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オロモルフ号の航宙日誌4735『日露戦争と無線電信271』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 4日(月)11時47分57秒
  ▼木村駿吉の資料(54)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[8]

▽19

◎アンテナ高
 試験用陸上は毎回150尺、軍艦のマストは60尺から100尺くらい。

◎発電機
 軍艦装備は直流80ボルト一台のみ(*1)。
 直接使うとたちまち腰砕けになり送信は止まってしまう。

◎二次電池
 そこで、60ボルト10アンペアの二次電池を用意(*2)。

◎電力
 したがって、高さ100尺のアンテナと600ワットの電力で80浬を通信。

◎送信機
 火花式の能率の悪いもの(*3)。

◎受信機
 コヒーラ式印字受信機で増幅無し(*4)。

◎通信兵の熟練
 粗末な送受信機だったが、通信兵の熟練は恐ろしいもので、戦役中に距離不足の報告は無かった。艦船間で100浬以上の通信は珍しくなかったらしい(*5)。

◎特別な例
 夜間に1000浬以上という報告もあった。戦役後の私の試験では200浬以上の成績も有った。シナの事変で漢口まで出張した時(*6)は、独逸軍艦の妨害電波があり、二、三の我が軍艦を中継して内地と交信した事もあった。

▽20

 明治33年3月に委員になったとき、松代君が海軍大学校構内で、双方3尺くらいのアンテナを立てて一町ほどの距離(約110メートル)で、火花送信と印字受信機で成功していた。
 私は野俣委員付の助力を得て音響受信機を工夫した(*7)。送信は火花式だった。


*1:ふつうは直流80ボルト一台だが、主要戦艦たとえば三笠などは大型三台有り、日本海海戦時にはさらに一台追加して四台になっている(計160キロワット)。また古い軍艦では、60ボルトなど、もっと貧弱な発電機も有った。これを動かす動力には蒸気機関が用いられたが、主要大型艦では推進用とは別に発電用に小型のボイラーを用意していた。これは日清戦争の教訓による改善だったらしい。推進用と同じだと、推進を止めると発電も出来なくなり、きわめて不便だった。陸上無電望楼用は、近くに大型のボイラーは無いのが普通なので、石油エンジンを動力にした。

*2:はじめのうちは軍艦も望楼も発電機直結でうまく行くと考えていたが、それは無理だと分かって、あわてて二次電池の大量購入に走ったらしい。開戦直前に木村駿吉らが京都の島津源藏を訪ねて依頼し、島津は自社工場用を急遽提供した愛国美談には、こうした背景が有ったらしい。
(望楼で発電機直結でうまくいかなかった理由の一つに、容量や整合の問題が有ったと思われる。

*3:供給される直流電力600ワットのうちどれだけが電波に変換されていたかの資料は無いが、効率はきわめて悪かったと考えられる。

*4:ここで木村駿吉が言っている増幅とは、真空管を用いた増幅の事で、電磁継電器を用いた増幅はおこなっていた。

*5:40浬も届かなかったり、100浬以上届いたり、いろいろだった理由には、送受信機の状態も有ったが、アンテナ問題が最大だったと推理する。

*6:明治44年11月1日付の清国出張の辞令が国立公文書館に残されている。清国末期の動乱で日本海軍は軍艦を派遣していたが、それに積まれたマルコーニ社の無電機の故障が多いため、木村駿吉が日露戦役後に開発した四三式無電機に改装するためだったらしい。

*7:炭素粉を利用して、電波を音響に直すものだった。三四式としては印字式と併用して使われたが、三六式では除かれた。感度は良いが、記録が残らないため、戦地での使用は無理だと判断されたため。一方印字式は、テープに記録が残るので、あとで将校が見て推理が容易である。また印字機は明治初期から有線電報に使われていて、国産でも実績が有った。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(25)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 4日(月)11時44分52秒
   自分のイデオロギーに合わなければ何でも造作だというのでは、歴史学は成り立ちませんね。史料調査以前の問題です。
 しかしこういう輩が多いですね。ウンザリします。
 

「神功皇后」(25)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 3日(日)13時55分17秒
  4.「神功皇后」摂政47年(368年)
  ここの話は、『日本書記』垂仁天皇2年条に、同じく任那の王に天皇が贈物をしたが、
 途中でこれを新羅の人が奪うというものがある。また、『日本書記』応神天皇14年春2
 月条に、百済王が縫衣工女を天皇に奉ったが、途中で新羅人が邪魔をして加羅国に止ま
 っているとの記事とも類似している。ここのことから、『日本書紀』の編者が常に「新羅」
 を敵対的な国として叙述していることであり<造作>記事だとする(「吉田 晶」-前掲
 書 107頁)。『日本書記』を比較・検討してみるに、ここの記事は、垂仁天皇2年条
 の話を蒸し返したものと考えるべきではなく、新羅との抗争関係のなかで繰り返し起き
 ていることを記したものと考えるべきであろう。垂仁天皇2年条は「新羅」に奪われた
 のは、「倭国」から「任那王」に贈られた「赤絹100匹」であり、それで、「任那」と
 「新羅」の抗争の始まりだとしており、応神天皇14年条は、「百済」の使者が自国の1
 20県の人夫を率いて日本に渡来しようとしたところ「新羅」の妨害に遭って「加羅」
 に留まったとあり、内が異なる。摂政47年も含めて別々の事件と見てよかろう。
  ここで、一言付け加えておきたいことがある。こういう者は常に記事が重複すると<
 造作・捏造>だという。ならば、『三国史記』新羅本紀はどうだろう。これとは比較にな
 らないくらい「倭」に侵略されている。これは『三国史記』の編者による<造作>であ
 ろうか? そんなことはなかろう。『三国史記』の記述から見ても「新羅」と「倭」とは
 不倶戴天の敵であった。それは何も『三国史記』に限らず、「広開土王碑」でも明らかで
 ある。史料の比較・検討を怠り、重複すれば何もかも<造作>などと言うことは現に慎
 まなければならない。
 

オロモルフ号の航宙日誌4734『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時06分54秒
  ▼運動会2

4.去年の優勝と準優勝のカップ返還。準優勝といっても赤と白の二組しかありません。

5.セレモニーが終わると、全校体操があります。要するにラジオ体操ですね。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4733『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時05分11秒
  ▼運動会1

 二日土曜日は、孫の運動会で、珍しく朝早く起きて見に行きました。

1.行きがけにお社を拝みました。こういう個人の屋敷内社は、このあたりには沢山あります。そのほとんどがお稲荷さんです。これもそうです。

2.毎年同じようなデザインの入り口ですね。この小学校の運動会も、これで六年目です。月日の経つのが早いのに驚きます。家内は小学校にあがる前から孫の世話に奮闘していました。そろそろ卒業でいいでしょう。

3.全員が集まって、最初のセレモニーです。このセレモニーがけっこう長いです。校長先生の話、PTA会長の話、去年のカップ返還、一年から六年までの代表挨拶・・・。立ってるのも大変でしょう。自分の子供時代の立ったまま聞く校長先生の話を思い出しました。立っているのが苦手だったので、とても辛かったです。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4732『日露戦争と無線電信270』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時02分18秒
  ▼木村駿吉の資料(53)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[7]

▽17
 調査委員会では最初から最終目的が定められていた。それは、
「調査期間三年以内、80浬が達成できれば卒業」
 ――であった。
 これは重要なことで、これが無いと、到達距離はどこまでも長く、電力は大きく・・・と、技術者の欲は限りなく、いちまでたっても終わらず、大切な時期に実用兵器が出来なかったであろう。

▽18
 外波委員長と共に英国に到着した時はマルコーニ会社は設立されていたが、特許不許可問題や発明買収問題で日本人に好意は持っていないだろうと覚悟して、同社には寄らず、直ちにランヅエンドに行った。英国最西端の岬で密輸入で有名な場所。
 その場所をボルヂユーと言い、荒涼な僻地で断崖の上にホテルが一軒あるだけ。
 そのホテルの前にマルコーニ社の無線電信柱を建設中で、周囲は板で囲われていた。
 ホテルに一泊して翌朝板囲いから覗いていると、守衛に咎められて追い払われた。
 囲いの中には、マルコーニ式無線電信柱と称する、低い柱が列をなして立っていた。
 帰朝してしばらくすると、ボルヂユー~カナダ間無線電信成功という宣伝が有ったが、それがこの柱によるものであっただろう。マルコーニが指向性という事を言い出したが、それはこのアンテナの張り方に基づいたものだろう。(*1)
 マルコーニという人は、はじめは大法螺だと思っていると、倦まず怠らず試みて実現する。
 日本が戦役に使った無電機は畢竟マルコーニの足跡を追ったもので、日露戦役がすむとすぐに私は海軍大臣に上申して、日本政府からマルコーニに相当の挨拶が有ってしかるべきだろうと申し上げた。(*2)

*1:このアンテナ形状の後の改良型は、木村駿吉が絵に描いて海軍に提出しています。下に掲示しました。当時の試みの一つで、その後はあまり使われていないと思います。

*2:この上申のためかどうかは知りませんが、後に昭和8年秋に夫妻で来日(サンフランシスコ経由で秩父丸で太平洋横断し横断中終始無電で日本と連絡、滞在は三日間)したとき、日本政府はマルコーニに勲一等旭日大綬章を贈りました。この時のマルコーニは、すでに59歳でしたが、元気溌剌で、歓迎会では長い演説をしてイタリアを宣伝、芸者さんにお酌してもらったり、明治神宮参拝したり、などしています。日本側は官民一体となって大歓迎しました。歓迎会は11月17日、丸の内の東京會舘で開かれ、南逓信大臣が歓迎の挨拶、学界代表としては長岡半太郎が挨拶しました。日本側は逓信省が中心で、海軍はあまり表には出なかったようです。なおこのころの日本は、すでにマルコーニ会社に「発明を売る」ほどの技術力を持っておりました。

