青葉乃会「善知鳥」は、おかげさまで無事に終えることができました。
会場にお越しいただきました皆様には、厚く御礼申し上げます。
ブログの更新では、さぼりクセがしっかり身にしみついてしまい、青葉乃会が終わって早や一カ月もたちますが、お礼もいたしませずに申し訳ございませんでした。
公演の前には「善知鳥」の解説を私なりに書き始めたのですが、なんとなくしっくりこず、そのままほったらかしにしてしまっていました。
事後報告になりますが、当日の舞台写真を紹介しながら、私の気ままな「善知鳥」のお話をさせていただきます。
<能「善知鳥」の舞台経過>
・まず初めに 猟師の妻(ツレ)と子(子方)の登場

囃子方、地謡がそれぞれの場に着座すると、ツレと子方が静かに出てきます。
夫に先立たれたみちのくに住む妻子の二人です。
「善知鳥」の舞台は、前場が立山地獄谷、後場がみちのく外の浜の猟師の家となっていて、
始めにみちのくに住む猟師の妻子が出るのはおかしいのですが、これは能ではよくあるパターンです。
かの有名な「隅田川」では、母が都から武蔵野まで子を訪ねて旅をするのですが、塚は最初から舞台に置いてあるのもその一例です。
観世流では、最近では詞章に合うように、後場になってから妻子が出る演出で演じることが多くなってきています。
このやり方だと、この二人は関係のない前場を座らなくてよいので、座る時間が20分ほど短くなって楽なのです。
観世栄夫先生は後場になって妻子が出るのは、途中で登場する場面が死に間になってしまうと嫌っておられました。
私は今回の舞台の稽古をして行くうちに、この曲のテーマが『親子の絆』だということに気づき、猟師の妻子が始めから舞台に存在するのは大きな意味があるのではという思いに到り、ツレと子方には気の毒でしたが、従来通り妻子を始めから妻子出すやり方で行いました。
この妻のツレ役はとても大切な役で、夫を亡くした悲しみに耐えなが幼子と生きているという情景を謡いこなさなければなりません。
ツレにはツレの位(くらい)と言いうものがあって、シテより調子を張ってサラリ目に謡うということが基本になります。しかし「善知鳥」の場合シテとツレがかみ合って展開する場面はないので、今回はツレ役の人にシテのつもりで演じてほしいとお願いしました。
またこの子方はセリフが一言もありません。
1時間20分ほど舞台に座っているだけです。途中一度立って猟師の亡霊(父)と対面する場面がありますが、後は微動だにもせず座っていなければなりません。これも大変な仕事でよくやってくれたと思っています。
・前場 (旅僧に妻子に言伝るための衣を渡す場面)
前半の始まりです。場面は立山の地獄谷。この地獄に亡くなった猟師が堕とされています。
立山に登り修行を終えた旅僧が、これからみちのくに行こうとしています。
そこに猟師の亡霊が現れ、生前みちのくの家に残した蓑と笠を手向けてくれるよう旅僧に言伝をお願いするのですが、自分がその夫である証拠に、着て居る衣をの袖を引きちぎって旅僧に渡します。ここで前場が終わりとなります。
衣の袖を引きちぎるのは、もともと縫ってあった袖のつなぎの部分を一度ほどき、細工して新たに縫います。
これは楽屋の若い人にお願いするのですが、当日はバリッという音とともにうまく切れました。細工を失敗すると始めから袖がちぎれていたり、ちぎるのにそれこそ思いっきり引きちぎらないと切れない舞台も拝見しています。感謝、感謝です!
さて猟師の亡霊の姿を見てください。
老人の姿になっています。能では男の亡霊が老人になって現れるのは常套手段ですが、能を観馴れていない方は、猟師の亡霊が老人となって現れているとは判断できないところです。
猟師は老人であったわけではありません。幼い子供を残して死んでいったわけですから、まだまだ若い男のはずです。ある苦しみを身に持っている、そのためには若い男よりも老人の姿の方が似合います。これは能の独特の演出だと言えます。後場で現れる猟師の亡霊は老人ではありません。
面は『阿瘤尉(あこぶじょう)』という老人の面立ちです。
顔の両側のほほが瘤のようになって突起している形態からこの名前が付いたとされています。
ある悲しみを耐え持つ、そういった表情をしています。面の作者は現代の名工、堀安右衛門師です。
この猟師が亡くなったのは去年の秋、この場面は次の年の春という設定になっています。
亡くなって半年が過ぎたということですが、とりあえず立山の地獄に堕ちて、これから三途の川を渡って本当の地獄に堕ちてゆく、そう思うと次の場面が理解しやすいかと思います。
・後場 みちのく猟師の家亡霊との約束を守り、旅僧は預かった衣をもってみちのく・外の浜の猟師の家を訪ねます。
そこには夫を失った妻子が寂しくたたずんでいます。
(先程書きましたように、この場面で妻子役のツレと子方が登場することもあるのです)
旅僧から受け取った衣が確かに夫の物であることを知った妻は、ありし日の夫を思い出し、悲しみに暮れるのです。
旅僧は亡霊との約束で、猟師が生前、狩に使っていた蓑衣と笠を手向けるように伝え、僧は妻子とともに供養を行います。
舞台では蓑衣はなく笠だけなのですが、笠は正面先に置かれ供養が始まってゆきます。
ここで蓑と笠が、「善知鳥」という曲の大きなポイントとなります。
猟師にとって蓑と笠は雨風や寒さから身を守るものなのでしょうが、「善知鳥」ではもっと大切な役目を持っています。
善知鳥という鳥は、雛が外敵から襲われるとき、親鳥は血の涙を流して外敵を襲うというのです。
猟師がこの血の涙を受けると傷つき、命を落としてしまうとされています。
この猟師にとってこの蓑と笠は、雨風をしのぐだけではなく、善知鳥から命を守るためになくてはならない物だったのです。
生前の家に残した蓑と笠を供養するということは、善知鳥の親の血の涙で死んでしまった猟師を供養するということと、その猟師の犠牲になった善知鳥という鳥をも供養するという、二つの意味合いが含まれているのだと思います。私は作者の大きな狙いがここにあると思うのです。
・地獄の責め苦にやつれ果てた亡者の登場
後シテは、前場の老人から、このような男の姿に変わって現れます。
黒頭(くろかしら)、白い衣、杖、これらは能ではすべて亡霊を表す手段として用います。これはいわゆる能の約束事なのです。
面は「痩男(やせおとこ)」というもので、すっかりやつれた男の人相をしています。作者は古元休(江戸初期)
腰には「善知鳥」だけにしか用いない羽蓑というものを付けています。
これは鳥を捕らえる猟師を象徴するものですが、実物も鳥の羽でできています。
今では鳥類保護もあって作れないと聞いています。こういった貴重な小道具は能ではたくさんありますが、
大切に使っていかなければなりません。
蓑と笠の弔いにひかれて、本来の地獄に堕ちた亡者が妻子の前に姿を見せます。
妻子には亡者の姿が見えるが、亡者からは見えないという設定です。
善知鳥の親子の絆を奪った報いで、この猟師は二度と妻子に出会うことが許されないのです。
「善知鳥」の能で大きな特徴は、自分の妻子の前で地獄の苦しみを見せるということが挙げられます。
ツレと子方の二人が最初から舞台に居続けることは、妻子の存在を主張することになり、ここに大きな意味があるのです。
亡者は猟師の家に生まれたと、善知鳥の雛を殺し続けたことなどを後悔し、懺悔するのですが、時すでに遅しです。
さてこの作品で一番の見どころとなっている鳥を捕らえるカケりの場面が始まります。
囃子の手に合わせて鳥を三度打ち殺しに行きます。舞台で1回、橋掛かりに行って1回、また舞台に戻ってきて1回。始めの2回は失敗し、3度目にやっと取らま得ることができたという設定です。
謡本では、善知鳥という鳥は、砂浜に巣を作るので敵から狙われやすく、親鳥は餌を捕まえて雛に与えるとき、「うとう~」呼び、親鳥のその声を聞いた雛鳥が「やすかた~」と答えて巣から顔を出す習性があるとしています。
猟師はこの習性を使って、善知鳥の雛を捕らえるのです。
舞台では「うとう~」と絶叫に近い感じで叫び、雛をおびき寄せ捕らえる場面のカケりに入ります。

