• [0]
  • アルベア論

  • 投稿者:管理人
 
こちらはアルベア様専用のスレッドとなります。

投稿者
メール
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [15]
  • おやじ 様 

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)10時50分5秒
 
おやじ 様 投稿日:2016年 1月 2日(土)10時05分28秒

あけましておめでとうございます。


体調はどんどん良くなっていきます。すごいことです。「気づく」という現象による効果です。

(創価でいうならば「功徳」)「体感覚知」視点から言えば、自然治癒力の活性化の効果です。

あまり本を読むと「思い込み・信じ込み」の現象が出てきますので。恐らくおやじ様は、その読みわけ


ができてきているように思います。近い将来、本を読む必要がなくなってきます。

また自我の人、自己の人の区別が自然にできるようになります。

全部「わかっちゃう」「了解」できちゃうからです。楽しみにして下さい。


  • [14]
  • 明けましておめでとうございます

  • 投稿者:おやじ
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)10時05分28秒
 
アルベア様、昨年はご教授有難うございました。あれから体調は良くなり、少しずつではありますが自分自身の中で変わってきたような気がします。ルミナリエ様の投稿を読んでそうそうまさにその感覚だと思い嬉しくなりました!すぐにお礼の投稿をと思っていたのですが、このサブ板がどこにあるのかわからず、右往左往していました。これからも勉強していきたいです。宜しくお願い致します。年末にたまたま[脳に悪い七つの習慣]という本を読んだのですが、非常に面白く、アルベア様がおっしゃってた事と通じるような事が書かれてありました。そこには脳にはクセがあり、自己保存と統一、一貫性がありそれが過剰反応すると正しい理解等が出来なくなるというような事が書かれてありました。これからもまた色々質問させて下さい。宜しくお願い致します。

  • [13]
  • 「相対的現象・現実」の世界

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)07時44分25秒
 
「相対的現象・現実」の世界

年末年始の「映像の世紀」見ましたか、多くの人は見ていないと思います。また見る必要も感じていないのです。

このような現象を「単眼的な眼差し」による自己判断といいます。⇒「無意識的選択」

まあ、「体感覚知」は無理ですね。「気づき」が無いのですから。「気づき」があれば見ているハズだからです。

不平不満・能書きだけを語るだけの自我機能の証明です。

それは自分自身が、その時々の「気分」で生息していると言う証でもあるのです。⇒安心して下さい。現代人の生き方は、瞬間、瞬間、刻々と移りゆく「気分」を先行、選択しているのが本質的現象ですから、

「相対的現象・現実」の理解する、しない以前の問題です。「わからない」「わかろうともしない」世界の選択が自分自身の中で起きているのです。(関係ない事ですね、そう私にも関係ない現象でした)



  • [12]
  • 「悟り」現象2

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)05時09分8秒
 
「悟り」現象2

投稿の順番間違えました。スイマセン


「悟り」現象は、人類が創り上げてきた社会文化的事象・自分自身の見方、自分自身の内面が転換すると言うこ

とだ。

従来の「文字・言葉・を信じ込む・思い込む」ということも消失する、しかし「書かれたもの」「語られた事」

や「事象」が自然に全て了解できるようになる。自我機能が本来のバランス感覚を取り戻すからでもある。

「自己」が「絶対的現象・現実」であることが「わかる」時が来たのだ。

「悟り」「覚醒」「目覚め」「解放」「体感覚知」「至高体験」等の現象は、呼び方が異なるだけで「体感する現象」

は同じである。反応する「主体」の差は、個人の傾向性に異なりである。

「悟り」現象は、従来の宗教、宗教系、スピリチャル系等のカテゴリーには分類されない現象である。表現とし

て私は「体感覚知」と呼んでいる。先述したように「眼差しの方法」をお伝えしているからである。「眼差し」

は「宗教とは関係ない」人間の自然現象だからである。


意識が一定の位置(ポジション)に達した時、「悟り」現象が起こる。自分の感じている意識を「一定の位置」


(ポジション)に合わせることができれば、自然に起きてくる。意識の合わせ方を「体感覚知」のワーク・「眼差し」のトレーニングと言う。


例⇒自転車に乗ることを覚えることと同じ過程である。

「自転車に乗る」という感覚がわかる人は、「自転車に乗る」ということを修得している、自得しているという

ことである。この感覚がワーク・トレーニングには必要である。なぜならば、能書きという思考・概念ではない

からだ。自分の運動感覚と感覚運動にワーク・トレーニングである。

わかりやすく言うならば

1-「運動感覚観察」⇒五感を観察する


自分の身体(からだ)で起きている身体活動(運動)の感覚を観察するということである。⇒運動感覚


自分自身の内面的な現象を観察するということである。一般的には「内部観察」「自己観察」「思考観察」等とも言われているが全く異なるものである。

「体感覚知」という視点から「今、感じている身体の感じ、感覚」を「運動感覚観察」と「眼」を使い、物事を見る「眼差し」を「感覚運動観察」と呼んでいる。

「感覚観察」には、身体活動を観察する「運動感覚観察」と自分の身体の一部である「眼」の使い方を通し見るという「感覚運動観察」があるということである。外界の事象を観察することである。


