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2016年1月2日

2016年1月 2日 (土)

コメントを読めば読むほど、青森は仕込みな気がするなあ。

明日改めて、青森のおじいさんの住所を、実在するのかGoogleマップでチェックする。

たぶん実在すると思うけど、念のため。

そして、1/4に、その住所氏名宛に、小為替送ってみる。

そこは実在の人物と違う可能性もあり得る。


まあ別に、全部事実であっても、私は困らんし。


1つの事件をいろんな角度から検討して、ギャラリーの興味をひけただけでも、成果あったといえる。

コメント欄を読むと、やっぱ、拾ったじいさんがバスで青森へ帰るというところまで、工作っぽいなあ。

じいさんカネ持っとるから、バスで帰る方法を選択するよりも、ホテルに泊まって翌日のはやぶさで帰るやろ?
老人になればなるほど早起きになるから、アサイチのはやぶさに乗れる。
逆に、高速バスなんて難しい。
72歳の大西弘子だって、カネ持ってないにもかかわらず、狂惨党の杉浦はる子に連れられて新幹線で東京に来たっぽいし。
(午後に家にいてくださいと書いてあったことからの連想。大西弘子が夜行バスで東京に来て、午前中は観光しとった可能性も否定はでできん)
なんではやぶさに乗る方法を取らんかってん?という疑問はどうしても残るよなあ。

12/23に東京駅で私が財布をなくした件について、事実ならびに解釈。

なかなか書く時間が取れずに、いまになってもた。
財布をなくした件、警察から、拾得の手紙が来たので、年末に警察に行ってきた。
行った日はブログに記載したとおり。
拾った人は、青森の人とのこと。
そして、その青森の人に電話してみた。
16時過ぎやったかなあ。
すると、けっこう年輩の人が出て、22:30発の青森へ帰るバスに乗るために、八重洲南口からバス乗り場の方に歩いていたら、財布を見つけた、と聞いた。
けれども、そんなとこに私は財布を落とすかなあ?というのが正直なところや。
というのも、私は、OJSの尾行を感じながら、図
の右上の八重洲南口改札を出て、まっすぐ図の上側の、八重洲南口(東海道・山陽)と書いてある上にある地下の降り口を下りて、そこから八重洲中央口の方に向って、そこのトイレに入った。
そこで財布がないのを見つけた。
この図では、ハイウェイバス乗り場は、八重洲南口の上に確かに書いてあるけれども・・・
確かに調べたら、”ラ・フォーレ号”というのが、22:30発で青森行きで運行されてはいる
けど、いくら3列シートとはいっても、じいさんが予約するかなあ?というのが正直なところや。
私もいろんなところを旅してきたけれども、夜行バスに好んで乗るじいさんなんかおらんし。
とはいえ、ホンマに財布を拾ってくれたならば、疑ってはマズいから、深くは追及せんかった。
しかしそのじいさん、さらにおかしなとこがあるねん。
相場が0.5~1割とされるお礼を欲しいと、連絡先を警察に教えたにもかかわらず、私が
「ご住所に為替を送りましょうか?」
と言ったら、
「別にいいですよ」
と言ってきたことや。
ならば、最初から匿名にしてもええとこや。
私がどう出るか見てきたんかなあ?
けど、ホンマに親切で財布を拾ってくれた可能性が捨て切れんから、その人の住所氏名、郵便番号をバラすこともできんねん。
OJSらAKSに雇われた者が、私について監視していることを誇示するため、財布をスッたけれども、その財布から情報を盗み取ることなく、その辺に捨てた可能性だって捨てきれんし。
とにかく、12/23の仙台からのはやぶさで、AKSが私を監視しとったことは確実やねん。
もっと前に、ドイツ在住時代に、工作員が翻訳をしてやるといって近寄ってきたけど、コイツは工作員と私は見抜いて、そっからめちゃくちゃバトルしたことあったよなあ。
さすがに親切心で財布を拾ってくれたと主張する人に対して、確実な証拠がないいま、それはできんよなあ・・・。
まあその人の住所氏名電話番号晒して、そのヒトならびに世論を巻き込む手はあるんやけど、それはさすがに荒っぽすぎると思うし。

