特集 小さな旅 手紙シリーズ 総集編「忘れ得ぬ山河」 2015.12.27


(テーマ音楽)誰にでも忘れられない風景があります。
大切な人と寄り添い歩いた道。
今も色あせる事ない旅の記憶です。
「小さな旅」では視聴者の皆さんから毎年旅の思い出をつづったお手紙を頂戴しております。
今年は313通の手紙とメールを頂きました。
ありがとうございました。
家族との掛けがえのない時間。
人生の道しるべとして輝き続ける旅。
一文字一文字追うごとに旅の情景が鮮やかに浮かび上がってきました。
まずはちょっぴり甘酸っぱい青春の旅の思い出からご紹介します。
「半世紀近くも前の話です。
年上の男性に恋をしました。
といっても私の一方的なプラトニックラブ。
大人の渋い色気が魅力的でした」。
20代の頃仕事で知り合った30代半ばの男性に憧れ心ときめかせました。
「『ビーフシチューがおいしいレストランがあるから食べに行きましょう』と誘われ何度か食事に行きました」。
「回を重ねるごとに彼への恋心が募り彼とどこかへ行きたいなぁという思いが芽生えてきました」。
「ある時ドキドキしながら『温泉に行ってみませんか』と誘ってみると『俺は行けないなぁ』との返事」。
「あ〜やっぱり。
そんな事初めから分かっていたのに」。
失恋して落ち込んでいた本橋さん。
たまたま雑誌で見た山形県の月山へ気分転換に行こうと思い立ちました。
「自分の中では傷心の旅。
水戸を朝方出発し仙台から急行に乗り継ぎました」。
「暮れゆく景色。
窓ガラスに映るのは自分の姿だけ」。
「実らない恋ばかり。
私は何をしても駄目なのだ…」。
「そのうち思いもよらない駅名がアナウンスされているのに気が付きました」。
(車内アナウンス)「次は終点新潟です」。
「山形方面に向かうはずが反対の新潟に向かっていたのです。
着いたのは夜10時。
宿は既にどこもいっぱいでした」。
「空腹に耐えかねて居酒屋に入りました」。
「すると店の主人から『泊まるところがなかったらこれから佐渡に行く船があるよ』と言われました」。
「野宿するよりは船に乗っていた方がいい。
そう思って岸壁まで走り佐渡行きの船に乗りました」。
「遠ざかる新潟の街の明かりを見ながらふと思いました」。
「私は何でここにいるのだろう」。
「佐渡ではバスで島を半周して海沿いの景色を見て回りました」。
「広い海原。
私の考えている事なんてちっぽけな事。
男なんて世の中にたくさんいるさ」。
「帰る頃には傷心の旅が観光旅行に変わっていました」。
お手紙を下さった本橋紀子さんです。
傷心の旅は今ではほほ笑ましい青春の一ページだといいます。
少し考える時間が欲しかったのかもしれないですね。
私の人生何だったんだろうって。
まだ若いのに。
昔は清純でしたほんとに。
続いてのお手紙は…50年の時を経て心に残る旅の思い出です。
「私は札幌の高校を卒業後地元の新聞社で電話交換手の仕事に就いていました」。
「当時私の夢は旅に出る事。
21歳の時職場の友人5人と京都に行く計画を立てました。
ところが間際になって全員の都合が悪くなり結局行けるのは私一人になってしまいました」。
このころ木下さんには京都に文通する人がいました。
相手は25歳の男性京友禅の職人でした。
「『京都を旅したい』と手紙を送ると『案内します』との返事。
私は思い切って旅立ちました」。
「彼に会うまで内心では『どうかいい人でありますように』と不安と祈りの気持ちでいっぱいでした」。
「実際に会って話をしてみると悪い人ではなさそうでほっとした事を思い出します」。
「それから4日間彼は仕事を休んでくれて2人で秋の京都を巡りました」。
「高山寺では美しい庭を見ながらすっかりくつろぐ私」。