運動観察の例

例⇒排尿時の身体感覚はトイレに行き排尿すればスグわかる。ここには過去の記憶は一切関与していない

  生々しい感覚だけが感じられる。⇒普段意識していない、五感の機能感覚に改めて注意を向けるという

事だ。⇒運動感覚の観察と言う。⇒内部観察とも言う。

2-「感覚運動観察」⇒「眼差し」を意識する

自分自身の「眼」を使い、どんな「見方」をしているのかを「観察」し「感知」「探知」という感覚の精度を

高める方法である。この自分自身の「眼」の感覚運動を通して観察することを「感覚運動観察」という。

  例⇒日常生活での普段の見方は、見たように見えている。この現象を「単眼的眼差し」と言う。


    子供の喧嘩を見ていると、「そこには何らかの対立」があるから「喧嘩」している。「喧嘩」の当事

    者は両者ともに、自分の眼差しで相手を見ている「単眼的眼差し」がある。見方の対立(弁証法的


    現象)がある。⇒(愚考者は「傍観者?」と考える、「眼差し」の話をしているのだ)


    しかし、その様子を見ていた第三者の「眼差しは」両者の喧嘩を見ていた。(親・仲間・周辺の大人等)

    この第三者の見方を「複眼的眼差し」という。

  例⇒就職活動で2社の内定をもらい「どうするか悩む」いわゆる「葛藤」である。

    「A社とB社」どちらに選択するか、という時の「眼差し」は自然に「複眼的眼差し」になっている。

外界の様々な現象を「複眼的な眼差し」で観察することに慣れていくことを「感覚運動観察」というの

である。このような事は「弁証法的現象」または「トライアングル現象」を観察する「眼差し」に慣れ

ていくということである。

くどいようだが、運動感覚・感覚運動の観察は、思考や概念、思い込み・信じ込みではない。自分自身が「感じ

ている事」である。身体運動・身体感覚による見方である。生々しい、新鮮な自分自身の反応を知るということ

である。このようなことを「自己機能」を知るという。

内観・内省・自己観察等といわれているものは、思い込み・信じ込みという思考観察であり、「自我機能」の観

察を言っているのだ。

「体感覚知」は、自分自身の「感覚観察」である「運動感覚」「感覚運動」の方法を修得するため、「内部観察」

「眼差し」を意識して使うということから始めていくことになる。

初期段階では、操作は慣れていないので、苦労する人もいる。しかし慣れると使い方がわかる。理屈で学ぶもの

ではない。感覚の修得である。プロの職人が技術を修得することと同じである。職人の感覚として修得するとこ

とが「体感覚知」になるのだ。

ちなみに職人は「物を創る事」が仕事である。「体感覚知」を目指すとは、自分自身の意識を職人的な感覚にし

ていくということだ。

職人の技・神業等はyou tube で見る事ができるので「職人技」または「神業」で検索し鑑賞してほしい。

また柔道家の「三船十段」等も技法の習熟という面で参考になる。you tubeで検索



★ここまでいろいろ述べてきたが、「創価云々」「教学云々」「本尊」「祈り」「唱題」「池田先生」


「会則」、「邪宗」「禅宗」等など愚考の思い込み・信じ込みの自我機能の働き作用とは、全く関係ない事が


おわかりになったのではと思うが・・・「創価系列の方々ひとまずご安心を」 よかったですね。



★ただ創価の人が「気づかれて」勝手に「体感覚知」してしまうと大騒ぎ大混乱、間違いなし、とんでもない時


限爆弾、創価の「ビックバン」現象が起きてしまいます。怖いですね。そこんじょそこらの雑魚と違います。


池田先生と「不二」の感覚を体得された方々ですから、世俗を離れている方々ですから、


安心して下さい。宿坊関係・関連者にはまだいませんので。まだまだ「気づけない」ようですから



閲覧者の方々から「体感覚知」する人が出てきてしまったら・・・私には関係ありませんので、生きている


世界が、もう違いますので。

安心して下さい。今述べたようなことは起きませんから、なぜならばもう次元が異なっているからです。


創価は創価、弟子は弟子として発迹顕本を目指して歩んで下さいませ。創立以来の鈍感な諸先輩方々と同じ


師弟の道です。自我機能の働き作用の中で、尊きご一生を終えて旅立つのです。

ちなみに日本全国で1日に3500人から4000人前後の方々がお旅立ちです。自然の営み・現象なのです。

(亡くなられた方々を冒涜しているのではない。現実の現象を紹介しているのです)