[続く]

↓↓↓↓↓(*1)
 

オロモルフ号の航宙日誌4731『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時56分41秒
編集済
  ▼優勝

 解法者さんの予言どおり、阪神がズッコケてしまったので、ついにドラが優勝してしまいました。
 これで来期も、落合監督が生き残る可能性が高まりました。
 これほど喜べない優勝というのも珍しい。
 来年もまた選手だけで熱田神宮に参拝するんだろうか、それとも、もう選手も神社に背を向けるようになるんだろうか?
 某選手や某コーチの去就には某宗教問題がからんでいるとか、奇妙な噂が流れています。こういう噂は信じないようにしておりますが・・・。

▼尖閣「ならず者船長」の不思議

 宮崎正弘さんのメルマガに、三つの不思議が書かれていました。
(1)憤慨して死んだ筈の母親が出てきた。郷里では公安に囲まれて、メディアには一切出ず。誰との面会も許されていない。
(2)先に帰国した14人の乗組員も、メディアどころか親戚との接触も許されていない。
(3)船長はじつは訓練を受けた旧軍人だという説は、裏付けがとれていない。

(あの国はいつも不思議ですけど)

▼もっとも地球に似た惑星?

(産経より)
 米航空宇宙局(NASA)は29日、太陽系外の惑星としては、これまでに発見された中で最も地球に似た惑星を米カーネギー研究所などのチームが発見したと発表した。
 惑星は、地球からてんびん座の方向に約20光年離れた赤色矮星「Gliese581」の周囲を回り、質量は地球の約3~4倍。
↓↓↓↓↓
http://sankei.jp.msn.com/science/science/100930/scn1009301633011-n1.htm

 私は昔、『光世紀の世界』という大判の近距離星図星表集をつくりましたが、その中にこの星が収録されています。
 私がつけた光世紀番号は1050、代表名はW0LF562です。別名の一つがGL(グリーゼ)5810です。
 地球からの距離は21.3光年と計算しましたが、最近のデータではもう少し近いのかもしれません。
 赤色矮星だし惑星質量も違うので、生命発生の条件は地球とまったく同じとはいえませんが、これまでのいろんな惑星に比べて、地球との類似性は高いですね。
 どのあたりの星か、星図を出しておきます。
(出典は裳華房『光世紀世界の歩き方』で、これは前記の星図星表のサマリーのような本を裳華房から二冊出してもらいまして、その二冊目です)

 ↓↓↓↓↓(クリックすると大きくなる筈です)
 

オロモルフ号の航宙日誌4730『日露戦争と無線電信269』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時42分39秒
  ▼木村駿吉の資料(52)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[6]

▽13
 委員会では明治34年末までに大体所期80浬を得て、翌35年に外波委員長に随行して欧米視察した時には、米国では何でも見せる時代だった。
 しかし行ってみると街路も屋内も照明はガス燈で電気はなく、無線電信も誰も手を付けていなかった。
 質問しても要領得なかった。
 テスラ(*1)の実験所を訪問したが、巨大なコイルに青大将のような火花で、無線電力輸送とか無線電灯照明を目指していて、無線電信のような小さな問題は鼻の先であしらっていた。
 ラングレー(*2)の処へ行ったら、飛行機の話をされ、潜行艇に乗ってみろと水上の暗い穴の中へ案内された。
 山高帽を売りつけられて、これをかぶって歩いたが、それは間抜け帽と悪口言われているものだった。
(いろいろとバカにされたようなことが有ったらしいです)

▽14
 米国から英国に渡るとき(*3)エトリユーリアという大船に乗ったが、大西洋の真ん中でスクリューと舵を振り飛ばしてしまった。無電機は持っておらず、外波中佐は海軍軍人だというので頼りにされ、私は泰然自若として日本人の意気を示したが、要するに運を天に任せた。一ヶ月漂流し、アフリカの東北端に近い島にたどり着き、そこから海底ケーブルで迎えの船を呼び寄せた。

▽15
 アメリカでさえそういう有様で、高周波電流については自分で発見するほかなかった。そもそもアンテナのような一方が切れている電線に電流が流れるという事が飲み込めなかった。英語のサーキット、これを訳して回路は、環状を意味するので、前世紀の遺物である(*4)。
 周波数も波長も、思いよらないことだった。
 高周波電流の誘導作用や同調作用の激しさや、Lで波長が伸びCで波長が縮むことや、変圧器はカップリングが重要であることなど、三浬から数十浬の試験をしながら失敗によって発見したことだった。
 ヘルツの書いた『電波』は必死で読んだが、実際の通信には役立たなかった。テスラの書いた『高周波電流』も、せいぜい数千サイクルの話で、無電の役には立たなかったが、そういう高周波交流発電機を購入して試験したことは有った。金属の表面を流れるということは書かれていた。
 日本海海戦で降伏した軍艦から押収したものの中に独逸テレフンケンの波長計があり、これには脱帽した。
 早速造兵部でも作り、同調効果を示す電流計の代わりに豆電球の光を利用し、目盛の較正は、地上三尺に線を張ってその一端で火花放電させ、その線の四倍を波長として。大地とのCが影響するので、大体の目安だったが、測波器と名づけて艦船に配給した(*5)。

▽16
 明治40年ごろになって独逸で出たツエンネックの『電気振動』という大冊こそ、高周波専門の電気書だった(*6)。
 そのころ独逸から『無線電信及電話』という月刊誌も出たが、幼稚なものだった。
 世の中は火花送信で、鉱石検波器も無かった。

*1:テスラは交流電力を主張して直流を主張するエジソンと対立していた、有名な電気工学者で、当時の無電機の初段はテスラコイルなどと呼ばれる方法で交流を出していました。木村駿吉はテスラに面会した日本人として、非常に珍しいとされます。

*2:アメリカの有名な物理学者。動力のついた無人飛行機を最初に飛ばした人とも言われます。ですから飛行機の自慢話をするのは当然だったでしょう。

*3:明治35年の欧米視察は、アメリカ経由でイギリスやヨーロッパに渡ったようです。これは一般的だったのでしょう。大洋を渡る汽船が動かなくなってしまう話は、当時はよく有りました。駿吉の父親の咸臨丸の時代ほどではありませんが、まだまだ命がけの時代ですね。

*4:線条アンテナのような先端が途切れている電線には、直流はもちろん低い周波数の交流を入れようとしても、電流は流れません。軍艦のマスト程度の長さの線条アンテナに電流を流すためには、メガ(10の6乗)の桁以上でないと無理です。メガ以下の低い周波数では、根元から先端に向かう電流と、先端から戻ってくる電流とが打ち消し合ってしまうからです。

*5:これは、レッヘル線という、地上に長く張った電線の共振現象を利用して、波長の推定をしたのだと思います。高周波の基礎実験に使われるものです。

*6:この本を読んでから、木村駿吉の無線周波数の電気の理解は、急速に進み、現在の知識に近づいたようです。つまり、明治40年代以前の日露戦争の時代には、現在の高校生のレベルにも達していなかったわけです。

[続く]
 

Re:8.10 活断層動く(宝亀三年(772)十月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時39分45秒
   地震とか台風とかの記録がある日本の史書は、地震学などに関しても貴重な資料らしいですね。  

Re:「神功皇后」(24)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時39分0秒
   多数の日本の学者が奇妙な解釈をするのですね。不思議な事だと思います。
(余談ですが、アマゾンで本を検索していたら、例の長浜氏の本で厳しく批判されていた本(名前は忘れましたが、後の方にあったDNAについての本です)が、多くの人に絶賛されていて、高校教師らしい人が生徒にぜひ教えたいと言っていました。道は遠いです)
 

Re:唐突にすみません

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時37分30秒
   残念なのですが、出版社の事情で、三冊目は出ないだろうと思います。
 元版『光世紀の世界』が古書で入手出来ると良いのですが。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年10月 1日(金)19時40分20秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.10 活断層動く(宝亀三年(772)十月)
 十月十日に、大宰府が次のように言上したのじゃ。
「去年の五月十三日に、豊後国速見郡朝見郷で山が崩れて谷を埋め、水が流れなくなりました。十余日を経て、突然谷を埋めていた土砂が決壊しました。このため、人民四十七人が水に沈み、家屋四十三軒が宅地とともに埋没しました」
これに対し、天皇は詔を出して、被害にあった人々の調庸を免除し、食料などを施されたのじゃ。

 このような自然災害によって人民が被害を受けた時は、被害の大きさにしたがって賦役令9に課役の免除が規定されておるのじゃ。また災害によって食糧などが不足するため、戸令45によって天皇から食料等がくだされることになっておる。今回は、この二つが施行されたわけじゃ。それにしても、被害発生から一年半後の対処とはどうしたことじゃろうか。原文は「去年」となっておるが、いささか納得しかねるところじゃ。じゃが、去年の五月にも今年の五月にも地震の被害は記録されておらん。今回の山崩れは、局所的なものだったのじゃろう。

 場所は、現在の別府市朝見付近じゃろう。別府市の南部には朝見断層線と呼ばれる活断層がある。おそらく、この活断層が動いて地滑りが発生したのじゃろう。それによって河道閉塞(天然ダム形成)が起きたわけじゃ。そのダムが決壊して大きな被害が出たのじゃ。第二章25項でも同様な被害が出たのじゃが、これは東海地震の歴史を伝えるものじゃった。今回のものは、地上に延びた活断層の歴史を伝えておるわけじゃ。

