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一昨日の12月9日に<日本軍「慰安婦」被害者たちの痛みに深く共感し「慰安婦」問題の正当な解決のために活動する研究者・活動家一同>の連名(韓国の研究者・活動家258名、国外(日本を含む)の研究者・活動家122名)で「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」という声明が発表されました。私もこの声明の主旨に賛同するものです。しかし、この機会にひとこと述べておきたいことがあります。
今回の「380名の研究者・活動家声明」は同月2日付けで発表された「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明の第二次版とみなされるものです。
第二次版声明の第一次版声明と異同があるのは以下の箇所です。
上記の箇所について第一次版声明では次のようになっていました。
すなわち、第二次版では、「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」点が問題点として特に強調されています。この点が第一次版声明との大きな異同です。第二次版声明の認識は正しいと私も思います。
しかし、「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」点については、「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明で批判されている韓国と日本、アメリカそれぞれから発出された知識人声明の認識不足の責にすべてを帰するわけにはいかない。今回の同声明の第二次版に賛同署名をしている一部の言論人の責任もまた大きなものがあるだろうというのが私の見方です。
「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明では第一次版においても第二次版においても「原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でない」という認識も示されていますが、私は、同声明と同様の認識に基づく澤藤統一郎弁護士の見解を先に紹介しておきました。この問題について同弁護士は次のように述べていました。
しかし、澤藤弁護士は朴裕河の「帝国の慰安婦」の論を「放っておけ」などとはもちろん言っていません。「見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない」と言っているだけです。その言質は「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」(380名の研究者・活動家声明)の「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます」という認識と同等、同質のものです。それを前田さんは一方の澤藤弁護士の論は批判し、「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明には賛同する。その行為には明らかな論理矛盾があります。結局、前田さんは、「論理」ではなく好きか嫌いか、気に入るか気に入らないかの「感情論」でものごとを判断しているということにしかなりません。
では、前田さんの「感情論」とはなにか。気に入らない中身はなにか。前田さんの文章から読みとれることは、韓国の検察が「帝国の慰安婦」の著者の朴裕河を名誉毀損罪で起訴した。その起訴について「公権力が見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない」という意見なり批判が気に入らないということでしょう。だから、前田さんのそのような意見については、相対的な反論として、公権力の言論への介入に対する学問の自由と表現の自由の重要性を再度強調せざるをえないということにもなります。「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」背景には、そうせざるをえない状況を「朴裕河起訴批判」の反批判者たちが決して論理的とはいえない「感情論」を乱造して自らつくり出しているということも大きいのだということを指摘しておかないわけにはいきません。
そのほかにも論点は多様にありますが、ここではその論点についていちいち論じることはしません。とりあえず上記の件のみ指摘しておきます。
【第二次版声明】
「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、今回の検察の起訴が『帝国の慰安婦』によって甚大な心の傷を受けた日本軍「慰安婦」被害者たちによってなされたという点を考慮する時、今この時点で今回の起訴について評価することには極めて慎重であらねばならないと考えます。私たちがもっと憂慮することは、この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移しているという点です。」
「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、今回の検察の起訴が『帝国の慰安婦』によって甚大な心の傷を受けた日本軍「慰安婦」被害者たちによってなされたという点を考慮する時、今この時点で今回の起訴について評価することには極めて慎重であらねばならないと考えます。私たちがもっと憂慮することは、この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移しているという点です。」
上記の箇所について第一次版声明では次のようになっていました。
【第一次版声明】
「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、私たちは学問の自由と表現の自由という観点からのみ『帝国の慰安婦』に関する一連の事態にアプローチする態度については深く憂慮せざるをえません。」
「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます。しかし、私たちは学問の自由と表現の自由という観点からのみ『帝国の慰安婦』に関する一連の事態にアプローチする態度については深く憂慮せざるをえません。」
すなわち、第二次版では、「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」点が問題点として特に強調されています。この点が第一次版声明との大きな異同です。第二次版声明の認識は正しいと私も思います。
