星空文庫

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機械天使

機械天使

 見えない高い空のどこか彼方から、機械の音だけがそっと、だけど重たく、胸に響いてくる。
 機械天使たちの楽園が、そこにあるという。
 
 
 
第一部
 
 ――M。
 僕は毎晩、どれだけあの甘い名前の響きを反芻したろう、心の中で。
 M。
 その名前を今はもう呼ぶことができないなんて。
 M、……M……
 
 
 
一.学園
 
 ……ん…… ……呼……ん……だ?
 今、私の名前、呼んだ?」
 空を、薄いシルエットの飛行機が流れて行く。
 飛行機雲が直線に引かれた空を背景に、窓際の彼女が言った。彼女の少し長い髪が、風に揺れる。
 彼女はノートや筆記用具を片付けているところだ。すぐ隣の席の僕に、目を向けないまま話している。
「え、と……そう。また、数学のことで、わからない所を聞こうと思ってさ。あの、直線と円の所。確か、判別式が……のところ」
 昼休みの、けだるく弛緩した空気が教室に流れ出していた。チャイムの残響が聴こえている。先生はもう退出していた。
「さっきの授業の中でもう一回説明してたよね、それ。また、寝て――」
「ない、寝てないけど……何か、」僕は、少し頭の痛い気がした。「考えていた。いや、少し寝ていたのかもしれない」
「それで、寝ぼけて名前呼んじゃったんだ?」クラス委員の園田が間に入ってきて言った。
「Mの」
「違う、だから俺は――」
 えっ。
 ――M?
 M。エム、えむ?
「お弁当食べよう、M。次、体育だから早めに食べて準備いかないとね」
「昼食の後に体育の授業なんて入れるなだよね。しかも、入試の二ヶ月前になってまだ体育があるってさあ」彼女の周りに何名かの女子が集まってくる。「あらM、また木崎なんて相手にしてんの。行こ」「M、そう言えば今度の模試の……、……」
 やっぱり、彼女の名前が聴こえない。「M」としか。
 絵夢、とか? いや違う、そんな名前じゃなかった。イニシャル・M。そうだった気もするけど、名字、いや名前か。真里。真紀。麻衣、麻衣子……どれも、少し違う気がする。M。思い出せない彼女の名前。
 そもそもどうしたことだろう。
 誰かが彼女を呼ぶとき聴こえるノイズのような「M」。妙に抑揚のない、平べったい声……声というよりも、ただ機械音のような。M……そこには彼女の名前があったはずだ。
 彼女は今、もう姿が見えない。女友達と、弁当を持って屋上へ行ったのだろう。
 僕は一人で空を見ている格好だ。
「ふふ。受験ノイローゼ」後ろで声がした。野口だ。僕はそっちを振り向かない。
 空にかかっていた淡い直線はもう、すっかり消えてしまっていた。
 コォコォ……と、姿の見えない飛行機の音だけがかすかに残っていた。
「おい? どうした末期か。自殺でもするんなら、せめて屋上でしてくれよな」
 屋上へは行けない。屋上には彼女がいる。僕には、彼女の名前が呼べない、思い出せないのだから。
 僕はそっと、口に出してみる。
「M」
 機械の音。
 僕の中からも、機械の音がする!
「おお? お前さぁ。そんなに好きなわけ?」野口のメガネが、僕をのぞきこんで言う。「そっとあの子の名前を呼んじゃったりなんかしてさぁ」
 そのレンズに映っている僕の顔は、少なくとも機械の顔ではない。冴えない、眠そうな、どこにでもいる受験生……
「お前なあ」野口は、真面目になって言う。
「この時期あんまり受験以外のことで悩んでいるとな、入れるとこにも入れんぞ? ま、確かに、追い込みのせいか終わりが近いせいか、この妙なテンションのおかげで、よそのクラスじゃカップルどもが続々誕生してもいるらしいけどなっ。はぁ。
 でもとにかくMだって」
 また、機械の音。
「言っているんだろ? こんな時期につき合うなんて考えられないってさ。ま、俺たち進学科さ。当然と言えば当然だな。お前もへたれてんじゃねえよ。Mと同じ大学入るんだろが。そしたらさ……」
 僕は野口から顔をそらして、窓へ乗り出した。
 もう飛行機の音は聞こえない。
 でも僕の中で、機械の音が。カチカチカチカチ。
「しかし、進学科の俺たちにも体育は」メガネは話し続けていた。「あるんだよねぇ。なしにしろよなぁ。ったく、進学クラスの俺たちはさ、本校の実績向上のために貢献する必要があるのだから、どうでもいい科目はやめにしてほしいと前々から、……」
 カチカチカチカチ……
 
 
 
二.恋人たちの遊園地
 
 
 ――M。
 僕は君の名前を呼べなかった。
 心の中では、何度も呼びかけたはずだった。
 M。
 だけど現実の中で君をそう呼んだことは、もしかしたら一度もなかったのではないだろうか。声に出してしまうとその響きは、強すぎて、脆すぎて、……
 M。M……
 
 
 *
 
 
 M
 とサインのある、その小さくくるめられた置き手紙には、
「遊園地で」
 と書いてあった。
 下校の前、彼女が僕の机に置いていったのだ。
 僕は下駄箱でメガネの野口と別れた後、それを見た。下駄箱を出て、グランドや正門のある方へは向かわずに、校舎の裏手に歩き裏門を出た。
 