 『日本書紀』や『続日本紀』のような歴史書から、人間の足跡を見るだけではなく、人間に無関係な自然の動きを取りだしてみるのも興味深いものがあるのではないかの。
 

「神功皇后」(24)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 1日(金)13時20分55秒
    ところで、「百済」の「卓淳國」への遣使の目的は何だったのであろうか。これについ
 て、「倭国」との通交は第二義的で、「卓淳國」との親和関係の確立が第一義的だったと
 し、その理由として、「欽明天皇」2年(541年)条の百済の第25代「聖明王」の
 言葉で、『昔、「速古王」(第12代「近肖古王」-在位期間 346年~375年)と「
 貴須王」(第13代「近仇首王」-在位期間 375年~384年)の時代に、「安羅」、
 「加羅」、「卓淳」と始めて使節を交換し親交を結んだ』という記事があることを挙げて
 ている(「吉田 晶」-前掲書 100頁)。そして、「百済」の建国は「近仇首王」のと
 に始まり(「百済史料としての七支刀銘文」木村誠〔『人文学報』306号 東京都立大
 学人文学部 2001年〕)、百済の積極的な南下政策の証であるとする(「吉田 晶」-前掲
 書 101頁)。しかし、「卓淳國」は「神功皇后」が「新羅」を攻略したときの拠点で
 あり、「倭」が支配していたのであるから、「倭」の同意なくして親交できるはずもない。
 つまり、「倭」との親交なくして「卓淳國」との親交はないということである。「吉田 晶」
 の考えは採り得ない。「百済」の意図が「卓淳國」にあるのせよ、やはり「倭」との親交
 の確立が第一義的だったのである。『日本書紀』を素直に読めば、これが正しいことは容
 易に理解できよう。
  また、この条に、百済の使者として「久氐」・「弥州流」・「莫古」の名が出てくる。彼
 らは実在の人物に間違いない。「久氐」はこの後、何度も「神功皇后」紀に出てくる。「
 弥州流」も47年条に1回だけ出てくる。おそらく「久氐」を補佐する人物だろう。「莫
 古」は『三国史記』百済13代王「近仇首王」(在位 375年~384年)の即位前紀
 に、百済の将軍として出てくる「莫古解」と同一人物とみてよい。こうしたことからも、
 46年条は事実を伝えるものと考えられる。
 

唐突にすみません

 投稿者:Kow  投稿日:2010年10月 1日(金)12時52分52秒
  はじめまして、20代のSFファンです。石原博士に質問したく投稿致します。
系外惑星グリーゼ581gが発見されたニュースで〈光世紀世界〉シリーズを思い出したのですが、
裳華房から出ている〈光世紀世界〉シリーズの最終巻は今後出る予定はあるのでしょうか?
また、もし出される予定があるのであれば、
最近の系外惑星探索について盛り込まれるかどうかについても知りたいです。
 

オロモルフ号の航宙日誌4729『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時13分0秒
  ▼中国の尖閣諸島侵略糾弾! 全国国民統一行動

(宮崎正弘メルマガより)
 期日 : 10月2日(土)
 集合場所 : 代々木公園けやき並木(NHKスタジオパーク入口横)
   14時00分 東京集会
   15時10分 隊列準備
   15時30分 出発 けやき並木 〓 「渋谷」駅前 〓 青山通り 〓
                    表参道 〓 「原宿」駅 〓 けやき並木
   16時30分 けやき並木 到着
   17時00分 ハチ公前広場 街頭宣伝活動 (~19時)
http://www.youtube.com/watch?v=mGLfI1Mfjac&feature=watch_response
 (くわしくは上記サイトにあります)

▼日本海海戦の「七段がまえ」とは?

 日本海海戦時に聯合艦隊が準備した作戦は「七段がまえ」と言われ、秋山眞之が中心になって策定したとされています。
 有名な作戦ですが、その内容(第何段がどういうものか、何段と何段が実行されたのか)については、資料によってまちまちです。
 本当はどうだったのでしょうか。
 この作戦に詳しい方、教えてください。

▼「ゼロ時間へ」「復讐の女神」

 クリスティの映画化で比較的良い方だと言うので、見ていました。
 ミス・マープル役の女優さんはこの役に似合いますね。
 前者は原作ではマープルもポアロも出てこないらしいですけど。
 マープルものの日本の翻案(岸惠子)を見たことありますけど、翻案は難しいですね。
 だいぶ前に、別の作家ですが浅丘ルリ子で翻案された「新車の中の女」を見ましたけど、途中でがっかりしました。

▼小学二年生

 一昨日、近くの医院に健康診断結果を聞きに、家内と行きましたが、結果は二人とも去年と同様で、何となくほっとしました。
 で、その行きがけに、小さな女の子が子供用の自転車に乗って、泣きながら「XX小学校はどこか」と聞いてきました。どうやら道に迷って帰れなくなったらしい。
 で、たまたま医院と同じ方角だったので、一緒に行ってあげました。七歳で小学二年生らしい。友達と一緒に走っていて、一人置いていかれてしまったらしい。
 XX小学校の近くまで行って「わかるか」と聞くと「わかる」というので、そこで「気をつけていきなさい」と言って別れましたが、こちらの顔も見ずにどんどん行ってしまいました。
 わたしが家内に「小学二年なら「ありがとう」ぐらい言えるだろうに」と言ったら、家内は「教育のせいだ」との説。
 うちの子供たちの小学二年のころはどうだっただろうか・・・皆無口で社交性はありませんが、たぶん「ありがとう」くらいは言えたと思います。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4728『日露戦争と無線電信268』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時09分41秒
  ▼木村駿吉の資料(51)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[5]

▽10
 当時でも無電に使っていたのは、今で言う高周波電流だったが、交流でさえあまり知られていない時代で、電気工学の専門家でも高周波など知らなかった。外国の書物にも書いてなかった。
 チューニング(同調)という言葉は使っていたが、どうやってそれを実現させるかは知らなかった。
 今日のラジオ屋さんの小僧やアマチュア無線をやっている人にも及ばなかった。
 そういう中でなんとか作り上げたのは、いわゆるコケの一念というものだろう。

▽11
 マルコーニは事業家としての野心があって、ロンドンに来て盛んに宣伝していたので、種々の特許を出願して雑誌に出したり、通信の成功を次々に吹聴していたので、明治33年には、彼の発明はだいたい分かっていた。
 また、ケムニッツ市(*1)にマックスコールという会社があって、諸国の学術雑誌に出た発見発明を教育用材として作って英仏独三カ国語の図入りカタログにして無料で配布していた。
 私はこのカタログを見て明治31年か32年にマルコーニ無線電信機というのを二高で買い入れて(*2)、教場で学生に見せた。
 それはコヒーラとデコヒーラと継電器からなり、近くでインダクションコイルの火花を発すると、受信するという原理を説明するものだった(*2)。
 それは電波によるものではなかったが、受信してからの原理は十分に説明できた。
 私はこの機械とインダクションコイルの双方に小さなアンテナを付けて試験していたが、今考えると、火花が直接コヒーラに働いたのかもしれない(*3)。

▽12
 その他の資料では、独ヘルツの書いた『電波』、米テスラの書いた『高周波電流』、英フハヒーの書いた『無線電信史』という本を読んでいた。
『無線電信史』は大部分は電波によらないものだったが、明治31、2年の出版なので、それまでのマルコーニの実験やアンテナの下のトランスの巻き方などが記載されていたように記憶する。
 明治33年に海軍に来た時の知識はそれだけだった。
 教員生活から生きた研究生活に転じた時は、薄暗い陰気な処から明るい晴れ晴れした処へ来たという気分だった(*4)。

*1:最新技術の企業が多くある独逸の市。

*2:どうやらインダクションコイルは別に有ったものを使ったように読み取れます。どのように入手したのかは不明ですが、とても小型で電圧も低いものだったでしょう。

*3:これは、電磁誘導だったかも知れません。

*4:木村駿吉は高校(当時の高校は一流大学に近い教育機関)では、すぐにトラブルを起こしてしまって、憂鬱だったようです。一高では内村鑑三の不敬事件に巻き込まれて非職(休職)になってしまいましたし、二高では学生のストライキ事件に巻き込まれて大変だったようです。すべてに一直線で純真な子供のような性格で、いわゆる世渡下手だったようです。

[続く]
 

Re:今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(3)(4)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時08分11秒
  >損害を防ぐために役に立つ戦果が得られる目算がなければ、戦争はしません

 じつに呑気な人ですね。
 こういう発言をする人って、天照大御神の教えも知らないし、修身の勉強もしたこと無いのでしょう。
 領土とは我々の先祖の血と汗と涙の結晶であることを全く考えていませんね。

 下世話な話を付け加えれば、尖閣海域の資源についても何も知らないのでしょう。
 戦争をして尖閣を奪う国は、経済的に見ても、大変な利益を自分のものにしますよ。
 領海の問題もあるので、台湾併合の第一歩にもなります。

>これを機会に「自衛隊法」の見直しを考えねばならないが、左翼の巣窟となっている「民主党」、危機意識がまるでない「自民党」が跋扈している状況では前途は暗い。

 昨日でしたか、神奈川県知事が、領土防衛では自衛隊法に重大な欠陥があるので、改正しなければならない――と語っていました。
 分かっている人は分かっていますけど、これまでやってこなかった自民と民主ではなあ・・・。
 

