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ピープル

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岡田 彩「学校司書・あやを彩る日々」

楽しいお葬式

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〔写真〕病院の庭で見つけた不思議な梅の花。ピンクの縁取りと、そうでない花びらが同じ木に仲良く咲いていました。

今回は岡田彩さんのお母さん、くめ子さんからの原稿です。

1月28日、父は81年間の人生にピリオドをうった。
しかし、私は71歳の時までの父しか知らない。遠くに暮らす私は、脳梗塞で倒れた父の10年間は、ほとんど兄夫婦に任せきりだった。

母が亡くなって父は7年目で倒れた。その7年間、父は淋しかったけれど兄夫婦家族に囲まれ幸せだったと思う。
遠いので私はあまり実家へ帰らなかったが、たまに帰ると父は大好きなお酒を嬉しそうに飲んだ。
私は父に元気で長生きを願ったが、結局10年も寝込んでしまった。 
「俺はコロッと死ぬ」と言っていた父が、不作為にもこんな状態で生きるとは非常に無念だったと思う。

母が動けなくなってからは、私が小さい頃育った古い家を残して父と母は兄夫婦のもとで暮らすようになっていたが、父は、仲がよかった母に先立たれいつも仕事に行くように前の古い家に向かった。
そこはまだ生活の一部が残り、ブドウ畑に田んぼ、そして昔からの仲間たちのいる場所でもあった。
私が盆に帰ると、その仲間たちと父の様子が手に取るようにわかった。
仲間とゲートボールに夢中になっている父は
「強豪の○○チームに勝って、今度は県大会にいくだ。」と、活き活きと話す。
久しぶりに帰った娘への嬉しさもプラスされ、大好きなお酒がますます進んだ。
父は人生のほとんどを過ごしてきた場所に毎日通うことで、母を亡くした寂しさを調節していたのだと思う。思い出のいっぱい詰まったそこは父の人生でもあり、生きてきた証しだったのだろう。

しかし今は、全てなくなってしまった。
父も母も、私が幼い頃育った家もなくなってしまった。

「遠いから」を言い訳にあまり帰らなかった私は、父が倒れる3年前、まだ実家があった頃、友だち2人を連れてそこで3泊をした思い出がある。
最初の夜、電気が付かずビックリしたが兄の家から車で15分ぐらいかけて父が駆けつけてくれた。普段は空き家だったのでブレイカーが落としてあった。
「たまに来て、こんなところで悪いな」と父はしきりに私達に言ったが、私はここへ泊りたかった。幼い頃の思い出がいっぱい詰まっているこの家に。友達も「そんな空き家があるなら是非、行きたい!」と言って、即旅の話がきまった。
次の日、私は友達を自分が育った街に案内をした。歩く途中で一人がポスターを見つけた。
野外で夕方5時から津軽三味線のコンサートがある。
無料ということもあり聴いていこうということになった。早めに座席の確保をするため野外コンサート場でスタンバイをしていたとき、ポツポツと雨が降ってきた。
雨は一向にやむ気配がなく、むしろ勢いを増し開催側もかなり迷っていたが結局中止となった。
しかし、タクシーで帰る途中、雨はすでに止んでいた。そして、誰もいないはずの家に灯りがついているのを見たとき、私は父のいることを察知した。
父は私たちと夕飯を食べようとあの家でずっと待っていてくれたのだ。あの時、偶然にも雨が降らなかったら、父は淋しく待ちぼうけをしていたことだろう。
父はすでに晩酌を始め、ニコニコと私たちを迎えてくれた。そして、私たちが座る席には3人分のうな重が置かれていた。
私の子供の頃、ウナギは高級すぎて食べた記憶がないが、今日父は最高のおもてなしをしてくれたのだった。夕食を済ませていた私たちは、お腹が一杯だったがペロリと食べきった。

あの時間に、一時的に降った不思議な雨。私たちを待っている父のもとに早く帰らせてくれたありがたい雨だった。
お酒を飲むと上機嫌な父は、今日もより一層楽しそうだった。
私はこのとき心に決めた。
娘が来ることがこんなに嬉しいものならば、毎年ここに来ようと。
遠くに嫁いだ私ができる親孝行はこれしかないと思った。

