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30 Dec 2015 16:39

中国語の中の日本語(Chinese Borrowings from the Japanese Language)

陳 生保(Chen Sheng Bao) 上海外国語大学教授

はじめに

  「共産党 幹部 指導 社会主義 市場 経済」 という文は、すべて日本製漢語語彙でできているといったら、こ れらの語彙をさかんに使っている普通の中国人は信じかねるだろうし、これらの語彙の原産地の日本人も、たぶん半信半疑だろうが、しかし、それは事実である。私が十年前にこれまでの先行研究をふまえてまとめた「中国語の中の日本語」 は、その間の消息を伝えている。
  現在、日本語は毎年一万語(その多くは音訳による外来語だろうが) のペースで新語が増えているそうである。ところが、二千年の長きにわたって中国語の中に入った外来語は、たったの一万語にすぎない。そして、そのほぼ一割に当たる千語の外来語は、日本製漢語語彙なのである。
  千語ぐらいといえば、多くはないと思われるかもしれないが、しかし、ほかの九割には 「仏陀」 など、仏教からの外来語が多く、死語に近いものがかなりあるし、日本語来源の語彙のほとんどは現代生活に欠かせない基本的概念であり、使用頻度の高いものであり、しかも造語力のあるものが多い、ということを考えると、現代中国語における日本来源語の影響が非常に大きいといわねばならない。
  「中国語の中の日本語」 は最初は雑誌 「カルチャー千葉」 (八七年冬、第十四号)に発表されたが、のちに日本国際交流基金の英文誌 「The Japan Foundation Newsletter」 (八八年四月号) に転載されたことがある。それからほぼ十年間立っている。この十年間の間にも少なからぬ日本製漢語が中国語の中に導入されている。例えば、[カ]拉OK(カラオケ)、通勤、放送、民宿、物業、福祉、営業中、単身貴族、日本料理などがそうである。
  今回(九六年十二月十七日)、日文研第91回フォーラムとして私はまたこの 「中国語の中の日本語」 の話をした。発表の場所が京都市内から急に交通の便の悪い日文研に変わったし、その日はあいにく雨が降っていて、肌寒い日だった。常連の聴衆もたぶんあまり来てくれず、十数人も集まればいいと、コモンルームで当フォーラムのコメンテーターの芳賀徹先生と話合っていた。ところが、教室に入っていったら、意外に満員だった。日文研研究協力課が後でまとめた報告によると、参加者はいままでの平均を上まわる九一人あり、西京区の住人はその一割にも満たず、聴衆の多くは、遠路はるばる滋賀県や京都府、大阪府から来たのである。このことは中日文化交流に寄せる日本の一般民衆の関心の高いことを示しているかと思われる。
  発表が終わって教室の廊下で、ある年配の方が私にこう話してくれた。「私たち日本は中国からたくさんのものをいただいた。陳先生のお話で、日本も恩返しとして千語ぐらいの言葉を中国にさしあげていることを知り、ほっとした。とてもうれしかった。」これはおもしろい話だなと、私は、心に微笑を禁じ得なかった。この方の感想はあるいは聴衆たちの共通の気持ちをあらわしたものかも知れない。
  しかし、実際のところ、国際的交流の場合、先進国から後進国へ伝っていくものが相対的に多いということは、一般的な法則だと思われるが、しかし、それは決して一方通行にはならず、お互いに利益になるところがあると思う。中日両国は一衣帯水の近隣であって、大昔から交流がさかんであった。古代においては、主として日本が中国に学んだが、近代になると、中国が日本にいろんなものを学び取った。「中国語の中の日本語」は、その一例に過ぎないのだろう。そして今は中日交流の新時代に入り、第三のピークを迎えてお互いに学び合っているのである。中華料理がどんどん日本の家庭に進出し、カラオケが中国の都会で大流行していることはそのあらわれだといえよう。
  ところで、私の発表が終わってまもなく、当フォーラムの司会者であり、日文研研究協力専門官の臼井祥子先生から、聴衆からの希望もあり、発表の記録としてもぜひ小冊子を刊行したいというご要望があった。私は喜んでそれに応じることにした。一つは時々友人からほしいといわれて、その都度その都度コピーをしなければならなかったが、小冊子ができると、その手間が省ける。二つは私の日文研での記念にもなる。もう一つはもっと大事なことだが、日本の皆様が拙文で中日文化交流の一端を知るのに役に立つことができれば、さいわいだと思うからである。それで、この 「はじめに」 をつけるとともに、もとの文章をすこし訂正、補足した上で関係の方に手わたした。ただ、印刷上の便宜を図って、文章中に出てくる中国語の用例は中国現行の略字を使わず、日本現行の漢字で間に合わせた。この点、読者の承諾をお願いする次第である。

