゃあああああ!!」
悲鳴をあげて、思わず頭を伏せ、そのまま身を返し走り出す。
ぐぎぃあああっ!
その生き物が吠えて、触手を伸ばして少女を捕えようとし、また牙を鳴らして咬みつこうとする。
下を向いたまま走り出した少女は、どん、と何か体温のあるものにぶつかって凍りつく様に足を止めた。
『ていこうしても たすからな い ばけもの が』
ノートの文字を思い出しながら、少女はゆっくりと、顔をあげた。
黒曜双繭
…それは、とても美しいものだった。
森と同じ色をした体を閃かせ、その生き物は軽々と少女を飛び越える。
少女は呆然としてそれを見遣るだけ。
ふわり、と長い鬣がなびき、しなやかな足が体をしっかりと支えて着地する。
三対の翼を大きく広げ、その生き物は瑠璃色の怪物を真っ直ぐに見た。
怪物が、伸ばしかけて止めていた触手を再び蠢かせ、
森の色をした生き物を捕えようとする。
長く軟らかな尾をしならせて、森の翠の生き物は跳躍し、
鋭く大きな爪で触手を打ち払う。
ぐぎぃいいああ!
怪物が怒りの声を上げる前で、再び鬣をそよがせて着地したその生き物は、
ぐいと身を張った。
すぐ後ろで立ち尽くす少女の耳にぐるる、という鍋の煮たつ様な音が届いて、直後。
全く音のない、蒼に金にぎらつく炎を、森の翠の生き物が瑠璃色の怪物に吹きかけた。
ぎぃぐぁぁあおぉぉっ!!
瑠璃色の怪物が絶叫した。
蛇の様な体にずるずると触手や足が収まっていき、
身をのたうたせて怪物が森の奥へ逃げ去っていった。
最後まで呆然と少女はそれを見ていて、
翠の生き物が少女に向き直るまで自分がどういう状況なのかすっかり失念していた。
それは、竜だった。
少女の身長の1.5倍程の位置から、黒っぽい眼が静かに見下ろしている。
「嫌だっ…あのっ……助けてくれた…かな…」
森の空気と同じ色をした竜は、少女を黙って見ているばかり。
先程から一声もあげない。
「えっと…できれば…襲われたくは、な…わっ」
少女が言っているのを聞いているのかいないのか、いきなり竜は羽ばたいた。
翠の柔らかな羽毛に覆われた鳥の様な羽と、
二対の、虫のものの様に透き通った細い羽とが、
冷えた森をさらに凍えさせる様な風をおこす。
少女が驚く前で、翠色の竜はふわり、と宙に浮かび、次の瞬間。
「っわああぁぁぁぁぁっ!?」
少女も宙に浮いていた。
後ろ襟を翠の竜にくわえあげられて。
「何っなにっ?!放してよぉぉっ!」
少女は必死で叫んでから、本当に放されても危ないと思い出す。
「きゃああ!」
森の木々をかいくぐりながら、竜は少女をくわえたまま飛んだ。
ほんの少しして、竜は急に減速したかと思うと、
そのままふわりと着地し少女をそこに放した。
それからすぐに竜は舞い上がり、身を翻して元来た方へと飛び去った。
「…何?」
少女は驚きつつも辺りを見回す。別に森の外まで連れてきてくれた訳でもない。
森に差し込む光が深い青みをおびてきた。もう日が落ちるのだ。
少女は少し震える。
「寒い…」
この森は相当気温が低い。家で寝た時の服で少女はいる訳だから、
余計に寒く感じているだろう。
少女は考えた。
夜になり、このまま眠ったとしたら命を落とすのではないか、と。
少しでも暖かい場所を見付けようと一歩踏み出して、その瞬間一つの方法を思い付く。
あの竜の傍らなら。
もちろん危険だろうと少女も思った。
しかし、あの瑠璃色の怪物がいるここにいるのも同じ位危険だった。
少女は意を決して、竜の去った方へ歩きだした。
思ったよりも短い時間で、少女は再び竜を見つけた。
翡翠の森の奥に大きな岩があり、中程に横向きの大きな裂目がある。
そしてその裂目から、翠の尾が少し見えていた。
もう夜は更け、森の上にちらほらと見える空は暗い。星の一つも見てとれなかった。
森が淡く光ってでもいるのかもしれない。
少女は岩穴の様子を見ながらかたかたと震えていた。夜になって余計に冷え込んでいた。
少女は恨めしげに黒い夜を見上げる。
硝子のように、刃物のように冷たい空だ。
少女は意を決して岩に近付く。岩の裂目はそれなりに高い所にある。
かじかむ手指を必死に広げて、少女は岩を登り始めた。
凹凸の多い岩だったので、少女も言う程の苦労はせずに登りきれる。
翠の尾。この竜はどちらかと言えば鳥に似ている。
鱗ではなく柔らかい羽毛で全身が覆われている様だ。
思ったよりもその裂け目は広かった。少女なら立っても何の問題もない。
少女が静かに、ゆっくりと奥に向かう。
翠の竜は眠っているようだった。鬣はふわりと広がっていて、美しい。
いい加減寒さが限界に来ていた少女は、ほとんど何も考えずに竜に近付く。
柔らかそうな翼が広がっている。
巣、と言えるのだろうか、森の木の葉を敷き詰めた上で竜はぐっすりと眠っているようだった。
少女はそっと竜の傍らにしゃがみ、慎重に翼を持ち上げる。
少し重かったが、少女は静かに静かに翼の下に潜り込んだ。
少しの間、少女は緊張して微動だにしなかった。
が、すぐに思っていた通りの温もりにため息して目を閉じた。
柔らかい羽毛がとても心地よい。少女は不思議な位あっという間に眠りに落ちた。
ものの、数秒後。
竜が消し炭色の眼を開いて、自らの翼の下ですっかり眠ってしまった少女を見つめた。
