大晦日、元日、2日と連続で親族と過ごしたが、正直限界まで疲れきって帰ってきた。吐き出させてほしい。
子供の頃は協調性などかけらもなく、常に集団を外れて行動していた。連係プレーなどしたこともない。
思春期に突入すると、周りとの摩擦に辟易しながらも、自分なりに対人関係的処世術を身に着けて、決定的なトラブルに至ることなく何とか成長できた。
社会に出てからは仕事と割り切ることで人間関係も円滑に保つことができた。ただしそれは気を遣う、つまりエネルギーを放出する作業にほかならず、家に帰ってしっかりと休まねばパンクしてしまうもの。手放しで対人関係の極意を身に着けたわけではなく、自分を切り売りして穏便に済ませていたのだ。
いまだに誰かと長く一緒にいるのが苦痛で仕方がない。静かな人と一緒にいるならまだしも、声が大きくて常に喋っていたり、絶えず動き回って大声を上げる子供などといれば、エネルギーの枯渇はさらに加速する。
次第にイライラしてくる。非常にうるさい。「黙れ」といいたくなる。表情にも出る。自分でもわかるほどのフラストレーション。こうなると、そんな自分に嫌気がさして更なるマイナスのスパイラルに陥る。おそらく、この場に居続ければ、対人トラブルを自ら招くことになるのだろうなって予感がヒシヒシとする。
だから、本日、僕を呼んでくれた主催者には丁重に「キャパオーバーしたので帰ります。せっかく誘ってくれて本当に有難かったです、ごめんなさい」と一言伝えて帰ってきた。
よく「誰かといないと寂しくて駄目」という人がいる。僕にはその気持ちがわからない。それがおかしいとか間違っているとか、そういうことじゃない。理解ができないんだ。どうして誰かと一緒にいることを受け入れることができるのか。そのストレスでパンクしないの?凄すぎる。
僕は少し変わっているのだと思う。常に頭の中にノイズがあって、それは好きなことに没頭することで散らすことができる。だけど、環境音や周囲に誰かがいて騒がしい時は、そのノイズが助長されて段々疲れが蓄積していく。
例えば、その場に自分以外の誰かが5人いて、それぞれに何か活動していたとする。しゃべる、見る、歩く、食べる。それらが全て視界や耳に入り、それをスルーできなくなる。誰がどこにいて、何をして、どんな音を発しているのか。何を欲しているのか。全てを把握し、全てをカバーしようとする。その結果、脳にエラーが蓄積して、徐々に限界容量に近づいてくるのだ。
だからこんな時は離脱する。誰もいない、自分の生み出した生活音以外の静寂な場所へ行ってリカバリーする。こうやってブログに胸中を吐き出して、調律するんだ。今はとても晴れやかな気持ちになっているよ。
人と長時間過ごしていて、こうなっちゃう人いない?
脳内は、できればクリアなほうが良い...