安全保障は憲法になじまない
ここまで9条をめぐる改憲派・護憲派それぞれの矛盾と欺瞞をみてきました。しかし、ここまでだと、なぜ私が9条の「削除」を主張するかは説明できていません。私の考えでは、憲法とは、法の支配と民主主義を保障する原理です。特定の政策の押し付けではなく、政策論争を公正に裁断するための民主的政治競争のルール設定と、被差別少数者の人権保障がその本質です。
財政や社会保障などの政策は、憲法自体が先決するのではなく、憲法に従った民主的プロセスによって決定されます。それなのに、なぜ安全保障だけが民主的プロセスに任されず、憲法9条によって先決されているのでしょうか。
もう少し詳しく論じたいと思います。国家のない自然状態というものを想定すると、そこでもめごとが生じると、暴力で決着をつけるしかない。国家とは、この紛争を法廷や議会など言論により決着させるための政治的意思決定システムです。では、どんな争いをこのシステムで決定するのか。人生観や宗教などであれば、単一の見解を政治的決定で押し付ける必要はありません。違いはあっても、それぞれの違いを認めて、自己決定にまかせればいい。
ところが、そうはいかない問題があります。たとえば分配システム。小さな政府で税負担を軽くするのがいいか、福祉国家で大規模な再分配をするのがいいかは、それぞれ勝手にやれ、というわけにはいきません。集団的決定が必要になりますが、その決定に対して、みんなが満足することは期待できない。だからこそ、その決定に反対する者も、変更されるまではそれを「正当性はないけれど正統性のある決定」として尊重できなければならない。
では、この集団的決定の「正統性」の条件は何か。
私は、政策の「正当性」をめぐって対立する立場に対する共通の制約原理となる正義概念があると考えます。難しい哲学的表現になりますが、自己と他者との普遍化不可能な差別の禁止がその核心です。
これは、自分の他者に対する行動や要求は、もし自分が他者だとしても拒絶できないような理由によって正当化可能なものでなければならないという「反転可能性」の要請を含意します。 「集団的決定」とは、政治的競争の勝者の決定を敗者に押し付けることです。しかし、勝者は何をしてもいいわけではない。もし自分が敗者だったとしても、その決定を尊重できるのか、という反転可能性テストに耐えうることが要請される。これが「正統性」の基礎です。
特定の政治勢力が勝者の地位を永続的に独占できるなら、「もし自分が敗者だったら」という問いは無意味化します。したがって勝者と敗者の地位は現実的にも反転可能であることが必要です。これを保障するのが民主主義的選挙制度であり、それによる政権交代です。中国の共産党のように一党独裁で、この反転可能性が確保されていない場合は、正統性を欠くとみなさざるを得ません。
さらに重要な問題は、被差別少数者の存在です。人種的・文化的少数者や同性愛者などは、多数者の偏見に曝され民主的競争の勝者になる見込みは小さい。そうした人々から正統性承認を得るには、民主主義だけでは不十分で、違憲審査制のような司法的人権保障が必要です。
つまり民主的な政治競争のルールと少数者の人権保障により、「敗者でも尊重できる」という反転可能性を現実的に確保することが、政治的決定が正統性を持つための大前提となる。それを保障するのが憲法なのです。憲法は公正な「政争のルール」であって、各党派が自己の政治的選好を実現するために利用する「政争の具」にされてはならない。
だから、私は憲法改正の手続きを定めた九六条のハードルを下げる改正には反対です。時々の選挙の勝者が自分に都合のいいように簡単に憲法を変えられるなら、憲法は公正な政争のルールではなくなり、立憲民主政治の正統性そのものが崩壊します。
こう考えていくと、安全保障のあり方は、憲法で先決せず、民主的プロセスのなかで討議すべき問題です。それは被差別少数者の人権問題を越えた多数者を含む国民全体の利害に関わる政策課題ですから。
国際状況は予測不可能な仕方で激変します。専守防衛を維持したほうがいいのか、集団的安全保障までは認めるのか、集団的自衛権にまで踏み出すのか、どれが今後の日本にとって最適なのかは、誰にも確言はできない。そうしたなかで、ある特定の安全保障観を、憲法によって固定化してしまうことの方がよほど問題ではないでしょうか。
