ETV特集 アンコール「いのちを結ぶ手紙〜いじめ自殺 21年目の対話〜」 2015.12.26


また一通手紙が届きました。
愛知県西尾市にある一軒の古い農家。
玄関先の郵便受けに全国の子どもたちからいじめの苦しみをつづった手紙が寄せられています。
その数は1,000通を超えます。
だからそうですね…時々内容を見るんですけどほんとに…容赦なく浴びせられる屈辱の数々。
いじめによって人間の尊厳を奪われ死に追いやられていく苦しみ。
手紙には子どもたちが初めて打ち明けた悲痛な叫びが刻まれています。
子どもたちの言葉を受け止めてきたのは…69歳です。
今から20年前晴さんが初めて手にしたいじめの苦しみを記した手紙。
それは自分の息子が死の間際に書き残した「遺書」でした。
「家族のみんなへ14年間本当にありがとうございました。
僕は旅立ちます。
でもいつか必ずあえる日がきます。
その時にはまた楽しくくらしましょう」。
中学2年生だった息子の清輝君。
同級生からのいじめに耐えかね自ら命を絶ちました。
遺書には大人の想像を超えたむごいいじめの数々がつづられていました。
しかしその事は家族の誰にも話していませんでした。
父晴さんはこの20年我が子を救えなかった自分を問い続け子どもたちとの対話を重ねています。
誰にも言えなかったいじめの苦しみを一通の手紙に託した子どもたち。
その手紙を通して傷ついた小さな命に向き合い続けてきた大河内晴さん。
その対話の日々を見つめます。
大河内清輝君の20回目の命日の朝。
清輝君の父晴さんは9年前に会社を定年退職。
現在は夫婦二人で畑仕事の日々を送っています。
こういう時期はやっぱ精神的に落ち着かないところがあってたばこを吸いたいなと思う時があるんですけどそんなわけにいかない…。
清輝君は家の裏庭の柿の木にロープをかけて亡くなっていました。
その姿を最初に見つけたのは母有子さんでした。
清輝君の遺影は一番日当たりの良い部屋に置かれています。
中学2年生の時に自ら命を絶った清輝君。
繰り返し恐喝や暴行を受けていました。
しかしその事に家族は気付きませんでした。
怒る事を知らない子っていうのかそれを抑えられる子だったですかね。
だからそれは私に一番よく似てるところかなっていう気がしますね。
清輝君は昭和56年1月16日大河内家の次男として生を受けました。
晴さんは日の光を反射してキラキラと輝く水面をイメージしながら「清輝」と名付けました。
清輝君は真面目で心穏やかな少年へと成長します。
成績も優秀で中学校の入学式では新入生代表を務めました。
そんな清輝君を待ち受けていたのが同級生からの激しいいじめでした。
こんにちはありがとうございます。
ありがとうございました。
毎年命日には清輝君が通っていた中学校の教師や生徒がやって来ます。
清輝君の死を忘れる事なく学校内でいじめをなくす活動を続けている事を報告するためです。
いっぱい入れてっておみかんも。
おみかんも入れてっておみかん2つは絶対。
2つ2つ入れておみかん2つ。
お菓子も少しウフフフ。
20年前の11月27日誰にも相談する事なく一人で亡くなった清輝君。
その翌日から大河内さん夫婦は同級生の母親たちからいじめの可能性を耳にするようになります。
清輝君が命を絶ったのはいじめが原因だったのではないか。
晴さんは何度も学校に問い合わせました。
しかし学校は「調査中」という答えを繰り返します。
自殺から4日後清輝君の机の中から遺書が見つかりました。
この遺書によって晴さんは清輝君の身に何が起こっていたのか初めて知る事になります。
死に至った最後の引き金は多額の現金を要求された事でした。
更に遺書には毎日のいじめの様子とそこに至る経緯が記されていました。
いじめがエスカレートしたきっかけは中学2年の8月の出来事です。
「今では『パシリ1号』とか呼ばれています」。
清輝君をいじめていたのは同級生の4人の少年でした。
遊ぶ金欲しさに清輝君を脅します。
その額は4万6万そして12万とどんどんエスカレートしていきました。