【ネタばれあり】 海難1890 政治主導の戦争翼賛映画

本当にこんな映画が作られるようになっては、もう日本もトルコも次の戦争に近づいていると考えざるをえません。
まずこの作品は、最初にトルコのエルドアン大統領が出てきていること自体に、政治的メッセージを強く受けました。
そして実際に、1890年時点での、トルコや日本の、好戦的な帝国主義を肯定していることがおかしいです。
たとえばトルコが日本に対して使節を派遣したのも、映画では日本に対する意図のみが存在するように描かれていますが、Wikipediaで背景を調べると、
”エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。このように無理を押してエルトゥールルが派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。”
とあり、イスラム諸国に対して、イスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示する狙いがあったので、そのような目的を持った使徒について、美談として受け取ることはできません。
また、9月の出航は台風に当たる可能性があるとだれもが想像しますが、上記の引用のとおり、当時の日本も勧告したにもかかわらず、トルコ側が強硬に帰路についたのであって、そのような背景も全く描かれていません。
トルコの人々が、この海難事故を美談として扱うことがあるとすれば、根底に恐ろしい誤解があると言わざるを得ません。
さらに第二部では、1985年の、イラン・イラク戦争での、イラクの、フセイン政権によるテヘラン無差別攻撃を描いていますが、当時は確か日本はアメリカの下、ホメイニ師の率いるイランを悪者として報道していたはずです。
その後、イラクのフセイン大統領は、湾岸戦争において悪であると認定されたはずです。
ところがこの映画では、1985年時点でさもフセインが悪であったかのように伝えています。
もちろん、戦争自体が悪なのですが、この作品ではそこまでの掘り下げが足りずに、自分達が応援している側は善で、応援していない側が悪というような概念がまかり通っています。
そして、この作品には重要な意図があります。
イラクのテヘラン空爆に対して日本政府が動けなかったことを、新安保における自衛隊の海外派兵肯定論に繋げています。
たとえば、想像ですが、テヘランに、直接救援機を頼めない国の人だって他にもいたでしょう。
しかし、その国の政府は、航空機を手配することなく、なんとかその人の安全を保ったんじゃないでしょうか?
そもそも、トルコへは陸路でも2日で安全に向かえたならば、日本人を陸路で輸送し、そこから帰国させても良かったのではないでしょうか?
どうして航空機でなければならなかったのでしょうか?
このような、疑問しか湧かない映画を、美談として受け取ることなどできません。

おはようございます。昨日はネットカフェ行けませんでした。昨日の私の行動について改めて(途中まで)

昨日投稿できんかったのは、まあ仕方ない。

改めて昨日のことを書くと、昼間作業をしてから、拘束時間終了の後に上野東京ライン~川越線で日進に行きました。

日進駅はめちゃくちゃ簡素な駅で、最寄りにJR東日本研究開発センターがあるとも書いてなく、JR東日本も大々的に宣伝する気はないんだなあと思いました。

日進を降りて、JR東日本研究開発センターに向かったのですが、途中の道がこんなに長いという記憶は失せていました。
もっと近いと思っていました。

途中で右手に、賑やかに参道にイルミネーションを付けている神社があったので、コレが氷川神社かなあと思って寄って行ったら、地元の"日進神社"でした。

なんでも、元旦0時からの餅つきが、無形文化財だかなにかに登録されているようで、長年設置してある看板に書いてありました。

即席の看板にも書いてありましたが、いやもう終わったことで、まだ掲載しているのはどういうことか?と思いました。

けっきょく、地元の神社っぽかったし、時間が読めなかったのでスルーしました。


元に戻って。

研究開発センターの手前に学校があったなあと思って歩いていたら、小学校でした。

校庭には小学生らしき姿が。
私は学校にコンプレックスがあるので、元旦にまで好んで小学校に行く子の気が知れません。

眠いので、午後に続きます。

財布の顛末もまだ書いてないし・・・

"海難1890"の感想も書いてないし・・・

日進神社

日進神社
日進神社
次の投稿で書いた日進神社です

フツーの人間は、思わないし、思っても実行を思いとどまることを、私はやっとる。

それはひとえに、私は正しいことをしているという、私の判断と、そこから出てくる自信からによる。


いくら為政者が私を陥れようとしても、私は新たな解決策を見つけ出す自信がある。


新たな解決策を見つけ出す自信があれば、イデオロギーとか、自分の居場所とかは不要になる。

イデオロギーを根拠にしたがったり、自分の居場所を求めたりするのは、そもそも新たな解決策を見つけ出す自信がないからやねん。


それを昔の人々は、端的な言葉で説明してきた。

「攻撃は最大の防御なり」

真に有名になっている人間は、常に攻撃し続けている。

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