…それから、何事もなかった様に眼を閉じて、翼が少女にしっかりとかかる様にした。
目を覚まして直後、少女は自分が何処にいるのかすっかり忘れていた。
だからもう少し眠ろうと、寝返りを打った。
目が、合った。
「ぇわあぁぁぁぁ!?」
寝ぼけて変な声を上げて、少女は飛び起きた。
消し炭色の眼をした竜は、鳴く事なく少し下がった。
一瞬お互い、動きを止める。
竜の様子からして、少女が起きるのをずっと待っていたらしい。
消し炭色の眼が黙って少女を見ている。
「あ…その…寒くて、それで…」
通用するかわからない言い訳をしつつ、竜からじりじりと離れる。
と、不意に竜が少女から目をそらす。
直後、ばさりと三対の翼を広げ、一瞬の内に竜は岩の外へと飛んでいってしまった。
「えっ!待って、そんなっ」
少女は置いていかれた恐怖やようやく感じだした寒さに、竜を追おうと岩を急いで這い下りる。
大きく羽ばたきながら、翡翠色の竜は真っ直ぐ飛んでいく。やはり、速い。
少女は必死で走った。裸足だが、苔の森ではさして辛くはない。
「待ってよーっ!」
一応叫んでみるが、竜が戻ってくる筈もない。
あっと言う間に竜の姿は、色のせいもあって森の空気に溶けてしまった。
少女は成す術を失い、走るのを止めてはぁはぁと息を整える。
ほんの少し悩んでから、少女は再び走りだした。
ここで止まっているのが怖いからだ。
何にせよ竜の行った方に向かう位しかない、そう思ったのだ。
柔らかな苔。
美しい木々。
所々を流れる清流。
静かな空気。
そして。
石英浄刹
幾つ目かの木々の間を駆け抜けた途端、少女は思わず足を止めた。
急に、翡翠色の光が白い光に変わったからだ。
見上げると、木々の間が開けている。普通の日光が降りて来ているのだ。
「あれ…」
少女は目を疑った。
先ほどまで全く見えていなかった…「村」が現れていた。
数人の子供達が、少女をじっと見ている。
「…人だ…」
驚きに少女がぽかんとしているうちに、
子供達がぱたぱたと村の奥へ走って行ってしまった。
少女は何だか嫌われた様な気持ちになって立ち尽くす。
ふと森を振り返る。
中にいるときは不思議と明るかった翡翠色の森。
しかし森の外から見ると鬱蒼とした暗さを孕んで見える。
少女は改めて、自分がいる場所のおかしさを感じた。
「…本当だよーっ」
久しぶりに人の声を聞いた気がして、少女は村の方に向き直る。
まだ見えないが数人の子供が近付いてくる様だ。
「女の子!僕らよりおっきいの」
「はだしなのー」
どうやら、さっきの子供達が誰かを呼んで来たらしい。
はっとして少女が耳を澄ます。
誰かが小さな声で子供達に答えた様な気がしたからだ。
それに更に答える様に子供達の声。
「だいじょーぶ!そんちょうまだ寝てるもん。大人はこんな早起きしないもん」
「うん、私たちそにの事好きだもん!」
声の主達が、家々の向こうから現れる。
三、四人の子供達に引っ張られて、一人の男がいた。
麻かなにかで出来ている様な簡素な服。
防寒具の様なものについたフードで、顔は見えない。
その男が、少女の方に顔を向けて、口を開いた。
「あぁ、本当だ。紛れ込む事もあるんだねぇ」
少女はその声に聞き覚えがあった。
しかし何かを言う気にもなれず、ただ相手を見返した。
…空恐ろしい程、綺麗な声だった。
子供達は少女を警戒してか、黙っている。
男は待っててね、と彼等に言うと、静かに少女に歩み寄る。
何だか不思議な気配を持つ男だ。少女は少し怖くなって一歩退がる。
「怖がらないで。彼らも敵だなんて思ってないから」
ふわりとした声に呼び掛けられて、思わず少女は立ち止まる。
どうしてか聞いていたくなる声だ。
男は少女が立ち止まったのを見届けると、フードを下ろす。
若々しくて優しい、青年の顔が現れた。
黒いさらさらとした髪と、その端色をした眼に、少女は一瞬目を奪われる。
「僕はソニっていう。君は?」
知らない人に名を名乗るべきか、少女は迷う。
しかしその思いに反して、少女はあっさりと言葉を紡ぎ出していた。
「鈴音…」
端色の眼を柔らかに細めてソニは微笑む。
「やっぱり…ここのものじゃないな。君もイチヤクサマに追われて来たのかな?」
「イチヤクサマ?」
ソニのことばに促される様に少女は言葉を返す。
「森にいるものさ。見たろ?青紫色の大きな姿」
「…あれが…」
耐え切れなくなった様に、子供の一人が声を出す。
「おねえちゃん、イチヤクサマ見たのっ?」
誰より少女が吃驚して口ごもる。ソニが少女の様子を見て笑いながら言う。
「この子達はイチヤクサマを見た事がないものだから、いつも森に入りたがる。教えてやってよ、あいつの怖さ」
躊躇ったつもりだった…のに、少女はすらすらとあの怪物の事を話していた。
何だか自分が何を言っているのかよくわからない。
そう思っているといつの間にか子供達が怯えてソニにくっついたりしていて、自分の言葉も止んでいた。
(そんなに話したかったのかな…私…)
そう思いつつソニを見る。
端色の眼が微笑して、それから子供達の方を見た。
「わかったろ、森は危ないんだって事」
「うん…」
「いるの?おうちにきたり、しない?」
「こわいよーっ」
「大丈夫。ちゃんと村にいれば何も来ないよ」
ひたすらくっつく子供達を嗜めつつ、ソニは少女に話しかける。