陳 生保
一九九六年師走
日文研ハウス301室にて

一、日本留学ブーム

 日本語のなかに古代の中国語から来た語彙がいっぱいある。それと同じように、現代中国語にも日本語がたくさん入って住みついている。これらの日本語は十九世紀の末ごろから中国語のなかに入ったのである。
  清の末期、中国の国勢が急速に衰えた。特に鴉片(あへん)戦争以後、中国は各列強の侵略の対象となり、次第に半ば殖民地化していった。中国人は亡国の危機感に襲われ、愛国の志士たちは、痛ましい現実に目ざめて、国を救う道をさがし求めていた。隣国の日本が明治維新後まもなく資本主義の軌道に乗るようになったのを見て、康有為・梁啓超を代表とする中国の一部のインテリが、中国も日本に倣って維新することを主張し出した。一八九八年に起こった戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)は、ほかでもなく日本の明治維新の影響によるものだったのである。戊戌変法は結局失敗に終ったが、その指導者の一人である梁啓超が日本に亡命し、横浜で新聞 『清議報』 と雑誌 『新民叢報』 を出版し、続けて中国の維新を鼓吹した。そして、彼の新聞、雑誌には日本の事が盛んに紹介され、日本語の語彙がたくさん使われていた。梁氏はまた 『日本語を学ぶ利益を論ず』 という文章をしたためて、中国人に日本語を学び、日本の本を読むように呼びかけたのである。
  第一陣の中国留学生が日本入りしたのは、一八九六年のことで、十三名だった。それが年とともに増えた。

例えば 一九〇一年  二八〇名
     一九〇四年  一三〇〇名以上
     一九〇五年  八〇〇〇名

 統計によると、八千名は最高記録だったがこうした日本留学ブームは一九三七年の、中国に対する日本帝国主義の全面的な侵略戦争の爆発まで続いた。一九三六年六月一日当時の在日中国留学生は五八三四人だったが、戦争開始後、みな中国に引き揚げた。一八九六年から一九三七年までの足かけ四十二年の間における中国人の日本留学生の数は、合わせて六一二三〇名に達している。そのなかで学校を卒業したものは一一八一七名である。
  当時の中国では、西洋への留学生も多かったが、なにしろ日本は距離的に近いし、西洋より生活費が低いし、風俗習慣も似ているから、日本に留学する人が特に多かった。そのほかにいわゆる 「同文同種」 というのも、大きな原因となっていたようである。「同文」 といっても、もちろん中国語と日本語がまったく同じ言葉だという 意味ではなく、中国も日本もみな漢字を使っているということだろう。しかし、それにしても、明治時代の日本語には実にたくさんの漢字が使われていた。「てにをは」 などの助詞をのぞいては、名詞、動詞、形容詞はいうまでもなく、副詞などもほとんど漢字で綴られているので、中国人には親近感を与えるばかりでなく、とても便 利だった。梁啓超は 『日本語を学ぶ利益を論ず』の中で次のようにいっている。

「日本語が話せるようになるには、一年間かかるだろう。日本の文章が書けるようにするならば、半年でけっこうである。日本文が読めるだけで良ければ、数日でいちおう出来、数ヶ月で十分である。」