Re:「神功皇后」(22)(23)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時06分34秒
  >ところで、46年条に、「日本」、「貴国」という表現があることが大きな問題となって
> いる。これが「46年条」を<虚偽>である根拠となっている。

 ものすごく細かな箇所を取り上げて虚偽だと叫ぶのですね。
 46年条というと、日本に朝貢に来る話の始まりですから、虚偽にしたいのでしょうか。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)13時21分10秒
   中国の領土的野心は、どのようなものにも優先すると思える。しかし、次のように言う者がいる。
 『日米中とも、ここまで経済的に密接な関係を有していて多大な取り引きや技術関係でも相互依存の強い国際関係にある。そんな国どうしが、本気で戦争しかける事態があるとすれば、それは国民経済における自殺行為であり、正気の沙汰じゃありません。旧世紀前半ならいざ知らず、部分的にでも有事になるわけがないと思いますよ。勝っても負けても、戦中戦後の混乱を考えたら、日米台中、いずれも得しない戦争をやる理由がない。領土問題にしても戦争以外の外交手段でいくしかないでしょう。
 経済成長率の拡大に腐心する中国シナが経済的に停滞や退歩をもたらしかねない。日台米への対外戦争行為をするわけがない。尖閣諸島の問題も、それがゆえに戦争に訴えるなどありえない。
 日本はともかくシナも米も「国家の威信イコール経済発展」という考えです。だから、もうけにならない戦争はしないし、損害を防ぐために役に立つ戦果が得られる目算がなければ、戦争はしません
 国際的な市場経済によって、先進国同士の戦争は封じ込められている。その辺を見据えて、カネ勘定こそが、国際関係を支配するという前提を忘れないようにしたいものです。』

 今度の事件はどうだろうか。まだ<戦争>ではないと言うだろう。しかし、国際紛争と置き換えてよい。それもまだ<国際紛争>ではないと言うのかもしれない。領海侵犯に対して狂気とも思える反応を示したこと自体<国際紛争>と言える。そして日本国民の憤激を買うのみならず近隣諸国にも警戒感あるいは恐怖心を与えたことは否定できない。日本との関係で言えば、中国は日本の最大貿易相手国で、輸入も輸出も経済的恩恵を受けている。今度の紛争はそれに水を差し、その経済的損失は計り知れない。
 にもかかわらず、中国が尖閣諸島における領土権を顕著にしたのは経済よりも守るべき国益があると判断したからである。この面では中国の方が遥かに日本より優れていると判断せざるを得ない。経済が政治を凌駕するなどと言うこと自体、国際政治の何物かを理解してない証左であろう。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)13時18分1秒
   自衛隊に国境警備の任務が与えられてないことも判明した(産経新聞 同上 2面 主張)。
 自衛隊法第3条1項1号には「自衛隊は、我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応してその確保に資する活動を行うことができる」と規定する。この条文から見たら「自衛隊に国境警備の任務が与えられている」ように考えられるが、<確保に資する活動>の具体的内容が明らかとなってなく(つまり、細則がない)、自衛隊に国境警備の任務が与えられてないとも解釈される。
 自衛隊法のような「国防法」の原則は、自衛隊が何をやってよいかを定めるのではなく、何をやってはいけないかを定めることにあるが、我が国の法制はその逆となっている。これは自衛隊を忌諱する左翼どもが主導した結果である。それが今回の惨状をもたらしたと言えるのである。
 これを機会に「自衛隊法」の見直しを考えねばならないが、左翼の巣窟となっている「民主党」、危機意識がまるでない「自民党」が跋扈している状況では前途は暗い。
 

「神功皇后」(22)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)12時13分8秒
    ところで、46年条に、「日本」、「貴国」という表現があることが大きな問題となって
 いる。これが「46年条」を<虚偽>である根拠となっている。これについて考える。
 ① 「日本」
     「日本」という国号が使われたのは、まず『日本書記』に「日本」とあり、『日本書
  記』は720年に完成されたのであるから、奈良時代の始めには「日本」という国号
  が成立していたのは間違いない。ところで、同じ頃に編纂された『古事記』では「倭」
  (やまと)と表記されており、『日本書記』と『古事記』とでは異なるが、「日本」も
  同じく「やまと」と読まれていた。『日本書記』(巻一 神代 上 〈第六〉)に「大日
  本豊秋津島」と書いて、「おおやまとあきつしま」と読ませている。なお、中国では「
  倭」と呼んでいた。このことは、後漢の「光武帝」の「倭奴国王印」(57年)でわか
  る。
   『唐暦』(「唐」の「代宗」〔在位 762年~779年〕)にも「日本国は倭国の別
  名なり」と記されている。これより古い資料としては、『史記正義』(「唐」の「張守節」
  が736年に撰した書)に「武后、倭国を改めて日本国と為す」との記事がある。2
  004年10月に中国で発見された、遣唐使の「井真成」の墓誌(734年に死亡)
  に「国号日本」とあるから、このことが裏づけられる。
   日本側の記録としては、704年(慶雲元年)に帰国した「粟田真人」の報告に「
  日本国の使い」と記されている(『続日本紀』文武天皇慶雲元年秋7月1日条)。
   日本で正式に「日本」という国号が使われたのは、『大宝令』(738年)のことで、
  そこには「明神御宇日本天皇」(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこ
  と)を詔書に使うとあることから、元号も「日本」としたとされる(『「日本」とは
  何か-国号の意味と歴史』神野志隆光 講談社〔講談社現代新書 1776〕21頁)。
 

「神功皇后」(23)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)12時11分50秒
     それでは、正式に「日本」という国号が使われる遥か前の46年条に、「日本」と記
  したのは、どうしてであろうか。それは「倭」と呼ばれていたことに対し、「日の出る
  ところに近い東の国であるという誇りがあり、「倭」がその東の神国であるとし、「日
  の出るところの本国」との意味として使用したものであり、朝鮮側もそれを受入れた
  ものと考えられよう(『中外経緯伝』伴 信友〔『伴信友全集(第3巻)』ぺりかん社 1977
  年復刻-神野志隆光 前掲書 37頁〕)。つまり、この時代から「倭」を「日本」と
  呼ぶ素地があったのである(「『三国史記』『三国遺事』の史料的価値」井上秀雄〔「『ゼ
  ミナ-ル 日本古代史 下』光文社 1980年1月30日 483頁〕)。したがって、『日
  本書記』の撰者が46年条に「日本」と記したことは決して不可解なことではない。
 ② 「貴国」
  これについては「「百済三書」と『日本書記』」の項でも説明するが、ここでの説明を
 補足するために再掲したい。
  これについて、百済人が百済の記録に日本を貴国と書くはずがないとして「津田左右
 吉」はこれを『日本書記』の改竄としている。「池内宏」は百済の記録に「倭」とか「倭
 国」とかあったのを『日本書記』の編者が「貴国」と書き改めたとする(前掲書 36
 頁)。
  「貴国」という用語は『百済記』だけでなく『日本書記』の本文にも使われている。「
 坂本太郎」は、『編者がまず『百済記』の「倭」を「貴国」と改め、ついで本文にも「貴
 国」と書くほど手のこんだ修正を加えるはずがない。また編者のしわざならば、「貴国」
 が神功・応神紀だけで消えてしまうのもおかしい。すべてこれらの修正は『百済記』以
 下の書物の編者のしわざであり、『日本書記』の編者はすなおにそれを取り上げたのに過
 ぎない』という(「継体紀の史料批判」〔『日本古代史の基礎的研究 上 文献編』東京大
 学出版会 1964年5月30日 256頁〕)。そのとおりだと思う。
  これについては、「貴国」という表現は、『百済記』の編者が日本側にこの『百済記』
 を見せることを考慮して、そこに記載されていたと考える。そう考えれば、おかしくは
 ないし、「百済」側としても、謙って(へりくだって)も「日本」との和親関係をむすび
 たかったのである。このことは「神功皇后」紀の一連の記事に明らかであろう。
 

オロモルフ号の航宙日誌4727『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時47分25秒
  ▼70万円で卒倒

 木村駿吉や松代松之助の思出談を読みますと、ロンドン・エレクトリシアンという雑誌の明治28年から32年くらいの間にマルコーニの実験のことが沢山出ていて、それを読んで勉強したと書いてあります。
 そこで、まずは目次だけでも集めようと、科学技術振興機構に依頼したら、この期間に250冊ほど出ており、目次の複写だけで70万円かかる――という返事が来まして、卒倒してしまいました。
 これは木村松代の話を読むまでは聞いた事のない雑誌でして、学術誌というよりは技術紹介の雑誌のようです。
 国会図書館のインターネットを検索するのも苦手で、知人に教わっていくら試みてもほしい情報は出てきませんし、こういう雑誌の調査も出来ません。
 たぶん、資料性はあるが学術的には新味はないと思いますけど・・・。

▼ヤジ

「売国奴!」「辞めちまえ!」
 大相撲秋場所の千秋楽だった26日夕、菅首相が優勝した横綱白鵬に総理大臣杯を手渡すために東京・両国国技館の土俵に上がると、客席からすさまじいヤジが飛んだ。
(夕刊フジより)

 僕より前、内閣総理大臣賞で菅総理が土俵に上がると、凄まじい野次が飛んだ。
 「売国奴!」「辞めちまえ!」・・・・・・・
(東国原英夫オフィシャルブログより)

