(振り返ってる如月千早)
2015年1月1日~12月30日までに書いた304記事から私自身が好きで気に入っている記事を選び、今年を振り返ってみようと思います。
読者さんにとっても気に入ってもらえる記事があればよいですが、さてさていかに。それでは宜しければ付きやってください。
●過去のマイベストエントリー
1)作家論
村上春樹論とか麻枝准論とか虚淵玄論とか瀬戸口廉也(唐辺葉介)論とか、そういうのちらっと目に入る度に「違和感」しかなかった気持ちを言語化した記事です。
私が感じていたのは、つまり作家論とは未来の物語を簒奪していることですね。間違って読んでしまう度に言い知れぬ拒絶感があったのはこのせいだったのかと、ね。
おそらく多くの人は作家論を「いいもの」のように捉えていると思うんですが、実際はそうではないよと考えてます。
2)作品批評について
なぜ亡霊批評が嫌われるのか?
なぜ時代連関させた批評が嫌われるのか?
なぜ他作品比較が嫌う人がでてくるのか?
それは作品に即してないからだ、と語った記事です。他にも好まれる批評とはどんなものか、批評をやりすぎればどうなるかに言及しています。
本記事は2015年2月に書いたものなんですが、この時点で私のなかで批評スタイルについては一段落ついたと思います。どういうものを目指すべきで、どういうものを目指さないべきか。プレイ中にも好影響をもたらして、かつファンに納得のある批評文物って作品の内部に即したものだと思ってます。
↑の記事で語る "再生批評” を突き詰めると物語が物語化することは分かってきたので、後はほんとうに……技術だな……。文章力って一体どう努力すれば上がるのだろう。
参照→作品批評は誰のために、そして何の為に(18205文字)
3)Charlotte考察
『シャーロット』を内在的読解で表現した記事で、本作の不満はほんとうに不満たりえるのか、伏線未回収は未回収たりえるのか探ってみました。
結論として「伏線未回収」な作品ではなくわりと一貫している作品じゃないかなと個人的には思います。
CharlotteはAngel Beats!のように(私が注目してる)有名なアニメライターの方々が議論し問題点や評論を書き上げるのかなーと期待していたんですが、もうなにも音沙汰がなかったのでびりりました。びっくりだよ。綺麗に終わりすぎてしまい語りたいことが特になかったのかな……。なんにせよこのままじゃ"無かった"ことにされそうな危機感がちょっぴりあったので、ミーム拡散も含めて考察記事を書いたところあります。(私が書いたところでどうなのって感じはあるんですけど)
みなさん初期の方はTwitterで言及しているのに、最終回以降はTwitterにもブログにも書かないのはなぜー(涙)
4)批判×シャーロット
Charlotte考を書き上げてみると、否定派が感じる不満がクリアーになったのでついでに批判記事も書いてみました。正直。好意的に受け止めている作品を批判はしたくないんですけど、こういうスタイルの批判ならまだありかなと思いまして。
ただ私が目指している「批判」は創作的な視点で立ち向かわなきゃいけなくなるので、そこが若干ストレスになりましたよ。 というのも私は「消費者」であり続けることをすでに決めているので――創作者側になることは御免被りたい――そういった視点は欲しくないんです。
でも一度やってみないのと、その批評スタイルがどんなメリットがあって、デメリットがあるのか実感できないので結果的にやってよかったとは思ってます。
参照→肯定派の人間が、『Charlotte』を全力で批判してみます
5)作者は装置だよ
批評や作品語りにおいて作者に言及するのは全く無意味だよね、と語ったものです。ずっと↑のほうある1番の作家論の記事とは別のアプローチでの監督主義者否定ですのでイラっとする方はいるかもしれませんが、もう"作者は死"んだのですよ。
いつまで無根拠な「作者」などという要素を使い続けるのか自問してもいいかもしれません。
6)フロレアール考察
13cmから発売された『フロレアール』の考察。きれいに言葉にできた記事だと思っていて、個人的に好きな作品批評でもあります。
この時に実感したのが、もうどんなにやっても内在的読解の限界はここだなと。所々紡ぎ方や文章表現の細かな部分をブラッシュアップする余地はありますが、これ以上先はいけない、そんな天井の裏を目前にしてしまった感じです。
とりあえず1年前の自分が到達したかった地点にいけたので喜ぶべきなんですけど、さてこれからどうしよう。目指すべき指針がなくなった時は、とりあえず何でも手を出して変化し続けるしかないのはわかってるので、対話型レビューにそろそろ手を出してみるのもよいかもしれません。
参照→フロレアール考察―我々は二項対立を超越せねばならない―
7)好き好き大好きレビュー
これまた13cmから発売された『好き好き大好き』のレビュー。ゆるふわさんの「書評の書き分け記事」がおもしろかったので、それに乗る形で本作もまた4つの形式で書き分けしてみました。
やってみると思いの外楽しいので、気分を変えて、または刺激を求める形でレビュアーの方々はやってみるとよいかもですよ?