「まるで古くからの友達のように素のままでいられる自分が不思議でした」。
「こんな事もありました。
おなかが減るのです。
初めて会ったばかりの人につい私は『おなかぺっこぺこ』と言ってしまいました」。
「そんな私を彼が連れていってくれたのは有名なうどんの店。
おいしくて満足しました」。
「そのあともおなかが減る度に伝えていると彼はにこにこしながら『あんたはおなかぺっこぺこのぺっこちゃんやなあ』。
私は旅の間『ぺっこちゃん』と呼ばれる事になりました」。
「三千院の燃えるような紅葉の美しさはまるで絵画のようで息をのむほど」。
「彼が言いました。
『この景色の全てが僕の作品のモチーフになる。
伝統的な京都の友禅として残したい』と」。
「彼の仕事への情熱は私の心に強く残るとともに『この人は何に対しても誠実なんだろうな』そんな印象を持ちました」。
「最後の夜2人は京都市内を見渡せる高台に登りました」。
「嵐山大原伏見いろいろ回ったなあと感慨もひとしお」。
「ふと『この街に住んでもいいな』と感じていました」。
お手紙を下さった…旅の2年後2人は結婚しました。
京友禅の工房を構える敏之さん。
図案作りから絵付けまで全て一人で手がけています。
直美さんはいつも傍らで支え続けてきました。
「主人は職人かたぎの厳しい人ですが今も仕事への情熱をなくさず前向きに頑張っている姿に頭が下がります」。
「京都での4日間は『小さな旅』でしたが私にとっては『大きな旅』でした」。
静岡県長泉町からのお便りです。
お手紙を下さった…そして…「現在夫は72歳。
54歳の時難病ALS筋萎縮性側索硬化症と診断されました」。
「今では指一本動かす事ができず一日中ベッドで上を向いて過ごす夫。
それでも『幸せだよ!』と気持ちを伝えてくれます」。
お茶の時間なんだけど何する?今日。
武男さんは僅かに動かせる眉を使って特別なパソコンを操作。
一文字ずつ時間をかけて入力し朝子さんと言葉を交わします。
(パソコン音声)「紅茶を下さ〜い」。
(朝子)はいOK。
うす紅茶持ってくるねちょっと待ってて。
「それは夫の誕生日を前にした今年8月のある日の事」。
「『どっか行きたいなあ』と夫が言います」。
「誕生日には外に連れ出してあげたい」。
「できる事なら若い頃よく行った富士山五合目に行きたい。
ヘルパーや友人に相談したところ一緒に行ってくれるとの事」。
「夫に『どこに行きたい?』と尋ねると…」。
「『富士』。
即答でした」。
「車で僅か1時間半の道のりですが入念な準備が必要です。
夫のための流動食そして万が一に備えて呼吸を補助する器具も用意しました」。
「旅の当日。
夫を車椅子のままワゴン車へ乗せると準備万端。
総勢6人で出発です」。
「走りだすとすぐに富士が姿を見せ存在感をアピールします」。
「夫は首を動かせないので周りを自由に見る事ができません。
どこを走っているとか何が見えたとか友人たちが話すのを集中して聞いているようでした」。
「二合目を過ぎた頃から霧が立ちこめ何だか不安になってきました」。
「くねくねとした坂を上っていくときれいに晴れ渡り山肌がすっきりと見えました!」。
「夫の目が笑っていました。
『ほら計画どおりだ!』と言わんばかりです」。
「午後5時半富士山五合目に到着です」。
「家では毎日天井を見ているばかりの夫。
この日は目を細めて雲海を眺めていました」。
「ささやかながら夫の誕生パーティーです。
赤飯にデザートそれにあったかいお茶」。
「夫には温めた流動食です」。
「そして友人たちからオカリナの演奏をプレゼント」。

(「ハッピーバースデートゥーユー」)「夫は精いっぱいの笑顔を返してくれました」。