 
 M
 彼女が書いたはずのその文字。「遊園地で」とある四文字の方は、綺麗だけどちょっと丸みがあって人間味のある、まさに彼女らしい字なんだけど、その「M」の文字だけは、まるでそれだけわざわざタイプライタで打ちつけたみたいな。行儀の良すぎる英字のフォントみたいだけど、こすると鉛筆で書かれているのがわかった。
 下駄箱の彼女の名前も、教室の成績順位表にある彼女の名前も、「M」とだけ。同じように、機械的な、「M」。かき消えてしまった、彼女の名前。
 浅い林を抜けると、学園の裏に広がる湖。それに沿う道を歩いていく。向こう岸に、観覧車が見えている。この観覧車は、校舎の二階より上の廊下の窓からなら必ず見える。高さ二二〇メートルという、観覧車としても最も高い観覧車なのだと。
 僕らの学園は、裏手を大きな湖が囲うようにして広がっていて、その湖を更に囲うように長大な遊園地が存在する。遊園地は、端から端まで歩くのには何時間とかかるほどだ。アトラクションでもある汽車やら馬車やらが、園内の移動に使われている。どうしてこんな馬鹿でかいものを作ったのだろう。徐々に増築されて数キロ先の海の方にまで伸びていった。古い、由来もわからない遊園地は、とにかく僕らの間では「恋人たちの遊園地」と呼ばれていた。沢山の学生たちがデートに使っているので。もちろん家族連れから年配まで来場者も多く、何と言ってもこの広さだから、学生のカップル同士が鉢合わせたり目撃されたりなんてこともそうそうはないらしかったけど。
 小さい頃は両親に連れられ何度か行った記憶がある。しかし、「恋人たちの遊園地」などと聞くようになる年頃には、もうとんと縁のない場所だった。進学科の連中は、それを蔑称のように使ってさえいた。M……彼女も、その遊園地に誰かと行ったなんて話は一回も聞いたことはない。
 湖畔の道を半ばまで来た。ベンチや外灯が並んでいる散歩道だが、誰もいない。遊園地から音楽が小さく響いてくる。体育の時間のマラソンのせいで、足が痛い。
 それにしても野口は、体育を存分に楽しんでいたではないか。あんなことを言っていたけど、あいつは夏まで陸上部だったのだ。
 マラソンのコースは、正門から旧商店街の方へ出る。街は、遊園地や海岸の方に発展しているけど、正門の方は山の方に向いていて寂れた場所が多い。走行距離が男子の半分で済む女子は、僕らより早く授業が終わってそのままもう放課になっていた。男子が汗だくになってグランドに戻ってくる頃、クラスの女子はもう長袖のブレザーに着替えて下校していくところだった。
「あれ? 木崎じゃん。もしかして足遅い? 野口君もうゴールして教室の方向かってたよ。親友なのに冷たいよねー」
「木崎君、頑張って。もう少し。園田ちゃん、でも木崎君、水泳は速かったんだよ……中学生の頃に、彼、水泳部で……」
「へえ初耳。だけど水泳部だって基本的な運動能力はあるはずでしょ……だったらこんな後ろの順位なんて……」
「でも……まあ今は受験だし。勉強の順位はそこそこだし……」「私より悪いけど……」
 園田や棚瀬さんらの声が後ろに遠ざかっていく。正門の方に出ていく、そのグループの中に、彼女はいなかった。
 僕はその時、まだ手紙を読んでいなかったわけだけど、何となく思ったのだった。ああ、彼女は裏門を通って遊園地へ行ったんじゃないかって。そこで、僕を待っているんじゃないかって。待っている。誰が。――M……また、機械の音……カチ、カチ……
 
 
 
三.遊園地で
 
 
 ――M。
 君は僕に、その呼び方を教えてくれようとしていたのかも知れない。でも僕に、呼びかける勇気はなかった。
 眩しい世界の表面で、怯えていた僕に。
 M……
 
 
 *
 
 
 M
 ……は、僕を待っていた。
 僕は、Mと出会った。「恋人たちの遊園地」で。
 その場所で彼女と会ったということが、どこか、まるでそれを初めての出会いのように思わせて。  
 彼女は制服のまま、何色もの柱の立っている、遊園地の入口で待っていた。無論、僕も制服のままで、思ってみればそのことに少しためらいが感じられたけど、彼女の方は堂々としていて、ふたりはそのまま遊園地へと入って行った。
 一体どれだけぶりに来たろう。中学のときに二、三度は来ていると思うけど、それも入りたての頃に、水泳部の友達とプールを使用したくらいだ。
 アトラクションや乗り物となると、更に遡って、小学校のとき以来になる。
 年月が過ぎたためか、あの頃きらびやかだったものはどれも古びて見えた。ジェットコースターの階段は錆びてぎしぎし音をさせたし、建物の壁はあちこちはがれ落ちている。それだけじゃない、何もかもが白々しく思えた。
 だけど、彼女は笑顔で、楽しそうに見えた。彼女は、これまでも誰かとここに来ていたのだろうか。幼い少女のように軽やかな足どりで、迷うことまで楽しむように、遊園地を回っていた。彼女はどうしてこの世界の中でこうして笑い、遊ぶことを知っている。
 僕は楽しみ方さえ知らなかったのだ。彼女についていく足どりはぎこちなく、自分という人間が、ここにひどく場違いにも思えた。
 僕は、この地方の公務員になると漠然と決めていた。この地方の国立大を出て。君もずっと前から同じように地元の国立大に行くと言っていたのに、都会の大学へ行くかもしれない、と、この一ヶ月くらい前にふと言った。
 遊園地の中心で響く音楽は繰り返しの単調な曲で、疲れたオモチャの鼓笛隊のようだった。遠くから見れば壮大で豪勢に見える観覧車も、近づくと、錆びて色も褪せていた。何だか全てが色あせてしまった世界。だけど、今はそれらを馬鹿馬鹿しくは思わなくっていた。おそらく彼女といることがそうさせていたのだろうか。制服のままで、ときどき誰かに見られた気がしてたのも、嘲笑われているように思えていたのも、気にならなくなっていた。
 だけど、彼女は僕に何か告げようとして ここへ誘ったのだったか。それは多分、いい言葉ではなく……?
 でも、遊園地を回る間、不思議なことと思えるかも知れないが、僕らは、ほとんど会話と言えるような会話はしていなかった。彼女は、とてもはしゃいでいたようだけど、特別意味のあるような言葉などは一つも言ってはいなかった。ただこうして意味などなく、いるだけでいいのだとさえ、僕も。だけど……。国語の読解問題や、数式や証明の中で、僕はいつも意味や答えを求めてきた。それは無論、どうでもいいことではない。僕のこれからのために。受験は、あと二ヶ月でやって来る……それが終わればMとも……M、M……機械の……音……
 