「話、上手いなあ」
「そうですか…?」
少女は戸惑った。自分が何をどう話したか全く覚えていない。
そんな少女の思いに気付いているのかいないのか、ソニはくっついてくる子供達を軽く引き離しつつ言う。
「一応村長に言いに行かないと…けどまだ朝早いしなあ…うん、一旦うちに来なよ」
と、その言葉に子供達が顔色を変えた。
「え、そにのおうち?」
「あたしもいきたいっ」
「ぼくもそにのおうちいくー」
ソニはふう、とため息をついて、
「駄目。お客さんのいない時にしなさい」
「えー?!」
「いきたいー」
あまり聞き分けの良くない子供達に何度か説得を試みた後、
ソニはふいにゆっくりと息を吐いて、それから言った。
「今は帰って眠りなさい」
美しく言葉が響いた。歌の様な声音に、何故か少女は軽いめまいの様なものを感じる。
しかしそれを忘れる様な出来事がすぐに起きた。
「はーい」
子供達が声をそろて返答し、ぱらぱらと帰り始めたのだ。
少女が恐怖にも近い驚きに呆然としていると、ソニがその顔を心配そうに覗き込む。
「大丈夫かい?」
「えっ、あ、はいっ」
ソニはほっとした様な表情を作ると、少女に背を向ける。
「ついてきて」
歩き出すソニに、少女は大人しくついて行った。
その村の家々は、不思議な材で出来ていた。
皆半透明の様な白い色の…木材だった。
ソニに聞いてみると、
「ああ、あの森の木を切り出して、丁寧に鉋掛けするとああいった雪みたいな材になるんだよ」
とのこと。
昼ではそういう透けた様な白であり、夜は家々の明かりで淡く光って見えるらしい。
木があり、草があり、家畜がいて畑がある。
機械の気配はないが、それがまたやさしげな空気を生み出している。
のどかで美しくて、幸せな感じのある村だった。
村はずれに、ソニの家はあった。
それは初めて見た時、大きな茂み、としか見えなかった。
木々が絡まり合う様にして家を包んでいるのだ。
「あの…なんでソニさんの家だけ…」
「…まあ色々と。中で話すよ」
いいながら、ソニは好き放題茂っている木の枝をかき分けて家に向かう。
少女もそれに習ったが所々ではソニが通り道を作ってくれた。
「小さい子とかがときどき冒険しに来てしまってね…」
呟くソニは口調とは裏腹に優しい笑顔を浮かべている。
「たのしいんでしょうね、きっと」
少女が言うと、ソニは苦笑して頷いた。
木々の間を抜けると、目の前に家の扉が現れる。
この家だけ、普通の木材で出来ていた。
ソニが懐から、見た事もない様な不思議な形に彫られた木片を取り出して扉に差した。かちり、という音。どうやら鍵らしい。
ソニが扉を開ける。
「どうぞ。何もないけれど」
「お邪魔します…」
少女は導かれて家へと入った。
天井がそのまま屋根の様だ。
木で組まれた枠の上に半透明の葉が敷き詰められていて、白い光が入って来ている。
家の中を見渡す。本当にものが少ない。
少女は、何かなくてはならないはずのものがそこにはないと感じたが、
それが何なのかはわからなかった。
「何もないからおもてなしも出来ないんだ…申し訳ない」
「い、いえ」
家の中でもソニの声は少し小さかった。それでもその声は美しく、よく通った。
椅子を勧められて、少女は座る。ソニもその前に座った。
少し静かになった。
ソニが何を話そうか考えているらしく机を眺めているのをみて、少女は意を決した。
「あの」
ソニが顔を上げる。
「…一度あなたの声を聞きました。…森で…」
ソニは少し驚いた顔をした。それから目線を再び落とし、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「…やっぱり覚えていたか。…ごめんよ、助けられなくて」
「…」
「人間は、イチヤクサマに手出しをしてはいけないことになってるんだよ…一応『様』がつく存在だから」
「あれって…一体何なんですか?」
ソニは少し顔を曇らせる。
「村ではわかっていないのが現状だ。わざわざ会いに行く人もいないし」
「……ソニさんは…?」
「ん、色々と…。肩身が狭い身なもので」
「えっ…ご…ごめんなさい」
笑って重そうな事をさらりと言われ、少女は少なからず狼狽える。
ソニの方は全く気に止めていない様子で、
「別に構わない。初めましてなんだしさ」
と笑う。
相変わらずきれいな声だった。
「…ここ、どこなんですか?」
「何とも言えないな…ただ、ここの人の半数程度は君と同じ、『日本人』だ」
「え?!そうなんですか…?」
「ああ。残りは元々ここに住んでいた人。ここが何処かわからないから何者かははっきりしないけど」
「でも、日本語」
「日本語…そうだね。もしかしたらこの村には元の言葉がなかったのかも知れない。やたらと音や声には敏感な人ばかりだし」
少しだけ声が沈んだ様な気がして、少女はあいずちに困る。その間にソニは続けた。
「君もわかるだろ、この…声」
「声?」
「妙な感じがするだろう?」
「妙、っていうか…」
「…これはね、この声は…ある意味で、病気なんだ」
どことなく淋し気に、ソニはそう言った。
海松麝香
少女が細かい事を聞けずにいると、不意にソニは椅子を立った。
「ああ、村長がもう起きた頃だよ。一応言いに行こう」
「…どうしてですか?」
「半分が日本人って言ったろう?