▼地図帳

 茶の間での雑談中に地図を見たくなる時があります。テレビの番組を見ている時にも。
 そこで、インターネットで調べて、帝國書院の教科書的な地図を買いました。
 これが良いと思ったわけではなく、似た地図を前に使っていたのと、消去法によります。
 薄い、軽い、判型が大きくない、世界と日本の両方が出ている・・・などの条件で消してゆくと、これが残ったのです。
 この版元は歴史教科書なども出しており、信用しているわけではありませんが・・・。
 買ってみて、だいたい予想どおりでしたが、本を開いた時のノドの部分がとても見にくく、力一杯開いても中央が見えません。
 何度も改版されている地図帳らしいのに、製本については工夫が不足です。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4726『日露戦争と無線電信267』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時44分59秒
  ▼木村駿吉の資料(50)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[4]

▽6
 当時の噂話では、マルコーニに売却の内意を訊ねたところ、百万ポンドとか百万円とか恐ろしく高い値段を言われた。
 当時は遼東返還を余儀なくされて日本全体は悔し涙にむせび、伊藤総理が七重の膝を八重に折り樺山海軍大臣が議会で卒倒されても海軍予算は通らず、臥薪嘗胆の標語のもとに官吏は全て月給の十分の一を献納するという実情で、とてもそんな大金を払うわけにはいかなかった。

(この話はよく出てきますが、山本権兵衛海軍大臣は、「本当に必要なら百万円でも買わねばならない」との意見だった――という話があります。その方が真実に近いと思います)

▽7
 海軍が無電の研究を始める前に、こんな話も有った。
 マルコーニが空中線の特許を日本に出願手続きした。
 そのころの日本では、万国工業所有権保護同盟条約に従って、本国に出願してから60日以内に出願しなければ日本特許を与えぬ事になっていた。
 ところが62日めの出願となったので、特許局はそれをはねつけたという話。
 事実はどうか知らぬが、もし空中線の特許が取られたら、手も足も出なかっただろう。

(この件については、くわしい検討をしてここに発表しました。当時はまだ日本は万国工業所有権保護同盟条約には入っておらず、問題は少々ややこしいことは、その時に記しました)

▽8
 無線電信調査委員会は明治33年に出来て、外波中佐が委員長、松代君は二月に嘱託委員、私は三月に二高教授より転任して委員。
 実験助手は逓信省から伊藤敬一と池田武智の二名の技手、海軍造兵廠から一名の技手野俣寛治君が委員付。
 委員会には予算は無く、海軍省の局課から寄進を受け試験材料や試作費用は造兵廠で融通し、逓信省からも電信用の器具を借りた。
 私は海軍教授という名目で給料は海軍大学校の教授給から払われた。
 出張の旅費に困ると、外波委員長が経理部に座り込んで談判した。
 研究所といっても、木造軍艦摂津の物置小屋で大池と小池の間にあった。夜中出入りするたびに何匹かの大蟇を踏み殺した。
 研究所専任の手伝いとしては、勝田という勇み肌の江戸っ子で喧嘩に強い雜工だった。私は数ヶ月間はこの物置に籠城して、毎日雜工が出勤する途中で買ってくるパンを食べていた。

(勝田という雜工の話は、他にはあまり出てきませんので興味深いです。当時ヤブ蚊などもいて刺され、また風邪をひいてしまって薬を酒で飲んでいたなど、逓信省技手の思出談にあります)

▽9
 辛かったのは夜中に銭湯に行く時、黒絽の紋付羽織を着ることで、これは、海軍大学の門には制服の守衛がいて敬礼されるので、浴衣の着流しというわけにはいかなかったからだ。

(珍妙な姿だったと思います。なおこの数ヶ月は仙台から東京に来たばかりで、まだ家族の東京での住居も決まっておらず、単身赴任だったのだと思います)

[続く]
 

Re:今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(1)(2)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時42分9秒
  >「朝貢外交」を行ってきたのはなにも民主党に限らないのである。この度の問題について、自民党が民主党を糾弾する姿はコッケイでしかない。

 まったくその通りだと思います。
 安倍晋三の情けなさには涙が出ます。しかも本人は今でも国士気取りです。
 ところで、昭和40年代の国会での議論を保存しておいた筈なんですが、読み直そうと思って探しても出てきません。記憶力が大幅に減退しております。最近では自分の名前も忘れそうです。
 国会の議事録は戦後のものが全てインターネットで公開されていますが、検索して見つけるのがとても大変です。キーワードだけでは無理ですから。
 

Re:「神功皇后」(21)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時41分9秒
  >さすがにここは<創作>であるという者を見出せなかった。『三国史記』に2度にわた
>り、『三国遺事』にも同じような記事があり、合致する記事が存在するからであろう

 なるほど、あちらの史書と一致すると、創作説は引っ込めるのですね。つまり、日本の古い史書よりも、あちらのずっと新しい史書の方を重んじるという・・・。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)20時40分57秒
   今回の領海侵犯漁船の船長の釈放について、その原因を作ったのは「民主党」のみならず、かつての政権党「自民党」にもあったことである。このことを如実に示しているのが、先の谷垣自民党総裁の「逮捕後、直ちに釈放すればよかった」の発言である。この発言は単なる谷垣の独走ではなく、自民党に脈々と流れている<媚中派>を承継したものに他ならない。河野洋平元自民党総裁、加藤紘一自民党元幹事長の言動を見ればよく理解できる。
こうしたことの淵源は、田中角栄の日中国交回復にあったが、それはアメリカの示唆によるが、それまで親交を重ねてきた台湾を見捨てることだった。しかし、よしんばそれが政治的情勢から許されたにしても、いくらでもそれまでの人脈を生かし、水平面下で台湾とつながることは可能だったが、それを捨て去り、中国に傾斜していったのである。
 森 喜朗元首相・安部晋三元首相らの歴代自民党首相も靖国神社の参拝を断念してまで、中国との友好を果たそうとしたが、このことが日本の首を絞めたことを忘れてはならない。「朝貢外交」を行ってきたのはなにも民主党に限らないのである。この度の問題について、自民党が民主党を糾弾する姿はコッケイでしかない。
 

「神功皇后」(21)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)13時07分7秒
  2.「神功皇后」摂政5年(333年)
  さすがにここは<創作>であるという者を見出せなかった。『三国史記』に2度にわた
 り、『三国遺事』にも同じような記事があり、合致する記事が存在するからであろう(
 『日本書記朝鮮関係記事考證』上巻 三品彰英 天山舎 2002年12月19日 77頁)。
3.「神功皇后」摂政46年(366年)
  この時代は、百済第12代「近肖古王」〔在位347年~375年〕の時代で、『三国
  史記』にも、初めて「国史」を編纂したとの記事がある。したがって、朝鮮人研究者
  もこの時代からの記事は正確性があると認めざるを得ない(『任那と日本(日本の歴史
  別巻 1 小学館 1977年10月1日 167頁』)。そして、『日本書記』もこの「国
  史」を参考に記述されたと考えている(同頁)。したがって、この記事には反論がない。
  特に本条には「甲子年7月」とあり、それはここの記事が朝鮮側の史料を引いてのも
  のと考えられるからである。
   朝鮮人研究者が本条の記事を認めるのは、「神功皇后」が「卓淳国」に遣使したとい
  うだけで<平定>したなどという記録がないから認めているだけだと考えている。

   ここで、この時代の朝鮮の「百済」の王統を『三国史記』と『日本書記』で見てみ
  たい。
〈1〉『三国史記』

   13代       14代     15代      17代     18代
   近肖古王    近仇首王       枕流王     阿辛王     腆支王

                           16代
                           辰斯王


               19代       20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

〈2〉『日本書記』

   13代     14代     15代      17代     18代
   肖古王      貴須王     枕流王     阿辛王    腆支王
  (近肖古王) (近仇首王)
                                    16代
                                    辰斯王


               19代       20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

     ここでは、第20代「昆有王」と第21代「蓋鹵王」の系譜が明確ではない。
   なお、「蓋鹵王」も含めてそれ以降の王統については、『日本書記』と『三国史記』
  では大きく異なっている。それについては「任那日本府」の項を参照されたい。
 ※ 第7代「沙伴王」(第6代「仇首王」の子-在位期間不明)が即位したが(『三国史
  記』第7代「古爾王」)、そこには「幼いために政事を執ることができなかったので、
  (第5代)「肖古王」の母の弟である「古爾」が即位したとあり、「沙伴王」の事績に
  ついては全く記されておらず、その後のことも不明であって本当に即位していたかど
  うかについて疑問がある。したがって、王統については第7代「沙伴王」を省いて記
  すことにする。

★ 罫線が消えてしまっているので、補足する。
 1.『三国史記』
  ① 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている。
  ② 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である。
  ③ 18代→21代も父子承継となっている。
 2.『日本書紀』
  ① 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている-『三国史記』と同じ。
  ② 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である-『三国史記』と同じ。
  ③ 18代→20代も父子承継となっている-『三国史記』と同じ。
  ④ 21代は系譜が不明である。つまり、20代との関係は不明となっている。
         ▲ ここが大きく違っている。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)12時35分58秒
   今回の中国漁船の領海侵犯で明々白々となったことは、「日米安保」への懐疑である。
 日米安保条約の第5条に「各締結国は、日本国の施設の下にある領域における、いずれか一方に対する攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とある。ここにいう「領域」に尖閣諸島が含まれるかであるが、ブッシュ政権のときには含まれるとされていた。しかし、アバマ政権になって、クリントン国務長官の発言のように「含まれるが侵略されてもアメリカが直ちに武力行使することは規定されてない」としている(産経新聞 平成22年〔2010年〕9月29日(水)朝刊 東京第12版 7面
正論〔西尾幹ニ〕)。これがブッシュ政権とは違った対応であるかどうかは定かではないが、政権により解釈が異なるようでは信頼に欠ける。それはともかく、これでは何のために「日米安保条約」を締結したのか意味がない。産経新聞を中心とする保守派論客が「日米安保条約」堅持を唱えるが、事実すら見ておらずむなしい。懐疑を抱かないのは、もはや信仰に近い。保守派という看板を下ろしたらよかろう。
 尖閣諸島への対応について、アメリカに依存するのは属国意識も甚だしく、やはり日本独自で行わなければならないということが明確になっただけでも今回の事件は大きな意味があったと考えられる。
 

オロモルフ号の航宙日誌4725『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時31分15秒
  ▼感覚のずれ

 テレビを見ていますと、いまだに、感覚のずれがあり、相互譲歩という日本人的感覚が北京政府にも通じると錯覚している日本人が多いですね。

(宮崎正弘さんが解説していましたが、それを少しアレンジすると下記のようになります)

 こちらが一歩譲歩すれば、相手もそうするだろうという日本人の感覚は、国際社会では通用しない。とくに対北京では絶対に通じない。
 こちらが一歩下がれば、相手は二歩攻め寄ってくる。これが北京の常識。
 民主党の連中は、日本人どうしの喧嘩だと錯覚しているのでは?