 最後に乗った観覧車でも、僕らは、やっぱりとりとめのないようなことしか話さなかった。僕も、そういう会話に少し慣れてきていた。
 てっぺんでは、遊園地の果てに広がる海が見えた。遊園地は広い。そのいちばん向こうは、もう海。あんな海まで、遊園地は続いているのだ。こんなだだっ広い遊園地を、また、ただどこまでも広がる海が取り囲んでいる……
 夕暮れ前の海は、まぶしく、輝いて見えた。
 
 観覧車を下りると、もう日は暮れ始めてて、でも、彼女は一言、
「海の方まで行ってみようよ」


 
四.帰り道
 
 汽車は、使わなかった。おとぎ話の国の汽車にだって、今だけなら乗れたように思うのだけど。
 遊園地の中心から、果ての海の見えるところまで、一時間ほども歩いた。色んな、人形やらオモチャやらのみやげもの屋や、レストラン街が続き、それらにぽつぽつと灯かりがともり始めた。会話はほとんどなかった。
 やがて海にたどりついたとき、ちょうど日の沈むところだった。湾には船が浮かび、ここから見える半島の先の港や灯台にも、灯かりがともっていた。
 小さな水族館があり、半時ほど回って出ると、もう完全に日は暮れていた。
 水族館の中はやけに暗く、人は誰もいなくて、僕らふたりも知らない種類の魚になったような気持ちで、古いひんやりとした海を泳いだのだった。出口の消えかかった電球が、僕らの光だった。
 
 帰り道、僕は急に楽しい気持ちになってきた。寂しい海から上がって、潮の匂いのする寂れたあたりを抜けてきた生きものを、段々色づいていく世界が迎えてくれる。
 夜の遊園地は色とりどりに姿を変えていた。ちゃちな昼間の音楽は、何重もの楽器の演奏に変わっていた。剥がれ落ちたり錆びたりした色も今は見えなくなって、ネオンがあちこちで咲いて舞っていた。屋台は、香ばしい匂いを漂わせていた。
 だけどメリーゴーランドに乗っていた最後の少女と少年が、誰かに促され下りると、音楽は止まって、やがて灯かりも静かに消えていった。
 振り返れば、遠ざかる中心の方でも灯かりは消えていき、音楽も小さくなっていった。もう出口は見えていた。
 何か軽いものでも食べようかと、僕があたりを見回す。と、彼女は一際小さな屋台を指していた。近付けば、金魚の絵が描いてある。十二月の夜風が吹く中、季節にもこの遊園地にも不釣合いすぎる、金魚掬いの店に立ち寄った。
 金魚はどれも皆、冷たい水の底で動かずにじっとしていた。お爺さんなのかお婆さんなのかも判別付かない屋台の老人も、風に晒され縮こまっていた。
 僕は赤い金魚をようやく掬い上げるも、底の方まで掬い網を浸してしまったせいで、お碗に入れる前に破けてしまった。金魚は水には戻れず脇の地面に落ちて、びちびちとはねた。老人は、その金魚を袋に入れて持たせてくれた。
 
 遊園地は終わった。
 遊園地のネオンが遠ざかると、すっかり、闇が街を包んでいた。それはまた、僕らを心地良い水の中にいるみたいな気持ちにさせた。彼女は少し嬉しそうで、僕も、足どりがとても軽い。華やいだ音楽もまだ耳の奥に鳴っていた。けれど、そのリフレインもいつしか去ってしまった。
 僕らは、丘の前に来た。ちょっとした小山になっているこの丘を迂回した向こうが住宅街だ。僕の家はそこにある。彼女の家は、もう少し、街の外れの方へ向かう。この丘を越えれば、そこでお別れだった。
 僕は思い切って、彼女の名前、を呼ぼうとしたけど……そのとき、彼女は、薄い電灯の明かりの下で振り向いて、
「一緒に、丘に登ってから、それから帰ろう」
 
 
 
