筋野健太
2016年1月2日00時31分
終戦から70年たった今も、自らが中国残留日本人孤児だと訴え続けている人たちがいる。しかし、申請しても養父母や近親者などは亡くなっており、今となっては証明する手がかりすらない。日本への強い思いを胸にしたまま、申請者自身の高齢化も進んでいる。
「狂ったように証拠を探し回ったのに、私はふるさとに戻れません」
遼寧省撫順市の黄飛燕さん(推定71)は2003年、厚生労働省から「非認定」の通知を受けた時の心境を、涙ながらに語る。
両親を相次いで亡くした後の1996年、父親の知人女性、史春栄さん(当時82、97年死去)から「あなたは日本人だ」と告げられた。史さんの証言によると45年、同市の日本企業で鉄道の保線をしていた夫が、同じ職場の日本人から、黄さんを預かった。しかし史さんには子どもが5人おり、子どものいない黄さんの父親に託したという。
当初、黄さんは動転したが、日が経つにつれ日本にいるかもしれない父母に思いをはせるようになった。会いたいという気持ちはどんどん膨らみ、中国政府と厚労省に申請をした。01年ようやく厚労省職員と面談できたが、すでに史さんは亡くなっており、他に有力な証言者はいなかった。
非認定後も黄さんは、毎朝早く家を出て、実の父親と思われる男性が働いていた場所の近くで聞き込みをした。いつか「帰国」できたときのために、語学学校で日本語の勉強もした。
しかし次第に、家族には家庭を顧みていないと映るようになった。応援してくれていた夫とも、気持ちがすれ違うようになり06年に離婚。娘(43)は「母は変わった。日本人だと言われなかったら、私たちの生活は正常だった」と嘆く。
なおも手がかりを探し続ける黄さんは、片言の日本語で、涙ながらに訴える。
「からだ、ちゅうごく。こころ、にほん」
同じく撫順市に住む王志杰さん(推定70)は98年、肺がんで病床にあった母親から「あなたは、夫の同僚の日本人の娘だ」と伝えられた。
すぐに日本政府に残留孤児の申請をしたが、後日、非認定の通知が届いた。通知によると、実の父親だと思われる日本人男性は確認できたが、すでに亡くなっていた。妻は健在だったが「自分の子どもではない」との返答で、実の母親が誰なのか分からないままだ。
残り:861文字/全文:1804文字
おすすめコンテンツ