家康の「伊賀越え」、宿泊は寺 滋賀・甲賀の郷土史家、資料発見
1582(天正10)年6月の「本能寺の変」で、徳川家康が滞在先の河内国四條畷から本拠地の岡崎城へ逃げ帰った「伊賀越え」の際、小川村(甲賀市信楽町)の妙福寺に泊まったことを示す記述が浄土宗寺院の資料にあることが、郷土史家の相楽貞喜さん(82)=同市信楽町小川出=の調査で分かった。通説では家康の警護をした地元の武将多羅尾氏の小川城に泊まったとされてきたが、専門家も「極めて信頼性が高い」と評価している。
資料は増上寺(東京都港区)の「増上寺史科集」(1980年発行)と、知恩院(京都市東山区)の「浄土宗全書」(78年発行)。両書は1696(元禄9)年に徳川幕府が全国の浄土宗寺院に提出させた「浄土宗寺院由緒書」が基になっており、国内の東を増上寺、西を知恩院が分担して調査結果をまとめて幕府に提出し、同じものを一部ずつ両寺が所蔵した。
この中で「阿彌陀寺末寺 江州甲賀郡信樂小川村 妙福寺 天正十年六月此寺ニ権現様御一行宿」との記述があった。「権現様」は家康のことで、「天正十年六月」とあることから、伊賀越えでの宿泊とみてほぼ間違いないという。
相楽さんは、地元の菩提(ぼだい)寺である清光寺の沿革を2013年2月から2年以上にわたり調べていて偶然、記述を見つけた。妙福寺は現存しないが、複数の資料から存在したことは確実で、地元の観音堂には1846(弘化3)年奉納の妙福寺と書かれた額もある。
本能寺の変は、家康にとって生涯最大の危機とされる。小川城は山城だが、多羅尾氏の城だったことから家康の宿泊先と伝えられたとみられ、歴史書やガイド本でも紹介されている。小川村集落は城の北側の麓にあった。相楽さんは「山城に泊まるとみせかけて麓に泊まる家康の慎重な性格がうかがえる」と話し、資料について簡単な冊子にまとめ、知人らに配布した。
小川城跡を調査したことがある中井均滋賀県立大教授(日本城郭史)は「中世の山城で人が生活できる場所はないため家康は泊まっていないと思っていた。戦国武将が寺に臨時に泊まるのは当たり前だった。幕府が命じて作られた資料なので極めて信頼性は高く、貴重な発見だ」と話している。
【 2015年12月31日 16時40分 】