五.機械が
 
 丘の上は、小さな公園、とまでは言えないほどだが、ベンチがあってほんのちょっとした休憩所になっている。緩やかな上り道は、所々、外灯が照らしていた。時間は夜の八時前。夕飯を食べ終え、勉強机に向かっている真っ最中なはずだった。いつもなら。
 丘の上は人一人となく、冷たい風が頬をそっとなでた。丘の縁まで行くと、夜の街が一望できた。丘陵の下、商店街にはまだちらほらと明かりがともっているのが見え、林に囲まれた校舎も薄っすらと見える。街全体が、満天の星空を映した鏡みたいに、様々な光で満ちている。港も輝いていて、海には、夜行船だろうか、遠い星のように小さく揺れている。
 遊園地の灯かりだけが全て消えていて、街の真ん中にぽっかり穴が空いたように見える。宇宙の真ん中に開いたブラックホール。巨大な重力の穴……。
 僕は目を背けようとするが、横にいる彼女はそれに見入っているようだった。
 どれだけの時間か、そのあと、僕らは丘の草の上にねっころがっていた。
 僕にはやっぱり、彼女の名前を呼びかけることができない。
 夜空に、闇よりもっと濃い、ほんとうの黒の点が浮かび、それが段々大きくなってくる。真っ黒い巨大な影が、コオコオコオコオ……と物凄い音を立てて、僕らの頭上を通り過ぎていく。
 あれは、機械だ。
 夜空を、巨大な機械が通っていく!
 僕は、それを彼女と見てしまった。
 起き上がったときには、街の明かりの全てが消えていた。夜空の星も全て失せ、全くの暗闇の中に、僕たちふたりはいた。彼女の顔も見えなかった。僕らの姿は、影絵のようだった。
 だけど僕は今こそ、彼女の名前を思い出せそうな気がした。いや、今しか。
 だけど。
 コオコオコオコオ……
 機械の音が邪魔をして、
 コオコオコオ……
 僕は、
 コオコオ……
「見て。なんて綺麗なのでしょう。あれがほんとうに機械なのかしら。なんて、綺麗……」
 コオ……
 巨大な機械が遠ざかる音に混じって、僕は確かにそう聞いたように思う。
 今急速度で去っていくその機械の姿は、さっきまでの全ての街灯かりと星灯かりを奪い集めたような、まっ白い光の塊になっていた。それはいつまでも消えないと思われるほど強い光だったが、徐々に小さく、やがて点になっていった。
 機械は完全な暗闇を残した。
 機械が完全に去ったあと、もう、僕の姿も彼女の姿も、全く見えなくなっていた。
 僕らは無言で、丘を下った。
 
 暗闇の中、丘を下りていくと、一つ、やがて外灯の薄い明かりが、二つ、三つと、浮かび上がってきた。
 僕らはずっと無言で、僕はようやく見えるようになってきた彼女の顔も、よく見ようとはしなかった。君はもしかしたらもう。
 あの機械が落としていったのか、微かに、油の臭いが漂って、彼女の甘いかおりも消してしまっていた。やがて僕らは丘を下りた。
 そして何故だろうか、しんと静まりかえっていたのに、さよならの言葉さえ聞こえなかった。
 僕は家に着くまでどれだけ闇の中を歩いたか。
 とても、苦しく長い夜に思えた。
 あの静寂のあと、カチカチ、音は鳴り始め、それはもう止むことを知らないようだった。 
 彼女のことを思い出そうとする度、カチカチ、頭で音が響いたから……。
 
 
 
第二部
 
 
 学園で、制服で遊園地を歩いた進学科生徒のことが噂になっているようなことは、全くなかった。
 彼女とも、時折授業でわからなかったことや試験問題について軽く会話を交わすくらいで、これまでと変わることはなかった。
 そうして遊園地に行った日から一週間もすると、冬休みになった。
 あいかわらず僕には機械の音が聴こえていたし、彼女は「M」のままだった。僕は彼女の名前を見つけられないままだったのだ。「M」。……カチ、カチ、カチ、……
 
 
 *
 
 
 冬休み、きっかり深夜一時まで勉強して、寝る。
 僕の部屋から明かりが消えるのは、だけど、一時を少しだけ回ってからだ。僕は明かりを消すまでの数分間、小さな水槽の、ムナビレの折れ曲がった赤い金魚を眺める。何も考えずに。
 そうしていると、機械の音は消えていって、僕は幾分安らいで眠ることができる。
 
 大晦日・元旦の二日間を除いて、自主参加だが学園では課外授業が続けられていた。僕らの学園の受験前課外は有名で、毎年、学内の受験生の多くが出席する。進学塾代わりに来る学外からの参加者もいるほどだ。進学科の僕は、多くの級友とともに、一年時の頃から受講している。いつも満員で緊張感に満ちていたのだが、今年は空席が目立つ。僕ら進学科の生徒にさえ、来ない者はちらほらといた。彼女もそうだった。
 冬休みは終わり、始業式に顔を見せない者も多かった。
 そして間もなくやって来たセンター試験にも、彼ら・彼女らは来なかったのだ。国立大を受けるには、国のセンター試験が必須だというのに。彼女も、来ていなかった。
 
 これに前後して、学園内、いやこの街全体に妙な噂の広まっているのを僕も耳にしていた。
 
 
 