村に紛れ込んだ日本人を住まわせてきてるんだ、この村。
まぁ、実際に村に来るところを見たのは初めてだったけど」
「…帰る、方法は…ないんですか?」
少女が聞くと、ソニはその半色の眼を伏せた。それから呟く。
「…ごめん」
「どうしてソニさんが謝るんですか?!」
「ん…」
慌てて問い返す少女を、ソニは暫し見つめた。
黙って見つめてくる甘い程の半色。酔った様な気持ちにさせる眼だった。
しかしその眼はすっと少女から反れる。
少女は思った。彼は今、何かを言おうか迷ったのだ、と。
「…行こう。大丈夫、みんな優しくしてくれる」
「ソニさん」
「………ごめんよ」
「…」
少女は戸惑ってから、もう一つ尋ねた。
「何で、日本の人がここに…?」
再びソニの目が少女を見た。
それからその半色の眼が伏せられ、そのままで柔らかな声が静かに紡ぎだされた。
「森に…ショウテキという生き物がいる。たった1匹だけだ。
滅多に鳴き声をあげる事はない…」
「翠色の…竜ですか?」
「会ったのかい?」
少し寂しげな様な笑みをソニがふっと浮かべた。ソニは続ける。
「…基本的におとなしい生き物だ。
イチヤクサマを追い払うだけの力を持っている珍しい生き物。
けれどこの村では悪魔として恐れられているんだよ」
「どうしてですか?」
「一応イチヤクサマは神として崇められているのさ。
恐ろしいけれど森の外から魔物が来るのを防いでくれてはいるからね」
「森の、外…魔物…?」
「この森の外は魔物が余りにも多い。人間はここでしか生きられない」
少女はぞっとした。まるで…牢獄だ。
「それと…ショウテキが悪魔と忌み嫌われる理由のもう一つは、その鳴き声だ。
滅多に鳴かないショウテキが鳴くと様々な災いが起こる」
「…ショウテキが鳴いたんですね?それで、私…」
少女が言うと、ソニは少女から目を外し、静かに一つ頷いた。
「ときどきそうやって、人がここに引き込まれてくる。何の脈絡もない。
誰にも防げない。…ショウテキは死なない生き物の様だ。
1匹しかいないのに、ずっと前からショウテキの声は定期的に森に響きわたってきた」
少女は黙り込んだ。
その様子を、ソニはしばらく静かに見つめていた。
家を囲む木々を抜けると、子供達が笑顔で迎えてくれた。
ソニが出てくるのを待っていたらしい。
「そにー!」
「おはよー!」
「ああ、おはよう」
少女はその様子を見ていて、先ほどのソニの声の力を思い出した。
しかし子供達の前で聞くのも気が引けて、問いかけるのはやめておくことにする。
「すずねーちゃん!」
「違うよ、すずね、おねえちゃんだよっ、ね?」
「おはよう!」
「え、え…おはよう」
少女の事ももう警戒してはいない様だ。
眼の色や顔立ちが日本人とは違うのを確認して、少女は自分がおかれた状況を改めて認識した。
「さぁて、今日も静かに頑張りますか」
「そんちょーの所行くんでしょ?」
「ああ」
「またそに静かにしなきゃいけないねー」
「そうだねぇ。繰り返し言うけど、話をした事がない様に振る舞う様に」
「はーい」
「りょーかーい」
「君もね」
ソニが話しかけてきて、ようやく少女は質問した。
「なんで、ですか?」
ソニがちらっと微笑む。何処か無理のある笑み。
「僕と話したなんていったら村においてもらうどころか追い出されかねないよ?
