報道特集【新国立競技場と五輪のあり方▽戦災孤児と養育院の悲劇】 2015.12.26


スリランカにサーフィンをしに行きます。
旅行に行って、また来年も1年頑張って来年、どこか海外旅行に行けるように。
今年も残すところあとわずか。
成田空港は出国ラッシュのピークとなった。
今日だけで4万2400人が出国する見通しで、帰国のピークは1月3日の予想。
一方、国内の空の便。
帰省ラッシュのピークは来週29日で、Uターンのピークは1月3日の予想。
新幹線も混雑が始まっている。
JR東海によると、東海道新幹線は一部列車の自由席の乗車率が100%を超えたとのこと。
JRグループは下りのピークは30日、上りのピークは1月3日と予想していて、新幹線の指定席の予約数は2005年以降、最も多いとのこと地下アイドルやメイド喫茶などの店で賑わう秋葉原では、街ならでのは年末年始の過ごし方も。
秋葉原大好きなんですか?大好きです、秋葉原。
師走の買い出しといえば、東京・上野のアメ横。
去年の大みそかには50万人が訪れたと言う。
中には外国人観光客の姿も。
年越しカウントダウンに多くの人が集まるのが東京・渋谷。
混雑を避けるために、今年もDJポリスが出動するなど厳戒態勢が敷かれ、一部のエリアでは歩行者の立ち入りが規制される。
今年は外国人向けにチラシもつくられるとのこと。
思い思いの形で過ごす年末年始。
やり残したことはありませんか?今年も残すところ、あと5日あまりとなった。
安保法制、沖縄、イスラム国、社会的弱者など、私たちなりのこだわりを持って報道を続けてきましたが、いかがだったでしょうか。
インターネットで知り合った少女の悩みにつけ込み、誘い出していた。
愛媛県宇和島市の女子中学生を誘拐した疑いで逮捕された神奈川県に住む男が、ついてきそうだと思い、誘ったという内容の供述をしていることが新たにわかった。
武藤容疑者が松山空港に移送されてきました。
帽子とマスクを着けていて、表情を見ることができません。
この事件は今月6日、宇和島市内に住む15歳の女子中学生を車で自宅へ連れ去り誘拐した疑いで、神奈川県相模原市の武藤真二容疑者37歳が逮捕されたもの。
調べに対し武藤容疑者は、容疑を認めているとのこと。
武藤容疑者の自宅と、女子中学生の住む宇和島市はおよそ900km離れていて、武藤容疑者は、俺んち来ん、などと誘い出している。
その後の警察への取材で武藤容疑者が、ついてきそうだと思ったから誘ったという趣旨の供述をしていることが新たにわかった。
また、女子中学生は警察に、家出したくて自分でついていったなどと話していて、関係者によると、2人は今年9月中旬に、インターネット上での悩み相談を通じて知り合ったとのこと。
警察では今日、武藤容疑者を送検しさらに詳しい動機や経緯を調べている。
人気お笑いコンビ、キングオブコメディの芸人の男が東京・世田谷区の都立高校に侵入し女子生徒の制服を盗んだとして警視庁に逮捕された。
逮捕されたのは人気お笑いコンビ、キングオブコメディの高橋健一容疑者。
高橋容疑者は今年4月、世田谷区にある都立高校の体育館の女子更衣室に侵入し、部活動中だった女子生徒3人の制服のブレザーやスカート、靴下など合わせて24点を盗んだ疑いが持たれている。
高橋容疑者の自宅からは、ゴミ袋およそ70袋に入った女子高校生の制服など600点が押収されたとのこと。
高橋容疑者は、こちらの自家用の軽トラックを使ってたびたび高校荒らしを繰り返していたということです。
現場近くの防犯カメラには、高橋容疑者が乗ってきた軽トラックが映っていたとのこと。
去年1月以降、都内の高校で女子生徒の制服などが盗まれる被害が10件近く相次いでいて、警視庁は高橋容疑者の犯行と見て調べている。
取り調べに対し、高橋容疑者は性的欲求を満たすためだった、20年くらい前から50〜60件やったと容疑を認めているとのこと。
キングオブコメディは2010年、お笑いコンテストで優勝し、テレビなどで幅広く活躍していた。
