本エントリは2016年最初のブログ更新となり本来であれば本年の抱負であるとかブログ運営についての所信表明であるとか新しき年を迎えた現代の有り様についての所感など語るべきことは少なからずあるはずだが谷崎潤一郎が没後50年を迎え今年より彼の著作がパブリックドメインとなったことを私は知り青空文庫へ赴くと『春琴抄』が公開中となっていたため早速それを読み直した谷崎潤一郎と言えば変態ワールドカップ日本代表で言うところのキングカズのようなポジションにあり『春琴抄』に限って言えば私は十代の頃に一度と二十三,四の頃にもう一度と数えてみれば少なくとも二度通読しているはずであるが当時の私には佐助にも春琴にもまた二人の関係を良しとする〔作中でそれは明言されてはいなかったがわざわざあんな変な話を書き上げる以上そう見做して差し支えはなかろう〕谷崎にも感情移入することが難しくけったいな話であるという印象だけを持っていたが今回三十を間近に控え読み直してみるになかなかに思うところのある悪くない読後感に浸るに至った。しかしそれは必ずしも私が先に挙げた三者いずれかに感情移入することに成功したことを意味するわけではない
感想文を書き始めるにあたりここで私が『春琴抄』のおおまかなあらすじを綴るは容易いことではあるが折角青空文庫で読めるようになったのが四日ほど前それ以前は無料で読むことが叶わなかった作品であるわけだからせいぜいが五万字ほどの中編であるこれも何かの縁であろうと一読することを私は勧めよう。只より高いものはないとはよく言ったものであるが只で物を読むにも矢張り同じことが言えるわけでなぜなら私たちが只のものから何かを学び何かを感じることは只ではないものからそうしようとするより遥かに難しい我々は絶えず前へ進み続けるたった一本の時間の矢に跨り決して後から取り返すことのできない一分一秒が後ろに流れていくのを見やりながら生きている人間の脳や身体は元来其れに自覚的に生きれるようには出来ていないようで我々はしばしばそれを忘れ自力でそれを思い出すにはある種の才覚が必要でそれに欠ける多くの凡人は外部的な要因によりよくよくそれを思い返す必要がありその一番手っ取り早い方法の一つが金を払って何かを持って帰って元を取ろうと奮起することである。さすれば只であるものに好んで触れようとする行為はただ時間を浪費する愚鈍の所業にほかならぬものであるという話にもなりかねないが只になったのが一週間も経たぬ最近の出来事であるとなれば話は別である運命とまで言えば大袈裟であるがそこに意味を見出し縁を感ずることで只のものを只以上に楽しみ日々を生きる糧とすることはそう難しいことではない
私が想像せずにはいられないのはもしも佐助が春琴の生まれたあの家に奉公に出されることがなければ春琴に出会わなかった佐助は果たして如何なる人生を歩んでいたであろうかという栓無き話である作中では春琴の美貌に惹かれる男たちは数多あったと語られておりそんな盲の身の回りの世話の一切合財を一手に引き受ける佐助に対して憎く思う者も少なくなかったとのことであるしかし春琴のその難儀な性格も手伝い佐助の苦労というのは生半可なものではない。そこに佐助のひいては谷崎のマゾヒズムを見い出すは容易いことではあるが佐助が春琴とあのような関係を築くに必要とされるある種の才能があったとすれども春琴とその生涯を共にする以外に佐助にとっての仕合せなぞこの世のどこにも存在しなかったのかと考えるとそれは甚だ疑問である佐助も奉公先を一つ違えれば他の男どもと同じく天から聴こえる雲雀の声を見上げる春琴の顔を一目見ようと屋根に上りそれで満足して何気なく普通にそれなりに楽しくそれなりに大変に仕合せに暮すそんな人生を歩んでいたであろうことは想像するに難しくない又そのように生きた佐助はこの『春琴抄』に生きる目を潰してなお春琴と共に暮す佐助をどのように思うかもわかったものではない佐助を天性のマゾヒストと解釈し多分に羨ましがるであろうと考えることもできないではないが私個人としては仮にそのような素質を内内に秘めていたとしても幼くして春琴と出会い手曳きとしての毎日を歩むことのなかった佐助が一跳びに『春琴抄』の佐助を羨ましがるのは難しかろうと考えたくつまり『春琴抄』の佐助が感じた仕合せというものは彼自身がそれを仕合せと感じられるほどに自身を育て上げあるいは苛め抜いた果てに初めて掴んだものであろうという書いてみればどうということもない当たり前の話である