 つまり日本語は速成できるという。そして当時の中国留学生によって 「和文漢読法」 という日本語の速成法が発明された。それは 「同文」 という利点を生かしながら、中国語と日語の相違点に力を入れるという学習法とでも言えよう。文法的に見て、日本語が中国語といちばん違っているところは、二つある。一つは、いろんな語に付けたして文における語の身分と意味を決定する日本語の助詞・助動詞が中国語にはないということ。もう一つは、日本文における動詞と客語の語順が中国語のそれと正反対だということ。したがって、助詞、助動詞などの働きを勉強した上で、文の中の主語を見つけ出し、文の終りにある動詞を見つけ出し、動詞の上にある客語を見つけ出して、頭の中で中国語の語順におきかえれば、大体の意味がつかめるわけである。このような、いわゆる 「和文漢読法」 は、日本人が漢文を読むとき、「返り点」 を使ったり、「てにをは」 を付けたしたりするのと、共通点があるかと思う。
  余談だが、中国では英語を学ぶ人口は一番多いが、二番目は日本語である。日本語を勉強する動機もいろいろあるだろう。しかし、日本語の中に漢語がいっぱいあるから、学びやすいと思う人も少なくないようだ。特に大学で第二外語として選ぶ場合は、そういう傾向が強いように思われる。小生が日本で二年間中国語教育にたずさわった経験から見て、日本の大学生も同じ動機で中国語を第二外語として選ぶケースが少なくないように見える。しかし、中国語と日本語はたいへん異質な言語である。中国人も日本人も相手国の言葉を勉強して行くうちに、だんだんとその難しさを思い知らされるのが常である。そういう意味では上述の梁啓超氏の見方はやや皮相的なものだといわねばならない。

二、日本書の翻訳ブーム

 大勢の中国留学生が日本に来た。彼らはみなはっきりした使命感を持っている。それはつまり明治維新後の日本に学ぶと同時に、日本を通じて西洋文明を祖国に紹介するということである。したがって彼らは短期間の速成的日本語教育を受けたのち、ただちに日本書の翻訳に取り組み、それを日本でまたは中国国内に送って出版した。中国国内でも日本書の翻訳ブームが起きていた。当時翻訳された書物は政治、経済、哲学、宗教、法律、歴史、地理、産業、医学、軍事、文学、芸術など、マルクス・エンゲルスの 『共産党宣言』(注) から川口章吾の 『ハーモニカ吹奏法』 まで、社会科学と自然科学のあらゆる分野にわたっている。一九四五年日本国際文化振興会によって出版された実藤恵秀氏の 『中訳日文書目』 によると、合計二六〇〇点あるそうだ。当時留学生たちは翻訳の組織をつくり、「譯書彙編』 や 『游学譯編』 などの雑誌を出版し、単行本を出版した。日本の中学 校の教科書をかたっぱしから訳すという 「教科書譯輯社」 という団体までできていた。留学生の翻訳事業が起ると、それを出版するための出版社もいろいろできた。日本には梁啓超関係の広智書局、湖南留学生による湖南編 譯社、福建留学生による[びん]学などがあった。中国では最大の出版、社商務印書館もたくさんの訳書を出版した。
  文学、芸術関係の訳文、訳書を例に見てみよう。一八九八年、中国の維新をめざす戊戌変法が失敗したあと、梁啓超は、秘密裡に日本の軍艦に乗って日本へ亡命する途中で、東海散士の 『佳人之奇遇』 という政治小説を訳した。これは日本の近代文学が中国に紹介されるスタートであった。それから一九四八年新中国が成立する前夜まで、約五十年間のあいだに日本から中国語に訳された小説、戯曲、文芸理論などをふくめて単行本だけで二五九点あり、新聞や雑誌に発表された訳文は五一一編に達している。訳された作者の名前を見ると、ほとんど当時の日本文壇で活躍した作家を網羅した観がある。たとえば武者小路実篤のものは、はじめ魯迅が 『ある青年の夢』 を訳し、中国の読書界に歓迎されたため、十数種の作品が訳された。そして上海は訳書出版の中心地だった。