次の年は、娘を連れて一週間滞在した。しかし、父はかなり元気をなくしていた。
母と2人でしていたぶどう畑や田んぼの仕事は、年々歳を増すごとに父一人では大変になる。
私は、脳梗塞で2度倒れている父にはもっと体を大事にしてほしかった。
翌年、いやな予感が的中した。3度目に倒れたとき大腿骨を骨折してしまいこれが致命的になった。
親孝行を心に誓ってから2年目の春だった。
その年のお盆は病院の父を見舞い、私たち家族4人は古い家に泊まった。
私はこの時から父の思い出が止まっている。父らしい姿の最後だった。
娘も発病する2か月ぐらい前だった。

10年間の闘病生活とは、どんなものなのだろうと考えた。
本人も辛いが周りも辛い。たとえ入院でも家族の看護の世話は大変だ。
兄夫婦も洗濯物の入れ替えや、病院を転々と変える手続等も大変だったと思う。一言では言いつくせないものがあるだろう。
しかし、この10年は確実に、私が何かを考え直させてくれる為のものにもなっていたことが父の葬式でわかることになった。

私は主人の母と暮らしているが、この義母のことをあまり人に話したことがない。現在86歳の義母は、どこも悪いところはなくそれなりに元気である。
私は結婚当初、実家の母とは違い細かなことにあまり構わず、口うるさく言わない義母を新鮮に思っていた。
しかし、毎日暮らしているとその人の好さすらも、いつの間にか否定する毎日になっていた。そんな気持ちは、長い年月の間にどんどん膨れ上がり、坂を転がった雪だるまのように大きくなっていった。
罪悪感を覚えつつも、自分の親と同じように義母を思いいたわる気持ちがどうしても出てこなかった。

しかし、父が10年間病んでいる間、義母は自分のことは自分でやり何一つ私たちの世話になっていないことが、凄いことのように思えた。
当たり前のように思って感謝がなく、もっとこうしてほしいなどと欲を出していたことがなんて愚かだったのだろう。そう思うと義母に対しての負の感情が一気に飛んで行った。
どう生きてもいいじゃないか、もう充分生きてきたのだから、残り少ない人生をいっぱい好きなことをして生きてほしい。
そう思うと義母を愛おしく思えた。元気で本当にありがとうと義母に対して優しくなれた。

健康のありがたさと、許せる気持ちを教えてくれた父は、こんな簡単なことに気が付かないでいた私を、歯がゆいと思っていたことだろう。


不思議と父の死は、悲しみの葬式ではなかった。むしろ、楽しい葬式だった。
幼稚園からずうっと仕事先まで一緒だった従妹、小さい頃父に連れられて2、3回遊んだだけの遠い親戚の子、父の葬式でなければ出会えない懐かしい人たちとたくさん出会えた。まさに仏縁を通じての再会だった。
「俺の葬式には、酒をケチらないでくれ、明るく楽しくやってくれ」が父の遺言だったと兄は挨拶で語った。父らしく本当にその言葉通りになった。父がそこにいるのではないかと思うほど、笑って飲んで楽しいひとときを過ごした。
主人も、私の実家は10年ぶりだ。ふと目をやると、いつの間にか酒を交わしながら親戚たちと深い話に一生懸命になっている主人がいた。
また、甥や姪はそれなりに悩みを抱える年ごろにもなっていた。主人は娘との関わりの中で、若者のその手の話は得意である。葬式の後はみんなと深夜まで懐かしい話に花が咲いた。
これも、お互い遠くに暮らす者たちを引き合わせてくれた父の楽しい仏縁だ。

身内の突然の死ほど、後に残された者にとって悲しいことはない。
「でも親父さんは、自分が苦痛を肩代わりして10年間耐え、かわりに自分たちが突然の死に悲しまなくてもいいように心の準備をさせてくれたのだ。…そう思うと、親父さんは、良い死にざまをしていったんだなぁ。」と、葬式が終わって三重に帰ってきたとき、主人が言った。
私はこの言葉に救われた。父の無念も救われただろう。

父は母が亡くなった後、一度だけ三重の家に来てくれた時がある。その時、帰りの際に「お義母さんを大切にな!」と私にいった父の言葉が忘れられない。
 

2012年04月05日(木)

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コメント
  • はじめまして。
    咲 セリと申します。

    私の年上の友人が統合失調症ということもあり、
    岡田彩さんとくめ子さんのピープルを、いつも楽しみにしていました。
    その中で、くめ子さんの「お母さん」としての視点に、
    「娘」としての私が、何度も救われてきました。