一.卵
 
 街の西にある市庁舎の屋上に、巨大な「卵」がくっついた、というのが、最初の噂だった。この学園のある区域からは数キロメートル離れたところだ。
 「卵」は文字通り卵色のまっ白で、まっさらで、入口らしきものなどは一切見られない。ひびや傷一つも入ってない。完全な卵型の球体である。こんなことが自然に起こったことなのか、また可能として誰かの仕業なのかさっぱりわからない。庁舎をすっぽり覆ってしまう程の大きさの「卵」。それがビルの屋上に、ぴったりくっついて乗っかっている、といった状態なのだと。動く気配も全くない。
 実際には、年が明けて三、四日目くらいに起こったことだという。
 不思議なことに、こんなことがほぼニュースに取り上げられるようなこともなく、付近の住民も最初驚きいぶかしむ様子でいたが、とくに「卵」に変わった動きも見られないとやがて関心もなくし放置しているのだという。大学の研究者も来た。彼らによると、卵型のそれは実際には何かの卵ということではなく生命反応は見られない。詳細はこれから調べるが、ただの物体であり危険はないのだと。もちろん多くの人が見物に訪れたようで、今も噂を聞きつけた人たちが集まってくる。
 しかし、正月が終わるとそのピークも過ぎ去り、市庁舎も「卵」を乗せたまま普通に仕事が始まっているということだった。屋上は出入り禁止になっており、時々、研究者らが行き来しているのだと。
 学園の生徒にも、とくに受験と関係のない一、二年生は見に行っている者がけっこういたらしい。実際、センター試験明けくらいには、学園は一時その話で持ちきりだった。試験を終えた三年の中にも見に行く者はいて、クラスでも数人の男子がその様子を語っていた。
 僕は気にとめることもせず、すぐ二次試験と、幾つかの私大の勉強に移った。
 クラスは完全に自由登校になったが、僕は毎日通い、教室で勉強した。半数くらいの生徒は付近の住宅街に住んでいるので、同じように来ている者もかなりいたが、別に誰かと話すようなこともなかった。
 一度園田が、彼女……Mと最近、会っているの? と尋ねた。いや、とくに会ってないと言うと、彼女は私大に絞ったと聞いたらしい。「Mなら元気そうだったよ」とだけ返した。
 園田はそっけなく、座席に着いた。「会いたいのでしょう、Mに?」とでも言って、僕をからかうこともしなかった。他の誰も皆、一人で教室へ来て席に着くと、黙々と問題集を解き続けるだけだった。僕も、同じようにして、でも、ただ本当は機械の音を頭からしめだすために……
 
 
 
二.クモの脚
 
 センター試験から一週間もした頃、例の噂の内容が変わってきていた。
 一つは、「クモの脚」だった。
 あの市庁舎のてっぺんにくっついた卵の殻の方々が破れて、クモの脚のような、ぐんにゃり湾曲した、実際には管(くだ)らしきものが出てきているというのだ。それが何本も何本も出てきて、日毎段々地上に近づいてくるのだという。研究者はこれについても生命反応も危険もないと判断した。人々はまたその内に無関心になった。僕は、どうでもよかった。
 だが二つ目の内容には、僕を少し戸惑わせるものが含まれていた。
「卵」は今、市庁舎だけじゃなく、あちこちで現れているという。たとえば南総合病院や、山の麓の老人ホーム、顕微鏡センターなど、十箇所を越えている。容易く設置されるような代物ではない。しかしそれは人々が目を離したほんのわずかの時に、出現しそびえ立つのだ。
 いや、そんなことくらいならまだ、別に僕はどうってことなかった。
 だけどある昼休み、野口がえらく慌てて何か言うのでついて行くと、屋上から見えたのだった。噂の「卵」が、僕のこの目で。しかも、とうとうあの場所に。
 二百二十メートル、あの観覧車のてっぺんに乗っかるように、それはまさしく巨大な「卵」で……
 
 僕と彼女が、ふたりっきりで遊園地を歩いて行く。中心へ向かって、ひたすら歩いて行く。黙々と。そこには、全ての光を奪ったあの真っ白い光がある。
「木崎君。私はあなたにこれを見せたかったの。わかるでしょう。これは、卵よ。一緒に、行きましょう。永遠に帰っていきましょう、この卵の中へ。さあ、この――」
 
 卵? ……違う、あれは、機械だ。
 
 
 
三.閉鎖
 
 卵の中は、まっ暗で、湿っぽく、温かではあった。
 だけど、この温かさがまがいものであることは、僕には明らかだった。
 それは実は、ぞっとするような寒さ、いや、温度というものの無さ、だったんだ。
 僕はこの中にいて自分の体が冷たくなっていく……死んでいく、というのでもない、ただ生きものの体でなくなっていくのがわかった。
 それに、ここに立ち込める油の臭いは、鼻がなくなってでもいなけりゃ、ごまかせないだろう。
 でも、彼らは、鼻をなくしていたのだ、実際に……
 暗闇に、一人、二人、三人……十人、十一……と浮かび上がる人間たちの裸体はどれも、頭部そのものがなくなっていたのだから。
 誰も皆、人の頭の代わりに、悲しいほどバランスが悪い小さな卵を首に乗っけて、僕の横を去っていく。
 野口のメガネだけが漂ってきて、僕の顔を覗き込む。と、僕の頭もやっぱり――カチ
 カチ カチ カチ カチ
 ……機械……
 ……機械の音で、僕は目が覚めた。
 就眠前、機械の音に妨げられそうになることは今までにも何回かあったが、朝からこれを聴くことはなかった。いつも起きてしばらくは、機械のことを思い出さずにいられた。今朝までは、ということになる。
 金魚は水面に横たわるようにプカプカ浮かんでいたが、指で突っつくと思い出したように動き出して、水草の方へ潜っていった。エサを撒いて、僕は一階へ降りた。
 僕は昨日、第一志望の国立大の二次試験を終えていた。
 もう学園にもしばらく行ってない。どの私大の試験ももう全て終わっているから、三年校舎には誰もいないだろう。卒業式は三週間後にある。
 僕は洗面所で顔を洗い、台所へ行った。
 両親は、もう僕に何も言わなくなっていた。いや、何か口をぱくぱく動かしているのだけど、聞こえないのだ。
 僕の頭の中で鳴る機械の音が大きくなっているせいか。
 退っ引きならない状況に来ている。
 いや、そんなことはわかってはいたけど、どうしようもなかったのだ。
 僕は、ただ今やるべきことを終えた。それで精一杯だったのだ。
 
