私はけっこう、戦争を扱う映画については辛口で評価する。
というのも、どうも人間は、事実を知ったらそれで満足してしまう傾向があり、事実をどういまの自分に活かすかを考えないからである。
杉原千畝の、1940年という、もう75年前に行ったできごとを賛美することで、
「いくらすごいことでも、75年前のことで、いまは関係ない」
と人々に思わせてしまう効果がある。
事実、杉原千畝の功績が日本国外務省から評価されたのは2000年、千畝のビザ発行からなんと60年も経ってからなのである。
河野洋平が言ったのも、その根底に「いくらすごいことでも、60年前のことで、いまは関係ない」という慢心があったものと、私は考える。
だから、映画のデキとしては5点中4点くらいなのであるが、戦争を過去のものにしたい為政者側の意図を私は感じ取って、3点とする。
杉原千畝という人については、興味が出てWikipediaで調べた。
が、映画にある通り、1940年のビザ発行が単発で、その後の人生はさほど世界に影響を与えていないように感じる。
1940年のビザ発行、その後の外務省からの圧力、などを超えて、さらにその上を行く強烈な手を次々に加えられていれば、千畝も真に世界を変えられたのではと思ってしまう。
千畝は有能なスパイとして描かれているけれども、千畝の動きは私から見たら想定の範囲内で、物足りない。
Wikipediaから引用すると
”外務省退官からしばらくは、三男を白血病で失い、義理の妹・菊池節子(ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。”
とあり、長年の夢であったモスクワに在住する道を選んだことが理解できるけれども、千畝がモスクワに在住することはあくまで手段であって、世界を変えることが真の目的だったはずだ。
そうすると、貿易に専念するよりも、自分の人生経験や考えを基にして世界に発信する方法はなかったのか?
そう考えると、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局と、人に対して発信できる職について発信し続けてきたとはいえる。
ならば、どうして千畝は人に対して発信することを諦めてしまったのか?
人類を信用することを諦めてしまったのか?
1940年の事実だけでなく、日本政府に背く決意をした千畝がどうしてこのような変遷を辿るに至ったかに迫るほうが、映画として説得力があったのではと、私は考える。
千畝は真実を後世に残したいと考えていたはずで、少なくとも、千畝は日々世界について考えることを文章にしたため、遺しているはずである。
それはいまの日本政府にとってあまりにも過激であるという理由で、まだ日の目を見ていないのではないだろうか。
ちなみに、リトアニアから去るSLのシーンで、小さなSLが出ていたが、私の記憶では、ドイツのブロッケン山のSLのように見えてしまった。
検索して見たら違うかなあ・・・いや、そこまで記憶に整合性がないけれども。
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