この声は、忌み声だから。ショウテキと同じ」
「…どうして?」
聞いていいものか迷いつつ少女は問う。
ソニは苦々しく呟いた。
「…何とも言い難いな。村の人とは互いに嫌いあってもいるし」
やはり聞いてはならなかったかと、少女はソニを伺いみた。
ソニが不意に焦る。
「いや、別にみんなまで嫌いな訳じゃなくてっ」
少女が疑問に思って後ろを振り向くと、子供達が安心したような表情になるところだった。
子供達も不安になっていたのだろうと思うと、何だか自分が質問したのが悪いことの様な気がしてくる。
「あのっ…」
しかし少女が何か言う前に、ソニがそれを遮った。
「いいんだって。でも聞かないでもらえると、嬉しい」
「…はい」
ソニは満足げな笑顔になって、それから子供達を見た。
「よし、じゃあみんな、行こうか」
「はぁい!」
子供達の元気な声を合図に、ソニと少女は歩き出す。
日差しも暖かく、穏やかな空気を創り出していた。
森の中と比べれば、格段に気温が高い。
子供達は本当にソニが大好きなようで、ソニも子供達を見て優しい目をしている。
お父さんやお母さん達はどうしているのだろう、
ソニの事を嫌っているのだろうか、とそこまで思って、少女は一つの事を連想した。
…ハーメルンの笛吹き。
馬鹿な想像だ、と少女は頭を振ってその考えを振り払う。
それから側を歩いている男の子に尋ねた。
「ねぇ、どうしてみんなとソニって仲良しなの?」
彼は無邪気な動作で少女を見上げる。
「あのね、そにのこえ大人は大っ嫌いでしょ?」
「うん」
「だからね、そにのこえ聞けるの僕たちだけなんだよっ」
「そっか…そうだね」
子供には秘密というものを好む子が多い。
子供だけがソニとの交流を持とうとするのもわかる。
「そにはねー、お歌とかお話とかがすっごくじょうずなんだよっ」
「そうなんだ。…ね、どうしてソニさんの声が忌み声なんだろ?あんなに綺麗なのに」
「うーん…わかんない。おとなはあたまがかたいから、ってそに言ってた」
「あんまり横でそんな話しないでくれよ。何だかんだ言ってはずかしいし…何より、着いたよ」
ソニの声に、少女は顔を上げた。
そこには他の家より一回り大きな、しかし作りは同じ建物があった。
「ここが?」
「そう。じゃあ、お願い」
「はーい」
子供達のうちの一人が歩み出て、家の扉をノックする。
程なくして、その扉が開かれ一人の中年の男が顔を出す。
「ツズキか。どうした?…またそいつか」
「そう言う言い方すんな。村長に用があるんだ。紛れ込みがいるんだ、ひとり」
ツズキと呼ばれた小学校四年くらいの男の子がはっきりと男に言い返す。
ソニは申し訳なさそうな顔をしたが、声は出さない。
「しゃあねえな…待ってろ」
男が引っ込む。ツズキがほっとした様に少女とソニを振り向く。
「ソニ、すずねーちゃん、ごめん。上がらせても貰えないっぽい」
ソニが小声で返した。
「構わないよ。厄介な事にならなくて済む」
見れば、ソニの顔は余りにも暗かった。
少女にはわからない、様々なもので暗く濁っていた。
男が、少女はソニの家で暮らす様に、という伝言を持って戻ってきたのはほんの後の事だった。
蛇崩雲母
「看守」
「看守」
…何か用か?
「…おかしいだろう、あんな子供をっ…話が、違う!」
そんなことか。あれはちょっとした実験だぞ?…なあ?
「…」
『…あんなこと、したくなかった』
「!…ああ、分かってる。仕方ないんだから…」
『でも、僕が悪い』
「…」
『殺さないで』
「…分かってる」
分かってないぞ、こっちの言いたいことが。大人には飽きたと言いたいんだ。
『?!』
「お前っ!!」
何を怒っているやら。逆らったら一生そのままだぞ?
「うるさいっ…僕はっ…」
『……いつまで、こんなことを続けるんだ。いつになったら、戻してくれるんだ
』
気が向いたら、だな。
「いつなんだよっ!はっきり、せめてはっきり決めてくれっ!もう、耐えきれな
い…っ」
そうだなぁ。あの村が壊滅したら、でどうだ?
「っ!」
『…全員、一度にやっても解放してくれるのか?』
「何、言ってるんだよっ」
まぁ、な。それが出来るんなら?
「……そんなこと」
『でも、それをすれば、終わる』
「そうだけど…子供達が…」
『でもいずれ、敵になるだけ』
「……あの子達が悪い訳じゃない」
『…』
何でもいいが、次は子供を頼むよ。同じのばかりでは堪らないんだ。
「…」
『…行けよ。どうしようも、ないんだ…』
「…また、な…」
全く、生命力の強い生き物だな?