 二月もいよいよ終わりに近づき、寒さもやわらいで来る頃、遊園地が閉鎖になった。
 僕はあれ以来一度も訪れていなかったのだけど、一月の終わり頃から急速度に閉鎖の準備が進められていたらしい。
 最初、知らずにいたんだ。僕が訪れてみたとき、それは既に残骸だった。
 遊園地は巨大な檻に包まれていた。中心にそびえ立ったあの「卵」から伸びた無数の「クモの脚」が、遊園地を覆ってしまったのだ。それは湾曲した枝垂れ状の、まるで檻であった。
 隙間から覗ける遊園地はもう、かつての遊園地ではなかった。錆びついて、それらはもう残骸で、啄ばむ鳩さえいない何かの滓ばかりが転がって……色あせ、音楽は完全に止まってしまった。湖に浮かぶ壊れたボートは、皆、静止していた。人の影一つさえない。生きものの気配が、ない。薄っすらと、湖の奥の方に浮いて見えるのは、油なのかも知れない。
 よく耳を澄ますと、観覧車のてっぺんの「卵」、そこから微かな音が聴こえる気がする。はっきりとは聴き取れない程だけど、不快な、しかし規則正しい音が……僕の頭の機械の音が、それに呼応するように鳴り出した。機械のくせに、妙にめでたく弾んだ響き方に思えた。
 機械は、完全に遊園地をその手に捕らえたのだ。僕らの遊園地は、もう消えた。
 遊園地だけじゃない。今は多くの場所が、「卵」とそこから伸びる「クモの脚」に囚われてしまった。
 そうして、賑やかな人の声や街を彩る色彩が段々減っていった。
 僕の住む世界は、機械に占領されてしまうのか。
 
 僕は走った。走って、機械の音を追い出してしまえるなら。それから、M。君に……
 
 
 
四.何処へ?
  
 金魚が死んだ。
 Mの行方は、わからなくなっていた。
 今は三月に入り、街は、にわかに活気づき始めていた。だけど街を支配していたのは、春の芽吹きの気配じゃなく、異様な空気だった。
 ある人らは、今や街中に点在する巨大な「卵」のもとへ集い、よくわからない言葉でそれぞれが議論し出した。「クモの脚」をよじ登って、卵の中へ入っていこうとする者もあった。またある人らは、卵の威圧感に押されて、街を離れていった。穏やかだった街並みや、郊外へ通じるのどかな道も、急に人で溢れた。子供たちだけが、騒ぎの片隅で無表情に、静かに遊戯をしていた。それはただ何かを待っているようにも見えた。子供たちは話をしようとしないし、僕には大人たちの声は何を喋っているのか全く聴き取れなくなっていた。機械語。あれはきっと機械語だったのだろう。
 
 僕はひとり、汚染された川沿いの道をひた下った。
 きっと水源の山も、卵に囚われてしまったのだ。山のてっぺんにもあの卵がくっついているのだろう。嫌な臭いの油が、とめどなく流れてきている。もうまともな水の戻って来ることはないだろう。海へ行けば、旅の途中の冷たい海流に出会う。彼らに、何処までも運んでもらおう。
 機械の臭いのない場所へ。そこに僕も乗せて行ってくれれば……
 冷たい、大きな緩やかな流れの海流に乗って、僕の肉は朽ちて、骨は海底に沈んで、それでも、尚緩やかに運ばれてゆく……削られてゆく……機械の臭いのない他所へ……
 
 河口まで来て骸の金魚を流したとき、級友と会った。まだいたのだ、この街にも。僕が話せる誰かが。
 棚瀬さんとは、同じクラスだったけど口をきいたことは少なかった。もっとも僕は、中学校のときから一緒のMや園田を除いて、もともと女子とは話をしない方だったけど。
 棚瀬さんは、中学のとき、水泳部だった僕がプールで泳いでいるのを見て、ちょっと格好いいなと思ったのだと語った。それなのに、高校で一緒のクラスになって、プールではあんなに気持ちよさそうに、素早く泳ぐのに、普段はどんくさくて冴えないなんて思ってちょっと失望したとかも。
 ふたりで笑いながら話した。
 棚瀬さんは、この海辺の近くに住んでいる。もう、幾つかの船が、人を乗せて港を出て行ったと言う。棚瀬さんも、二日後には親戚と船に乗り、街を出るらしい。街は、もうどこも、交通機関も通信もめちゃくちゃになっている。
 僕には、棚瀬さんの印象はあまりないのだけど、今笑顔がすごくよく見えたのは、この人が――
「明日、海へ入ろうか」棚瀬さんは僕に言った。冬の浅瀬に入ろうか。
「向こうにあまり人の来ない砂浜があるの。白い貝のたくさん埋まって……少し深い所には、大きな宝石を抱いたのもあって……子どもの頃よくここへ遊びに来たときにそれを拾って……」
 ――この人が機械じゃないから、というだけだったのかも知れない。もうあまりにも、機械の人間に慣れすぎていたのかも知れない。
 ここにも機械の臭いがしていた。
 海へ入るには、もう油の量が多すぎたんだ。
 油はもう旅の海流にまでもおぶさって、僕の金魚が去った方角へ向かっていった。
 遠くに、なるたけ遠くに流れていてくれたらいい。機械からもう逃れられないかもしれない僕の代わりに。
 