「法華経の智慧」が「身読」できればいいですね。小説「人間革命」が「身読」できればいいのに、


なぜ「身読」ができないのでしょうか?考えてみてください。時間は死ぬまでありますから・・・


ただ皆さん方は「相対的現象・現実」の世界で生きていますので、また三毒強情ですから、まずなによりも


「妄想」「幻想」ですから、なぜならば「自我」の世界の物語ですから。このことを打ち破ったのが地球上で


は釈尊だったのです。(ここで、もう邪宗臭いですね、「触(さわ)らぬ神に祟(たた)りなし」ですね。)


  • [11]
  • 「悟り」現象4

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)04時42分5秒
 
「悟り」現象4


第2段階は、4つの区分である1-自我機能 2-自己機能 3-意識機能 の区分を運動感覚・感覚運動によ

り「見分ける事」ができるようにすることである。この「見分け」は「体感覚知」の基礎となるものである。

「見分け」ができるようになるだけで、いままでの自分の見方と違う事に「気づく」ハズである。

4つの区分(領域)は次の通り 2015.12/31:4:14投稿一部改変

1-「自我」では「自分が生きている」という認識になる。「○○はこうだ」等の「思い」の連動連鎖という

   「思考・概念」「自我の実体」は無い。思考して「理解」するという世界 思考・言語・文字の世界


   現代人は「自我機能」の働き作用に「気づけない」「気づかない」状態にある。

2-「自己」では「自分が生かされている」という認識になる。「そうか、そうなんだ」の「体感」の


連動連鎖による「体感覚知」「自己の実体」は「身体」である。「感じている」世界 運動感覚・感覚運動

  現代人は「体感感覚」が「自我機能」により抑圧され機能不良不全を招いている。心身の不適応が発生しや

   すい。自然治癒力の低下現象がある。

3-「意識」は「気づき」であり、「自我」「自己」を貫く働き作用である。思考・言語・文字ではない。

   (ここで、禅宗ぽいという信じ込みの輩は反応する。まともに文章を読めないレベル)


     例⇒排尿時の感覚は、思考・言語・ではない。文字で表現できない。(わからない方々はわからないまま)

4-「生命」は「現象」であり、1・2・3を統合した「全体性そのもの」である。

    参考図書「全体性と内臓秩序」青土社 デビッド・ボーム著 2005/11発行

   (創価の方々「生命論」を知っているようでぜんぜんわかっていない。ひたすらの思い込みだけがある)


創価的視点から見ると⇒悪と仏の住処 (この区分にイチャモンつけるのが自我機能の方々である)


創価教学の面々には、このような区分はできない。思い込み・信じ込みのレベルだからだ。

1-「自我」は「魔」第六天の魔王の住処 思考・概念「相対的現象・現実」世界は「自我」⇒対象化・モノ化

2-「自己」は「仏」仏の軍勢の住処 身体感覚・感じる「絶対的現象・現実」の世界は「自己」⇒生命現象

   東洋医学でいう「自然治癒力」は身体(からだ)「自己機能」に現われてくる現象だからである。

  「自我機能」には「自然治癒力」はもたらされない。(わかるかな、まあ読んでもわからないか・・・)

3-「意識」は「自我」「自己」を貫く働き作用  生命の働き作用⇒生命感覚⇒「気づき」

   例⇒「自我」にある「正義」は常に相対的 「自我」は「悪」の住処(すみか) 「実体は無い」

   「自己」にある「正義」は常に絶対的 「自己」には「悪」は無い。「善」の住処(すみか)「実体は身体」

   (なぜ「自己」が「仏」なのか、「わからない」輩は、何も学んでなかったということ)