高橋容疑者が所属する芸能事務所のプロダクション人力舎は、関係者の皆様には多大なるご迷惑をおかけいたしましてまことに申し訳ございませんとコメントしていて、現在、事実を確認中だとのこと。
長野県松本市の民家で昨日、家族3人がハンマーのようなもので殴られた殺人未遂事件で、警察は、逮捕した男とこの家の男性の間にトラブルがあったと見て調べている。
逮捕されたのは、塩尻市の会社員、飯島年和容疑者43歳。
警察の調べによると飯島容疑者は昨日午後5時半過ぎ、松本市の民家に押し入り、76歳の男性ら家族3人をハンマーのようなもので殴って重軽傷を負わせた疑い。
飯島容疑者は、殺すつもりはなかったと供述しているとのこと。
飯島容疑者と男性は知り合いで、警察は、2人の間にトラブルがあったと見て動機などを調べている。
今朝、北海道東部の釧路町で凍結した路面でスリップした軽乗用車が踏切に入って列車と衝突し、運転していた女性が意識不明の重体。
今日午前8時過ぎ、釧路町別保のJR花咲線の踏切で、根室発釧路行きの普通列車と軽乗用車が衝突した。
この事故で軽乗用車ははじき飛ばされ、運転していた釧路町別保の中森京子さん61歳が病院に運ばれたが意識不明の重体。
警察によると軽乗用車は凍結した路面でスリップして遮断機が下りていた踏切に進入したものと見られている。
列車の乗客33人と運転士にケガはなかった。
乗客は列車を降りて、JRが用意したタクシーでそれぞれの目的地に向かった。
静岡県御前崎市の浜岡原子力発電所で2011年から進められてきた津波の進入を防ぐ防波壁の本体工事が今日、完成する見込み。
浜岡原発の防波壁は、高さが海抜22m、全長1.6kmで中部電力が東日本大震災の直後から4年以上にわたり建設を進めてきた。
当初18mの高さで建設が始まったが、その後、国が想定した南海トラフ巨大地震の津波の高さが計画を上回っていたことから、4mのかさ上げを行い、今日、ようやく本体部分の完成にこぎつけた。
現在、壁の東西の延長部分で盛り土工事が続いていて、防波壁全体の完成は来年3月の予定。
浜岡原発では4号機の安全対策工事が来年9月末に終わる予定で、総工費は防波壁を含めて3500億円から4000億円に上る見込み。
アメリカのクリントン元大統領の生家で火事があり、放火の疑いが持たれている。
地元警察によると、現地25日未明アーカンソー州のビル・クリントン元大統領の生家から出火。
消防が駆けつけ、家の裏手の壁から火が上がっているのを消し止め、屋内への延焼は一室のみにとどまった。
現場でガソリンのにおいがしたことや、玄関の扉などが落書きされていたことから、捜査当局は放火の可能性もあると見て調べている。
24日、ナイジェリア南部のアナンブラ州にあるガスプラントで、ブタンガスを積んだトラックが炎上した。
現場はキリスト教徒の多い地域でクリスマスの料理のため家庭用のガスボンベを充填しようと訪れた人々が爆発に巻き込まれた。
ナイジェリアの大統領府は、爆発で数十人が死亡したと発表しているが、ロイター通信は死者は100人以上とする地元記者のコメントを伝えていて、情報が錯綜している。
特集です。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場のデザインが迷走の末、今週ようやく決まりました。
デザインを手がけた建築家の隅研吾さんご本人に話を聞きました。
一方、競技場の建設予定地周辺には複雑な思いで年末を過ごす人たちの姿がありました。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場のデザインが、ついに決まった。
選ばれたのは、建築家の隅研吾氏や大成建設などのチームが提出した計画。
A案といわれるこの計画の基本コンセプトは、木と緑のスタジアム。
国産の木材をふんだんに使う。
建築家の伊東豊雄氏らが提出したB案との接戦をモノにした。