佐助という男の生き方を私は羨ましいとも思わずそもそもが幸か不幸か献身的な行為に喜びを見出せるような殊勝な性格でもないものでご免被るが唯一つ感じたのは仕合せというやつがもし仮にあるとするならばそれは傍から見れば第三者の目からは仕合せであるようには到底見えない状態であるのが本来的な在り様であろうということだ佐助にとってそれはたまたまああいう形でそういう形に佐助と春琴はまとまった。そしてそれはまたまとまるべき時までは決してまとまらずまとまった時には欠けるべきものが欠けていてしかしそれはそもそも不要なものであったというわけでもなく例えば春琴の美貌がそうであったようにそれは二人を結びつけるには必要不可欠な要素であったことは疑うべくもない。失うところまで含めて二人の仕合せを形作るうえで欠かせぬ要素であったことだろうしかしここでまた私が考えてしまうのは春琴の器量が作中で語られるほどではなかった場合〔極めて主観的な佐助に寄り添う形で語られているにせよ実際に相当な器量良しであったことは間違いないのだろう〕二人の仕合せはもっと一般的な客観的に見ても疑うべくもないありふれた仕合せになっていたのではないかということである何が言いたいかというと例えばこの作品にある二人の関係性を究極的なとか倒錯的なといういかにも異常性を強調した形容を以て賞賛することは容易いがこの作品から私が感じ入るのは人々の生き方の仕合せの大小を比べたり甲乙を付けるところではなく人はそれぞれ自分に配られたカードに応じて最適な仕合せの形を模索するより仕方なくそれはある時は平凡なまたある時は歪な形をしているのかもしれないが各々自然なあるべくしてそうある姿を目指すほかないのではないかということである。自分が生活でこなすつまらない愛し方に辟易して物語の中の恋人たちの姿を羨ましがることは寡聞に珍しいことではない彼らは一見して物語の中の他人のカードを羨ましがっているようで本人たちもそのつもりなのであろうが彼らが羨ましがっているのは他人の手にしているカードにあるのではなくそのカードを捨て或いはかけがいのないものとして守り続けそうして辿り着いた本来的な仕合せの形にこそ嫉妬しているのではないか
特異なカードは確かに目を惹くもので羨ましがらん気持ちもわからんではないが真に必要なのは自らの手元にあるカードをじっと眺めてそこから導き出される仕合せの形を模索することにこそあるのではないか。作中では極めて劇的に比喩でもなんでもなく佐助は目を潰すことになるわけだが何も外界を捨て自らの理想とする内界に生きることを決意するという行為自体は佐助に限らず我々にだってきっと可能な行為であるはずだ比喩的な意味で目を潰し愛する人の隣にいることを仕合せと呼ぶことは誰にだって許された権利である私自身既婚で生涯伴侶にすることを決めた人がいるわけだが勿論まだまだ目を潰したと言い切ることは難しい特にそれは今の状況を仕合せからほど遠いと考え他によりパートナーとしてふさわしい人がいないかと目を光らせていることを意味するものではないが矢張り自分もまた今自分の手元にあるものを仕合せと確信してきっといつか眼を潰す瞬間が訪れるのであろう。佐助が目を潰したのは四十の時のことであったそうだがいわゆる不惑と呼ばれる年齢であったことは偶然ではなかろう今のは言い過ぎた知らん
目を潰す覚悟を得るには目の底に理想とする形を宿しておかねばならぬ。それは言わずもがな私ではなく私以外の誰かである佐助にとってそれは春琴であったがよくよく考えればそれは個人である必要もないのかもしれない作中では男女の仲というテーマのもとに仕合せの形を模索する二人が描かれたが男女の仲に限るなぞとけちくさいことを言わずとも仕合せの形は人の数だけ無数に存在する。しかしそこには私以外の他者が存在するであろう自分以外を必要とせず一人で完結する仕合せの形であったとしても眼の底に宿す理想もまた一人であったとしてもその一人は他者の存在を感じてこその一人であることに間違いなかろう自分の手元に残るカードというものも生まれた時に手元にあったカードに限らず半分以上は恐らく他人から手渡されたカードであることもまた確かなことである
これはまったくの余談になるが先日夏目漱石の『坊っちゃん』がドラマになって放映されていたそうで録画していたのを私はまだ観ていないのだけれど私にとってあの話は本編はおまけで坊っちゃんと清の話である。清がなければ坊っちゃんという男は坊っちゃんであり続けることは到底できなかったであろうし清がいなければ世の中の大抵の男は坊っちゃんのように痛快には生きられないのだ逆に清みたいな存在が俺にもあれば俺だって坊っちゃんのように恰好良く生きられるのだというようなことを中学生の時にあれを読んだ私はしみじみと思ったここで坊っちゃんにとっての清は佐助にとっての春琴であったのだなどとのたまうのはあまりに乱暴であるが私はそういう事情で佐助の目を刺した縫い針と坊っちゃんが清から借りた3円はやはり同質の何かに思われてならない