大阪は晴れ
東日本大震災は本日におきない。昨日は地電流に派手な前兆はなかった。12月半ばが危ないのはかわりない。今は、12/20説。
地震予知は手強い。何が起きるかはだいたいわかっても、日を当てるのは難しい。自分の事故なら、当日朝には必ずわかる。一ヶ月前から何があるかは調べはつく。地震もそうだけど、私は日をつきとめるのが苦手。まいった。
大震災と日本 1
大雑把に考えよう。311並の地震が東日本でまもなくある、と。
電車は4日から一ヶ月止まる。帰宅難民は出る。福島の原発は爆発しても、放射能汚染は限定的だ。仙台の町は散乱する。東北から関東にかけての経済は一週間は停止する。これで何が変わるか?
まず、地震当日は、被災の映像が日本全国に流れる。一日中、火災や救出劇の報道だ。数日は火事が高層ビルで燃える。誰も消火できない。救出するヘリとそれを撮影するヘリが東京や仙台の上空を飛び交う。冬の地震は、火事が恐ろしい。高層ビルも安全でない、と国民は知っても遅い。被災者の救出に4-6日ほど日本中が釘付けとなる。
そんな時に、原発がしだいに危険になって、爆発する。幸い爆発は小さく、すぐに止まる。が、放射能が飛び、黒い雨が降る。人々が福島県で逃げ惑う。
こんな時に、政府がうまく立ち振る舞うことができたら、よし。民主党政権のように何も動かないなら、安倍官邸もアウトである。
それがようやく終わると、慰霊だ。復興だ。室内の、焼けた家の片付けが始まる。電車を動かすこと、高速道路の復旧、通信設備の修理で、工事業者が入り込む。一週間もすると、一部電車が動き出す。
家を失った人々が余震を恐れて、避難所で暮らすのが目につく。砂が吹きあげる東京湾岸地帯は、人が住めなくて、無人化する。福島も一時、大勢逃げ出すが、汚染地域が少なくてしだいに戻る。
そんなこんなで、震災による打撃の大きさがしだいにはっきりしてゆく。経済的な損失は50-100兆円。消費増税はストップ。オリンピックも中止。それは定まるが、内閣はすぐに決断はしない。オリンピックは代替地のこともあるから早く決めるとして。
株価は2000-4000円が一気に下がる。中国観光客はぴたりとこなくなる。放射能さえ落ち着くと、大阪や京都には戻ってくるが、それも風向きしだい。日本の危機が再びある。そんな暗黒時代が再来する。
それがまもく。クリスマス前に震災がやってきた。
哲学の話--- 自分はどこにいるか?
自分はどこにいるか? 厳密に考えてみよう。
鏡をみると、自分が写る。自分の肉体がある。自分がいる。さて、「自己」はどこにいるだろうか?
手の中に自分はいない。足の中にも自己はない。手足は、体の一部でも、自分自身ではない。胴体もそうだ。胴体は考えない。というわけで、体の中にはある。が、手足、胴体ではない。残るは頭だけ。自分自身は頭のどこかにいるとわかった。
頭のどこに「自己」はいるのだろうか? 目か? 違う。耳か? 耳は違う。口か? 口も違う。顎でもない。というわけで、自分は目、耳、口、顎の中にいないことがわかった。毛の中にもいない。また頭の皮の中にもいない。
では、どこにいるのか?
残るは脳の中だ。そこに自分はいると考えた人は、正しい。が、正解ではない。脳のどの部位にいるのだろうか? 前頭葉か後頭葉か間脳か 小脳か? 今日はそこまで詳しく考えない。「自己」のひそむ場所をつきとめるのだ。空間的に。
右目と左目がある。自分は両目の間にいるはずだ。右目に近いところにはいない。それは左目は自分から遠くて、右目のほうが自分の近くにあると感じる人はほとんどいないからだ。というわけで、自分は両目の真ん中あたりにいる。これがほぼ正解である。
しかし、もし右目が見えない人は、左だけで生活している人は、自分が左目の奥にいると考えるだろう。いつも左目の景色が自分の正面にみえるからだ。というわけで、正確には、自己の居場所は、目の後ろあたりなのだ。両目を使う人は、右目の後ろでも左目の後ろでもない。ちょうど、両目の中間の後ろあたりだ。なぜなら、右目は自分より右側にあると人は考える。左目は自分より左側にあると人は考える。
高さはどこか? 目より下側か?
おそらく目の焦点あたり高さに自己がいる。網膜あたりだ。というわけで、ふつうの人は、焦点となる網膜の高さに自己がいる。
奥行きはどのくらいか? 自己は眼球のどのくらいの奥行きの位置にいるか?
おそらく、目の焦点あたりの奥行きのところに自己がいる。目の後ろに自己がいる。焦点よりやや奥ではないだろうか。これは推測である。厳密ではない。
というわけで、だいたい目の焦点に網膜がある。網膜のあたりに自己がいる、と考える。
答え、
右目と左目の眼球の焦点。その両目の網膜の間あたりに自己がいる、と大勢は思っている。
これは嘘ではない。大勢は脳がある場所にい自分がいると考える。が、それは大勢が自己の居場所と思っている位置としては、正しくはない。
なぜ違うか。まずは夢のケースだ。夢の中で、自分は見たと思う。だが、夢は半分くらいは自分の体験でない。全部が、その時間の自分の体験ではない。
タイタニック号の沈没を夢に見た人が、それに乗船せずに助かった、という話がある。これが事実として伝えられている。本人は自分がタイタニック号の沈没を見たと思っている。しかし、絶対に本人は現場にいない。
こんな極端なケースを考えなくてもよい。夢でどこかにいた話で十分だ。眠っている間、本人は、ベッドか布団の上に寝ている。しかし、夢の間だけ、知らない人と一緒にいたり、本人はどこか遠く離れた場所にいたと思っている。
ここからいえることは、本人は、見た景色の中にいると思い込むことだ。ほとんどのケースで本人の脳はそこにない。つまり、自分の居場所を決めるには、視界が重要なのだ。目の位置が。人間は、脳や頭の場所より、目の位置で自分の居場所を決める性質がある。
目が飛び出た麒麟は、自分が体から離れて高いところにある目玉のそばにいると思っている。ただし、目が2つ飛び出た昆虫が、自分が2つの目の間にいると考えているかははっきりしない。
本日の被害
本日、体は重くはない。ただし、目が刺されたあとがあり、動きがにぶい。また口の中は痛む。刺されたようだ。
以上