《注》=中国で最初に出版された『共産党宣言』は、日本語版から翻訳されたのである。訳者は、今は亡き元上海復旦大学学長・陳望道氏である。

三、日本語が中国語の中になだれ込む

 おびただしい日本の本が中国語に訳され、出版される一方、他方では留学生たちが日本書を読んだ影響で自分の文章にたくさんの日本語を引用した。そのほかに当時の日本は中国、とくに上海で多くの新聞・雑誌を刊行していた。こうして大量の日本語が中国語のなかにどっと入りこんだ。もちろん日本語といっても日本語の語彙が主で、表現法も少々入った。
  一九一九年の 「五四運動」 前後の中国は激動のさなかにあった。中国語の書きことばも古代漢語だったところから、いわゆる白話文 (話しことば) を主とする現代漢語へ脱皮する時期だった。「五四」 以後の中国文壇の作家の多くは日本留学生だった。中国新文学運動の主将である魯迅をはじめ、郭沫若、郁達夫、田漢、夏衍など、たくさんいた。まさに今は亡き郭沫若氏が一九五五年中国学術代表団の団長として来日した時、早稲田大学で行った講演で述べているように、「中国文壇の大部分は日本留学生がつくりあげたのである。創造社の主要な作家は日本留学生であり、語絲派も同様である。……中国の新文芸はすっかり日本の洗礼を受けている」。こうした日本留学生出身の作家たちは好んで、自分の文章、作品のなかに日本語の語彙や表現法を借りて使った。魯迅は大文豪であり、中国新文芸のリーダーであった。彼は青年時代、日本に留学し、はじめは東京の弘文学院で日本語を学び、のちに仙台の医学専門学校で医学を勉強した。魯迅は古い中国語ではもう不十分だから、外国語から必要なことばをどんどん取り入れるべきだと強く主張した。彼の作品は、内容から見てもことばから見ても非常に中国的であるが、しかし、彼の文章にも日本語からとり入れたことばが少々ある。例として 「万年筆、日傘、人力車、定刻、構想、直面、車掌、残念、夕方、丸、時計、名所、写真」 などが挙げられる。
  大量の日本語が中国語のなかに入ったことに対し、中国人のなかには、賛成する人もあれば、反対する人もあった。梁啓超は賛成派である。彼は自分の文章のなかでたくさんの日本語を使った。それでも彼は日本人がつくった 「経済」 と 「社会」 という二つの訳語がどうしても気に入らず、別のことばでそれにとってかわるべきだと強く主張した。当時もう一人の翻訳大家の厳復は、西洋語を直接に音訳するか、または中国の古典の書物からそれ相応の、あるいは近い意味のことばを見つけ出して訳語として使う方が良いと主張した。さらに日本からことばを輸入することに断乎反対する人もいた。例えば、彭文祖がその一人である。彭は日本留学生で、一九一五年に 『盲滅法な新語』 という本を出版した。その中で彼は日本からの新語の導入のことを 「民族の存亡と係りある大事だ」 とし、日本語の大量導入を 「恥知らずな行為だ」 と罵り、「そういう人たちの首をばっさりと一刀の下に切ってしまいたい」 とさえ言った。
  さて、はじめのころは、日本の訳語と厳復らがつくった訳語が共存した。例をあげてみよう。
  「Economics」 という英語は日本語で 「経済学」 と訳されているが、それにはとても抵抗を感じたようである。なぜなら 「経済」 ということばはもともと中国の古語であり、「経世済民」 の意である。「経世済民」 とは世の 中を治め、人民の苦しみを救うことである。現代語におきかえるならば大体 「政治」 という語に相当するからである。現に竹下登前首相の 「経世会」 は 「経世済民」 という言葉をふまえたように思われる。いうまでもなく、それは政治家のグループであって、経済の組織ではない。そのため厳復は 「計学」 と訳し、梁啓超は 「資生学」 または 「富国学」 「平準学」 という訳語を使った。ちなみに 「平準」 は 『史記』 に出ている言葉で、物の安いときに官が買い入れ、高いときにそれを売り出して物価を調節する制度で、前漢の武帝に始まる。そのほか 「哲学」 (Philosophy) は 「理学」 「智学」 と共存し、「社会学」 (Sociologie) (仏語) は 「群学」 と共存した。そのほか挙げてみよう。