現代人の多くは「自我」が「私」「自分自身」と思い込み・信じ込み「生きている」という。


「自己」という身体機能を知ると、気づくと「生かされている」という「真実」に出合う。


「自我」と「自己」の区別ができない状況が「単眼的眼差し」を作り上げている。それが「見たようにしか、


見えない」という世界観を作り、自分自身の内部に「核」として出来上がっている。閉鎖的・盲目的世界に

自分自身で閉ざしている空間にあるということだ。思い込み・信じ込みが身に染みこんでいるのである。

その閉ざされた空間を開くというのが「仏法」の本質なのだ。「開く方法」言葉で知っていても、固く

閉ざされているからしょうがない。このまま、ありのままが続いて行く。


  • [10]
  • 「悟り」現象3

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 2日(土)04時05分14秒
 
「悟り」現象3

第1段階は「眼差し」「意識」の向け方を知ることである。それは1-自我機能・2-自己機能・3-意識機能・

4-生命感覚の4つである。4番目の生命感覚は、3番目の意識機能が自得されることにより自然に身体内部か

ら湧き出てくる。手順に沿って、運動感覚・感覚運動でやればいいのです。


★なぜ「4つの機能」なのか、

古今東西の「悟り」現象を見てくると、様々な修行形態には4つの機能が同時に含まれているということが明ら

かになった。

修行の方法はそれぞれ異なることは言うまでもない。アジアで見られる加持祈祷・シャーマンやネイティブアメ

リカンのダンス・薬草による方法・バリ島などで見られる音楽とダンス・イスラム系のコーランの音楽的響き

アフリカの祈祷師のダンスと音楽・ヒンズー音楽とダンス・ヨーガ・日本では密教系・日蓮系の加持祈祷・天台

系の千日回峰行・仏教系の瞑想・坐禅等々が知られている。

修行とは関係ない一般的なものとして「讃美歌」「ジャズ」「ロック」等の音楽のリズムに同調することにより

一時的な恍惚状態・トランス状態等になる場合もあるが永続的ではない。

これらの「悟り」「覚醒」「解放」「目覚め」「至高体験」に共通している現象は


1-自分自身を消去する⇒自分を捨てる、自分を離れる等⇒自我を離れる。自我を離脱する


2-ダンス・マントラを唱える・音楽による激しいダンス・加持祈祷⇒運動感覚・感覚運動


3-「我を忘れる」ほどの「没頭」⇒意識の高揚感・自然との一体感⇒意識的な変容体験


4-その他として、事故・病気による発作・手術中の臨死体験等の離脱体験


等が共通して見られている人間の反応パターンという現象である。

これらの人間のパターンを整理し吟味すると1-自我機能 2-自己機能 3-意識機能 4-生命感覚、の


4つの領域がそれぞれ関連しながら連動し「悟り」に至っていることが明らかになったのだ。

ということは、この4つの領域に「習熟」すれば、誰でも「悟り」現象はできるということである。


このような見方は「俯瞰的な眼差し」(自己機能)による「気づき」によるものである。「俯瞰的な眼差し」は「思

い込み・信じ込み」という「自我機能」では修得できないものなのです。


「眼差し」の過程は1-「単眼的眼差し」 2-「複眼的眼差し」 3-「俯瞰的眼差し」へとすすむ

なぜ「眼差し」なのか、

修行という行為の中では「仏を見る」「神を見る」「静寂を見る」等、ビジュアル・映像的な反応が「共通して見

られている」ということである。「見る」ということと「意識」が重なる「同調する」と「一定の位置」(ポジシ

ョン)になることにたどり着いたのである。「見る」主体と「見られている」客体の存在の感覚である。

「見ている」自分の中で起きている現象は、「見たようにしかみえない」という限定された「単眼的な眼差し」

である。⇒平面的 目の前で何かを比較する場合は「複眼的な眼差し」となる⇒立体的

私の投稿を見る方々は「単眼的眼差し」で見ている。そこで、何かに「気づく」ということは、「単眼的眼差し」

に自分との「違和感」を感じた時、反応として現象化するのである。その現象化は、自我機能として反応するの

か、自己機能として反応するかが個人特性(個人差)ということである。

例⇒愚者は愚者なりにしか見えない。職人は見えない世界を見る(感じる)棋士は七段八段クラスになると40

手先~50手先まで読み取ると言われている。「眼差し」は、プロ化すると「意識」に連動して働き作用をもたらしているのだ。

世間の師弟関係には、どんな職人であろうとも「眼差しのプロ化」と言うトレーニング過程があるから「師弟」なのだ。


★ちなみに創価の師弟には常に「眼差しのプロ化」という過程が欠落している、全く無い。


思い込み・信じ込みの師弟関係だからである。自我機能による依存した「眼差し」だからだ。まあ、こういう


ことまで「気づけない」「わからない」レベルの師弟関係があるだけである。「不二」なるわけないじゃん、


人格的成長・成熟とは異なる愚考な師弟観があるだけ、それでも自我機能で一応機能しているから、

「そこそこ、いいんじゃな~い」選択するのは自分自身である。



  • [8]
  • 「悟り」現象1

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 1日(金)05時59分23秒
 
「悟り」現象1


「生命」「生命現象」は目に見えない、見えない世界を「見える化」すると三領域になる(トライアングル現象)

三領域を見分ける、「見極め」をする働き作用が「意識」という「眼差し」である。

「眼差し」の操作は、人間ならば誰でもできる技術である。その技術の修得・自得方法を伝えていくことにする。

古今東西で見られる「悟り」現象は、「難行苦行によりもたらされた」と言われている。しかしそうした「悟り」現象の過程をつぶさに見ていくと、「悟り」までの過程が明らかになる。共通したパターンがあるということである。


それは「眼差し」という「目の付け所」が難行苦行により一定の位置(ポジション)に達した時、いわゆる「悟り」現象が起こるということである。


この「一定の位置」による変化は、しばしば末期患者に見られる現象でもある。いわゆる「臨死体験者」にも見られている現象である。また、アメリカの脳科学者のジルボルト・テーラーの「脳卒中体験」により報告されていることでもある。彼女の言葉によると「左脳と右脳」のスィツチングで誰でも可能であるということだ。