審査委員会が採用の決め手にしたのは、工期短縮の実現性だった。
一方で、オリンピック施設の建設が本格化すると、被災地の復興に影響が出るとも言われている。
現地では非常にオリンピックが近づくにつれて、人手の確保が量的にも質的にも難しくなる。
さらに人件費の暴騰も非常に憂慮している部分があるわけですけれども。
そういった中でいかにやっていくかというところで、審査員も含めまして検討してきました。
ようやく決定した建設計画だが、その選考方法には疑問の声も上がっている。
建設案決定の翌日、およそ70名が参加した勉強会が都内で開かれた。
その中で、多くの建築家が指摘したのは、工期短縮に重きを置いた評価方法だった。
ですから3月でも僕は厳しいと思っていたところにさらに1月にした方が優先順位は高いとか、それだけ評価を高くしますよという言い方をしたところが、僕は審査委員長の考えはおかしいなと。
さらに、将来的な競技場のあり方について、議論が不十分だったという意見も。
サッカージャーナリストの後藤氏が指摘するのは競技によって求められるスタジアムの構造が異なるということ。
例えば、サッカー競技場として見ると陸上競技のトラック分、客席がピッチから遠くなり、観戦しづらいという声もある。
また、陸上の投てき種目を行うことで天然芝が傷み、維持費に頭を悩ませることにもなりかねない。
それを決めた上でデザインだ、設計だという本来は話になるべきものが、おととし、オリンピック招致に成功した東京。
東京都知事として招致を勝ちとった猪瀬直樹氏は、今回の建設案決定を複雑な思いで受けとめた。
競争にならないんですから。
A案とB案しかないんですから、もう時間がなくて。
よく我々、途上国のオリンピックは何やってんだとか、少し、嘲笑気味に見てるときありましたよね。
とりあえず今回間に合うということで、少しホッとしていますけどね。
猪瀬氏は、白紙撤回された建築家、ザハ氏の案でも実現は可能だったと指摘する。
デザイナーというのは、こういうものをつくりたいですよというのを出すのであってね。
施主が3000億円でいいのか、1500億円でいいのかわからないまま迷走したから問題が起きていったわけですね。
当初1300億円が想定されていた新国立競技場の建設費は二転三転してブレ続け、その負担をめぐっては、国と東京都が舌戦を繰り広げた。
誰が責任者なんですか、こういうことについてはと私は申し上げていて。
建設費だけではない。
猪瀬氏は、そもそも大会組織委員会の体質自体に問題があると指摘する。
実際問われてるんだけれども。
つまり組織委員長というのは、具体的に森さんですか?この後、まだいろいろな問題を抱えているわけですよ。
そういう不安がありますよね。
オリンピックの円滑な開催には今後何が必要となるのか。
透明性を高めて、そしてオリンピックに臨んでいくということで常にこういうオリンピックにしたいとか、こういう夢があるとかということを語っていく必要があるわけですね。
ようやく動き出した新国立競技場の建設計画。
その陰で、建設予定地に隣接する都営団地が最後の年越しを迎えようとしている。
ここはいつまで?今年いっぱいですね。
一応、店は30日までやります。
いろんな思いはあるでしょ?いや、それはこの中にはありますけどね。
ここまで来たら、そこに行こうと、みんなで一緒にね。
環境によって支配されるんじゃなくて、私たちはどこへ行っても希望です、すべてが。
希望に結びつける。
130世帯の住民の多くは、近くに建てられた都営住宅に移るが思いは複雑。
この団地で雑貨店を営んできた甚野公平さん。
彼もまた、年内で店を閉めることを決めている。
1943年、初代競技場で学徒出陣を見送った甚野さん。
その後、1964年の東京オリンピックの際に今の明治公園のある場所からの立ち退きが決まり、この団地へ引っ越した。
そして80歳を超える今、オリンピックによる人生2度目の移転を迫られている。
引っ越しするって、つらいね。