物理学−格致学 地質学−地学 砿物学−金石学 雑誌−叢報
社会−人群 論理学−名学 原料−天産之物 功利主義−楽利主義

 ところが、厳復らの自作新語の大部分は、日本の訳語ほど良くなかった。というのは、かれらの訳語は古典から来たものが多くてわかりにくかったため、流行しなかったからである。今からふりかえってみれば、厳復らのやりかたには、そもそも無理があった。ことばは社会実生活の反映である。中国語に入った西洋の新語はもともと中国社会になかった事物である。古い中国語からそれ相応の語をさがし出すのは、なんといっても無理な話である。ない袖が振れぬとはこの事だろう。したがって日本の訳語と厳復らの訳語が一時期共存はしたが、結局の ところは日本訳語の勝ちとなり、厳復らの訳語は、姿を消してしまった。のちに梁啓超も 「経済学」 「社会学」 ということばを使わざるを得なくなった。当時、日本の訳語を借りて西洋の新語を導入することが逆らうことのできない趨勢だったといえよう。今では 「経済、社会、哲学」 などの日本訳語はもうとっくに現代中国語のなか に住みつき、帰化している。それが日本からの外来語だということを、ほとんどの中国人はもう知らないのであり、「計学、資生学、群学」 などのことばが昔 「経済学、社会学」 と共存した事実はなおさら知らないのである。日本語が中国語のなかになだれこむ背景には、中国が西洋の新語を積極的に輸入する事情があるほかに、当時日本における新語のつくり方にも原因がある。当時の日本では、西洋の新語を訳すとき、少数の音訳をのぞいて大部分は意訳をしていた。しかも音訳であろうと、意訳であろうと、みな漢字を使っていた。特に意訳の場合は、ちゃんと中国語の造語法のルールを守ってつくられた。具体的には次の通りである。

 要するに、日本人は西洋のことばを日本語に訳すとき、漢字を使って中国語の造語法の法則にしたがって訳語を苦心惨憺してつくったと言える。特に第三の 「動詞+客語」 の造語法は日本語にはもともとないばかりか、日本語の文法とは正反対である。こうしてできた日本の訳語が大量中国語のなかに入っても、中国人はちょっと見知らぬことばだなと思うことがあったかもしれないが、あまり違和感を持たなかったにちがいない。まるで日本生まれ日本育ちの華僑の人が中国に帰国したようである。もしも当時、戦後の日本のように外来語は全部片仮名の音訳で片づけてしまうならば、日本語の中国語への大量進出はありえなかっただろうと思う。
  日本語が中国語に入る時から定着までは1つのプロセスがあった。最初は中国人になじみがないので、そういう語に注釈がつけられたりした。梁啓超の文章から一、二例を挙げてみよう。   

 またもっぱら日本語から新語を収集する語彙集や辞書類も多種類出版された。第一陣の留学生が来日する一八九六年から新中国が成立する一九四九年まで、五十年あまりの歳月が過ぎたが、日本からの新語はもうすっかり中国語のなかにとけこんだと言える。