「元気だった頃2人で毎年のように見た五合目の星空はあのころと変わらず光り輝いていました」。
「車椅子の背もたれを少し倒して見やすくすると夫はしばらくの間じ〜っと見上げていました」。
「後でその時の気持ちを教えてくれました。
『幸せです。
生きていてよかった。
ありがとう』って」。
他にも数多くのお手紙を頂いております。
ご紹介します。
まずは…「87歳になる母が『死ぬまでに一度行ってみたい』と言いだし今年5月独身時代に淡い恋心を抱いた人が住んでいた岐阜県多治見市を訪ねました。
相手の方は10年ほど前に亡くなっていて墓参りをしてきました。
母は大病をしたり父が早く亡くなったりで苦労続きの人生でした。
『こっちに来ていれば幸せになれたのかね』と母。
『そんな事になったら私は生まれていなかったじゃない』と私。
バスを待つ間そんな話をしていました」。
続いては…50歳の方からお寄せ頂いた旅の思い出です。
「高1の夏友達3人で四国一周の鉄道の旅をしました。
宇和島駅での停車時間宇和島牛の弁当を食べたくて買いに行くとお弁当屋のおばちゃんが『焼きたてを食べさせたいから列車に乗って待ってなさい』と言って下さり待っていたら発車間際に弁当を抱えて走ってくるおばちゃんの姿が。
私たちは無事熱々のお弁当を受け取る事ができました。
手を振って見送ってくれるおばちゃんの姿。
いつまでも忘れられません」。
もう一通…「10年前社員旅行で沖縄美ら海水族館を訪れた時の事です。
49歳でがんになりつらい治療のあとかつらをつけての気が進まない旅でした。
しかし巨大な水槽の前に立って悠々と泳ぐジンベエザメやマンタを見た時涙が止まらなくなりました。
30分は立ちすくんでいたでしょうか。
生きていてよかったまた頑張ろうと勇気が湧いてきました」。
今年は戦後70年。
今回は戦中戦後の旅の記憶に関するお手紙を募集しました。
疎開先での体験や戦後間もない貧しい時代の思い出などが鮮明につづられています。
「昭和18年7月中等学校2年生の時学徒勤労動員として北海道の弟子屈町の農家に行き奉仕作業をしました」。
「食糧増産のため荒れ地を鍬で掘り起こし畑にするのです」。
「1か月の勤労奉仕が終わる頃思いがけない休暇をもらいました。
家の主人が『摩周湖見学に連れていってあげよう』と言ってくれたのです」。
「道の途中にヒグマの足跡があったので大声で軍歌を歌いながら山道を進んでいきました」。
10キロほどの道のりを歩いた大野さんたち。
そこには驚くような光景が広がっていました。
「眼下に湖の青が目に入りました。
今まで見た事のない不思議な青。
あまりの美しさに声が出ないほどでした」。
「紺碧の湖に浮かぶ島」。
「その向こうに摩周岳の雄姿。
この国が戦いをしている事を忘れるようなひとときでした」。
勤労奉仕を終えた大野さんは教師を目指して師範学校に入学します。
しかし授業どころではありませんでした。
「沖縄陥落に続いて本土上陸への備えが叫ばれ私は三重県にある陸軍の演習場で上陸してくる戦車を爆破する訓練をさせられました」。
「爆雷を抱えたまま戦車まで匍匐前進で近づきその爆雷を投げ込むという訓練でした」。
訓練は3週間続きましたが戦場へ出る事なく終戦を迎えました。
お手紙を下さった大野富士夫さんです。
命を捨てる覚悟もした大野さん。
摩周湖への旅が心の支えになったと言います。
本当に緊張の糸がピーンと張り詰めた生活でした3週間。
そういう中であの青の色というのはね慰めになったというかそういう世界もあるよって一つのね心のよりどころみたいな癒やしになりましたね。
続いてのお便りは…「私にとっての忘れられない旅は65年ほど前母と歩いた『真夜中の旅』です。
6歳の誕生日を前にしたある夏の夜でした」。