おばあさんもこっちに住んでるの?そう、こちらに住んでんの。
私は、向こうへ行くの、女子医大の裏へ。
でも、何か落ち着かない正月ですね?落ち着かないんだよ、まだ引き出しの中、整理しなきゃいけないし。
国立競技とともに生き、その存在に翻弄されてもきた80年。
今回の立ち退きについて、当初の都の説明は2019年開催予定のラグビーW杯だったと言う。
来ないと思います。
むしろ成功しなきゃいけないとは思っています。
でも、もう少し何か、気持ちの上ですっきりしないなというのが、いつも残っていますね。
2020年東京オリンピックの顔となる新国立競技場。
デザインを担当した建築家、隅研吾氏はそこに、どんな思いを込めたのか。
隈氏が金平キャスターとの単独インタビューに応じた。
隈さんが参加されようと思った一番の思いっていうのは何だったんですか?建設予定地は神宮の緑に囲まれている。
隈氏は周辺との調和を重視した。
大企業の最先端の技術に頼らないでもつくれるような材料でみんなつくるってことなんですよね。
伸び放題に放っておいても格好がつく木を選ぼうと。
2度目の開催となった東京でのオリンピック。
しかし、前回の大会とは意味合いや描くデザインが全く異なると、隈氏は言う。
建物は発展する、拡張するっていうんじゃなくてむしろ小さくなってもいいかもしれないし、より低くなってもいいかもしれない。
隈氏は、津波の被害を受けた宮城県南三陸町の市街地全体の再生プランも請け負っている。
コンセプトは競技場のデザインと共通していると言う。
僕個人としては実は同じことをやっていると思っているんですよ。
逆に人に対して安らぎを与えたり、その中でできるいろんなイベントが人を集めてくれるんじゃないかと思って。
隈さんの記者会見の後に、今回、使うのはスギと構造材にはカラマツという2つの材料で、国産材をなるべく使おうって言ったんで、なるべくいろんなところのを使いたいというか。
紆余曲折の末、無事決まったわけですけれどもやはりオリンピックが終わった後も長く使えて、そして愛されるスタジアムになってほしいなと願いばかりですけれども、隈さんご本人は何とおっしゃってたんですか?隈さんが強調していたのは建築家の社会的な役割というのが、1964年の東京オリンピック、あのときとは全く変わったんだと。
国立競技場のような公共的な建物というのは、人に好かれるスタジアムじゃなきゃいけないと言ってましたね。
昔は専門家だけで決めて、コンペもそういうものだったんですけれども、今はむしろいろんな人の意見を聞いて、むしろ受け身になるというのが建築家の役割だと。
大転換が起きているとおっしゃっていましたね。
オリンピックで2回目の立ち退きを迫られている甚野さんも、一番好きなのは初代の競技場。
あの競技場というのは学徒出陣があったんですがあの競技場がスタンドが土手になってて、一般の人がどんどん入れて、非常に開かれたスタジアムだったんですって。
それで64年の2代目のスタジアムは巨大な壁みたいに、閉ざされたみたいだと振り返っていますけれども。
開かれたスタジアムですね。
考えてみればオリンピックをめぐるこの2年間の迷走というのは僕らに教えてくれているんですね。
高度経済成長時代のオリンピックは、違うと思うんですね。
中にはオリンピックに来てほしくないと思っている人たちもいるわけでしょ。
被災地の思いを考えると、隈さんが言っていたように、震災復興のための仕事と、それからオリンピックの仕事っていうのは自分にとっては同じぐらい重要なんだという、その言葉を聞いて私は、建築家としての重みのようなものを感じました。
戦後70年の今年、「報道特集」では戦争に関する様々な特集をお伝えしてきました。
年内最後の特集は、戦争孤児です。
戦争で親を亡くした子どもたちは戦後、どんな境遇に置かれたのか。
さらに孤児たちが収容された施設で起きた悲劇とは。
肩から頬にかけて残るヤケドの跡。
