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【伝言 あの日から70年】運命を変えた学童疎開 40万人超 戦争が招いた影
来年8月15日、私たちの社会は戦後70年を迎えます。1年前の今年、終戦1年前の1944年のできごとを、人々の思いとともに紙面に刻んでいくことにしました。戦争がもたらす多様な影を浮き彫りにしたいという思いからです。初回は、70年前の春に政府が決めた「学童疎開」です。(秦淳哉) 今からちょうど七十年前の一九四四(昭和十九)年春、政府は都市の子どもたちの運命を大きく変える一つの決定をした。地方に一時的に移住させる学童疎開。太平洋戦争の戦況は悪化の一途をたどり、本土空襲の恐れが迫っていた。 「元気で行ってまいります。帝都の守りをお願いいたします」。その年の八月二十五日夜、東京都荒川区の第一日暮里国民学校校庭に一人の児童の声が響いた。大勢の父母が見守る中、号令台の上であいさつに立ったのは当時六年生、十二歳の小林奎介(けいすけ)さん(82)=さいたま市。この日、学童集団疎開に向かう三年生から六年生計二百五十人のために出発式が開かれていた。 「当時は空襲の本当の怖さを知らなかった。汽車に乗ることがうれしくてはしゃいでいた」
上野駅を出た夜行列車が翌朝に着いたのは福島県熱海町(当時、現在の郡山市)。山あいに温泉宿がぽつんぽつんと立つ。空には低く垂れ込めた灰色の雲が広がっていた。出迎えたブラスバンドの演奏による熱烈な歓迎とは対照的に、不安な気持ちが膨らんだ。 児童らは四軒の旅館に分散して宿泊した。長旅の疲れから物思いにふけったり、両親へ手紙を書き始めたり。六年生を班長に五〜八人ごとに分かれて部屋に入ると夜には親に会えない寂しさから下級生が泣き始めた。 文部省(当時)のこの年九月時点のまとめで、学校単位の集団疎開をした児童は四十万人以上。個人的なつてを頼った事例などを含めれば体験者は倍近くに上る可能性もある。疎開先で慢性的な食料不足や不衛生的な環境、いじめに苦しんだ児童は多い。その傷は七十年たった今も胸に残る。 小林さんの生活もこの日、一変した。 ◆待っていたのは 飢え いじめ疎開先の福島県熱海町(現郡山市)では、午前中は宿泊先の旅館で自習し、午後は地元の国民学校で授業を受けた。しかし徐々に食料不足が深刻となり、当時十二歳だった小林奎介さん(82)の頭に浮かぶのは食べ物のことばかりとなった。 「今日もダイコン、明日もダイコン、みんな合わせて大ダイコン」。ダイコンばかりの食事にへきえきし、通学途中にみんなで大声で歌った。最初はおやつに出ていたサツマイモもいつしか主食になった。空腹から農家の軒先にある干し柿や干し芋を盗む児童も出た。 一番の楽しみは父母との面会だが、小林さんの両親が来ることはなかった。父は農機具製造会社の工員だが、戦時中の仕事は軍需品製造に様変わりした。月給は百円近くだったとみられるが、疎開児童一人につき月十円支払う必要があり、弟と二人の疎開は家計を圧迫した。 「菓子を持って面会に来た友達の親を見て悔しかった。書いた作文が一等賞になり、旅館のおかみさんが特大の餅をくれた時は本当にうれしかった」。この餅もその日のうちに別の児童が盗んで食べてしまう。食料をめぐる争いは激烈だった。 半年後の一九四五年二月二十五日、中学進学のため東京に戻ったが、卒業式を行うはずの校舎は三月十日の東京大空襲で燃え、四月には自宅も焼け落ちた。迎えた八月十五日の終戦。焼け野原の東京を見て思った。「空襲被害を避けるのが疎開の目的だったはず。何のための疎開だったのか」 苦学して大学卒業後、会計事務所に勤務しながら学童疎開の資料を独自に収集した。現在は「学童疎開資料センター」(東京都港区)代表を務める。書庫を埋める一千点超の資料からは、学童疎開を問い続ける思いがにじむ。「戦争は僕らの世代だけでたくさんだ。資料を現代の子どもたちが活用してほしい」