『…死ねるなら、死にたいさ…』
虎目歪曲
少女がソニの家に住むことになって二日目の夜、ソニは出かけたきり帰って来なかった。
住むと言っても、ソニが料理出来ないと言うことを理由に食事は全てツズキの家で食べていた。
少女は彼と話すうちに知った。
彼は孤児らしいのだ。
両親ともショウテキの鳴き声が呼んだ災いによって命を落としたらしく、
ツズキはひどくショウテキを恨んでいる様だった。
「ねーちゃんはさ、やっぱ不安?」
「え?」
「自分のいた所と全然違うんだろ、ここ…怖かったり、いらいらしたりするの?」
ツズキにそう聞かれた時、少女はすぐには答えられなかった。
帰ることが不可能だと分かってから、頭の方では諦めがついてしまっていたからだ。
生活のレベルはもといた所と大きく差があるとはいえ、
穏やかな空気の漂う村はそんなに悪い場所ではない。
悩んだ末、少女は答えた。
「帰れたら嬉しい。けど、帰れなくてもそれはそれで嬉しい。私はそう思ってるつもり」
それを聞いて、ツズキはほっとしたような顔をした。
「良かった。ねーちゃんいらいらすると怖そうだから、すげー安心した」
「何それー」
そんなとりとめもない会話が少女にはとても幸せで、
村の人々と仲良くなる良いきっかけでもあった。
特に彼、ツズキは少女にとても懐いていた。
たった二日で姉弟のように仲良くなったのだ。
もちろん食事以外の時はソニと過ごす。
ソニはとても優しく、少女が思っていたより世話焼きだった。
狭苦しい家を木の板や布で仕切り少女の部屋を作ってくれたり、
少女が服に困らない様村の子供達に交渉したり。
少女がこの村で暮らしやすいよう、色々な手を尽してくれた。
しかしソニは今日、ただ「出掛ける」と言い残したきり帰って来ていない…
夜中も近くなった頃、少女の不安は頂点に達した。
すぐ横にあった上着を羽織ると、机の上にある鍵を持つ。
これはつい昨日、ソニが少女のために木で作ってくれたものだ。
少女はそれから天井に掛けてある灯りをはずして持つと、外へ出た。
特に行くあてはない。少女は考えた末、森に行く事にする。
初めてソニに会ったのがあの森だったからだ。
鍵をかけ、村の夜へと歩きだす。
電灯などない村は、夜になると皆寝静まる。
一人で歩くには不気味な時間だった。
小さな村故に、数分の後には森の際までたどりつく。
宵闇のなかに淡く翠がかって見える森は、村と比べて更に静かだった。
少女は森の中で会った気味の悪い怪物を思いだし軽く身震いした。
もし、また襲われたら。
しかしそれはソニも同じ。
それに、もしソニが死んだりしても、村の大人達は悲しむどころかせいせいするかもしれないのだ。
少女は、そんな様子に直面したくはなかった。
少女は恐怖を振り払う。
そして、夜の森に踏み入った。
『探しに、きた…?』
ある程度森を歩いた頃、少女は誰かの声を聞いた気がして立ち止まった。
と、その瞬間すぐ横手でばさばさっ、と激しいはばたきの音。
少女はびくりと身をすくめ、それから慌てて急速に遠ざかる羽音の方を見る。
漆黒の空と黒翠の木々の間に僅かに見えたもの。
それは…三対の翼。
(ショウテキ…!)
少女は迷わず追おうとした。しかし元より速さは格段に違う。
見失うのにほとんど時はかからなかった。
速度を落とし、やがて立ち止まり、少女はそれから帰り道を見失ったことに気付く…
『…来てる』
「…やっぱり、か…」
『どうするんだ…?』
「…今更、隠せない。あいつに襲われても困るし。…連れてきて。それから決めるさ…」
『…』
静かで寒い森の中、少女は座り込んでいた。
目の前に灯りを置いて見つめている。
アルコールランプにも似た不思議な作りの灯りが放つ白い光は、今にも消えそうに揺らめいていた。
少女がどうしようもなくため息をついたとき。
ばさ…
微かな、羽音。
少女が灯りを掴んで一気に立ち上がった。
しかし、それがたたって灯りがその光をふつりと消してしまう。
呆然とそれを見やる。辺りは完全な闇に包まれ…
ばさ、ばささっ。
少女が恐怖に我を忘れる前に、羽音の主が少女の前に降り立った。
更に呆然として少女はその姿を見つめた。
「…ショウテキ…さん?」
間違いなくそれは、羽毛に包まれた竜。
呼びかけられた竜は、軽く身を屈めて頭を少女の腕に擦りよせた。
自分をこの世界に引きずり込んだ、そしてツズキの両親を殺めた存在とわかっていながらも、少女はほっとして竜の頭をそっと撫でる。
竜はそれからゆっくりと少女に背を向け、背を低くしてから少女を振り返る。
「…乗れ…とか…?」
竜が頷く。
少女は恐る恐るながら竜の背にまたがった。
竜が立ち上がる。少女が血相を変えて竜の首筋の羽毛にしがみつく。
流石に痛かったのか竜が首を振った。
あわてて手を離してから、腕を竜の首に回し、少女が聞いた。
「首…こうしてて、いい?」
竜が頷き、少女がぎゅっとしがみつく。
それから竜が強く羽ばたき、
悲鳴も上げられない少女を乗せて森の空へと舞い上がっていった。
炭玉亀裂
ショウテキが滑る様に飛んでくれるおかげで、少女は落ち着いてきていた。
夜なお淡く翡翠の色を宿す眼下の森を見ながら少女は思う。
(ショウテキの声…災いを呼ぶ?私が今こんな所にいるのもこのショウテキのせい…なのに何で私おとなしく乗ってるんだろう…それとも、だからこそ乗せてもらってるの?)