耳は焼け落ちて、形はほとんどなくなってしまった。
戸田成正さん85歳。
70年前、空襲で負ったヤケドの跡を、この日、特別に私たちに見せてくれた。
これならわかんないでしょ、あんまりね。
こういう状態で、日立で15のときから7年か、8年。
顔を見るなり、目をそむけられることも多かった。
今も傷を隠すためにカツラをつけ、口元には、ばんそうこうを貼って外に出ている。
ここら辺ですね、2階建てで。
玄関がガラス戸で、ここから逃げようと思ったら真っ赤でね。
東京・荒川区で、目の不自由な母親と2人暮らしだった。
被害に遭ったのは70年前の4月13日。
戸田さんの自宅周辺は大規模な空襲に見舞われた。
轟音が鳴り響く中、母親の手を引きながら表通りに出たとたん、2人は焼夷弾の炎に襲われた。
ここへ出たとたんに、親子焼夷弾で私と母親が、もろに浴びたんです。
戸田さんと母親は、すぐに病院に運ばれたが、母親はしばらくして亡くなった。
当時、公費で入院できたのは3カ月まで。
退院を余儀なくされた戸田さんは、一時、戦争孤児が暮らす施設に保護されたこともあった。
だが、満足な食事にはありつけず、半年で脱走。
たどりついたのが上野だった。
当時、上野駅周辺は空襲で焼け出された人たちであふれ返っていた。
駅の地下道には、寝場所を求める人々が押し寄せ、足の踏み場ないほど埋め尽くされた。
戸田さんもしばらく上野駅で路上生活を続けた。
まだ14歳だった。
ここへみんな並んでたんです、浮浪者が。
ここのところ、ずっと。
その両脇に。
その中に私も入ってたんです。
おむすび食べてる人がいたから手出したら、1つくれましたよ。
また手出したんですが、2つ目はくれなかったです。
保護してくれる人もなく、行き場を失った戸田さんは、その後、腹違いの姉に引き取られ、成人を迎えた。
つらい少年時代の記憶は、今も忘れることができない。
よく生きてたな、よく生きられたなってことだよね。
戸田さんが保護された施設では、想像を超えるような悲劇が起きていた。
ここら辺だ、今はもう何でもできちゃってるけど、大体は原っぱで芋畑。
東京・板橋区。
かつてここには、戦争で母親を亡くした戸田さんが半年間過ごした施設があった。
東京都養育院。
都が運営していた養育院は、もともと生活困窮者や身寄りのない老人たちが暮らす施設だった。
だが、戦争を境に親を亡くした戦争孤児が急増したため、施設の一部は孤児たちの保護に利用された。
その場所には今、高齢者の医療センターが建ち、養育院の名残は、この石碑ぐらいしかない。
お腹すいてたんでしょうね。
食糧難の中、配給される物資は少なく、子どもたちは皆、飢えに苦しんでいた。
食糧ってものに対しては、随分ひどかったんじゃないかと。
終戦直後、養育院は戦争孤児たちであふれ返っていた。
終戦から3年後、当時の厚生省が行った調査によると、沖縄を除く全国の孤児の数はおよそ12万3000人。
東京だけでも6000人近い孤児がいた。
親もなく、頼る相手もいなかった孤児たちは、街中の残飯をあさり、時には盗みも働いた。
野良犬、バイ菌と言われてさげすまれ、世間から差別的な扱いを受けていた彼らは、浮浪児と呼ばれた。
そんな浮浪児を街から一掃するために国がとった手段は、狩り込みと言われるものだった。
嫌がる子どもを無理やりトラックに乗せ、そのまま施設に収容した。
「上野地下道に狩り込み」という見出しが新聞に載るほど、狩り込みは、日常的に行われていたこれは当時、お台場にあった収容施設。
狩り込みに遭った浮浪児たちは裸にされ、鉄格子の中に閉じ込められた。
それだけではない。
東京大空襲で両親と兄を亡くし、11歳で戦争孤児になった星野光世さん。
星野さんは、ある女性孤児の壮絶な体験を絵に残していた。
おじさんたちが、いいところへ連れていってあげるからなと言って乗せられたっていうんですね。
最後、薄暗い森の中で車を停めて、それで子どもたちをおろすと、車は一目散に走って去っていっちゃったというんですよ。