末期患者・臨死体験者が語る方法は「言語」「文字」により伝えられている。しかしそれは常に相対的な現実である。絶対的な現実は、彼らが「体感した」ことである。つまり私たちが知るのは「体感」から離れた後、言葉・文字に置き換えられている「こと」を通して知るのである。また、そこには読み手・聞き手の「体感機能」の衰退が認められ、身勝手な解釈と仮説が思考の中で起きてしまうのである。「時間差」と「歪曲化」が生じているのだ。「相対的現象・現実」の世界であるからだ。



「体感」とは、「今、ここの感じ」という生生しさ、反応そのものである。「体験」ではない。「体験」とは「体感」した後の言語化・文字化のことであるからだ。「体験」の前に「体感」という現象があるということだ。


「悟達」とは、「当人が語った体験」であり「悟り」そのものではない。「悟り」とは当人が「体感」した現実なのである。生命感覚を言うのである。


「今、ここ」を離れて論議・議論を繰り返している人々がいる。なぜならば「今、ここ」にいることを知らないからだ。議論しても「悟り」現象は生じない。


現代人はこうした区別が無頓着になっている。だから、いつも「本質」を問いながら「わからない」のである。


「自己が不在」という現実の中である「自我」で生きているからである。そして全てを「対象化」している。「対象化」とは、外に現実を求める働き作用である。ゆえに「現象化」されるのだ。「体感」する反応を無視、または排除する機能が内部で機能しているのだ。だから現象として「わからない」という感覚が常に起きてきているのだ。わからんちん現象だ。


いくら本を読んで、いくら考察、思索しても、議論しても、物事の本質は「わからない、わからないまま」なのだ。「気づき」を自分自身で制限しているからだ。勝手にブレーキを踏みながら「進んでいる」と錯覚している愚考である。


人間の存在は、生命活動であり、全体性の現象なのだ。「思考・概念という自我機能」による反応では「わからない」のだ。今日も、明日も思索・考察という思考・概念世界で「わからないこと」を考え「『ドツボ』にはまって、とぴんしゃん」なのだ。こうした世界を選択しているのが「気づけぬ人々の」現実世界なのである。

「悟り」の体感・体験者の報告は、人類の成長・成熟の方向性を示すものとしても貴重なものである。

難行苦行は必要ない、信仰的儀式やマントラを唱える、本尊に向かい祈る、等の宗教的行為は必要ないことが明らかになってきたのである。⇒宗教的枠組みの崩落・崩壊現象をもたらすものである。

人類の文明での宗教的な役割は大きなものであったこと、そして権力のツールとして民衆支配に利用されてきた事等が「愚考としてあらわ」になってきたのである。既成の「概念体系」という思い込み・信じ込みの世界が崩落してきているのだ。

こうした状況に、臆病者は恐れ・恐怖を抱き動揺し始めている。「臆病者は、自ら臆病者とは気づけない」のだ。

熱心な信心・信仰者・宗教等に携わる者にとっては危機的な事態に追い込まれていくのである。彼らの拠り所である基盤がもろく崩れる時がきたということだ。なぜならば、全ての人間的な事象・価値観が転換するからだ。

宗教の否定につながる現象が「悟り」という意識の現象なのだ。


「一応、創価の人へ」安心して下さい。

創価を信じる者にとっては、最大の「びっくり・ぽん」だ。大好きな池田先生の否定にも通じるものだからだ。

しかし大丈夫、心配はいらない、この現象とて「パラドック」だからだ。

つまり従来の創価信仰・池田先生との師弟観等が「自我機能」からハズレるだけで、「自己機能」として自分自

身の中から「新たな創価」が湧いてくるからだ。長年、待ち焦がれた「発迹顕本」という現象が現象化するから

だ。「思い込み・信じ込み信心」「思い込み・信じ込みの自我」の方々には、「永遠にわからない」全ては「自己

責任」である。私にとっては、どうでもいいこと、

(読解力の無い、歪曲化されている自我の輩は、勝手に騒ぎまくる。思い込み・信じ込みが揺らぐからだ)


  • [7]
  • 「悟り」現象0

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 1日(金)05時48分14秒
 
「悟り」現象0

★「体感覚知」に関心がある方ならば(私に「縁」がある方)読めば「気づく」ハズです。「縁」とは生命感覚の

世界の事です。「絶対的現象・現実」の世界です。


「縁」とは、直接、会う、会わない、関係が在る、関係無い等の、一般的な人間感覚ではありません。釈尊の言う「縁起の法」です。それは「目に見えない」意識世界の「意識感覚」・「生命感覚」の反応を言います。

「ピン」とこないことである。言葉で知っていても「わからない」世界にいるからである。日常的には「御縁がありましたら」「縁があったんだね」等と、もたらされた結果を言っているにすぎないからだ。