しかし、「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」点については、「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明で批判されている韓国と日本、アメリカそれぞれから発出された知識人声明の認識不足の責にすべてを帰するわけにはいかない。今回の同声明の第二次版に賛同署名をしている一部の言論人の責任もまた大きなものがあるだろうというのが私の見方です。
「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明では第一次版においても第二次版においても「原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でない」という認識も示されていますが、私は、同声明と同様の認識に基づく澤藤統一郎弁護士の見解を先に紹介しておきました。この問題について同弁護士は次のように述べていました。
「朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。(略)私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったことと一般化することによって、旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。(略)表現の自由という重要な普遍的価値のためにだ。」
この澤藤弁護士の論は、言葉や表現方法は違うものの上記の「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明と本質的な認識を同じくしているということができるでしょう。その澤藤弁護士の論を東京造形大学教授の前田朗さんは「澤藤弁護士のような人たちが、ヘイト・スピーチを容認・放置しているのです。(略)自分は被害を受けていないから、「放っておけ」と言えるのです」と一蹴しています。 しかし、澤藤弁護士は朴裕河の「帝国の慰安婦」の論を「放っておけ」などとはもちろん言っていません。「見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない」と言っているだけです。その言質は「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」(380名の研究者・活動家声明)の「私たちは原則的には研究者の著作に対して法廷で刑事責任を問うという方式で断罪することは適切でないと考えます」という認識と同等、同質のものです。それを前田さんは一方の澤藤弁護士の論は批判し、「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」声明には賛同する。その行為には明らかな論理矛盾があります。結局、前田さんは、「論理」ではなく好きか嫌いか、気に入るか気に入らないかの「感情論」でものごとを判断しているということにしかなりません。
では、前田さんの「感情論」とはなにか。気に入らない中身はなにか。前田さんの文章から読みとれることは、韓国の検察が「帝国の慰安婦」の著者の朴裕河を名誉毀損罪で起訴した。その起訴について「公権力が見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない」という意見なり批判が気に入らないということでしょう。だから、前田さんのそのような意見については、相対的な反論として、公権力の言論への介入に対する学問の自由と表現の自由の重要性を再度強調せざるをえないということにもなります。「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」背景には、そうせざるをえない状況を「朴裕河起訴批判」の反批判者たちが決して論理的とはいえない「感情論」を乱造して自らつくり出しているということも大きいのだということを指摘しておかないわけにはいきません。
そのほかにも論点は多様にありますが、ここではその論点についていちいち論じることはしません。とりあえず上記の件のみ指摘しておきます。
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今日の言葉 ――なんだか世界中がアモルフである。たとえば国民が自ら自由を差し出して治安の強化を求める図式は、人権の母国で起きているだけに人権の融解を思わせる。>>
康 昌宗
前田朗さんとのやりとりだけを基に、『「この一連の事態が問題の本質から離れ、学問と表現の自由へと焦点を移している」背景には、そうせざるをえない状況を「朴裕河起訴批判」の反批判者たちが決して論理的とはいえない「感情論」を乱造して自らつくり出している』と記されるのは、根拠が省略され過ぎているように感じます。
例えば、鄭栄桓さんの下記のご意見は「感情論」でしょうか。
『今回の事件の出発点はあくまで女性たちの告訴から出発していることを忘れてはならない。「ナヌムの家」の女性たちは適法的な手続きあっを経て告訴したにもかかわらず、論点を(おそらくはあえて)誤導する日本のメディアや学者と、正義を果たさない検察のために「言論弾圧」への加担者の汚名を着せられているのである。女性たちは二重の被害にあっているといえよう。
[中略]
朴裕河の説明によれば、刑事告訴取り下げの可能性はゼロではなかったようである。検察の報道資料によれば、民事の判決が出た後の4月から10月にかけて「刑事調停」が行われた。この制度は日本にはない韓国独特の制度で、民事上の争いの性質を持つ刑事事件について、告訴人と被告訴人が和解に至るよう各分野の専門家らが検察庁に設置されている「刑事調停委員会」で調停を行う制度である。調停が成立すれば不起訴処分または軽い処罰を受けるようになる。
だが調停による「和解」は成立しなかった。「ナヌムの家」側の資料を私は知らないので、ひとまず朴裕河の説明によれば、「和解」のために女性たちが求めたのは下記の三つであったという(「渦中日記 10/22-2」)。
1.謝罪
2.削除要求部分を○○○と表示した韓国語削除版を他の形態で出すこと(○○○表示が削除された内容を「間接的に」表現している、というのが彼らの主張だった)
3.第三国で出す本も韓国で削除された部分を削除すること