    ですが今回、はじめて「お母さん」ではない「くめ子さん」がそこにいて…
    うまく言えないのですが、すごく胸がいっぱいになりました。

    おふたりと、取り巻く世界のエッセイ、これからも楽しみにしています。

    投稿者: 咲 セリ | 2012年4月 6日

  • いろいろとお疲れさまでした。大切な人との別れは寂しくもありますが、いつかは訪れるものですよね。お父様が伝えたかったことを、きちんとキャッチしている岡田さんのことを、お父様も、これからも安心して見守ってくれるんじゃないでしょうか。

    当たり前と思っていることには、何一つ当たり前なことなんてないのかもしれませんね。感謝の気持ちを忘れてしまいがちですが、それを大切にしていきたいですよね。

    僕も、今いろんなことがあって、親との関係のことを考えているところです。岡田さんの文章を読んでいて、いろんなことに気づくことができたように思います。ありがとうございます。

    何と言っても、最後は家族ですよね。大切にしていきますね。

    投稿者: かわきた | 2012年4月 7日

  • 咲 セリ さんへ

    コメントありがとうございます。
    私も、セリさんのピープルでたくさんのことを教えてもらっています。ありがとうございます。
    セリさんの感性、深いなぁ~といつも思います。

    最近、私は思うのですが、願いを叶えられる「列」があるのではないかと。
    いつまで経っても進まない列は、一人ひとりの受付に時間がかかり、尚且つたくさんの人が並ぶ人気の列です。なので、待ちきれなくなり外れる人もいますが、そこで辛抱強く並んでいると、必ず自分の番が来ます。
    私が並んだ願いの列は、義母とわかり合いたいでした。長かったけれど、今どうにか受付を済ませました。
    それでは、ピープルでお会いしましょう (^^)/

    投稿者: 岡田 くめ子 | 2012年4月10日

  • かわきた さんへ

    コメントいつもありがとうございます。
    かわきたさんの「主」を見抜けるところや、ゆっくり、じっくりのスタンスに私はいつも尊敬しています。

    親って深いですね。ありがたいです。私はこの年になって気が付きました。 
    私も一応親ですが、自分の親に比べるとまだまだ深みが浅いです。

    投稿者: 岡田 くめ子 | 2012年4月10日

  • くめ子さんこんばんは。
    いつもネットにつないだときに更新されてないか楽しみにしています。
    いつも親孝行したいと思っていますが、病気になって迷惑かけてばかりだな~と思っています。
    たぶん彩さんも同じことを考えているのではないかと思います。
    僕は30歳の時に統合失調症になり、今9年間親に迷惑かけています。
    自立したいけど、それだけ稼げない自分が情けないです。
    そんな自分でも親孝行したいと思います。
    くめ子さんは、彩さんにどんなことを望みますか?

    投稿者: アップル | 2012年4月11日

  • アップル さんへ

    そうですね~、私が娘に望むことは、娘が望むことを望むことです。
    私が娘に、あーなってほしい! こーなってほしい!と思うのは、あくまでも私の望みであって娘の望みではないと思うからです。
    親の一番の幸せは、我が子が幸せなことです。
    だから、アップルさんの親孝行は、アップルさん自身が幸せになることです。

    投稿者: 岡田 くめ子 | 2012年4月13日

  •  読んでみて、くめちゃんの感性が素敵だなと思いました。
     僕も先日、祖母がなくなりました。認知症で自宅で叔父の介護を受けながらの生活でした。
     僕はたまに実家に帰った時に話しかけたり、昭和の懐メロを歌いかけてみたり。ほんの少ししかかかわっていないけど、祖母を支え続けた叔父は本当にすごいと思っています。どんな病気でも家族の苦労は計り知れないなと思いました。
     家族の方になにかをしてあげることはできないかもしれないけど、笑顔でほっとできるあいさつをこれからもしていきたいと思います。
     読んだ感想というより、自分の決意になっちゃいました。すいません。

    投稿者: 23代目てつたろう | 2012年5月17日

  •   はじめまして
    なかなか思うようにできないことに、病気の存在があり、辛い思いになります。けれど、生かされている私に気付きます。そんなとき、歌を求めて歩きます。いろんなことがあっても、前向きに歩きたい。

    投稿者: りんご | 2012年12月10日

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