 僕はまるめた紙屑を、海へ放った。紙屑はたちまち油に汚れて沈んでしまう。
 遠くには、今、大きな旅客船が微かな船影になっていくところだった。
 僕は結局、あれきり棚瀬さんには会わなかった。
 二日前、帰りがけに僕へ渡してくれた船の切符も、船の出るさっきまでずっとポケットにまるめて入れたままだったのだ。
 僕は昨日も、海へは来ていた。砂浜へは行かず、暗い橋の下でひとり、何艘もの船が出て行くのを見た。今日も陽の暮れるまでいるだろう。でも、もう港に船の姿はない。
 あれがこの街から出る最後の船だった、今、海と空が重なって霧の様に霞む視界の外へ、薄れて消えてしまった……
 僕は歩いた。
 白い貝の砂浜も油で茶色く染まっていき、どろどろねばっこい変質した海水が僕の足を掴もうとしていた。
 
 暗闇の中で、一匹の金魚が、苦しそうにもがいていた。もがきながら、だけど必死で辿り着こうとしていた。
 そっちじゃない! 僕は僕の金魚に叫ぶけど、油の濃くなる方へと金魚の姿は遠のいていく。金魚の赤い色は剥がれ落ち、細胞も組織も破壊されて骨になって、それでも、泳ぐしかなかった。機械の臭いと恐ろしく暗い油の中へ……
 
 
 
第三部
 
 
 世界中の海水が消えた。
 海水のなくなった海は、ぽっかりと、底の見えない暗い口を開けてどこまでも広がるばかりだった。
 もう、逃げ場はない。
 空から色とりどりの風船が降ってくる。子供たちは空から降ってきた無数の風船に掴まって、水の無くなった海の穴へと、次々に姿を消していった。そして全ての子供がいなくなった。
 大人たちは皆、地上に降りた無数の管をよじ登って、巨大な卵の中へと入っていった。大人たちもいなくなった。皆、いなくなった。
 僕は暗闇の中で、機械の音の在り処を探していた。それはずっと、高い高い所から聞こえてきていた。
 いよいよ鳴りやまない音の在り処をつきとめて、僕はそれと対峙しなくてはならない。
 
 
 
一.時計塔 
 
 視界がすっかり晴れたとき、僕は街を見下ろすところにいた。
 街の方々に乗っかる幾十ものあの巨大な「卵」が、今は指先で潰せるくらいの小ささで見えている。
 風が、本当に間近にいるのがわかる。風は無言で通り過ぎていく。
 
 僕は窓から頭を引っこめた。見渡すと、この建物の内部は円形になっていて、僕が顔を出していたのと同じ丸い窓が一定間隔で壁に並んでいる。床はつるつるとして何も置かれていない。だだっ広く、何も無くがらんとしているけど、狭い感じがする。……寒い部屋だ、ここは。
 一箇所だけ奥行きがあって、階段が上へ続いている。つまりここが一階なのだ。上の階から確かに音が聞こえてくる。カチカチと。高い、高い空中に浮かぶ時計塔の一階なのだ。
 僕は、長い夜をさまよって、ようやくこの時計塔の一階に辿り着いたわけだ。
 
 
 
二.空っぽの心の中で 
 
 僕は、ゆっくり、踏みしめるように、時計塔を上り始めた。
 もう、焦ることはない。
 カチカチいう時計の音は鳴り続けているけれど、僕はそいつを僕の中からとうとう引きずり出したのだ。僕はそいつの姿を間もなく見ることになるだろう。
 僕の頭は今とても、冴えていた
 もしかしたら、もう形勢は逆転しているのかも知れないな、僕は思った。きっと今や焦っているのはあいつの方なのだ。僕は急に冷静な心持になれてきた。
 そう思うと、このカチカチいう音も妙に馬鹿馬鹿しく、取るに足らない、見下すべきもののように思えてくる。
 カチカチカチ、か。可愛いものだ。
(機械め。待ってろ。どうせ間抜けなちょび髭の、丸っこい時計だろ。) 
 
 僕は何日もかけて、時計塔の階層を上っていった。あるときなどは、わざと一日に一階層上るだけにして、あとは円い部屋の真ん中でどかっと横になって、一日中寝てやった。
 実際のところは、この時計塔に入ってから、眠くなることなどなくなっていたのだけど。腹もすかない、喉も渇かなかった。
(僕はあの機械をじっくりと、追い詰めてやるんだ。)
 一日上ってもせいぜい四、五階。あとは眠るか、風を眺めた。
 地上はどんどん遠くなった。
 もう街は模型のようで、卵などノミほどの大きさだ。
(見てろ、お前らもすぐ潰してやるさ。)
 時計塔はしかしまだ、まだ上へと続いているようだった。
 
 数十階が過ぎた。
 この日の風は、妙なものを運んできてくれた。
 どこか悲しい、壊れたチャイムの残響だった。色んなこれまでの風景が僕の心に映し出されては消えた。
(もう卒業式は終わったんだ。僕のいない間に。)
 
 
 