記事前半は 『好き好き大好き』の紹介文になっていますので、まだプレイされていない方でも読んでもらえるようになっていて後半から批評的な文調で本作を語ってます。
8)スカーレット総括
ねこねこソフトから発売された『Scarlett』をさっくりと語った記事です。こう見るとスカーレットって作品がどうしようもなく切ない作品だなあ……って個人的には感じました。いいよね。こういうのも。
9)物語から生じる観念について
アニメ・ゲーム・小説なんでもいいですけれど、物語を読んだことがあるならばこの記事で語られる《物語そのもの》について実感できると思ってます。
ま要するに物理的な情報を読者が受け取ったときに生まれる「観念」を《物語そのもの》と言っているわけです。ここからさらに意味を加え「物語のみの内実」、「物語が指し示す物語」という概念になっています。
とかく、物語に接する上でおもしろい視点だと考えていて「登場人物に感情移入できなくても《物語そのもの》に感情移入できる場合がある」くらいに、知っておくと便利かも。
参照→《物語そのもの》とは?
10)水月から考える願い
原作で救われなかったキャラクターは、果たして二次創作では救われるのだろうか?という問題を起点にして、「願い」について考えた記事です。
『魔法少女まどか☆マギカ』の鹿目まどかは二次創作で幸せな結末を紡がれたとしても、"それとこれ"とは別だってのは誰しもがわかってて、結局は原作を逸脱した行為にすぎませんよね二次創作っていうのは。
けれど、もし、『願いの同一性』という概念を差し込むのであればその現状は一変するのではないかなと。そう考えるのであれば、に留まるものですけども。しかしそういう考え方を知っておくのもまた楽しいものかもしれません。
11)アトラクナクアの古典化
当時はどんなに良い物語だったとしても、時代が勧めばありきたりで陳腐なものになっていくし普遍的であればあるほどその市場では古典化し、輝きが失われるでしょう。ずっと面白い物語なんてないし、もしそんなことを言っているのであれば現実を無視した物言いに他なりません。
『アトラクナクア』は誰が見ても「作品外形」はすでに時代遅れの様相を示していますし、物語の内容もそれに呼応するように魅力を失っているのではないかな、とそんな事を語ったのがこの記事です。
参照→2015年に「アトラク=ナクア」をやっても退屈なのはもう古典だからだ
12)よそのベスト記事
いいブログやいい記事はドンドンシェアしていこう! の精神に則りまして私が好きな129の記事を一覧化したものになっています。あとフリーソフトや動画URLを置いてみました。
「面白いブログを開拓したい!」って方にはおすすめしたい記事です。暇つぶしにもどうぞ。
13) アイドルを好きになっているのは
大して喋ったことも触れ合ったこともないアイドルに恋をしているならば、それは自分自身でこしらえた幻想に恋しているだけで、アイドル本人とはまた別物だよねと語った記事。
アイドルはそういう「幻想」を故意に視聴者に見せているわけでもあるとは思いますが。って考えるとなかなかに。
参照→アイドルに恋してる人は、自分で作りあげた観念を好きになっているだけなのではないか
14)絶望したらCARNIVALやりましょ
死にたくなってるところに『CARNIVAL』をやったら余計死にたくなるかもしれませんが、気持ちがぐちゃぐちゃになっているときに明るいものを見たって聞いたって拒絶反応しか出ないのですから一度振りきれるところまで気持ちを沈めさせるのもアリアリだと思います。
参照→死にたい?もう生きたくない? じゃあ『CARNIVAL』やろうよ
15)知識の非可逆性の超越
「知っていれば楽しめる」こともありますが、逆の場合も往々にしてあるわけです。知っていたから楽しめなかった、なんだよこのテンプレ展開見飽きたよ、史実と言っていることちがくない???etc