(しかしこんな事は戦前に日本人が散々経験してきました。タウンゼントが言っています。↓)

◎本文の一部24『軍艦を盾に賠償金を取った田村総領事』
(以下大意)
 昭和七年の上海事変の直前のこと。
 福州でも収奪目的の学生秘密結社がたくさんあり、ある日本人教師夫妻が脅されていた。
 そこで日本の田村総領事は、福州当局や警察に警備を依頼した。
 中国人の顔を立てたのである。
 ところが、警備にあたった中国兵は、ある日とつぜん姿を消し、日本人夫婦はたちまち殺されてしまった。
 グルになっていたとしか思えない。
 田村総領事は「これは重大な過失である。遺族に五万ドルの賠償金を払うべきだ」とした。
 ところが中国当局は言を左右してまともな返事をしない。
 そこで田村総領事は、日本海軍に打電して軍艦を向けてくれと頼み、それを中国側に話した。
 そうしたら急に五万ドルを持ってきた。
 ・・・・・
 日本海軍は実際に来た。
 中国人には田村式が一番である。
 それ以後、福州では日本人殺害や反日行動がピタリと止んだ。
 日本人は最高の扱いを受けるようになった。

(これは昭和8年に出版されたアメリカ人外交官タウンゼントの本を抜萃した一節です。下記をどうぞお読みください。)

■■■ タウンゼント『暗黒大陸中国の真実』抜萃(オロモルフ)■■■
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ankoku_tairiku.htm

(ところで、タウンゼントの本の訳はいくつか出ていますが、木村駿吉が紹介した中の一冊は未訳のようです。誰か訳してくれないでしょうか。タウンゼントの本は、日本の常識が世界の常識だと錯覚し歴史に学ぼうとしない日本人への警鐘に満ちています。もちろんタウンゼントがどこまで正しいかについては、いろんな意見があると思いますが)

▼ケーブルテレビと光ファイバ

 ケーブルテレビとNTTの光と、どれもテレビ、インターネット、電話と何でも出来ますという触れ込みですけど、具体的にどうなるかは、複雑で分かりません。
 高千穂さんのところでは、衛星放送は別にしておられるとか・・・まあ、ゆっくり考えようと思います。一度係員に話は聞こうとは思いますけど。

▼ああ、阪神

 昨日は巨人に負けてしまったらしい。
 これでドラは受け身の優勝の可能性が高まりました。
 なんだか消化不良の気持ちです。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4724『日露戦争と無線電信266』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時28分0秒
  ▼木村駿吉の資料(49)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[3]

▽3
 本文の最初に、前書き部分が三節あるので、その全文を記す。
「日露戦役の後三十年、当時お役に立った海軍初期の無線電信に付て、自己批判を加へながら順序に拘らず回顧して見よう。
 何分にも三十五年乃至四十年から前の事実を記憶に辿ることであるから、年月其他は多少朦朧とした点がないでもないが、重要の記事には誤謬のない積りである。外波、松代の両君が夫れ夫れ関係された部分を読まれて、意見訂正を寄せられたことは、本談に千鈞の重みを加へたるものとして感謝に堪へぬ。
 数年間苦楽を共にしたる三人が今尚生存して居るのはお目出度い話、敬老の順序で書くと外波君は七十三歳私は七十歳松代君は六十九歳でその様な老人達が相揃つて日露戦役三十年の祝典を迎へ得たるは何たる幸福ぞ。」

▽4
 明治三十一年を中心にしてその前後五、六年間に、基本発明が密集して現れた。
 マルコーニの無線電信、レントゲンがエックス光線、ニコラ・テスラが交流電気、ホルランドが潜行艇、ライト兄弟が飛行機。それらが今は働き盛りの活動をしている。

▽5
 明治三十年ごろ松代松之助が無電の試験を開始。それを見学した外波内藏吉が、時の海軍大臣山本権兵衛に調査研究を建言し、大臣はこれを入れて明治三十三年に海軍無線電信調査委員会が設けられた。日露戦争が避けられない運命だと感じられたためでもあろう。

[続く]
 

Re:8.9 王(おおきみ)が内親王を姦す(宝亀三年(772)十月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時25分45秒
  『日本書紀』もそうですが、六国史には、皇室にとって不名誉な記述も多数ありますね。もし創作を重ねたのなら、もっと皇族方の美談を増やして、不名誉な話は除く筈だと思います。
 したがって創作説は信憑性がありませんね。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年 9月28日(火)20時10分51秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.9 王(おおきみ)が内親王を姦す(宝亀三年(772)十月)
 十月五日に、こんな記事が記されておる。
「中務大輔で従五位上、少納言で信濃守を兼務する菅生王(すごうのおおきみ)が、小家内親王(おやけのひめみこ)を姦した罪で除名になった。内親王は皇族の籍から削られた」
除名になると、名例律21の規定により、官位・勲位をことごとく剥奪されるのじゃ。除名の対象は、名例律18で定められており、八逆、殺意による殺人、反逆縁坐、および監守する所において姦し、盗し、人を略し、収賄により法を枉(ま)げるなどの行為じゃ。

 ところで、小家内親王とはどのような人物なのか、よく分からんのじゃ。小家内親王の記録はこの記事以外にない。小家は小宅とも書かれる。小宅内親王は、孝謙天皇の皇女であると書かれた書物もあるが、孝謙天皇は独身の女帝じゃから皇女がおるはずがない。舎人親王の子である三原王の娘に小宅女王がおり、この人の可能性がある。もしそうなら、内親王と書かれるのは誤りなのじゃ。そして小家内親王がその後どうなったかも分からん。

 菅生王の系譜も未詳じゃ。菅生王の所属した中務省は、天皇の側近くに仕え詔勅などを扱い女官の叙位などにも関わる。したがって、その除名は「監守する所において姦」に該当したのかもしれん。強姦の場合は女子は罰せられんが、和姦の場合は男子と同罪じゃった。この姦通事件では、小家内親王は皇籍から外されておるから、和姦だったと考えられるのじゃ。そのためかどうか分からんが、菅生王は半年ほど後の宝亀四年(773)四月に本位の従五位上に復しておるのじゃ。そして宝亀九年(778)一月に正五位下となり、二月に大膳大輔になっておる。その後の記録は『続日本紀』にはない。

 このような記事が『続日本紀』にあるということは、当時大きな話題になったからじゃろう。何時の時代でも、この種の事件は人々の関心を呼ぶものなのじゃろう。
 

ケーブルテレビ。

 投稿者:高千穂遙  投稿日:2010年 9月28日(火)15時08分47秒
  J:COMですから、うちと同じですね。テレビは1台だけですか?

テレビが地デジ対応なら、基本的に何もする必要はありません。工事してもらって、アンテナ線にテレビをつなぐと、そのまま地デジチャンネルが映ります。

ただし、衛星放送となると、事情は違ってきます。これはセットボックスというケーブルテレビ専用チューナー経由で見ないといけなくなります。わたしはこれがいやなので、衛星放送用のパラボラアンテナをべつに立てています。雨に影響されにくい60cmのパラボラです。

料金的には、はっきり高価と言っていいと思います。CNNとか、ディスカバリーチャンネルとか、ぜんぜん見ませんからねえ。番組に興味はあるのですが、時間がありません。
 

オロモルフ号の航宙日誌4723『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時54分38秒
  ▼蘭姫の世話

 少し涼しくなってきて、蘭姫用の犬小屋の冷房も頻度が減り、だいぶ楽になりました。
 これまでは一日に二度アイスノンのクッション(一回二つで計四つ)を換え、氷にしたペットボトルを二度換え、アイスノンの上に載せる座布団も二回交換し、交換するたびに吸収シートを取り替える――という作業が、水や食事や散歩の他に有りまして、さらにお薬を一日に四種類も飲ませたりと、四六時中犬の顔を見ているような毎日でした。
 むろん犬小屋や柵の中の掃除もあります。
 そんな事を慌ただしくやって、犬の柵に入ったり出たりしているうちに、なんだか自分は本当は犬なのではないか――という気がしてきました。
 夜眠くなると、思わず犬小屋に入りそうになります。
 家内との会話もだんだんと短くなって犬語に近づきつつあります。
 人間の言葉って何だっけ?
 ワン

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4722『日露戦争と無線電信265』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時52分8秒
  ▼木村駿吉の資料(48)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[2]