三.カチカチ……
 
 僕は少しだけ歩調を速めていた。
 この時計塔に終わりはあるのだろうか。もしや全てが、あいつの罠だったのではあるまいか。
 だけど、聴けばあいつのカチカチいう音も焦っているように思えた。
 僕は落ち着かなくてはいけない。
 焦っているのは敵の方なのだ。きっとそうだ。
 ……あと、三、そうだあと三階で、時計塔は終わりだ。
 三階を上った所に、間違いなく敵はいる。
 そうしたら、僕の勝ちだ。間違いなく、僕の勝ちだ。          カチ
 いけない! 僕はそう思う途端、走り出しそうになっていた。    カチカチ
 いや走り出した、もう、止められなかった。          カチカチカチ
 三階層を、一気に駆け上がる。            カチカチカチカチカチ
 ……一……二、もう着く!  ……三、ほらご対面、僕の勝ちだ!   カ……
 
 
 
四.機械天使
  
 ――M!!
 そこに、彼女はいた。
 そして、嗚呼、もう、遅かったんだ、やっぱり……
 部屋の奥で、裸で縛り付けられた彼女の頭部が、小さな二対の天使によって、ぷさりと切り離されてゆくところだった。
 ちょび髭を生やした、いやあらしい顔の大きなまん丸い時計が、太い腕を伸ばし、切り取られた彼女の頭をわしづかみに受け取った。
 僕は、僕は彼女の名前を取り戻せなかった。
 僕はどれだけ歪んだ表情をしていたことだろう。
 時計はそれを見るのが嬉しくてたまらないというように、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、足下にうずくまる僕を見ていた。カチ! カチ! と高らかに叫ぶ声。
 が、やがて天使たちによって小さな卵が運ばれてくると、急に静粛な顔になって、卵を受け取り、彼女の体の、切り取られた頭部の代わりにそれを取り付けた。カチ!
 すると彼女の体は縛りを解かれ、二対の天使によって、両脇を支えられる。塔の最上階の天井が開いて青い空が見えた。二対の天使に掴まれた体は、そこから高い空へと舞い上がっていった。
 ひざまずき、ただそれを見上げるしかない僕を置いて、青く遠すぎる虚空へ、どこまでもどこまでも、舞い上がっていったようだった。
「さて」と、しごく冷静にひと声すると時計は、くるっと向きを変えて、いらなくなった彼女の頭部を窓から放り捨ててしまった。
「アッッ!!」
 僕は立ち上がり、落下していく頭を追って、階層を一気に駆け下りた。
 
 駆け下りながら、今や、窓の外に、沢山の、頭部を小さな卵にすげ替えられた人々が、両脇を天使に支えられ昇っていくのが見えた。
 僕とMの頭部だけが下へ降っている。
 M――僕は、彼女の名前を取り戻せなかった。
 
 一階層まで戻った時、僕はもう大声をあげて窓から飛び下りるしかなかった。落下していくMの頭。手が、届かない。僕の落下速度の方が、速い。ぎりぎりのところ、僕は手を伸ばすが、やはり、届かない。僕は彼女を追い越してしまった。その表情は、よく見えなかった。
 僕は落ちながら、見ると地上の建物にへばりついていた「卵」から、今や空を埋め尽くすほど数多の人々が、天使とともに空へ、空へ、舞い上がってゆくのだった。
 
 
 
五.再会 
 
 僕は遊園地の中心の「卵」の上へ落下した。笑えるほど、それは柔らかだった。もう「卵」はもぬけの殻で、そこから生えていた管もほとんどが抜け落ち崩れ落ちていた。全ての人々が、去った後だった。
 僕は、萎れて垂れ下がった「クモの脚」を伝って地上へ下りる。
 それから数秒ののち、僕の隣に、何かがグシャッと落ちた。
 これが、これが僕の……
 ゼンマイ仕掛けの、ボロボロで、薄汚れた小さな天使のおもちゃだった。おもちゃは、最後に足を三回ほどパタパタさせて、動きが止まった。ゼンマイと、それから片方の羽がポロリと取れた。
 
 
 *
 
 
 だけど僕はその壊れた天使を持って、とぼとぼと遊園地を抜けるしかなかったんだ。海の方へ。
 海水の失せた海にぽっかり開いた穴を下りていくと、陸棚の内側から、ヒソヒソ……声が聴こえるのがわかった。機械の声だった。こんな所でも……そうか、もう僕の住む世界は、とっくの昔に、機械に乗っ取られていたんだ。
 やがて、陸地は段々に球体になりながら、空へ浮かんで、完全な球体になって、消えて見えなくなっていった。僕が知っていたかつての世界は皆消えてしまった。
 僕はぽっかり残った穴の下の下の方に、消えてしまっていた海水の気配を感じ、そこを下りていった。きっと……新しい海へ。
 
 
 *
 
 
 ――M。
 僕はあれから毎晩、どれだけあの甘い名前の響きを求めたろう、暗い部屋で……
 M。
 その名前をもう二度と呼ぶことができないなんて。
 M、ただ、その名を思い出そうとすると、明るい外の世界の残照や、かすかな温かさの名残を、薄い布切れの裏側から摑まえたような気がするのだった。
 M…………
 
 今僕は、果てしなく海ばかりが広がる世界で、漂流し、その末にやっと辿り着いた小島でひとり、暮らしている。あの頃のことを思い出しながら。僕に残された、かつての世界の名残のような小島だ。
 もう少ししたら。小さな船でも作って、僕はこの世界を旅してみよう。
 この世界のどこかには、子供たちがいる筈だから。そして聞かせよう、古い世界の残骸の詩を。
 僕は語るだろう――機械天使たちの楽園が、そこにあるという…… ……
 
 僕は、寝っころがった。時々……見えない高い空のどこか彼方から、機械の音だけがそっと、だけど重たく、胸に響いてくる……今でも。