「脳内」で起きているシナプス反応が眼に見えない空間でも絶えず起きている現象だからだ。「脳内反応」といっても眼に見えない現象だがYou tubeで「シナプス神経」を検索するとコンピュータグラフィックスで「見える化」されているのでイメージはできると思う。


脳の中の「点と線」~神経回路とシナプスの謎に迫る研究最前線~

https://www.youtube.com/watch?v=oodw5Dok1JA


日常生活で、いろいろ感じたり、思ったりしていることは「脳内」で起きている現象である。身体内部の全体性から発せられている反応である。つまり自分の意識が働いていることである。

「いろいろ感じたり」「思ったり」に、対象があると、「触れあい」が生じ対象に伝わるという現象を「縁」というのだ。


例⇒今、あなたは私の投稿記事を、見ている、読んでいる、つまりアルベアに触れているということ、私は読み手のあなたを知らない、しかしあなたから、私に触れている、このことは、既に、対象のアルベアに向かって

意識的反応が伝わり、アルベアの意識が瞬時に反応しているのである。こうした相互の現象を「縁」という言葉で表現されているのだ。このことは通常感覚ではわからないが「体感覚知」すると「感じてしまう」という現象が起きるのだ。読んでも「ピン」とこないと思うが、

ようするに「あなたが見た、読んだ」ということにより意識回路がアルベアと連結され電気が流れたと思えばいい。その電気の流れにより「あなた」が「反応」しているのだ。

理解の差は、あなた自身の持つ抵抗の差である。今の抵抗値が高いと理解はあなたのレベルでしか理解できないということだ。読んで「そうか」と感じる人「何、言ってんだ」と反応する人「へえー」と関心を示す人等と千差万別であるが、このような現象が、いわゆる「縁がある」「縁が無い」という差になって、あなたの中でも起きているということなのだ。

「触れた」瞬間に相手の意識に伝わると同時に返信されている現象があるということだ。

人間の身体内部で起きている現象は、外の世界である「対象化」された世界でも起きているという相互作用が働き作用しているということだ。⇒宇宙の「4つの力」相互作用



  • [6]
  • 「悟り」現象 

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2016年 1月 1日(金)05時44分6秒
 
「悟り」現象 はじめに    新年あけましておめでとうございます。 勝手にまたすすめていきます。


「悟り」というと、創価の人々はスグに信仰・信心に結び付け、教学を持ち出し、あたかも謗法の如く追及する。思い込み・信じ込みの世界の人々である。あらゆる宗教という形態の中に「思い込み・信じ込み」という働き作用が稼働しているのだ。「相対的現象・現実」の世界だからである。

「悟り」現象は、一般論としての「意識の操作法」として展開しているのである。自我と自己の激しい癒着の方々は「わからない」ことをさらに混同して、ぐちゃぐちゃにして、自分の都合で、見たまま反応しているだけの人々なのだ。これからも、このような方々がご活躍していくにちがいない、またご活躍するところが創価の世界なのだ。創価の世界は広いようで狭い世界である。ただ「気づけないだけ」なのだ。


★私が展開する内容は、どこまでも「眼差し」の方法であり、「信心・信仰とは関係ない事である」ことを理解し読み進めてほしい。


★「悟り」現象は、男女・年齢・職種・年収・入信年数・教学・役職・折伏数・財務金額等々、組織、学会活動している、勤行している、題目上げている、祈っている等々、一切関係ないことだ。

創価系の人々は、もうこのあたりで「邪宗」・「邪義である」「禅宗だ」等と「決めつけ」反応が起きる。まさに思い込み・信じ込みの輩集団である。創価的な枠組みでしか思考できないという「片寄がある」からである。自分自身で自分自身の意識の自由を勝手に束縛しているのである。

「見る、読む」は自由な選択である。「見て、読んで」感じるのは読み手の反応なのだ。しかし思い込み・信じ込みの人々たちの、その反応自体が「自我機能」により束縛されているということだ。色付け、アレンジ等の

過去の経験により作ってきたバリアーで見てしまうからだ。このことを「愚考」というのだ。

そういった反応は、どうでもいいことなのだ、次元が異なる現実を語っているからである。

創価であろうと、なかろうと「悟っちゃう」現象が起きているということだ。「安心して下さい。『悟り』現象は創価に関係ないのですから。」「気づいた」人が「体感する時」がきたのだ。


  • [5]
  • リアルな「思考実験」5

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2015年12月31日(木)19時26分19秒
 
リアルな「思考実験」5

これから、見下します、(「見下している」と言う方が多く読まれるので先に断りました)