▽1
 冒頭に、海軍教育局のコメントがありますが、これは他の雑誌掲載の諸資料には無いもので、このことから、本資料が海軍教育局によって出された最初の印刷物(たぶん謄写)の復刻であることがわかります。

「本書は日本海軍無線電信創始者の一員たる元海軍技師木村駿吉氏が、日露戦役三十周年記念として記述せられたるものにして、当時世界第一の無線電信を完成して海戦に寄与せし所多大なりしと其の研究の苦心とを窺ふに足り、後進憤起の好資料たるべきを思ひ請て之を一般に薦むることゝせり。
  昭和十年九月
                        海 軍 省 教 育 局    」

▽2
 上に続いて、復刻した日本無線のコメントがあります。

「戦火の中に良く残存した本書の写しを入手一読致しました処、技術者の精進が良く戦機先制の機会を作り日露戦役大捷に貢献せるを知り感激深きものを覚ゆるのであります。
また筆者木村駿吉氏は日本無線株式会社創立者の一員でもあり茲に再梓の上御参考に供する次第であります。
  昭和四十年十月一日
                     日 本 無 線 株 式 会 社
                        (創立五十周年記念)     」

(同一内容の雑誌掲載は多く有りますが、海軍教育局のコメントのついた本資料を日本無線が復刻してくれたことは、ビブリオの面からは、じつに有り難いです)

[続く]
 

Re:ケーブルテレビ。

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時51分25秒
   高千穂さん、いつも気にしてもらってありがとうございます。
 じつは最近家の近所で電柱の工事があり、どうやらそれがケーブルテレビのケーブルだったらしく、係の人がパンフレットを置いていったのです。
 うちの市にもついにケーブルテレビが出来たという宣伝です。
 マイクロ波のアンテナは雨にやられますし、UHFアンテナは風が吹くとすぐ変になり、その都度業者に直してもらうのではとても不経済なので、ケーブルに興味はあります。いま困っているわけではありませんが。

 もっとも私は、ケーブルテレビよりも、都市ガスがほしいです。このあたりはプロパンガスのボンベで、とても値段が高く、不便でなりませんので。
 

ケーブルテレビ。

 投稿者:高千穂遙  投稿日:2010年 9月27日(月)15時21分52秒
  >パンフレットを見ましたが、何のことやらさっぱり分かりません。

なぜ、パンフレットを読まれたのです? ケーブルテレビにする必要があったのでしょうか? そこから教えてください。

うちはケーブルテレビですが、CS放送を見る必要があったので、そうしています。そうでなければ、自前のアンテナで見るのがいちばんです。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)12時39分54秒
   先に、>自民党 非難はしたが、政権党だったら、釈放を拒絶できたか大いに疑問である。谷垣総裁などはガチガチの迎中派である<と評したが、そのとおりになってしまった。彼は「領海侵犯の中国漁船船長を直ちに海外退去させればよかった」と24日の京都市での講演で発言したという(産経新聞〔平成22年「2010年」9月27日[月] 朝刊 東京15版 5面〕)。自民党の総裁がそのとおりだから政治家が国益などは守れるはずもない。
 仮に穏便な措置を取るなら、逮捕→船長の自白を得る→簡易裁判所に略式起訴→釈放、ということが最善だったが、民主党に中国側と掛け合って知恵をつける者がいなかった。最初から外務省が蚊帳の外に置かれていたらしいから、それが原因とも思えるが、政治主導を標榜する民主党政権だから理由にはならない。小沢など媚中派がたくさんいたはずなのに、どうしたことだろう。元々人脈などなかったのか、それとも知恵そのものがなかったのか、だろう。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)12時39分7秒
   これで国民の間に国防意識が高まれば良いのだが、そうは思えない。
国民の間に海を隔てた向こうに野蛮な国がいるという認識は高まったと思う。しかし、それが国防意識まで高まったかというと疑問が残る。長年の平和ボケで、今回の事件を機にそれから抜け出るのは難しいと思える。それをいくらかでも打破するためには、ネットなどで中国・日本政府を叩き続けるしかなかろう。
 起訴すれば、中国の反発は高まり、経済制裁などが一段と強化されたと思う。中国一辺倒の経済界に痛烈な打撃を与えるためには、それが最善だった。国益は経済界への中国依存への警告が一番だったと考える。それに中国の狂気が増幅されることによる日本国民の国防意識の高揚が実現されたとも考える。国防意識というなら起訴が最善だったのではなかろうか。
 いずれにせよ、日本は絶好の機会を失ったと言える。
 

オロモルフ号の航宙日誌4721『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時41分33秒
  ▼靖国神社参拝

 保守政党や経済界に、靖国神社参拝をやめれば中国との関係はうまくゆく――という思いこみが有ったが、それが間違いであることが、今回の事件で証明された。

 以上のような意味の記事を読みました。
 それは当然で、何を今更と思いますが、そもそも靖国神社と外国の意見とを関連づけること自体が、亡国の発想です。
 靖国神社参拝は外国の意見とは何の関係もありません。
 外国と関係するのは、「英霊に敬意を表するために参拝したいので案内してくれ」――と外国人から言われた時だけでしょう。

▼インターネット検索

 アメリカの検索企業が、これまでの質問を調べて、インターネット検索では回答が得られない下記の10の質問を発表。

1. 人生の意味は何ですか?
2. 神様は存在しますか?
3. 金髪女性はそうでない人に比べて楽しく暮らしていますか?
4. 最高のダイエット方法は何ですか?
5. 誰か向こうにいますか?
6. 世界でもっとも有名な人は誰ですか?
7. 愛とは何ですか?
8. 幸せになる秘訣は?
9. アメリカノ人気ドラマの主人公トニー・ソプラノは死にましたか?
10. 私は長生きできますか?

 こういう高尚な質問ではなく、もっと現実的な技術関連で、答えが出て来なかったり間違った答えが出てくる質問が無数にあるなあ・・・。

▼きわどい!

 セリーグもパリーグも大変な試合が続いていますね。
 じつにきわどい優勝争いです。
 ドラゴンズは、・・・・・

▼ケーブルテレビ

 のパンフレットを見ましたが、何のことやらさっぱり分かりません。
 意味不明な日本語の羅列です。
 係の人に訊いても、果たして分かるかどうか・・・?

 NTTの光ケーブルについては、多少は分かったのですが、やはり月々の値段が高くなるらしい。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4720『日露戦争と無線電信264』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時39分0秒
  (夏ばてなので、少しずつにします)

▼木村駿吉の資料(47)

◎次に、木村駿吉の思出談としてはもっとも長くかつ有名な資料を取り上げます。
 同じ内容で以下のような掲載種類があります。

(5)「日本海軍初期無線電信思出談」(執筆終了年月日)各種雑誌/昭和10年/原稿(後各種雑誌に掲載)
(6)「日本海軍初期無線電信思出談」(手書謄写)海軍省教育局/昭和10年/印刷物
(7)「日本海軍初期無線電信思出談」有終/昭和10年/雑誌記事
(8)「日本海軍初期無線電信思出談(承前)」有終/昭和10年/雑誌記事
(9)「日本海軍初期無線電信思出談(一)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(10)「日本海軍初期無線電信思出談(二)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(11)「日本海軍初期無線電信思出談(三)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(12)「日本海軍初期無線電信思出談(四)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(13)「日本海軍初期無線電信思出談(五)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(14)「日本海軍初期無線電信思出談」科学史研究/昭和20年/雑誌記事
(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)
(16)「日本海軍初期無線電信思出談抄録」幕末・明治初期数学者群像/平成3年/著書

(5)は原稿そのものが御遺族の元に保管されているとのことです。
 (6)以降はすべて入手していますが、ここでは(15)を見ながら記します。これは最初の海軍教育局の(6)の復刻と思われ、防衛研にも収蔵されています。
 なお、一般的には、コピーの取りやすい(14)が使われることが多いようです。
 これまでの資料との重複が多いのですが、省略せずにサマリーを記します。
 ▽#は仮番号で、主として改行ごとに番号をつけます。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(20)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時37分29秒
  >「倭」(日本)はその遥か前から「朝鮮半島」の南部に拠点を有し、数多くの人たちが居住していたのである。ところが、それを「新羅」が排除しようとしたから「神功皇后」が「三韓征伐」をしてその権益を守ったのである。

 ここのところは、資料を読めば読むほど、その通りだろうと思えてきます。
 『魏志倭人伝』とも照応しますし・・・。
 

「神功皇后」(20)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月26日(日)14時17分50秒
   次に、「直木孝次郎」の見解について述べる。
① 同じ記事があるからといって、これが同一の事実であると決め付けるのは根拠がない。
② 「直木孝次郎」も述べているように(前掲書 81頁)、「香椎宮」のことは中央政府の
 人々の記憶には残されていたが、『日本書記』や『続日本紀』に記録されないことも十分
 に考えられる。
 「池内 宏」の見解について述べたいが、これは③を除けば「津田左右吉」のものと大差
 ないので、省略する。③については後述する。
 最後に、「水野 祐」の見解について述べたい。
  「神功皇后」が「斉明天皇」の化体であるならば、どうして「神功皇后」を天皇にし
 なかったのであろうか。また、「斉明天皇」は筑紫の朝倉宮で急死しているが、神功皇后
 伝説で亡くなったのは「仲哀天皇」で男帝であり、相違がある(『ヤマト王権の謎をと
 く』塚口義信 学生社 1993年9月25日 53頁)。