という知識の非可逆性を乗り越える(ジュメビュ)にはどうすればいいのでしょうね?((本来着々とアップデートする予定でしたが、個人的にもう興味がなくなってきたので加筆することはないかもしれません。物語に限れば、脳のフィルターの根詰まりを常に解消する+《物語そのもの》の視点の2つを獲得できれば未視感(ジュメビュ)とまではいかなくても「なんだかいいかんじ」になってくると思います。と探ってみた記事。読んでて楽しい記事になったと思うんですがどでしょ(--
参照→「このアニメ展開もう見飽きたよ」という知識の非可逆性を乗り越えるためにできること
16)芸術作品の提示する快楽に追いつけないことがある
ある物語を読んで「なにか」あるなと思いつつも、それがどういうものかわからないし感じられない時ってあるじゃないですか。駄作でも愚作でもないけれど、「自分の感性が追いついていない」せいで目の前にある物語をうまく享受できないと感じる瞬間が。
そういうのを語りました。
参照→ある一部の芸術作品が提供する快楽に、我々の感性が追いつけないことが度々ある。
17)視聴者にも責任はあるよね
タイトル通りつまらないと思った作品があったとき、それを観測したのはもちろん自分自身なのだから「つまらなく感じたのは作品だけに留まらず視聴者にもその一端はある」といった記事。
すべての責任を負う必要はないと思いますが、ここの意識があるだけで作品との接し方もまた変わってくるはず。
参照→つまらないアニメを見た時、つまらないと感じた責任はもちろん「視聴者」にもある
18)反解釈はラディカルな主張だ
『反解釈』は作品の"内容"ではなくもっと"外形"に注視しろと語る本です。なので思想・文化に作品を吸収せしめる批評はいらないとし、そのラディカルな物言いに打ちのめされた人も結構いたと思います。
私もその一人で「確かにその通り」だなと、私がやっているのも「思想」側に属する記事が多いのでやっと自分自身の行為も自分自身で否定できる根拠が見つかってほっとしました。
↑の記事読んでもらえればわかるとおり私は『反解釈』の意見には納得していますが、ただ作品外形のみに注視する批評文物もまた"内容"を無視したものなのでこれまた行き過ぎるとダメだなとは思ってます。あらゆる批評スタイルが否定されたところでじゃあなにを指針にするかというとそれはもう決断主義のお話にのっかるしかありませんよね。つまりデメリットとウィークポイントを受け入れた上で再びそれを採用することに他なりません。
愛好するものに懐疑を向け、否定し、それらを受け入れけれども採用する―――という過程です。
参照→『反解釈』を読んで、作品を思想・文化に吸収せしめる批評がまったくもって要らない事がわかる
19)書いて書いて書いて書き続けるしかない
この記事で言っている「書く」とは文字を書くことではなく、観念を昇華するあらゆる方法を「書く」こととくくってます。そしてそのように――宮棟のように――生きられたのならばそれ以上幸せなことはないと思ってます。
2015年の中でもっとも私が好きな記事はこれですのー。
参照→「書く」こと
おわり
てな感じでこの一年間をざっくりと振り返ってみました。(今週のお題「マイベストエントリー」)
去年のベストエントリーと比べてみると、今年のほうがちゃんと書いたものが多いような?そうでもないような。
とかく、一つでも気にいった記事があれば私としては嬉しいです。
ではでは また来年 ノシ
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まだ、その夏ははじまらないようだった
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