博多生まれを隠そうとしない芸能人の常として、そしてその代表格として博多っ子は概ねタモリ氏に好意的です。「高宮中⇒筑紫丘高校やったろ?」と、氏の経歴を知らない人のほうが少ないくらいですね。
本書はタモリの足跡を通して戦後ニッポンの歩みを振り返るというものである。なぜ、タモリを軸としたのか。それはまず何より、彼が一九四五年八月二二日と終戦のちょうど一週間後に生まれ、その半生は戦後史と軌を一にしているからである。(はじめに)
という前書きに惹かれた訳では全然なく、たまたま嫁が借りてきたのをヒョイと手に取ったら、しっかりした内容に驚いたというのが真相です。すいません近藤さん。でも『ダ・ヴィンチ』11月号で糸井重里氏が推薦していたのはちゃんと覚えてましたよ。
本書、
①タモリ氏個人の経歴とエピソード
② ①と並行する戦後史サイドストーリー
がいずれもしっかりしているので、仮に①に興味のないかたでも読み応えがあります。
タモリ氏が一浪して六五年春に早稲田大学文学部哲学科に入学した歳、吉永小百合は同い年の同級生。そして三島由紀夫「楯の会」の森田必勝も、同い年で同時期に早大の教育学部に通っていました。
学生食堂でラーメンを食べていたところ、たまたま前の席に吉永が座り、トーストを食べ残して立ち去った。それを持って帰ろうか迷っているうちに食堂のおばさんが片付けてしまったと、タモリはたびたび照れながら語っている。
東京大学総長・大河内一男は一九六五年の卒業式辞で《諸君は職業生活におけるエリートとして、いわゆる出世コースに乗ることでありましょう。それは諸君の実力や職務担当能力に関わらずであります》と述べて式場の笑いを誘った。(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)東大卒という肩書があれば就職はもちろん、出世コースを歩むことがほぼ約束されていた時代の話だ。早大を含め大卒者がホワイトカラーの職種に就く率もいまより高かった。
「時代の空気」を伝える、①②共に良いセレクトですよね。後者などは史実としてしっかり後世に残しておくべき内容でしょう。
タレントの堺正章も、高平に頼まれてタモリの芸を見た一人である。しかし堺はその芸にピンとこなかったうえ、サングラスをかけたままのタモリに「先輩の前で芸をやるときは、サングラスぐらい取れよ」と叱りつけてしまったと、近年、あるバラエティ番組で冗談めかして語っていた。
こういった①に属する「秘話」的なネタに加え、周知と思われる過去のエピソードも緻密に掘り下げていきます。
赤塚には小遣いももらっていた。(中略)月に一度は電話があり、「カネあるの?」と訊かれる。そこで「カネないよ」と答えると、「じゃあ取りに来い」と言われ、下落合のフジオ・プロダクションまで受け取りにいくのだ。それで一回につき三万円ほどもらっていたという。当時としてはかなり使いでのある額だった。
小遣いを受け取る際には「酒あるか?」とも訊かれ、「ない」と答えると、翌日には酒屋からハイネケンのビールが何ダースも届けられた。
洋服ダンスの中の赤塚の服は勝手に着る。赤塚所有のベンツは勝手に乗り回す。しかも恩義ある赤塚と飲みに行くときも、タモリ氏はそのベンツで往復し、赤塚はタクシー。タモリ氏は一度たりとも赤塚を送ることは無かったそう。あげくベンツで工事現場に突っ込んだ際も、赤塚は一言も怒らなかったとか。
来宅した赤塚はまた、食べ物がないだろうと、買ってきた食料品を冷蔵庫いっぱいに入れてから帰っていったという。そんな家主にタモリが礼を言うことはなかった。
じつは当初、タモリは赤塚がほかにもマンションを持っていて、そこに住んでいるものとばかり思っていた。だが、実際には赤塚は帰るところがないので、仕事場に寝泊まりしていたのだった。それを知ったとき、さすがのタモリにもグッとこみあげるものがあったが、ここで引け目を感じては居候道に反すると思って堪えたという。
驚くのは、上京してしばらく経つとタモリは福岡から妻を呼び寄せ、夫婦で居候していたという事実だ。(中略)同じ記事でタモリは、今日の仕事は?との記者の質問に、《居候は仕事をしてはいけないのです》と答えている。
このあたりの、居候時代の書き込み具合は執拗且つすごい密度です。
そして既に国民的スターであったタモリ氏の名を、更に高めることになる二〇〇八年の赤塚不二夫への弔辞に持っていきます。
《私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、いま、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです》
近藤氏、なかなかやるでしょう?タメにタメておいてこれですからね。
あの弔辞に、ここまでの背景があったとは知りませんでした。
「大人(たいじん)赤塚不二夫」に、まさに「昭和」を感じます。
①②いずれにも属しませんが、個人的には第5章の「桑田佳祐への共感」も興味深かったです。
「胸さわぎの腰つき」なんて歌詞はおかしいと、代わりに「胸さわぎのアカツキ」「胸さわぎ残しつつ」といった案を示されたという。
「胸さわぎのアカツキ」「胸さわぎ残しつつ」 だっさ。失笑。
《ポップスの世界においては語感を大切にするのが普通だと思っていたし。だから〝乗り〟と言うか、意味よりも気持ちの良さってことしかなかった》という桑田は、あくまで自分のつくったフレーズを押し通した。
《歌詞は、メロディーが浮かぶと同時に、デタラメな言葉ーまァ英語が多いんだけどーで浮かんでくるわけ。日本語の歌詞は絶対に浮かんでこない。浮かんだ言葉とメロディーをゴニュゴニョそのまま唄ってくと、コード進行がピーンとわかる。(中略)そのうちに何となく、そのデタラメ言葉にピッタリとくる日本語が何カ所か出てくるわけ》(『ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』)
のちにテレビ番組『今夜は最高!』の第二回(一九八一年四月放送)に桑田佳祐がゲスト出演した時には直接《歌詞はわかんない、わかんないからこういのがいいなあって思ったね》と最初の印象を伝えた。ただし、タモリはサザンが果たして売れるのか心配も抱いたという。
こんな感じで「いいとも」終了まで、話があちこちに跳びながら、それでもタレント・タモリ氏の歩んできた芸能史とは、付かず離れずの距離を保ちつつ進んでいきます。
「ネアカ・ネクラ」「名古屋人エビフライネタ」発祥のいきさつ、「いいとも」共演レギュラー陣との逸話等、タモリ氏ファンにも読み応えのある内容が続き、飽きさせません。
膨大な「参考文献」(巻末で数えたら170冊以上ありました)に裏打ちされた史実の積み重ねによって、捉えどころのない「場の芸人」タモリ氏像を外側から、金型や逆3Dプリンターのように浮かび上がらせようという試みは、舌を巻くレベルの力作となりました。本文だけで約330ページと、かなり厚めの新書ですが、作者の意図を踏まえると、このボリュームの必要性を感じます。
『まったくあたらしいタモリ本!タモリとは「日本の戦後」そのものだった!』という少し大仰に思えた帯は、内容にふさわしいものでした。
お正月休みの残り、電子書籍で何か読もうかなと迷っているかたにはお勧めかと。
以上 ふにやんま