宿板に登場する自称創価人、教学があるように見えて、何も無い人々たちが言う言葉は、「体感」と言う言葉に「禅宗ぽい」と「印象」を言う「印象派」の人々、理解する、しない、以前の「気分」の方々、理性的・知性的な資質も無い方々等々、この程度の輩が全国にウジャウジャいるのが現在の全国の創価の実態、(反宿・宿 創価関連「板」も同次元「相対的現象。現実」世界だもの)



「『法華経の智慧』は素晴らしい、何回も読むことです」(20年前の1995年2月号から、大白蓮華に掲載開始)



読んでも、読んでも、自我という世界の事、読んで何がどうなったのでしょうか?これから、何か変わるのでしょうか?「素晴らしい」との感想だけでは誰でも言える事。20年歩んでこられた弟子の道、素晴らしいです。



これが創価の方々の現実です。高学歴の方々、学者、大学教授、弁護士、精神科医、外科医、校長、学校の先生方等々、豊富な人材いても、読み方知らずの愚考者です。なぜならば「身読」ではないからだ。自ら身読しようとも思わず、わかろうともしないで20年、それが師弟の道だった。無責任な弟子集団である。このことを愚考集団というのだ。(日本全国津々浦々同じ現象が見られている)



「54年問題、絶対に許せん」と、あれから36年、時間が経過しましたが・・・これからも時間が経過するだけのように見えますが、何か現実的戦略があるのでしょうか?誰が指揮をとられるのですか?少なくとも、そういうところまで考えての「議論」ではなさそうです。ただ「議論」という「茶番劇の姿」があるだけです。これが心ある方々の創価関連「板」の現実です。中には、嫌われているのに気づかずに、行き場がなく「迷いやっと見つけた」自分に合う世界、自分自身が問われない、居心地いい世界、誰もがそうしているネット利用、そしてこのような姿が社会で見られている「当り前な現象」なのです。私から見ると好きにして下さい、どうでもいいことですから。全ては「気づけば」わかることですから・・・



日々、刻々反応している自分自身の「体感」という現象を否定し、ものごとを自分の都合でしか読めないと言う愚考さらしているのに気づけないほど、愚考で「生命が汚れきっている」、気づかずに騒いでいるだけ、あっちも、こっちも、現代人の一般的特質がキレイに現象化している姿がここにある。



この1年、何が、どうなったのでしょう?寄合に集まり、都合のいい事をいうだけで、成長したのでしょうか?



「某3人のブログを見て感動しました」と、彼らのやることなすことと同じ次元であることが見抜けない「眼差し」、彼らの言う執行部も自分たちも同族・同類の世界にいるのが「わからない」しょうがない相対的現実だもの、「体感」する世界が欠落しているんだもの、このままいくしかないじゃん、



今年も、そうだった、来年も同じ、何も変わらない、変えられない、疲弊し閉塞する現象が拡大することが内外にもたらされるだけ、そして時間だけが通過していく、何事もなかったように、ただ過ぎていく、全ては今まで通り、「怒り」の感情だけが増幅されていく、「怒り」を「悪に」、「悪」という対象化がないと何もできないという世界にいるのがわかっていない、「憎しみの連鎖」ご存知ですか?それと同次元の現象。「悪」の本質がわかっていない、思考・概念と言う自我機能の世界だから起きている事。



「悪」を攻めるとは?「敵」がいるということは?全てが「対象化」した現象の現われ、ちなみに私も「悪」であり「魔」として「対象化」されている。「それが第六天の魔王」と、その程度の見分けしかできない「眼差し」、「池田先生の弟子には多種多様であっていい」「厳しく律して」どこに「厳しさ」ある。自分の都合だけがあるだけ、それも選択されている現実なのだ。



「世界広布新時代 拡大の年を、黄金の年の総仕上げを・・・」「体感」無き人の妄想・幻想が続くだけ、「気づく」ことがないのだから、疲弊し閉塞する現象が拡大する年です。聖教部数・折伏成果報告は不正操作、あたり前・末端の役職者の不平不満ありあり、選挙、票の減少、生命の濁りゆえの現われ。皆さん方が言われる共通認識・共有世界、「仲よし、こよし」レベルの広宣流布、拡大の年、魅力なき人々・・・もうどうでもいいこと、



世俗化教団の姿、いつ変わるの?執行部の面々変わっても、同じ「命の方々」が次々登場するだけ、戸田先生登場以来続く創価執行部の現実、「悪」はいつ滅ぶの?「いまだこりず候」あっちも、こっちも、それが相対的現象・現実の世界、「気づく」まで、この現象は続いて行く。