孤児収容所じゃなくて、山奥へ捨てに行ったんですね。
だから、浮浪児はどんな目に遭わせてもいいということですよね、大人からしたら。
これは戦後、養育院に収容された子どもたちの姿。
栄養失調で腹は膨れ、手足は、まるで枯れ枝のように細いあばら骨も浮き出ているのがわかる。
養育院の歴史をまとめた「養育院100年史」の中に、孤児たちが収容されていた建物の絵が残されている。
幼少年保護寮。
木造平屋の建物は、周りを柵で囲われ、窓には、逃亡よけの竹格子まで取りつけられていた。
当時、幼少年保護寮で孤児たちの世話をしていたのが、現在102歳になる鎌田十六さん。
実は、鎌田さん自身も被災者だった東京大空襲で母親と夫と生まれて7カ月になる娘を亡くした鎌田さんは、戦後、養育院や児童相談所で、500人以上にわたる孤児たちを我が子のように育ててきた。
こんな汚いのに、まったくもう、足でしょっちゅう蹴るから、こんなボロになって。
あの頃の染めですから汚いですよね。
これ、あ、そうだ、これそうですよ。
幼少年保護寮の絵を見せると…ここら、みんな子どもが遊んでるんですよね。
ああしてると寂しくないのかどうか、みんな仲間でいましたけど。
だが、身の回りの世話をしても、食糧と自由を求め、翌朝にはほとんどの子どもが街に逃げ出していったと言う。
そんな子どもたちも、親の愛情には常に飢えていたと言う。
戦争を境に、多くの孤児や浮浪児たちを保護した養育院だが、実は、あまり世に知られていない悲劇があった。
養育院の中にある病棟で、生まれて間もない乳児や10歳に満たない子どもたちが相次いで亡くなっていた。
40年以上にわたり、養育院で看護婦を務めていた矢島逸子さんは、終戦直後の様子を、こう語る。
場所も思い出せないようなね。
戦後の混乱期、東京の街では生まれて間もない乳児があちこちで保護された。
だが、養育院に保護されても当時は栄養価の高い粉ミルクもなく、ほとんどが栄養失調で亡くなってしまったと言う。
幼くして命を落とした子どもたち。
取材を進める中、ある貴重な資料にたどり着いた。
東京都養育院、土葬者名簿。
終戦の年の3月から翌年の9月にかけて、養育院ではお年寄りや子どもなど、合わせて2700人が亡くなった。
火葬することもできず、遺体はそのまま院内の敷地に埋められていた。
名簿をもとに、区の職員たちが土葬者を年代別にまとめた内訳表を見ると、戦後になって亡くなる子どもの数が急激に増え、10代が80人あまり、10歳に満たない子どもは350人近くにまで上っていた。
内訳表をつくった板橋区の元職員、矢部正治はこう話す。
養育院の職員から聞いた話によると、遺体は穴を掘ってそのまま埋めるだけだったと言う。
そのぐらい大変だったとも言えるかもしれませんけども、そうせざるを得ないようなことが起きていたんだなっていうね。
遺体は終戦から10年以上たった後に掘り起こされ、今は、この合葬墓の中で眠っている幼い命が消えたのは、ここだけではなかった。
東京の街で空襲が相次いだ終戦の年。
戦局の悪化に伴い、ここには児童やお年寄りなど、およそ700人が疎開した。
だが、分院の食糧不足は東京以上に深刻だった。
こう話すのは、終戦の7カ月前に栃木分院に赴任した元看護婦の小林トシさん。
分院では、疎開した入所者のおよそ8割が飢えと寒さで亡くなった。
小林さんは、その遺体を近くの寺まで何度も運んだと言う。
遺体は埋葬される前、この寺で供養された。
寺には亡くなった人たちの過去帳が今も大切に保管されていた。
その中には…1歳、3歳、1歳、1歳、3歳、2歳、4歳。
昭和20年の8月、戦争が終わってからも3歳とか、七十何人、亡くなってますから。
失われた幼い命。
過去帳にはその名前や年齢が記録されていた。
乳飲み子から始まって、小さい子どもがみんな犠牲になって、大人もそうですけれども。
寂しい思いをして亡くなったのかなというふうに思いますけども。
この道ですね、結構急な坂で。