  何よりも前述のとおり、『記紀』のみならず、その他の史料にも「神功皇后」の「三韓
 征伐」に関する伝承が記されている。『日本書記』の編者が「神功皇后」の史実を<造作
 >したなどということが有り得るだろうか。当時、「神功皇后」の「三韓征伐」は疑いの
 ないものとして信じられて来たのである。特に注目すべきは、前述の『常陸国風土記』
 行方郡条の「息長足日売の皇后(おきながたらしひめ-神功皇后)のとき、この地に「古
 都比古」(こつひこ)という人がいた。三度韓の国に遣わされた」という伝承である。こ
 のような都から遠く離れた地にまで、「神功皇后」の「三韓征伐」の伝承が存在していた
 のである。現在「風土記」はほとんど失われているが、他の地域にも同じような伝承が
 あったと思える。したがって、これらの者の見解は採用できない。

  それでは「神功皇后」はどうして「三韓征伐」を行ったのであろうか。「神功皇后」が
 「三韓征伐」をして、初めて「朝鮮半島」に拠点を持ったとは考えてはいけない。>倭
 はどこにあったのか< で詳しく説明したが、「倭」(日本)はその遥か前から「朝鮮半
 島」の南部に拠点を有し、数多くの人たちが居住していたのである。ところが、それを
 「新羅」が排除しようとしたから「神功皇后」が「三韓征伐」をしてその権益を守った
 のである(『倭の五王の謎』安本美典 講談社〔講談社現代新書 637〕1981年12月
 20日 213頁)。
 

オロモルフ号の航宙日誌4719『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)10時00分9秒
  ▼社説

 私は各新聞の社説って滅多に読まないのですが、昨日は尖閣問題が有ったので、一通り読んでみました。
 案の定、どの新聞も本質論には入っていませんね。
 ほとんどは外交の立て直しとか言ってます。
 外交とは武力を背景にした我慢比べであるという歴史の経験則がまるで生きていない社説ばかりでした。

▼無責任なピエロ

【中国人船長釈放】「私なら温家宝首相と腹割って話し合えた」鳩山氏が首相を批判
 鳩山由紀夫前首相は25日、沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖で中国漁船衝突事件に対する政府対応について「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」と述べ、政府の対応を批判した。

▼ドラ

 いよいよ、大変なことになってきました!

▼日本国辱史(元寇から大正時代までの国辱の歴史)
(どなたか、こういう本の戦後版を書いてくれないでしょうか。その中には当然、平成二十二年九月二十四日が入ります)

 ↓↓↓↓↓
 

Re:中国漁船の船長釈放に思う(1)・・・(8)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時57分45秒
  >中国に依存する経済界こそ非難されるべきであって、経済よりも守らなければならない<国益>というものがある。

>首相→官房長官→法務大臣→検事総長と早期に決着を付けたいという政府からの強要があったからである。

>公開することにより、事実を隠蔽できなくなって、国民の怒りが沸騰することを恐れたのである。しかし、馬鹿だね! まったく国際政治というものを知らない。こういう馬鹿に外交を任せているから、いつまで経っても日本は国際社会に打って出れないのだ。

>その遠因は自民党にあり、靖国神社を参拝しなければ日中関係は確固たるものになるという思想にはまってしまったからである。これを推進したのが経済界であるのはつとに知られる事実である。

>「たちあがれ日本」に期待したが、「与謝野 馨」共同代表は・・・・・【立ち枯れ日本】と揶揄されているのも<むべなるかな>である。

>日本にいる中国人は中国共産党の支配下にある。日本にいること自体が日本の<国益>に反する。・・・・・そもそも中国からの観光客 歓迎すべき存在なのか。

>アメリカの考えているのは、あくまでアメリカの国益。これに頼っていては国防すらできない。尖閣諸島は日本独自で守らなければならない問題なのである。

>民主党は領土を守る意識など微塵もない。いち早く潰さないと、日本が崩壊する!

 解法者さん、八回にわたるご意見、ありがとうございます。
 大いに賛成です。
 私らには内情は分かりませんが、とにかく中国の見え透いた圧力に日本政府が屈服して、近隣国から嘲笑されている事だけは分かります。
 当然ながら経済界も情けないです。
 そもそも多くの企業が中国に進出するなどという事がおかしいです。
 私もこの掲示板で、ずいぶん前から、この事を主張してきましたけど、営業者たちは「儲かるらしい」という魔法の言葉に洗脳されているのですね。
 その経済界が、ちょっと圧力をかけられると、たちまち萎縮して事勿れを要望するという腰抜けぶりです。
 観光や買い物旅行など来なくて結構ですよ。中国にある工場など追放してくれて結構ですよ。
 要するにこれは、先祖の血と汗の結晶である領土を外国に売り、自国の法律を無視して自分個人の利益をあげようという、卑劣な売国行為です。
 

オロモルフ号の航宙日誌4718『日露戦争と無線電信263』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時55分16秒
  (夏ばてなので、少しずつにします)

▼木村駿吉の資料(46)

(4)「日露戰爭當時の海軍無線電信の懐想」日本無線(雑誌)/昭和10年/雑誌記事[6]

▽13
 これは技術者を使う上での卓見で、日露戦役に無電機が有効だったのは、この命令が真因であろう。
 80浬というのは、当時の軍艦の速力少なかったからだろうが、実際の戦役には、100浬以上も使用したし、夜間には1000浬以上に達したこともある(*1)。

▽14
 当時のマストは60尺くらいでアンテナも60尺くらい(*2)。
 発電機は直流80ボルトの小さなもので、直接使うと腰砕けになって速力は衰え送信は中止する。
 そこで、60ボルト10アンペアの二次電池に充電して、600ワットの小電力で送信した。
 600ワットの電力と能率悪い火花送信機と増幅できない印字受信機とで、確実に80浬の通信をし、日夜続けて休み無く通信できた。
 これは、幼稚な無電機の最高機能を発揮したものではあるまいか。

*1:夜間の遠方到達が電離層反射によることは、この時代にはすでに分かっていた事。

*2:戦艦や一等巡洋艦のマストはもっと高かったと思います。これはたぶん駆逐艦や民間船も含めた平均的な高さでしょう。

[この文献完]
 

Re:8.8 災害による被害調査(宝亀三年(772)九月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時53分54秒
   淳仁天皇と光仁天皇って、穏やかで善政を心がけた御方だったようですね。
 善政と勢力拡大とはなかなか結びつきませんね。残念ですけど。
 

中国漁船の船長釈放に思う(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)23時12分9秒
   それはそうと、今後どうなるのであろうか。まず、南シナ海で中国漁船が武装監視船に守られて操業しているという事実に注目しなければならない。今回の中国漁船の領海侵犯は偶発的なものではなく、意図的で、中国政府の支持の下になされた計画的なものと考えなければならない。なお、それが日米安保をめぐる日米のギクシャクした関係から、その間隙を縫ったものだとする味方が主として保守派論客の間からなされているが、これは誤り。アメリカは東シナ海の領有権問題には関与しないとい中立的態度を貫いており(毎日新聞 同上 5面)、今回の釈放に賛同している(。アメリカは中国とこの海域で紛争を起こすことを望んでいない。アメリカの考えているのは、あくまでアメリカの国益。これに頼っていては国防すらできない。尖閣諸島は日本独自で守らなければならない問題なのである。
 加えて、中国は拿捕された漁船の「護送」のために、農業省の監視船を派遣している。これからは武装監視船が尖閣諸島に常駐することも予想される(読売新聞 同上 2面)。いや、常駐するだろう。
 こうしたことを背景に、尖閣諸島に中国漁船が押し寄せても、逮捕できないだろう。そればかりか、海上保安庁は警告さえもしないだろう。
★ 「ニューヨーク 23日 ロイター伝、クリントン米国務長官は
 23日、沖縄・尖閣諸島付近の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突
 事件について、地域に長期的な影響が及ぶ前に速やかに問題を解決
 するよう日中両国に要請した。」
  「ニューヨーク 24日 ロイター伝、クローリー米国務次官補
 は24日、記者会見し、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で日本側が中国
 人船長を釈放したことに関し、「日本は正しい決定をした。事態が解
 決し、満足している」と述べ、歓迎の意向を明らかにした。」
 

中国漁船の船長釈放に思う(8)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)23時10分3秒
   問題はそればかりではない。尖閣諸島で漁をしている漁船および航行する船舶に中国が退去を警告し、最悪の事態として<拿捕>することが大いに想定できる。その際、日本政府は自国の領土を侵犯したとして、中国に強硬な態度を取れるか。釈放させられるか。まず、軟弱な民主党政権では無理だろう。
 今回のことは、日本が尖閣諸島の領有権を放棄したことを国際社会に明らかにしたものである。
 中国ばかりではない。韓国も「日本など恫喝すれば、竹島など放棄する」と確信を持ったことであろう。このことは韓国の新聞を見れば明らかである。ロシアにしても同じで北方領土などについても同じである。
 話し合いで解決するならば、こんな良いことはない。しかし、相手はいずれも「反日国家」・「敵性国家」である。左翼どもは、紛争はいけない、やがて戦争に発展するという。しかし、相手がその気だ。どうするのか。軍事的解決も辞さないという態度も必要で、軍事的紛争も止むを得ないということを認識すべきだろう。
 中国漁船の船長の釈放で終わらなかった。果たせるかな、中国は9月25日(土)未明に、日本に対する謝罪と賠償を要求してきた。考えれば、領土的野心を如実にする中国は、これを機会に徹底的に軟弱な民主党政府を揺さぶる挙に出てきた。当然だろう。釈放で一件落着を考えたであろう民主党の<馬鹿さ加減>を笑うしかない。
 民主党は領土を守る意識など微塵もない。いち早く潰さないと、日本が崩壊する!
                         〔完〕
 

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