長野県山ノ内町で暮らしていた堀内さん親子。
父親が戦死し母親のツネさんが女手一つで堀内さんと2歳上の兄を育てていました。
「手に職を持っていなかった母は農家からお米や小豆などを買い入れ東京に持っていく闇屋さんをしていたのです」。
「幼い私は母から離れられず東京へ行く夜行列車にも何度も一緒に乗っていました」。
「この日私と母は北長野駅で上野行きの夜行列車を待っていました。
やがて列車がホームに入ってきましたがデッキまで人がいっぱいでした。
闇米が入った大きな荷物を背負った私たちは駅員さんから止められてしまいました」。
「列車に乗る事ができず母は困っていましたが私は内心うれしくなりました。
列車に乗らなければ母は闇屋さんをしないですむからです」。
「帰りの列車は終わっていたため母と2人20キロの道のりを歩いて帰る事になりました」。
「最初は意気揚々と歩き始めた私ですが町なかを過ぎる頃には何もしゃべらなくなりました」。
「気持ちが沈みかけた頃須坂市と小布施町の境にある松川橋にさしかかりました。
そこで私は夢のような光景に出会いました」。
「川べりではあっちでもこっちでも蛍がいっぱい光っているではありませんか。
まるで蛍の世界に飛び込んでしまったようでした」。
「私は蛍を捕まえようと必死になって追いかけました」。
「小さな私の手の中はすぐに蛍の光でいっぱいになりました。
ただただ美しく幻想の中にいるようでした」。
出発から2時間近くが過ぎ堀内さんはすっかり歩き疲れてしまいました。
「私は母が『おぶってやるか』と言ってくれるのをひたすら待っていました」。
「でも母からその言葉は聞かれませんでした」。
「私をおぶって歩けば母自身がつぶれてしまいます。
そして私がひと言でも『おぶって』と言えば次から連れていってもらえない事は分かっていました」。
「やがて我が家のある山ノ内町に着きました。
空がすっかり明るくなっていた事を覚えています」。
「母は言いました。
『もう母ちゃんについてきちゃいけないよ』。
私は『うん』とうなずいてしまいました。
幼い私にはつらかったのでしょう。
こうして母について東京へ行く事はなくなりました」。
お手紙を下さった…母親のツネさんは土木作業や畑仕事などで子供たちを育て上げ5年前に亡くなりました。
「若い母親と幼い子供が歩いている姿を思い返すと母はつらかっただろうと思います。
苦労するために生まれてきたような母の人生。
自分を犠牲にして私を育ててくれたと感じています」。
思いがけず親の戦争体験に触れた旅もあります。
5年前80歳を過ぎた父親と高校生の娘の3人で京都観光をした時の事です。
「東山の辺りを散策していると父がぽつりと言いました。
『昔ここを鉄砲担いで行進した事がある』」。
「戦時中大津にあった陸軍少年飛行兵学校に在籍した父は京都市内まで行軍訓練をしたと言うのです。
父が少年飛行兵に志願した話は知っていましたが詳しく聞いた事はありませんでした」。
「私たちは京都での観光を切り上げ記念碑が残るだけという学校の跡地に行ってみる事にしました」。
「手がかりは父が昔の仲間から聞いた『商業高校の裏』という記憶だけです」。
「『大津商業高校』に到着しましたがそれらしい石碑も看板もありません」。
「お巡りさんから『お寺さんなら古い話を知っているかも』と言われて三井寺に行ってみました」。
「しかしお寺の人も『さあ知りまへんなぁ』との答え」。
探す事40分。
商業高校の裏手にある丘で小さな看板を発見しました。
「ありました!」。
「『若鷲の碑』と刻まれた少年飛行兵学校の記念碑です」。
「息を切らしながら階段を上ってきた父も碑を前に感無量の様子です」。
「『琵琶湖の眺めは変わらないなあ』。
