日本軍「慰安婦」問題に関する日本の責任追及をいかになすべきか。現時点であえて分けるならば、昨年12月28日の日韓外相三項目「合意」をうけて大きく二つの路線があらわれているといえる。第一は「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線、第二は、「合意」を前提とせず、この破棄・無効化も視野に日本政府に法的責任の承認を求める路線である。第一の路線は主として日本の言論人や被害者支援団体にみられ、第二の路線は被害当事者たちや挺対協の示したものといえる。 第一の路線の特徴は、繰り返しになるが、「合意」を前提にすることである。この路線を代表する和田春樹のコメントを引こう。
すなわち、「合意」を「前進」と評価し、今後の「解決」の大前提としながらも、日本側の「謝罪のトーン」が被害者たちに理解されていない、「気持ち」を届ける努力をすべき、というのが和田の主張である。この立場からみると、残された問題は日本側の「謝罪の気持ち」の示し方、そして、被害当事者たちの受け取り方だということになる。こうした和田の立場は日本政府を補完するものといえよう。 だが、私はこうした第一の路線は「合意」についての過大評価に基いており、採用すべきではないと考える。二つの路線は一見似通っているが、三項目「合意」後の運動、とりわけ韓国における被害当事者たちとその支援者の闘いを考えるうえで、看過しがたい違いがあると考える。そして、この路線は今回の「合意」を推進した和田春樹以外にも、とりわけ日本の支援団体にみられる立場である。以下に日韓外相会談に対する日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の声明「被害者不在の「妥結」は「解決」ではない」(以下、全国行動声明)をとりあげ、その理由を示したい。 第一の問題は、日本側声明にある「責任」の解釈である。全国行動声明は日本政府の責任について次のように指摘する。
果たして今回の日本側声明は、「国家の責任を認めた」と評価できるものなのだろうか。全国行動声明が問題にしたのは、今回の「合意」のうち岸田外相発表の(ア)「慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している」である。だが、すでに多くの指摘がある通り、日本側声明の文言は河野談話を継承したものである。河野談話に「責任」の語はないが、今回の日本側声明の文言は日本軍「慰安婦」制度が日本による戦争犯罪であることを認めたうえでの法的責任を意味しない。 この問題を考えるにあたり、今回の日本側声明の「責任」の意味を理解する助けになるのは、『世界』2016年1月号に掲載された和田春樹の論文「問われる慰安婦問題解決案 : 日韓首脳会談以後を展望する」である。和田は「法的責任」をめぐる対立をふまえ、次のように提案した。
外務省が和田の提案を受け容れて「責任を痛感」の文言を採用したかどうかはわからない。ただ、すでに和田論文が紹介するように、2012年には日韓両政府の間で従来の「道義的責任を痛感」という文言を避け、「責任を痛感」とする謝罪文を作成することで「合意」していた。和田論文が2012年の「合意」を外務省に想起させる目的で書かれたことは明らかである。「法的責任」とも「道義的責任」とも明記しない「責任を痛感」という表現を採用することで、日韓双方が国内向けには自らに都合のいい説明をできるような文書を作成したのである。 はっきりしていることは、「責任を痛感」という文言には、日本政府が法的責任を認めたという含意はない、ということである。むしろ法的責任の認定を回避するために挿入された文言と解釈するのが妥当である。この点で1995年の国民基金以来の日本政府の立場は本質的には変わっていないと考えるべきであろう。 このようにみた時、全国行動声明の「日本政府は、ようやく国家の責任を認めた」という評価は、被害当事者や支援団体の運動の成果を謳う文脈で記されたものであることを差し引いても、日本側声明における「責任」の語の、それこそ責任回避的な文脈を看過させるものといわざるを得ない。確かに日本政府の事実認定は全く曖昧であることは間違いない。そしてそれは「責任」という曖昧な語の使用の必然的な帰結なのである。日本政府が10億円を「賠償」ではないと明言するのは当然といえば当然のことである。 同様の問題は「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の「日韓外相の政治的妥結に対するwamからの提言」にもいえる。「提言」は、「最終的かつ不可逆的に合意」を「愚かな約束」と評するにも拘らず、「政治的「妥結」を、被害者が受け入れ可能な「解決」につなげる道を、時間がかかっても丁寧に探っていきたい」として、「合意」を前提とした「解決」という路線に立ってしまっている。その上で、「日本政府は、責任に「道義的」といった限定をつける報道に反駁し、それ以上でもそれ以下でもない「責任」を痛感していることを繰り返し表明しなければならない」と提言をする。 だが問題は「道義的」をつけるかどうかではない。「責任」という語は、上の和田論文で明確に指摘されているように、手垢のついた「道義的責任」を用いることにより生じる反発を回避するために作られた用語なのである。「責任」の語の不明瞭さを衝き、「合意」の前提そのものを問い直す作業こそが必要なのではないか。 「責任」に関するこうした過大評価と密接に関連する全国行動声明の第二の問題が、以下の第六項である。