すると、こうした反論が予想されます。安全保障のような高度に専門的な議論を、素人である国民の判断に委ねていいものか、と。護憲派知識人が、安全保障体制を民主的立法だけでなく憲法改正の国民投票に委ねることすら反対するときの論理ですね。これはパターナリズム(家父長的干渉主義)です。要するに国民は愚かで正しい判断は下せないという愚民観がその根底にあります。
これには二つの反論を用意しています。
まず本質論として、安全保障のような国民全体に関わる問題であればあるほど、民主的な討議と決定が求められること。これは帝国陸海軍という「専門家」が安全保障問題を独占していた戦前日本の失敗を想起すべきです。
また、専門家が一般の国民よりも賢明な判断を下しうる、という前提自体が大いに疑わしい。たしかに具体的な戦略・兵站や軍事情報通信システムなど、技術的な問題はプロに任せるべきでしょう。しかし、集団的自衛権行使云々という安全保障体制の基本原理に関して、確実な正解を知る専門家など存在しない。もちろん国民の判断も誤ることはあるでしょう。しかし、民主主義は時間はかかっても失敗をフィードバックし、学びを重ねていけるシステムです。これを私は「我ら愚者の民主主義」と呼んでいますが、専門家・エリートも含め、みな愚かな失敗をするからこそ、失敗とその教訓を次の選択に活かす民主的プロセスに委ねるべきなのです。
ところが、9条の存在は、この問題の国民的討議を回避させています。つまり、「9条の壁」の前に思考停止をしてしまう。現実には自衛隊という精強な軍隊を持ち、世界最大のアメリカとも軍事同盟を結びながら、自分たちは9条を守る平和主義者だという欺瞞に浸る。一方、現状に不満な改憲派も9条叩きで終わってしまい、改憲するだけで自主的でより安全な国防が実現するかのような幻想を抱いている。
現実には死文化しているにもかかわらず、実質的な安全保障論議を妨げるという呪縛力だけ持っている、それが憲法9条なのです。
抑止のための徴兵制が必要
最後に、私自身が考える日本が取るべき安全保障について述べてみたいと思います。「戦争の正義」に対する考え方には、大きく分けて五つのタイプがあります。まず憲法9条が位置するのは、絶対平和主義です。しばしば絶対平和主義は平和ボケなどと揶揄されますが、これは誤解です。それはむしろガンジーやマーティン・ルーサー・キングの非暴力抵抗運動にもつながる、最も過酷な選択なのです。不正な侵略には徹底して抵抗しますが、そのときに軍事力は使わない。侵略者と同じ道徳的な堕落を招くからです。いくら殺されようとも、デモやゼネストなどの非暴力で対抗する。これは大変に立派な行いで、自己を律する倫理としては成立するでしょう。しかし、他者に(ともに侵略を受けている仲間も含め)それを強制することはできません。侵略を受けた人たちが、自衛のために武力を使う道を選ぶのを止める権利は誰にもないのです。民主的なプロセスで、この絶対平和主義が選ばれる可能性はほとんどない。しかし、個人としての選択であれば、私は尊重に値すると思います。
似て非なるものに「諦観的平和主義」があります。これは「不正な平和でも、戦争よりまし」というもので、戦後日本でも根強い人気がありました。しかし、これは論理的に破綻しています。この立場では、いかに現状が不正に思えても、それに武力で対抗することは禁止されます。すると、結局は先に既成事実を作れば勝ちとなってしまい、かえって武力行使を招きやすくなるのです。ナチスドイツのチェコ侵略などがこれに近い例でしょう。
第三に、無差別戦争観。これは国益追求の手段として戦争を認めるもので、いわば国家間の決闘のようなものとして戦争を捉える考え方です。
第四が積極的正戦論。これは自分の信じる宗教・道徳・イデオロギーの実現のための武力行使を認めるもので、宗教的聖戦論や現代の体制干渉戦争に見られます。