わかるか?そうか、わからない世界にいることを選択しているから無理だわ・・・



宿板に寄り合う方々に「気づき」の促しができればと寄らせてもらっています。悪口・見下し、ご容赦を、



以上、見下しました。有難うございました。




  • [4]
  • おじゃまいたします

  • 投稿者:太ちゃん
  • 投稿日:2015年12月31日(木)19時21分37秒
 
たぶん間違える人はいないだろうと感じつつ。
●●●●●
http://6027.teacup.com/situation/bbs/t4/2
[2] 天寿を仰ぐ  投稿者:アルベアメール  投稿日:2015年12月31日(木)17時03分51秒 編集済

http://6314.teacup.com/roys/bbs/****

信濃町の人びとさんが反論不能
●●●●●

コメント2の「アルベア」は『成り済まし』でしょうね。
URLの飛び先は反板へ誘導する状態です。
これだけ真摯に信仰してるアルベアさんがまさかやらないでしょう(笑)

『功徳を自力で現せない』 = 『誤った信仰状態』

というのを反板は自ら証明してるものを『見るだけ無駄』というものでしょう。
いやむしろ普通の学会員さんを馬鹿にしてさえいる様子だ。
「職員の匂い」がプンプンする。

管理人さんへ。
コメント2と他のアルベアさんとでは、おそらくIPが違うのでは?
専用掲示板へのコメント失礼しました。

http://www.geocities.jp/bosatu2015/


  • [3]
  • :yakuoh 様

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2015年12月31日(木)17時10分38秒
  • 編集済
 
:yakuoh  様 2015年12月31日(木)16時53分9秒

「体感」現象については、読む人それぞれのイメージで捉えられますが、自分自身が感じている「体感」というご理解でよろしいかと思います。

あなた様は、何を知りたいのですか?何に関心をお持ちなのでしょうか?よろしければお願いします。

  • [1]
  • 「お礼」

  • 投稿者:アルベアメール
  • 投稿日:2015年12月31日(木)13時13分27秒
 
管理人 様:2015年12月31日(木)10時02分15秒

「専用スレッド」ご配慮ありがとうございます。感謝いたします。また、お手数おかけしました。

運営のスタッフ方々関係者の方々、今後ともご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

「わかる人が、わかればいい」という観点で投稿していきます。誤解を招きますが、今までこのような

刺激的な促しがなかったので、また、今だから、できることだからです。

お読みになる方々に、愚問する方の質問にはお答えしません。まじめに考えている方にお答えします。

なぜならば、既に生きている世界が異なるからです。⇒(好きに誤解して下さい)

ルミナリエ様投稿日:2015年12月31日(木)09時52分2秒

有難うございます。恐らくご自分が感じていたことと、まるっきり異なる世界を見ることとなります。

「体感覚知」してからのお楽しみです。全てが了解できます。

「ゴール」ではなく、「全ての始まり」になっていきます。「即」「不二」が実感としてわかります。

「体感かな?」蘭夢  様:2015年12月31日(木)12時38分21秒

「正直な、素直な」投稿、有難うございます。蘭夢  様の感覚が「体感」なのです。その「体感」がさらにすすんでいくと「体感覚知」という現象がもたらされるのです。私が投稿してきた内容が「よく、わかってくる」と思います。

愚考者はこのような現象を「洗脳された、洗脳体験」と言います。また「邪宗ぽい」とも言います。既に、生きている次元が異なっているのです。

自分自身が「体感」した内容については、周辺の人たちへの「公表を控えて」下さい。誤解の嵐が起きますので。

私に対して、この「板」ですらご覧の通りの反応があるわけですから、リアルな「思考実験」

「体感覚知」すれば「わかります」「体感」できる方とお見受けしました。有難うございます。


「閲覧者」の方へ

閲覧数が、増えています。多くの方々が見ています。方面幹部の方々もそれなりに注視しています。投稿なさる方々、「見られていますよ」「読まれていますよ」よかったですね、これからも増えていくのです。

私の投稿は「気づき」の促しです。感情的な刺激による促しです。なぜなのか、「気づいて」いく必要があるからです。表現も辛らつとなります。人が「気づく時」「変わる時」とは、自身の感情が揺れ動いた時だからです。

現実的な変化とは自我からの離脱・脱却だからです。

「板」を見て」「気づいて」「変われるなんて」すごい事です。変われない、変えられない現実が「変われる」ということです。牧口先生・戸田先生みたいに命をかけるほどでもないので、気楽に読んで下さい。

弟子と勝手に思っている方々、名のる方々「俺も体感したい」という現象が増えています。

池田先生の「いでよ10万の山本伸一」虚妄にするのか、どうかが始まって36年以上経つのに・・・どうするのでしょうか、今まで通りに、このまま、ありのまま、好き勝手にやるしか、ありませんね。

虚妄にしながら人生を終えていった諸先輩たちに申し訳たちませんね。それも、あれも、これも選択と言う事実です。虚妄とういう継承者いても「山本伸一」の後継者がいないと言う現実、裏切りの現象が現われているだけです。



スレッド一覧

  1. アルベア論(13)
  2. 虚構の大石寺疑惑(3)
  3. 正義のあかし(47)
  4. アラシ行為記録(17)
スレッド一覧(全4)  他のスレッドを探す  掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成