看護婦だった小林さんは、毎日のようにこの山の奥に遺体を運んだと言う。
遺体が埋められた山の様子。
そこには、養育院栃木分院在院物故者の墓と書かれた木の墓標があちこちに立てられている。
ただ横穴へ並べて、次の目印を1つだけ置いて、あとは土をかぶせるだけですから、お線香一本もありませんでした、お花もありません。
もうあげるものなんかは、何一つもなかったですから。
終戦から8年後に建てられた養育院栃木分院の合葬墓。
この中には582人の遺骨が納められている。
幼くして命を落とした子どもたちも、ここで静かに眠っている。
名前はみんな忘れちゃったけど、戦争中はみんな苦労して頑張ったね。
こうして、おいしいもの食べられる時代になりました。
ゆっくり食べてください。
ありがとうございました。
どうぞご冥福をお祈りします。
取材に当たりました瀬戸ディレクターです。
重いヤケドとともに戦後生きてきた戸田さんですけれども、実は今年8月15日の「報道特集」にもお出になりましてお話してくださったんですよね。
すごく印象に残っていた方だったんですけれども、改めてじっくりとお話聞いてみますと、本当に壮絶な体験をされてきたんですね。
今年、私の方で特に東京大空襲にこだわってずっと取材を続けてきたんですけれども、その中でよく出てくるのが、この孤児の話なんですね。
まず驚いたのが、孤児は沖縄を除いて全国に12万3000人もいると。
これだけいるのに、この孤児たちの声というのは十分に届いていないんじゃないかということに強く疑問を感じました。
実際、孤児の方に会ってお話を聞くと、例えば街で物乞いをしながら、廃校の小学校でずっと暮らしてたとか、あるいは養子に引き取られて、その養子先でとにかく、どこかからお金を持ってこいとしょっちゅうせがまれたりとか、中には本当に自分の居場所がなくて自殺まで考えたという人もいるくらいで、とにかく皆さん、壮絶な体験をしているので、語るに語れないと。
共通しているのは、戦時中よりも戦後の方がつらかったと、皆さんおっしゃっていましたね。
終戦直後というのは、ほんの一握りの人を除いてみんな食糧難にあえいでいて、そうした中で収容施設といえども、子どもたちにとってはシェルターに成り得なかったということですね。
当時、国の方で街にあふれる孤児たちを何とかしなければいけないということで、狩り込みという方法で、無理やり施設に収容したんですけれども、その1つが、ご紹介した養育院なんですね。
実際、狩り込みに遭った子どもたちというのは多くがみんな脱走してしまうんですね。
その脱走する気力のない子どもとが、病気を患っている子どもたちも、だんだん衰弱して亡くなっていくと。
さらに、当時は親に捨てられた子どもたちもあそこに多く保護されていましたので、食糧もない、薬もない、そんな中で、生命力のない幼い子どもたちがどんどん亡くなっていったということが現実にあったということですね。
戦争っていうのは加害と被害の両面があって、加害の歴史というのは消え去られようとするそういう側面があるんですけれども、これは被害の話ですよね。
被害の中でも子どもっていう一番弱い被害者が山奥に捨てられるというショッキングな話というのは、やっぱり消されてしまうんだな、その意味では、国っていうのはなかなか戦争の歴史に向き合ってこなかったんじゃないかということを感じました。
ご苦労さまでした。
この後はスポーツ、上村さんです。
ラグビーのトップリーグです。
五郎丸選手擁するヤマハが秩父宮に登場。
神宮の杜はラグビーで活気づきました。
2015年、ラグビー界を盛り上げた五郎丸選手の今年最後の試合。
見てください、秩父宮にこんなにたくさんのファンが詰めかけました。
その数、およそ2万3000人。
今シーズン最多となった観客が集まった。
注目の五郎丸は前半から躍動する。
5点を追いかける前半11分、絶妙なキックパス。
同点トライを演出すると、おなじみとなったルーティーン。