少女は思い立って翠の竜に問いかける。
「ねぇ、どこに行くの?」
竜が首だけ振り返って少女を向いた。消し炭色の眼が戸惑いを宿して揺れている。
「あっ…ごめんなさいっ」
少女が謝ると竜はまた前を向いた。
人の言葉云々以前に、ショウテキが自分に気を使ってくれたのだと少女は感じた。
ショウテキはその声を聞かせまいとしたのだ。
少女は何だか夜が怖くなって、竜の首にすがりつく様にして言った。
「誰にも声をきかせられなくて…声を出すだけで忌み嫌われて…だから誰にもちゃんとは思ってること分かって貰えなくて…寂しくないの…?」
答えを返される筈もないのだ。言葉が通じたとて。
それを思って、少女は竜の鬣に顔を埋めて、泣いた。
ショウテキはちらちらと少女を見遣りつつも、嫌がる様もなく飛び続ける。
心の中で微かに、少女はこの竜がソニではないかと少し思った。
やがて少女は、羽音のリズムの変化を感じて顔をあげた。
ショウテキは調度、森の中の少し開けた所を目指して降りて行くところだった。
翠の羽毛と柔らかな鬣がが風になびいている。
少女はそこに身を預けたまま、
背景から自分を包み込む世界に変わっていく森を見下ろしていた。
と、何かが見えた気がして少女が恐る恐る下を見回す。
しかし森は夜闇に沈み、見ようと思って何かが見える明るさではない。
目を凝らせば凝らすほどに夜が集まってくる様にすら感じた。
しかしショウテキが下降していくにつれ、
確かにそこに何かが見える様になっていく。
そしてすぐに、少女は気付いた。
「…ソニさん?」
言った直後にショウテキが着陸のために羽ばたきを激しくする。
素早く上下する翼と風に煽られる鬣などに遮られまた何もみえなくなり…
「鈴音…」
ショウテキが着地する。
少女が見たのは、
「ソニ…さん…?」
甘やかなほどに、美しい半色。
「…本当に捜しに来るとはね…出来ればこんなの、見せたくなかった」
傍らに転がる、
「…嘘っ…何で…」
赤にまみれた、
「ツズキ…!?」
死した、人。
「…」
「どうして…」
「…」
どことなく気弱げな青年は、何も言わない。
その赤く染まった服と、すぐ横に落ちているナイフの方が伝えるべきことを全て告げていた。
少女は動こうとしない竜から跳ぶ様に降りた。その目はただうろたえているだけ。
「え…だって……あ…あのさ、何で…こんな所にいるのっ…?」
ソニは答えの代わりに、倦み疲れた溜め息を深く、深く落とし、幾歩か退がってうつむいた。
「ねぇ…心配、してたんだよっ…?すぐ、帰って来るって…言ってたから…」
少女は言いながら、ふらふらと転がっている少年の体に近付いた。
屈みこんで恐る恐る触れ、その冷たさに小さく悲鳴をあげて飛び退き、動けなくなる。
「そんな…え…これは…ツズキじゃない…っ」
「鈴音」
「だって…嘘、…嘘だよ…っ」
ショウテキが怯えた様子でソニを見る。
ソニは同じ様な目でショウテキを見た後、意を決した様に少女を見た。
「嫌だ…どうして。ねぇ、何で…」
少女もひとしきり呟いた後、ゆっくりと立ち上がってソニを見た。
「貴方が、やったの…」
「…好きなようにしてくれて、いい」
力なく答えたソニを見て、急に少女が叫んだ。
そしてうち捨てられたままのナイフを拾って、
ソニの胸に、突き立てた。
「……ごめんよ」
ソニのいつも通りの声がして、少女ははっと我に帰る。
自分の手元を見て僅か喘ぎ、ナイフをソニの胸に残したままよろめく様に退がる。
ソニは、苦々しく、悲しげに微笑んだ。
「ごめんよ…死ねないんだ。何度痛い思いをしても、死ねないんだ」
ソニは言いながら、突き刺さったナイフを引き抜いて、放り出す。
血が吹き出して、ソニの服を更に赤々と染めていった。
動けずにいた少女は不意に、羽ばたきの音を聞いて振り返る。
翠の竜の胸からも鮮血が溢れていて、羽毛をべったりと濡らしていた。
「何で…?」
少女の呟きにソニは目を伏せる。
「…浅ましいだろうか。体を二つにわかたれてすら、その不死を失うことを恐れる僕は」
少女が再びソニを見た。
ソニの半色とショウテキの消し炭色が、かぶった。
「え…?」
ソニが静かに尋ねる。
「君はまだ幼い精神をしているから平気だろう。一つ、忌み声で吟う童歌を聞いてもらえるかい?」
覚えず少女は頷いて、ソニはそれを見てゆっくりと息を吸い込んで、童歌を紡ぎはじめた。
…光の森の、王様は、
…いつも、お腹がすいていた。
…虚ろな森に、住んでた風も、
…お腹がすいて、旅に出た。
…お歌が好きな、旅する風は、
…光の森に、やってきた。
…光の森の、王様は、
…風のお歌を、聞き付けて、
…風を食べようと、捕まえた。
少女は何だかくらくらしてきた様に思った。
周りを見ると、ちらちらと虹色の光が飛び交っている。
その光は所々で木や雲や動物の様な形に成りかけては崩れを繰り返している。
少女にはそれが幻覚だとわかった。
分かっていたのに、その幻覚は消える様子もなくむしろ増していく様で、少女は少し怖くなる。
しかしそれは美しいものだった。
少女は酔わす様なソニの歌声に聴き惚れつつ、虹色の光を見つめる。
…風のお歌は不思議なお歌、
…それが分かった王様は、
…逃げられない様にその風を、
…二つに綺麗に切り裂いた。