だが、1と2はともかく3は受け入れがたいということで朴は拒否し、結果として調停は不成立となった。「日本語版は翻訳でもなく、独自に出した本であるから権利もないのみならず、こうした要求を私が受容し日本側出版社に要求すれば笑いものになるだけだと考えたため」拒否したとのことである。
[中略]
また、当事者たちが納得しなかった背景には、34ヶ所伏せ字版の問題も関わっていると思われる(2の要求)。私は伏せ字版が出版された直後に韓国から同書を取り寄せたが、本の帯をみて少なからぬ衝撃を受けた。削除指定箇所を「○○○」と日帝時代を連想させる伏せ字にしており、帯には「21世紀の禁書!」「私は、心から○○○○○○○○○○○○を望む!」(この表現は本文にはない。帯のみの宣伝文句である)と書かれてあったからだ。朴裕河を言論弾圧(禁書!)の被害者とみなし、あえて帯に挑発的な惹句を記している。韓国の書店の様子を知人に聞いたところ、伏せ字版は平積みであったという。これでは民事で勝訴したといえども、被害者たちの気持ちが晴れることはないのではないか。それどころか、言論弾圧の加害者扱いをされている。民事で終わっては名誉毀損状態が終わらないと考えたとしても仕方がない状況と考える。
国家権力による「歴史観」の取締事件として単純化できないことは、以上からも明らかであろう。刑事調停の和解が成立せず、かつ被害者たちが刑事告訴を取り下げなかった背景として、最低限以上のような民事の判決後の状況は共有されるべきであると考える。もちろん、『帝国の慰安婦』による名誉毀損が刑事罰をもって制裁すべき程度のものかどうかという論点は残っており、この点についてはその他の争点も含めて韓国の司法が判断するであろう。』
朴裕河氏の在宅起訴問題について――『ハンギョレ』インタビューの補足
http://kscykscy.exblog.jp/25144573/
上記を「感情論」と評価されず、前田朗さん以外で代表的な「感情論」を記されないなら、前田さんの主張の正否に限定されて、『「朴裕河起訴批判」の反批判者たち』との複数形で、『決して論理的とはいえない「感情論」を乱造して』いるなどと記さないでいただけたらと思います。
例えば、鄭栄桓さんの下記のご意見は「感情論」でしょうか。
『今回の事件の出発点はあくまで女性たちの告訴から出発していることを忘れてはならない。「ナヌムの家」の女性たちは適法的な手続きあっを経て告訴したにもかかわらず、論点を(おそらくはあえて)誤導する日本のメディアや学者と、正義を果たさない検察のために「言論弾圧」への加担者の汚名を着せられているのである。女性たちは二重の被害にあっているといえよう。
[中略]
朴裕河の説明によれば、刑事告訴取り下げの可能性はゼロではなかったようである。検察の報道資料によれば、民事の判決が出た後の4月から10月にかけて「刑事調停」が行われた。この制度は日本にはない韓国独特の制度で、民事上の争いの性質を持つ刑事事件について、告訴人と被告訴人が和解に至るよう各分野の専門家らが検察庁に設置されている「刑事調停委員会」で調停を行う制度である。調停が成立すれば不起訴処分または軽い処罰を受けるようになる。
だが調停による「和解」は成立しなかった。「ナヌムの家」側の資料を私は知らないので、ひとまず朴裕河の説明によれば、「和解」のために女性たちが求めたのは下記の三つであったという(「渦中日記 10/22-2」)。
1.謝罪
2.削除要求部分を○○○と表示した韓国語削除版を他の形態で出すこと(○○○表示が削除された内容を「間接的に」表現している、というのが彼らの主張だった)
3.第三国で出す本も韓国で削除された部分を削除すること
だが、1と2はともかく3は受け入れがたいということで朴は拒否し、結果として調停は不成立となった。「日本語版は翻訳でもなく、独自に出した本であるから権利もないのみならず、こうした要求を私が受容し日本側出版社に要求すれば笑いものになるだけだと考えたため」拒否したとのことである。
[中略]
また、当事者たちが納得しなかった背景には、34ヶ所伏せ字版の問題も関わっていると思われる(2の要求)。私は伏せ字版が出版された直後に韓国から同書を取り寄せたが、本の帯をみて少なからぬ衝撃を受けた。削除指定箇所を「○○○」と日帝時代を連想させる伏せ字にしており、帯には「21世紀の禁書!」「私は、心から○○○○○○○○○○○○を望む!」(この表現は本文にはない。帯のみの宣伝文句である)と書かれてあったからだ。朴裕河を言論弾圧(禁書!)の被害者とみなし、あえて帯に挑発的な惹句を記している。韓国の書店の様子を知人に聞いたところ、伏せ字版は平積みであったという。これでは民事で勝訴したといえども、被害者たちの気持ちが晴れることはないのではないか。それどころか、言論弾圧の加害者扱いをされている。民事で終わっては名誉毀損状態が終わらないと考えたとしても仕方がない状況と考える。
国家権力による「歴史観」の取締事件として単純化できないことは、以上からも明らかであろう。刑事調停の和解が成立せず、かつ被害者たちが刑事告訴を取り下げなかった背景として、最低限以上のような民事の判決後の状況は共有されるべきであると考える。もちろん、『帝国の慰安婦』による名誉毀損が刑事罰をもって制裁すべき程度のものかどうかという論点は残っており、この点についてはその他の争点も含めて韓国の司法が判断するであろう。』
朴裕河氏の在宅起訴問題について――『ハンギョレ』インタビューの補足
http://kscykscy.exblog.jp/25144573/
上記を「感情論」と評価されず、前田朗さん以外で代表的な「感情論」を記されないなら、前田さんの主張の正否に限定されて、『「朴裕河起訴批判」の反批判者たち』との複数形で、『決して論理的とはいえない「感情論」を乱造して』いるなどと記さないでいただけたらと思います。
2015/12/11 Fri 18:44 URL [ Edit ]
東本高志
鄭栄桓さんの「朴裕河氏の在宅起訴問題について――『ハンギョレ』インタビューの補足」記事は私も読んでいます。鄭栄桓さんの論は論理的なもので「感情論」とは私も思っていません。私が違和感を感じている論者は前田朗さんのほかにも数名いるのですが、ここでは前田さんの論だけをとりあげることにしました(「論」は読んでいるもののよく知らない人たちを名指しで批判するのは憚られるところがありますので)。決して「前田朗さんとのやりとりだけを基に」しているわけではありません。
2015/12/11 Fri 19:32 URL [ Edit ]
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