四、日本来源の語に対する研究

 清の末期、日本留学ブームがでてから、日本語の語彙集、辞書類、教科書などが数多く出版されたとはいえ、中国語の中の日本語に対する研究が本格的に行われるようになったのは、新中国になってからである。つまり中国語の規範化と文字改革を進めるために、中国語の中の外来語を今後どうするかという問題に直面したのである。そのためにはまず中国語の中の外国語の状況を明らかにする必要があった。一九五八年、中国の有名な言語学者高名凱・劉正王炎の 『現代漢語の中の外来語研究』、王立達の『現代漢語中日本語から借りて来た語彙』 を皮切りに、中国語の中の外来語が研究され、一九八四年には『漢語外来語辞典』 が出版された。次に、私が読んだ範囲で今までの研究成果をまとめて報告しよう。
  まず数のことだが、日本語の語彙がどれくらい中国語に入っているのか。学者によって統計の数字が少し違うし、中国元来の語または中国人が作った訳語か、それとも日本でできたものか、区別のつかない語も一部あるが、大体千語ぐらい入っている。『漢語外来語辞典』 には、一万あまりの外来語が収められているが、それは二千年ぐらいの間に中国語に入った外来語全体である。数からいえば日本語は約一割を占めているに過ぎないが、しかし、総数一万あまりの外来語には、遠い昔ぺルシャ (現在のイラン)、印度及び西域から入った 「獅子、葡萄、琵琶」 などの語のほか、「仏陀」 などの仏教用語がたくさんあり、その多くはもう死語か、あまり使わない語になっている。それに対し、日本語は最近五十年間にどっと入ったものだし、ほとんどは常用語として中国語に定着している。
  第二に近代になって中国語に入った新語のほとんどは日本語からである。西洋から直接入ったものもすこしあるが、それは全部名詞であり、しかも現在あまり使わないものが多い。日本語から入ったものは、名詞だけでなく、動詞もある。例えば 「服従 復習 支持 分配 克服 支配 配給」 などがそうである。また、自然科学や社会科学の基本概念も多くは日本語から来ている。例えば 「哲学 心理学 論理学 民族学 経済学 財政学  物理学 衛生学 解剖学 病理学 下水工学 土木工学 河川工学 電気通信学 建築学 機械学 簿記 冶金 園芸和声学 工芸美術」 など。
  第三に、日本来源の語は、現代中国語における使用頻度が非常に高い。一九六〇年、中国の『文字改革』という雑誌に『二音節基本語の出現頻度統計表』 が載っているが、それは中国で広く読まれている刊行物 『紅旗』『人民日報』『光明日報』及び高校の国語教科書などを対象に調査した結果である。それによると、二二八五の二音節基本語のなかで出現頻度五〇〇以上の語は八八語あるが、そのうち日本語から来たものは二八語 で、三一・八%、およそ三分の一を占めているというわけである。
  第四に日本来源の語は、常用語としての名詞、動詞、自然科学と社会科学の基本概念ばかりでなく、造語の力を持つ接尾語のような語が二三もある。これらの語は現代中国語で幅広く活躍している。各々例を挙げてみる。

 中国語のなかに入った日本語を分析してみると、次の通りである。

五、中国語に与えた日本語の影響

  今から四十五年前の一九四二年、中国共産党の指導する抗日戦争の根拠地の延安では、「整風運動」 といって党の作風を改善する運動が行われた。毛沢東主席がそのとき 「党八股 (共産党の文章の缺点) に反対する」 という演説を発表したが、その中で、表現を豊かにするためには、第一に人民大衆のことばに学ぶこと、第二には外国語から学ぶこと、第三には古典から学ぶことを呼びかけている。外国語から学ぶことについて次のようにいっている。

「第二には、外国語のなかからわれわれに必要なものをとり入れる。われわれは外国語をむりに輸入したり、濫用してはいけないが、外国語のなかの、良いもの、われわれが利用できるものはとり入れる必要がある。中国語は、語彙が十分でないから、現在、われわれの語彙のなかには、外国からとり入れたものが、たくさんある。たとえば、今日開いている、この幹部会、この 「幹部」 という語は、外国から学んだものである。われわれは、もっと多く、外国の新鮮なものをとり入れなければならない。かれらの進んだ道理をとり入れるだけでなく、かれらの新鮮な用語も、とり入れなければならない」。

 ここでいっている 「幹部」 という語は外国から学んだもの」 とは、疑いもなく 「日本から」 ということである。
  日本語が中国語にたくさん入ったといっても、主として自然科学と社会科学の新語である。生活用語には、中国固有のものが多く、日本からはあまり来ていない。
  例を挙げてみよう。故毛沢東主席には有名な論文 『実践論』 がある。
次はその一節である。