私はこの四つのどれをも採りません。私の立場は消極的正戦論、すなわち正当な戦争原因を自衛に限る考え方です。この点でだけ言えば、修正主義的護憲派の専守防衛と重なる。ただ大きく違うのは、安全保障体制のあり方は憲法でなく民主的立法で決定し、憲法は「もし戦力を保有するなら徴兵制を採用し、良心的拒否権を保障すべし」という条件付け制約を課すべきだとする点です。
カントは有名な『恒久平和のために』で、平和のための条件のひとつに共和制であることを挙げました。つまり君主制では王が勝手に戦争を始め、そのコストを払うのは国民です。しかし、共和制ならば、戦争が起きたら兵士となって戦場に出る国民自身に決定権がある。自らコストを負うのだから、戦争に慎重になるはずだ、と。
実際にベトナム戦争でのアメリカでは、徴兵制が大きな影響を与えました。戦争の激化とともに、一九六九年に法改正で徴兵制が強化され、マジョリティである白人中間層とその家族を含めて、より多くの市民が戦場に送られるにつれて、反戦運動も拡大激化したのです(新著で、当初は志願制だったとしたのは誤りで訂正します)。
したがって徴兵制は絶対に無差別公平でなければなりません。富裕層だろうと、政治家の家族だろうと徴兵逃れは許されない。開戦決定を左右するエリートとマジョリティ自身に「血を流す」コストを負わせるべきです。
同時に良心的兵役拒否を認める必要があります。先述したように絶対平和主義者の自己決定は尊重する。ただし、良心的拒否権の利己的濫用を抑止するために厳しい代替的役務を課す。非武装で看護の任務に就いたり、消防隊や被災地域の救護活動など、実質的に兵役に等しいリスクを引き受けることがそこでは求められます。
戦後七十年が経ち、日本の安全保障のあり方については、このままでいいのかという問題意識が国民の間にも相当に広がっています。私が言いたいのは、これ以上、憲法9条をめぐる欺瞞的な議論にエネルギーを浪費するのはもうやめにしませんか、ということ。この国の安全保障を決定するのも、そのコストを負うのも、主権者である我々日本国民なのですから。
■プロフィール
いのうえ たつお 1954年大阪市生まれ。東京大学法学部卒。著書に『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)、『世界正義論』(筑摩書房)など。
決定版
知性で戦え 昭和史大論争
・昭和史を武器に変える10 の思考術(佐藤優)
・戦前エリートはなぜ劣化したのか(磯田道史)
・満州事変「解決」を妨げたマネー敗戦(広中一成)
・総力戦の罠にはまった永田鉄山(川田稔)
・「南京事件」の総決算(原剛)
・石橋湛山の「小日本主義」とは何だったのか(上田美和)
・戦前日本の石油政策 失敗の本質(岩瀬昇)
・日米関係を悪化させたグローバリゼーション(高光佳絵)
・統制経済 岸信介の選択(中野剛志)
・最大の失策「三国同盟」を招いた対ソ恐怖症(清水政彦)
・なぜ海軍は戦争を止められなかったのか(手嶋泰伸)
・戦略なき作戦 ミッドウェー真の敗因(星野了俊)
・ヒロシマ・ナガサキ 核抑止の原点(三浦瑠麗)
・侍従武官未発表日記が明かす「昭和天皇の戦争」(保阪正康)
・司馬遼太郎と三島由紀夫「国民作家」の戦争体験(福嶋亮大)
・世界文化遺産にも反対 韓国歴史アタックに備えよ(澤田克己)
・新・脱亜論「内なる中国」と闘え(平野聡)
満州事変から安倍談話まで
30代論客白熱討議 あの戦争の呪縛を解く(白井聡×浜崎洋介×三浦瑠麗)
戦後70年 3大論争に決着をつける
・徹底比較 東京裁判 vs.ニュルンベルク裁判(日暮吉延×芝健介)
・慰安婦問題 なぜ冷戦後に火が付いたのか(木村幹)
・靖国神社とおおらかな昭和(古市憲寿)
・年表で読む歴史認識論争(三浦小太郎)
・憲法学者たちはいつまでごまかしを続けるのか 緊急提言 憲法から九条を削除せよ(東京大学教授 井上達夫)
・名将・今村均 97歳長男が語る「父と戦争」(今村和男)
・カタヤマ教授 入試問題で解く昭和の戦争(片山杜秀)
特別座談会
世界史の中の日米戦争 失敗の根源 なぜアメリカと戦ったか (半藤一利 船橋洋一 出口治明 阿川尚之 川田稔)
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