漂流20キロほつれず「奇跡のジーンズ」
気仙沼「オイカワデニム」 一針に街のプライド
港町の小さな工場が、海外の展示会で「世界で一番丈夫」と驚かれるジーンズを作っている。「オイカワデニム」(宮城県気仙沼市本吉町蔵内)が2005年に生み出した「スタジオ・ゼロ」だ。東日本大震災では倉庫にあった約5000本が津波に流された。1カ月後に約20キロ離れた場所で発見された約40本はヘドロまみれだったが、1カ所のほつれもなかったといい、「奇跡のジーンズ」と呼ばれるようになった。
従業員23人の会社は1981年、世界ブランドメーカーの下請け縫製工場として操業を開始。夫の死後、社長になった及川秀子さん(69)は逆境を、技術力を磨くことで乗り切ってきた。
最大の試練はバブル崩壊後の98年ごろ。メーカーが工賃の安いアジアに生産拠点を移し、仕事がほとんど無くなった。手持ち無沙汰の従業員に及川さんは「良い製品は現場のみんなが一番分かっている。この機会にどこにも負けないジーンズを作ろう」と声を掛け、各自が培ってきた技術を生かして自分がはきたい理想の製品を作るよう頼んだ。それを基に練り上げたのが、初のオリジナル製品「スタジオ・ゼロ」だ。ミシンを改造して綿糸の代わりに強度のある麻糸で縫い上げ、ポケットなどのデザインにもこだわった。
海外バイヤーから高い評価を受けて世界販売され、国内でもSMAPの木村拓哉さんらが愛用したことで広く知られるように。技術を評価したリーバイスジャパンから、20年ものの生地を使った数量限定製品の縫製の依頼も舞い込んだ。
そして2011年3月、再びの試練に襲われた。及川さんの自宅、会社の倉庫は津波に流され、高台にある工場には地元住民約150人が身を寄せた。避難所として4カ月間、家も仕事もなく、元気を失った人々と過ごす中で、及川さんは「働くことが真の復興につながるのでは」と考えはじめた。
そのための答えを見つけたのは、営業担当の常務で次男の洋さん(42)だった。地元漁港の夏祭りで会場を彩った、津波に洗われた大漁旗数枚を、「縁起物なのにもう使えない。祭りが終わったら捨てる」という持ち主の漁師から譲り受けた。
工場は4月に再開し、震災で仕事を失った人にも簡単な直線縫いだけで作れるデニムバッグの製作に着手していた。いずれはジーンズを縫える職人に育て上げたいとの思いからだった。洋さんはそのバッグに被災した大漁旗をあしらうことを提案。「災害は私たちの生活にいつも隣り合わせ。どこでも起こりうることを忘れないでほしい」。そんなメッセージ代わりに細く切ってポケットに縫い付けた。地元漁協などへの寄付金付きで翌年から販売し、「ここでしか作れない製品を世界中へ届ける」という新たな境地を開いた。
漁師との交流は、さらに被災者の雇用を増やすための新たな商品開発につながる。洋さんが続いて目をつけたのは、気仙沼が漁獲量日本一を誇るメカジキ。捕獲後に捨てられる長い角を生かせないかと試行錯誤し、粉末化して繊維の芯に織り込んだ生地の開発に成功。脱臭などの効用があることも確認され、その生地を4割使った異色の「メカジキジーンズ」の通信販売を始める。まさに「ここでしか作れない」オンリーワン製品だ。
及川さんは言う。「被災地の企業だからと、同情で買ってもらうことは望まない。一針一針にプライドを持って縫っているから」【本橋敦子】
5000円未満と1万円以上 購入金額は二極化
日本ジーンズ協議会によると、ジーンズの国内生産は2015年で約7500万本と推定される。8000万〜9500万本で推移していた06〜11年より減少しており、少子高齢化や流行の変化などが背景にあるとみられる。15年の世界生産は推定約24億本。
カジュアル衣料大手のユニクロが台頭した04年ごろから価格競争が激化し、1000円を切る製品も登場した。これに対しオイカワデニムの自社ブランドジーンズは1万円台半ばから。エヌピーディー・ジャパンの14年11月まで1年間の調査では、5000円未満の廉価品と1万円以上の高級品がともに男性消費者の購入金額の3割となり、二極化している。