杖を振り下ろして鳥を捕らえるのですが、今回このカケりの場面を稽古していて疑問点が出てきました。
3度の捕獲のうち鳥を逃がしてしまった始めの2回の型に疑問点を感じたので。
能の型付けには、杖を振り下ろした後は、逃した鳥を追うように辺りを見回すと書かれており、先人の方もそのように舞台で演じられたよう拝見してきました。
しかし狙うのは善知鳥の雛で、失敗したのは、振り下した杖に雛が思わず頭を下げて巣の中に隠れてしまったからです。雛はまだ飛べないはずです。
この疑問を何人かに聞いてみましたが、それは雛が飛んだのだ、または親鳥がそこにいたのだとかという返事が返ってきましたが納得いきません。
ただ鳥を捕獲するためのカケりであれば問題ないのですが、このカケりは「うとう~」と叫んで始めることから、明らかに善知鳥の雛を捕ることが目的です。親の鳴くまねをして雛をおびき寄せるのですから、その場に親鳥がいる筈がありません。また雛は飛べないから親から餌をもらうのです。
やはり逃がした鳥を追うということは考えられませんでした。若い時始めて稽古した時にはただ型付け通りにやっていて、なんの疑問も持たなかったのですが。
いろいろと悩みましたが、私は、雛を捕ろうとして失敗した、その時に空を見上げてあたりを見回すのは親鳥に見つかっていないか確認するためではないかという考えに到りました。辺りを見回すのは親鳥を探していた、これなら納得できます。
三度目の捕獲は、舞台正面に置かれた傘を巣とみなして杖を振り下ろします。三度目にやっと雛を捕まえることができたのですが、空を見上げると、まぎれもなく親鳥がいたのです。親鳥に見つかってしまったのです。これだと3度の捕獲であたりの空を見渡す意味がつながって、完全に私の仮説に理屈が合います。

この時の猟師はよし捕まえたぞ、と思う反面、またやってしまったという後悔も含まれていたはずです。このあとは、親鳥の血の涙から必死で逃げ惑う場面へと舞台は激しい展開になってゆきます。
最後の地獄の責め苦では、地獄で化鳥となった善知鳥から眼をえぐり取られることや、善知鳥は鷹になり、自分は雉となって追いかけまわされる場面などを再現して見せます。鷹は強者、雉は弱者の象徴です。
それらをすべてを目の前の妻子に見せているこの能は壮絶極まりないです。
また僧に救済を求めても、その罪を罪を許されることなく終曲としています。
作者のねらいは、殺生したこと以上に、『親子の絆』を悪用して、子を殺し続けたこの猟師の大きな罪をえぐりだしたことにあるのではないでしょうか。
だらだらと書いてしまいましたが、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
終わり
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
※写真 前島写真店
1枚目 ツレ 谷本健吾師 子方 谷本悠太朗君