父の心は一気に少年の頃に引き戻されたようでした。
ポツリポツリと学校時代の思い出を語りだしました」。
昭和18年15歳で陸軍少年飛行兵学校に入学した父秀三さん。
先輩たちが次々と戦線に送り込まれる中厳しい訓練に励みました。
「『訓練中仲間が米軍の機銃掃射を受けもがくように手足を動かして息絶えた。
病死した仲間に夜通し付き添った。
窓から見える琵琶湖のいさり火が仲間の魂のように思えた』」。
「これまでどこか遠い昔話だと感じてきた父の戦争体験がにわかに迫ってきました。
私にとってもそれは父の人生に触れた大切な旅となりました」。
最後は…昭和19年8月5人きょうだいの長女だった宮木さんは都内の自宅を離れ長野県大町市にある木崎湖のほとりに学童疎開しました。
宮木さんが疎開したのは湖のそばにある木崎館という旅館。
同じ小学校の子供たち35人との共同生活でした。
「食糧事情は悪くなるばかり。
丼に盛られる御飯はだんだん少なくなり育ち盛りの子供にはつらいものがありました」。
「寒さも身にしみました。
暖房は1部屋に小さい掘りごたつが一つだけ。
そこに8人が足を入れ暖をとりました」。
「全然暖まらないので布団をめくってみると反対側の子の足元に炭が全部寄せられていた事もありました」。
「ある時先生がホームシックになった私たちを気遣い全員で裏山に登って『お母さ〜ん』と叫ぶよう言いました。
みんなで一斉に『お母さ〜ん』と叫びましたがかえってさみしくなりみんなが泣いて先生を困らせました」。
それから20年余りたった昭和46年宮木さんは幼い息子2人を連れ再び木崎湖を訪れました。
「木崎館では昔お世話になった女将さんが温かく迎えてくれました。
そして湖で遊ぶためボートを貸してくれました」。
「楽しそうにボートをこぐ息子たちを見た時ふと母の事を思い出し胸がいっぱいになりました」。
「母は息子と同じ年頃だった私を『戦争で生き残れるのはこの子だけかもしれない』と考えながら疎開先に送り出したと言うのです」。
お手紙を下さった宮木雅子さんです。
疎開先から戻った時母親がラジオから流れてくる童謡を口ずさんでは泣いていたと知りました。
蜜柑の一房一房を家族に例えた歌でした。
・「つぶら実の蜜柑をむこうよ」・「蜜柑には家族があるね」・「子を抱いて母さまに似たの」・「輪になって輪になってみんな仲良く並んでる」「母が私を送り出す時どんなにつらかった事か。
子を持つ立場になって改めて母の深い愛情をかみしめています」。
時を超えて輝き続けるあの日の風景。
大切な人の面影と共にいつまでも。

(テーマ音楽)2015/12/27(日) 09:00〜10:00
NHK総合1・神戸
特集 小さな旅 手紙シリーズ 総集編「忘れ得ぬ山河」[字]

小さな旅・手紙シリーズの総集編「忘れ得ぬ山河」。紅葉の京都での思い出、疎開先の長野・木崎湖への訪問に加え、佐渡への失恋旅行の珍道中や戦時下の摩周湖への旅を紹介。

詳細情報
番組内容
2回にわたり放送した小さな旅・手紙シリーズの総集編「忘れ得ぬ山河」。第1回、第2回で紹介した紅葉の京都での恋の思い出や、戦中戦後の記憶をたどる長野、大津などへの旅に加え、失恋のショックをいやすため山形の月山に向かったはずが、間違えて新潟、そして佐渡にたどり着いた女性の珍道中、戦時中、勤労動員で北海道弟子屈町に行った旧制中学に通う学生が、つかの間の休みに訪れた摩周湖の風景の思い出などを紹介します。
出演者
【語り】国井雅比古,山田敦子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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