中学生の娘がいる。自分ではもう子どもじゃないと思っているようだが、私からすればまだ産毛が生えているようなものだ。世の中のことも分かっていない。強く育てなければと思いながら、少し寒い日に子どもが靴下だけ履いて登校すると、「厚手のタイツを履かせれば良かった」という思いが一日中頭を巡る。だから元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が発行した従軍慰安婦証言集を読んだ時、思わず力が入った。
13歳の時、静岡県内の慰安所で天皇の降伏放送(日本で言う玉音放送)を聞いたという元慰安婦の女性がいた。戦争が終わったのに、すぐには解放されなかった。「母のことばかり考えていた」と言った。
敗戦直前、見かねた日本軍将校がこっそり脱出させてくれたという元慰安婦の女性も1人いた。だが、圧倒的に多数の元慰安婦女性はニューギニアで、パラオで、生まれてこの方名前も聞いたことのない南太平洋の小さな島で最後まで日本軍兵士の相手をした。
証言は一つ一つどれも悲惨だった。例えば、ユン・ドゥリさん(2009年死去)は15歳の時、警察署の前を歩いていた時、巡査と業者に「良い所に就職させてやる」と言われ、その日の夜に軍用トラックに乗った。後に慰安所から逃げようとして見つかり、銃で撃たれた。傷が化膿(かのう)して肉がえぐれたが、手術を受けて3日目にまた慰安所に行った。ユン・ドゥリさんは「この時が一番つらかった」「横にもなれないのに、軍人の相手をしろと言われ、とても痛かった」と言った。17歳の時まで1年11カ月間、1日30-40人の相手をした。「とにかく死なない限り、兵士の相手をしなければならなかった」という。
このような証言集が発行され、世に残った背景には挺対協の力がある。挺対協が初めて証言を集めようと各地を訪ね歩いていた当時は、今のように全国民が関心を持っていなかった。苦労したことだろう。挺対協の現在の主張に全面的には賛成できない人も、皆がやるべきことを彼らが代わりにしたという点では感謝しているし、申し訳ないと思うべきだ。元慰安婦女性が亡くなると、大統領は花輪を送る。だが、挺対協は遺族と共に葬式を行い、遺族がいない場合は喪主の役割をする。