私が全国行動声明を第一の路線、すなわち「合意」を前提に、「責任」の具体化を日本政府に求める路線であると考えるのは、この第六項ゆえである。果たして問題は首相がお詫びをする形式の問題であろうか。外相に代読させたことは確かに破廉恥である。だがそれは今回の「合意」の本質をむしろ日本政府が率先して示してくれた行為なのではあるまいか。安倍が来てひざまずこうが、今回の「合意」の欺瞞性は変わらない。むしろ「合意」を前提にするならば、安倍の破廉恥な行為ゆえに明確になった本質を糊塗することになりかねない。かかる行動の要求は、「合意」の撤回とセットでなければ意味がない。 「合意」を前提にすることは、少女像を撤去し、財団を作り10億円を受け取ることを意味する。「今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」ことが発表されているのである。「wamからの提案」のいうとおり、これは「愚かな約束」である。そして「愚かな約束」であるならば、これを前提にすべきではない。「合意」を前提にして、いかなる義務を日本政府に課すことができるだろうか。残念ながら、日本の市民運動にそのような力はないし、そもそも「合意」の論理的帰結として、そのようなことは不可能である。さらに、④に至っては今回のような法的責任回避の「責任」論を、他のアジア諸国の被害者にも適用することにつながることになろう。「wamからの提言」も全く同様の問題を含んでいる。 最大の問題はこれらの日本側の支援団体の「合意」を前提にした声明が、現在「合意」を前提とせず、その破棄をふまえて少女像の前で闘おうとしている被害当事者や挺対協をはじめとする韓国の人びとの運動、すなわち第二の路線にとって、大きな制約になる可能性が高いことにある。声明の「合意」を前提にする立場は、極めて困難な韓国の政治状況のなかでより普遍的な視野に立ち原則的な抵抗を試みている人びとを、韓国内の運動に孤立させることになりかねない。これらの声明はこうした意味で、単に不十分なのではなく、被害当事者や挺対協の運動の障害になりかねないのである。 「政府の間違った拙速な合意を受け入れないならば、政府として被害者が生きているうちにこれ以上どうにかする余地がないという言葉は、説得ではなく脅迫に近いものだ」という、挺対協の論評の一節は、直接には朴槿恵大統領を対象としたものだが、日本人たちにも向けられていることを忘れてはならない。日本のマスメディアがくり返す「対話」は、ここでいうところの「脅迫」である。「合意」を前提とすることは、こうした「脅迫」の列に加わることになりかねない。仮に挺対協が第一の路線をとるようになれば、いかに日韓の両政府に対して批判的であったとしても、被害当事者に納得してもらう役割を引き受けること、つまり「合意」の路線を補完する役割を担うこととなる。当事者たちの運動に支援運動が制約をかけるということは、絶対にあってはならないのではないか。 何ら支援運動に貢献したことのない私がこうしたことを書くことの僭越さは承知している。ただそれを承知で、以下に二つのことを求めたい。 第一は、「全国行動」及びwamはこれらの声明・提言を再検討し、「合意」を前提とした箇所を撤回すべきである。見直した上で仮に新たな提言を出すならば、挺対協等の韓国の支援団体と協議のうえで、明確に「合意」を拒絶したうえでの、日本政府の戦争犯罪の責任追及のための提言を出すべきである。これは、現になされている被害当事者や支援団体の要求を阻害しないために、最低限必要な行動であると考える。 第二は、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉に代わる目標を掲げることである。もちろん被害当事者を無視せよ、と言いたいわけではない。むしろ「被害当事者」を押し出すことが、現状においては逆に当事者たちを苦境に追い込みかねない構図が生まれていることを危惧してのことだ。日韓両政府の政治的「合意」がなされた今日、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉の下で、日韓両政府の攻略(日本のマスメディアが「対話」と呼ぶもの)の矛先が、個々の被害当事者に向かうことは必至である。朴裕河がやろうとして失敗したこと――当事者と支援団体の分断――を、今度は韓国政府がやろうとするだろう。日本と韓国という二つの国家に対し、このレトリックは被害当事者たちを矢面に立たせる逆効果を生み出してしまうのである。 必要なのはどのような言葉なのであろうか。この局面において、問われているのは被害当事者のみならず、「私たち」、とりわけ日本にいる者たちが日本軍「慰安婦」制度を、普遍的な規範に基づき自らの問題として考え、いかなる責任を日本に追及するのかではあるまいか。「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉は、被害当事者や挺対協の極めて原則的な姿勢に支えられていたがゆえに、日本の戦争犯罪の責任を追及することと同義でありえた。だがもう一歩進んで、日本人たちが自らの言葉で、日本軍「慰安婦」制度は戦争犯罪であり、日本は「不可逆的」にその責任を認めよ、と主張することが、他ならぬいま求められているように私には思う。これは極めて喫緊の課題である。 今回の「合意」は、国民基金失敗の「教訓」を表面的にのみ学び、「被害当事者が受け入れられる解決」という言葉を逆手に取って、新たなマジックワード(「責任」)で本質的な対立を覆い隠そうとしたものであり、いわば〈安倍晋三=和田春樹路線〉の帰結と考える。〈安倍晋三=和田春樹路線〉の「愚かな約束」を前提にせず、原点に立ち返ることが求められているのではないだろうか。 (鄭栄桓)
Tags:#朴裕河『帝国の慰安婦』批判
by kscykscy | 2016-01-02 00:00 | 日朝関係
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