…二つになった、その風は、
…一つはちゃんと、飛べたけど、
…誰にもお歌を、きかせられない。
…一つはちゃんと、歌えたけれど、
…飛んだりはもう、できなかった。
いつのまにか夜の森は虹色の光に塗りつぶされて、別世界の様になっていた。
少女は気付く。虹色のきらめきの渦の中に、童歌の物語を辿るもの達がある事に。
見覚えのある怪物の姿が、大きく美しい鳥の様なものを二つに引き裂く。
わかたれた虹色は、片割れは人の形に、片割れは…
ショウテキ。
…裂かれた風は、それからは、
…ずっと王様の、奴隷になった。
…全ては一つに、戻りたいから。
…飛べる欠片は、滅びの歌を。
…飛べない欠片は、誘いの歌を。
…王様の食事、そのためだけに、
…喉がかれるまで、歌い続ける。
…一人に戻って、生きてくために、
…それだけのために、残酷な歌を。
虹色の光の中に寒気のする様な優しく美しい歌声が響きわたり、消えていった。
少女が思わず息をついた途端、一瞬のうちにその虹色の幻影が弾けて消えて、元の世界が戻った。
光の中にいたせいで目が眩み、夜が漆黒の帳になって少女を飲み込む。
何も見えなくなって、くらくらして、少女はそこに膝をつく。
目がちらちらしてはっきりはしなかったが、少女はまた自分が泣いている様な気がした。
「…どうして、こんな…」
ソニ。ショウテキ。
どちらの名を呼べばいいかわからなくなって、少女は何も言えなくなった。
「…哀れまないで。僕は、人を殺し続けて来たのだから」
「それだって、イチヤクサマが…!」
「僕は」
ソニの声が静かに昂った。
それですら美しい声に、少女は何も言えなくなる。
「自分のためだけに、あいつの言う事を聞いている。
もう人間が何人死んでも動じないって決めたんだ。僕はそう言う奴なんだ。
…自分が諦めれば誰も死なずにすむものを、ね」
いつしかソニの体から吹き出ていた血は止まっていた。
ソニは放り捨てていたナイフをゆっくり拾い、黙って少女に向ける。
ようやく見える様になってきた少女は顔を上げた途端にそれを直視した。
「…ソニ…さ…ん」
「僕がその気で歌ったら、君は自分からこのナイフに貫かれる事を望む」
「…!」
少女の目に恐怖と絶望が宿るのを見届けて、ソニは少女に背を向けた。
「連れてって。村の近くまで」
ソニの声にショウテキが答える。
少女が何かする前にショウテキが少女の後ろ襟をくわえ上げる。
「ソニさんっ…!!」
ショウテキが羽ばたく。
地面が遠くなる。
「やだよ…っ!」
ソニは、振り向かない。
ショウテキが一気に舞い上がる。
その反動を利用してショウテキは少女を放り上げて上手く背に乗せるとあっという間に速度を上げた。
「どうしてよっ!いやっ!嫌だ……」
地平線が明るくなり始める。
少女は泣きながら、思わず翠の竜の首に縋り付いた。
ショウテキは何度も背中にいる少女を幾度も振り返り、けれど一度も声を上げはしなかった。
ソニは泣いていた。
何度も自分を斬りつけて、失血の苦しみにどんなに死にそうになっても、
本当の死はいつまでも訪れなかった。
紅炎柘榴
本当にやるとは思っていなかったぞ?
「…」
そんなに辛かったのか。…愉快な眺めだな。
「どうすれば、死ねるんだろう。どうしてお前なんかに、こんな事をさせられているんだろう」
お前は残虐で自分以外がどうなろうと何とも思わないのだと思っていたが。
今になって罪の意識に駆られるか。愚かな話だ。
まあいい。今回の『供物』もありがたく頂いておくよ。
「…」
やはり味が多少は違うな。
…どうした。今更目を背けて。…お前が殺したのだろうに。
「看守」
何だ。
「楽しいのか、こんな事が」
大いにな。
「何が楽しいんだ。僕が苦しむ事か?それとも彼らが苦しむ事か?」
どちらも十分楽しいよ。下らぬ事で苦しむものだから。
「…いっそ、お前の様な心に生まれつけば良かった。こんな思いをするくらいなら」
一思いに私がお前を殺してやろうか。
「…」
いい目だ。やはりお前は自分が大切なのだな。
「…うるさい」
何、生き物は皆そうだ。ああ、お前は他者の命を糧としないのだったな?良い勉強になろうよ。
「…殺してやりたい」
私をか?
「…」
お前にそんなことが出来るか?
「…」
私だけなのだがな。お前を元に戻せるのは。
「…」
ばらばらのままでいたいのか。
「…黙れ…」
わかったら村に戻るが良い。あの子供がお前にどう接するか見たいものだがな。
「…あの子は…お前にはやらない。あの子は純粋な被害者だ」
さて。誰が加害者かな。
「っ…」
それとも元の世界に帰してやるのか?
「…」
出来ないな?出来れば良いのにな?
まあ、やがてはあれもお前を苦しめるだけだ。多少その時期を早めただろうが。
「あの子は悪くない。…誰も悪くない。僕が、悪いんだ」
ならお前が、死ねば良い。
「…」
どうするんだ?
「……る…」
何?
「……ってやる」
…なんだと。
「見てれば、わかる。…僕は死ぬ気はない。そんな事では終わらせてやらない」
…ふん。逃げるか頭を下げにくるかが落ちであろうものを。
あいつに私に対抗する事など、出来はすまい…
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