難しい角度のキックを鮮やかに決めて逆転に成功する。
さらに後半3分、五郎丸の勢いが止まらない。
自ら持ち込み、今シーズン2つ目となるトライを決める。
この試合で、18得点の大活躍を見せると得点ランキングも1位に浮上。
チームもグループB1位となり、2015年を最高の形で締めくくった。
サッカー天皇杯準々決勝。
連覇を狙うガンバ大阪は新スタジアムが完成し、万博ラストゲームとなる。
まずは前半26分、ロングパスに日本代表、宇佐美が反応し、先制ゴール。
おととい長女が誕生し、父親になって初めての試合を自ら祝う。
しかし、後半に入ると流れはサガンに。
右からのクロスをゴールキーパー・東口が止め切れず同点とされてしまう。
延長戦も見え始めた後半41分、試合を決めたのは、やはり宇佐美だった。
エースが最後の万博で2ゴールを挙げたガンバ。
連覇まであと2勝。
ヴィッセル神戸×浦和レッズの試合は5人の日本代表候補を擁するレッズが強さを見せる。
前半22分、ワンタッチでパスをつないで最後は日本代表の興梠。
先制点を決めると、その3分後だった。
ゴール前に詰めていた柏木がスルー。
これをリが決め、2−0とする。
さらに前半44分、今度は日本代表候補、武藤のスルーから宇賀神。
前半だけで3点を奪ったレッズがヴィッセルに快勝。
9年ぶり7回目の天皇杯制覇まであと2勝。
続いては、女子バレーボールの全日本選手権準決勝。
4連覇を狙う久光製薬と東レが対戦。
両チーム代表選手がそろっている。
久光製薬の長岡、石井、そして東レの木村沙織。
全日本の代表選手たちがライバルとなって、準決勝で対戦した。
まず見せたのは、長岡。
全日本、左のエースがサービスエースで久光に流れをもたらすと、石井も持ち前のパワーを生かした攻撃で東レブロックを打ち破る。
全日本キャプテン、東レの木村も負けていない。
世界一のテクニックから、この技ありスパイクで応酬。
しかし、東レの反撃は及ばず、長岡・石井コンビの久光製薬がストレートで勝利。
4連覇を目指し、決勝に臨む。
準決勝もう1試合は、19歳、古賀沙理那らの活躍でNECが3−0の快勝。
明日の決勝は久光製薬と去年のV・プレミアリーグ女王、NECの対戦に決まった。
今日が今年最後の「報道特集」です。
戦後70年ということで、「報道特集」ではいろんなものにこだわってきたんだけど、その1つに慰安婦問題。
来週28日、日韓外相会談、注目したいと思います。
僕はテレビ報道を含むジャーナリズムを取り巻く環境が非常に息苦しくなった1年だったと思いますね。
2015/12/26(土) 17:30〜18:50
MBS毎日放送
報道特集[字]【新国立競技場と五輪のあり方▽戦災孤児と養育院の悲劇】

▼新国立決定…隈研吾氏に聞く五輪のあり方
▼戦争孤児施設で亡くなった子供たち…戦後70年のウラで

詳細情報
番組内容
【新国立競技場と五輪のあり方】
新国立競技場は建築家・隈研吾氏設計の国産木材を多用したデザインに決まった。ここまで迷走したのはなぜか?膨らむ予算の問題は?地元住民は?五輪のあり方を検証する。

【戦災孤児と養育院の悲劇】
太平洋戦争で親を亡くした戦災孤児たち。その多くが養育院という施設に送られ、栄養失調で死亡、そのまま埋められた。知られざる養育院の悲劇を戦後70年の最後に問う。
出演者
【キャスター】
金平茂紀(TBSテレビ報道局)
日下部正樹(TBSテレビ報道局)
小林悠(TBSテレビアナウンサー)
上村彩子(TBSテレビアナウンサー)
関連URL
【番組HP】
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おことわり
番組の内容と放送時間は、変更になる場合があります。

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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