金を工面できないと暴行を加え「もう一回取ってこい」と要求してきました。
「おばあちゃんからもらった1,000円もトコヤ代も全てかれらにとられたのです。
そしてトコヤは自分でやりました。
とてもつらかった」。
清輝君は両親に知られないよう祖母の財布などからお金を持ち出していました。
その額は合計で114万円に上ります。
晴さんは校長に遺書を読んでもらいました。
しかしいじめがあったかどうか明確な答えはありませんでした。
その一方で学校では清輝君が亡くなった翌日生徒に作文を書かせていました。
そこには清輝君に対するいじめを目撃したという内容もありました。
それ以前にも学校には近所の人からいじめを疑わせる情報が寄せられていました。
通学用の自転車が何度も不自然な壊れ方をしていたのです。
先生には女の先生ですけど名前は知らんですけど「はい分かりました」と言われて先生は帰っていきました。
晴さんは清輝君の異変に全く気付かずにいたわけではありません。
そういう事いろいろあったもんですから何かあったあるんじゃないのかなって事が自分の頭の中にあって彼には「何かあるんじゃないのか大丈夫か?」って声はいつもかけてきたんですけど。
でも彼は「何もないよ」って事しか答えてくれなかったんですけど。
でも亡くなった時にやっぱりそれが強烈に思い返されて。
何かがあったのは間違いないって思いはずっと持ってたんですね。
だからほんとに彼を荼毘に付して送り出すまで考えてたのはどういう方法で何があったのかを調べようかっていう気持ちでずっといたんですね。
晴さんは思い切った行動に踏み切ります。
遺書を地元紙に公表したのです。
壮絶ないじめの現実に社会は強い衝撃を受けました。
一人の少年の死が大きな波紋を起こしていきます。
確かに私も悪いですし私が一番悪いと思ってます。
ほんとに…そういう観点で反省していくためにはやっぱりその何があったかって事をですねもっとほんとに真剣に彼の死を考えて捕らまえて頂きたいんですよね。
だからほんとにうわべだけで終わってほしくないんですわ。
いじめについては本人の申し出があるかどうかも一つの基準ではないかと思います。
注意はしましたけども少し過激であると注意をしましたがいじめとまでは重大ないじめとは思えなかった。
(男性)見えなかった?気付かなかった。
このまま学校に任せていては真実はうやむやになる。
晴さんは学校と加害少年を相手に裁判の準備にも取りかかりました。
遺書の公表によって事態は大きく動きだします。
いじめをした4人が晴さんのもとを訪ねてきたのです。
何があったのかなぜそんな事をしたのか。
晴さんは少年たちを直接問いただしました。
4人のうちの一人がポツリとつぶやきました。
「いじめるのが楽しかった面白かった」。
清輝君は遺書の中に思いも寄らない言葉を記していました。
命を絶つ3週間前一家でオーストラリア旅行に出かけています。
いじめグループから逃れ家族だけで話せる最後の機会でした。
そこでも清輝君はいじめについて話す事はありませんでした。
初めての海外旅行を最後まで楽しんでいる様子でした。
「家族のみんなへ14年間本当にありがとうございました。
僕は旅立ちます。
でもいつか必ずあえる日がきます。
その時にはまた楽しくくらしましょう」。
なぜ言えないのかなぁってそれはそうですよね。
多分当人になってみなければ分からない中でやはり親としても…言ってくれて当たり前言ってくれるもんだって思いがやはり心のどこかにあったのかなぁ…。
だから言ってくれるまで待とうっていう思いがあったんじゃないかなっていう一番大きな後悔ですけれども。
いじめの苦しみをなぜ人に言えないのか。
晴さんは新聞を通じて子どもたちに問いかけました。
「清輝の気持ちを教えて下さい」。

(取材者)全部…全部手紙ですか?そうですね全部だから…子どものやつもあるし大きな子のやつもあるんですけど。
晴さんの問いかけは大きな反響を呼びました。