◆「赤い雪二度と降らせるな」 漆原さん漆原智良(ともよし)さん(80)=東京都羽村市=も、疎開体験を胸に刻んで生きてきた。「戦争体験、いじめ、虐待。子どもたちに向けて書くべきことがたくさんある」。五十四歳のとき、教諭を辞めて童話作家になった。 浅草・千束通りにあったたばこ屋の長男。四四年七月、十歳の時に福島県猪苗代町にある父方の祖母の家に身を寄せた。 別れ際、父は「真面目に生きれば必ず道は開ける」と励ましてくれた。ところが、待っていたのは地元の子どもたちのいじめだった。学校では食料を確保するための農作業が続き、班ごとにイナゴ捕りを競う。当時は貴重なタンパク源。しかし都会育ちの漆原さんは跳びはねるイナゴをうまく捕まえられない。 木綿の袋に他人の半分しかイナゴを捕まえられず「おまえのためにうちの班が負けた」と責められた。「残り半分は自分で食べたんだろう。そんなに食べたければ食べさせてやる」。生きたイナゴを口に押し込まれた。 「(学校単位の)集団疎開のほうが良かった」。手紙を書くと四五年二月末に東京から父が飛んできた。「集団疎開はおまえが思う以上に厳しい。食べ物は少なく、洗濯もできずにシラミに泣かされているんだぞ」。東京では連日の空襲ですでに多くの死者も出ていた。東京に戻るため、雪道を駅まで歩く父が漏らした言葉がいつまでも耳の奥に残った。「東京に降る赤い雪は人の命を奪う。福島の雪は白くていいな」 十日余り後、東京大空襲で父は亡くなった。遺体も残らなかった。妹と一緒に父方の祖父に引き取られ、中学卒業前から職人の奉公や電器店で仕事を始めた。夜間の大学を卒業し、教壇に立った。 著書は二百冊近く。今も疎開にこだわるのは「赤い雪を二度と降らせてはいけない」との思いからだ。 ◇
◆鬱憤「よそ者」に向けられた 武之内さん武之内みどりさん(81)=東京都町田市=は二〇〇三年から年一回、集団疎開した宮城県の佐沼小学校(当時佐沼町、現在登米市)で疎開体験を語る。 四四年九月から約半年間過ごした佐沼では近所の人がお汁粉をごちそうしてくれたこともあった。しかし四五年春から家族で身を寄せた、母の郷里の長野県武石村(当時、現在の上田市)での疎開生活はつらかった。クワを担いで登校し、農家の勤労奉仕に駆り出されると、担任の先生は「村の子どもと同じ作業ができない」と怒鳴って、顔をひっぱたいた。「東京でぜいたくしたばちが当たったんだ」と下校途中に地元児童から青梅を投げ付けられ、泣きながら帰ったこともある。暗い戦時下の暮らしの鬱憤(うっぷん)は「よそ者」「疎開人」に向けられた。家で飼っていたヤギに語り掛ける時だけ、心が和んだ。 佐沼小の子どもたちには「過去をよく学んでほしい」と語りかける。「人の命と思いやりの大切さを知ってほしいんです」 ◆体験談、問い直す意義 青木哲夫さん(67) 元豊島区郷土資料館社会教育指導員一九四四年三月三日に政府は疎開推進の要綱を決定し、六月三十日には集団学童疎開実施を正式に閣議決定した。それまでも実施されていた親族を頼る「縁故疎開」を原則としつつ、疎開先がない児童は学校単位で「集団疎開」することになった。集団疎開の対象は国民学校初等科の三年生から六年生だった。背景にはいずれは本格的な本土空襲が始まるとの判断があった。しかし表向きは、「次世代の戦力維持」や「都市の防空活動を円滑に行う」など前向きな目的が強調され、「避難」とは位置づけなかった。 対象都市は東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の十三都市。その後、京都、舞鶴、広島、呉の四都市が追加された。さらに空襲の地方拡大とともに、集団疎開を実施する地方都市も増えた。四五年三月には一、二年生も集団疎開の対象に加わり、疎開した児童総数は四十万人とも七十万人ともされるが正確には分かっていない。当初は幼い子どもを手放すのに忍びなく、親元に残す家庭も多かった。 安全上の見地から疎開先の宿泊は温泉地の旅館や農村の寺などが多かった。食料は全般的に少なく、児童は飢えに苦しみ、食料確保のため農作業も行った。千葉や静岡など太平洋岸に疎開した児童は、米軍の本土上陸作戦を恐れ、さらに別の場所に移る「再疎開」も経験した。再疎開は傷痍軍人の療養施設に明け渡す目的でも行われ、生活条件はさらに悪化した。 親への手紙は検閲され、弱音を吐くような内容を書くのは禁じられた。シラミやノミが発生し、衣服の煮沸や頭髪を短くして対応した。集団生活の中でいじめもあり親に会うために脱走する児童もいた。 疎開で空襲を逃れた側面がある一方、子どもが飢えや不安にさらされた点を認識する必要がある。ひとたび戦争が起きれば子どもに大きく影響を与える。この点で学童疎開は戦争を考える上で今も大きなテーマだと言える。 PR情報
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