 「マルクス以前の唯物綸は、人の社会性を無視し、人の歴史的発展を無視したもので、認識問題を観察した。それがために、認識と社会実践との依存関係、すなわち、生産階級闘争にたいする認識の依存関係を了解することができなかった。
 まず第一に、マルクス主義者は、こう思う…人類の生産活動は、最も基本的な実践活動であり、その他のすべての活動を決定するものである。人の認識は、主として、物質生産活動に依存し、しだいに、自然現象自然の性質・自然の法則・人と自然との関係を了解する、そのうえ、生産活動をとおして、各種の、ことなる程度で、しだいに、人と人との、一定の相互関係を認識する。これら一切の知識は、生産活動をは なれては、得ることが、できない。階級のない社会では、どの人も、社会の一員という資格で、その他の社会のメンバーと協力し、一定の生産関係を結び、生産活動に従事して、人類の物質生活の問題解決する。いろいろな階級社会では、各階級社会のメンバーは、やはりいろいろ、ちがった方式で、一定の生産関係をむすび、生産活動に従事して、人類の物質生活の問題を解決する。、これが、人の認識発展の基本的な、みなもとである」。

 下線部の語は日本来源のものである。四分の一ぐらいのことばが日本からのものである。中国の憲法にも日本来源の語がたくさんあるし、その他の社会科学、自然科学関係の論文にも大体同じ傾向が見られる。
  こういうことがあるから、中国人が日本語を勉強する場合、発音段階を終えて、基本的文法をいちおう学習したら、毛沢東の 『実践論』 のような理論文が読めるようになる。それは理論文の中に中国語に定着した日本語がいっぱいあるからである。しかし、逆に大和言葉の多い日本の小学生の国語教科書や童話を読むのはむずかしい。中国語を学ぶ日本人にも同じケースがあると聞いている。これはなかなかおもしろいことだ。なぜなら、普通、外国語、例えば英語を勉強するばあいは、生活文より理論文の方がずっとむずかしいからである。
  現代中国語に対する日本語の影響について高名凱氏は 『現代漢語のなかの外来語研究』で次のように述べている。

「現代漢語の語彙に対する日本語の影響はたいへん大きい。現代漢語における外来語の主要なるものは日本語から来ている。日本語は漢語外来語の最大の源だといっても過言ではないだろう。おびただしい数にのぼる西洋語のほとんどは、日本語を通じて現代漢語の中に導入されたのである」。その影響を具体的にいうと、次の三点が挙げられる。

 一八九六年第一陣十三名の中国留学生が来日したときから数えて、今年はちょうど百周年に当たり、関西などでは日本滞在中の中国人留学生を中心に「中国人日本留学百周年」 の記念行事が行われた。そして千語あまりの日本語はすっかり中国語のなかに定着し、帰化して、現代中国語のなかの不可欠の構成部分となっている。「共産党、幹部、社会主義、経済、手続」 などのことばは、中国人なら誰でもよく使うものだが、しかし、ほとんどの人はもうその来源を意識しないし、それを知らないのである。
  日本語の場合も同じようなことがある。辞書によって多少差はあるが、日本語の語彙は、今でも半分ぐらいは 漢語語彙だそうである。その大部分は古代中国語から来たものであり、その一部分は日本でつくられたものである。しかし、日本人は中国来源の漢語語彙を外来語だと、まったく見なしていないし、それが中国からのことば だと意識する人も、非常に限られているだろう。これはなんと不思議な現象だろう。
  もう一つおもしろいことがある。同じ書き方のことばでも、その読み方は中国人と日本人でぜんぜん違う。例えば 「哲学」 ということば−これはギリシャ語 「Philosophia」 の意訳語だが、中国人は 「zheque」 と読み、日本人は 「Tetugaku」 (てつがく) と読む。読み方がそれぞれ違っていても、同じ意味で理解する。そして中国人も日本人も、それを外来語と見なさない。こういう現象は、たぶん漢字文化圏内、とくに中日両国間にしかないものであろう。
  以上述べたことは、中日両国間の文化交流の歴史の長いことと影響の深いことを、あますところなく立証していると思う。(了)

〈主要参考文献〉