全国の子どもたちから1,000通を超える手紙が寄せられたのです。
「大河内さんの新聞記事に何故いじめられていることを家族先生に言えないのか!?とありましたがそんなの絶対に言えませんよ。
いじめられてるってことがすごくかっこ悪く思えたんです」。
そこには周りの目を気にしてかたくなに心を閉ざす子どもたちの姿がありました。
手紙をくれた子どもたちの中には直接晴さんの家を訪ねてくる子もいました。
大河内さん夫婦はそんな子どもたちと何をするでもなく同じ時間を過ごしました。
いただきます。
いたぶたます。
晴さんは次第にある事に気付き始めます。
話しにくい環境をつくっていたのは大人の方なのではないか。
「母は『いじめられる方もわるい』っていったんです。
そのときは本当に悲しかった。
死んでもいいって思いました」。
「私もきづいてほしかった。
そして一緒に悩んで一緒にきづついて一緒に泣いて戦ってほしかった。
でも私に好きなコトをさせてあげようと思う存分勉強させてあげようとがんばって働いて私を育ててくれる親のキモチを思うと言えなかった」。
彼の苦しさっていうのはですね受けた行為もそうですしそれから彼が学校の中で置かれてる立場…それから家族に対して特に私たちに対してお金の件で申し訳ないって気持ち。
いろんな苦しみが多分いっぱいあったと思うんですよね。
それをほんとに考えた時にあれもそうだろう多分これもそうだろう多分その時にこんな気持ちでいたんだろうってそうやって思った時に…彼の苦しさつらさのですねほんとにもう底の知れない深さというものをですねやっぱり日々が毎日毎日それを感じる毎日だったですね。
だからそういうのが強くなればなるほど…。
そういう言葉を…かけてやれないつらさもどかしさっていうんですかねそれは…ほんとに大きかったですね。
大河内さん夫婦は寄せられた手紙に一通一通向き合い続けます。
「あなたは何も悪くない」。
「いじめられている事は決して恥ずかしい事ではない」。
そんな励ましの手紙はいつしか子どもたちにとって生きる支えとなっていきました。
「ぼく達の力になって下さい。
わかってくれる大人が一人でもいてくれたらぼく達は生きていけるんです」。
「私はまちがっていませんよね。
自分は悪くないと思ってもよいのですね。
私はとても強いですよね。
自分は前を向いて胸をはってあるいてもいいのですね」。
大河内さん夫婦に出会い生きる希望を取り戻す事ができた子どもたち。
中には親になった人もいます。
北海道函館に暮らすアヤさん35歳。
2人の子を持つ母親です。
かつてアヤさんもいじめを受けた苦しみを一通の手紙に託しました。
いじめが特にひどかったのは中学時代。
机の下にゴミをまき散らされたりクラス中から言葉の暴力を受けたりしていました。
その一方でいじめグループは大人たちの前では仲の良いふりを装いました。
それが実は友達じゃなくて迎えに来て一緒に行ってる時にいじめていて学校行ってもいじめていたと。
それだったら親も誰も分からないだろうって。
それでもアヤさんは親を気遣い学校に通い続けました。
それが一番怖かった。
そんなアヤさんのつらい体験を大河内さん夫婦は無理に聞きだそうとはしませんでした。
犬の散歩に出かけたり畑仕事をしたり一緒の時間を過ごしました。
清輝君が亡くなってその時つらい体験…過去とつらい体験を話してくれて。
やっぱり涙ながらに話してくれて。
自分だけがつらい思いしたんじゃないっていうのがやっぱり一番きましたね。
それだったら…
(リョウイチ)練習してないんでしょ?14年前アヤさんは手話のサークルで出会ったリョウイチさんと結ばれました。
しかしいじめの事を詳しく話す事ができたのは結婚から10年が過ぎた頃でした。
(リョウイチ)聞き出した事はないですけどまあそれなりにつらい思いだったんだろうなって…。
つきあい始めた頃から最初の最初っていうのはそういうところ大変だったんだろうなっていうのはある程度雰囲気で分かってて。
なんていうか…嫌われるんじゃないかなっていう妄想じゃないけどなんていうんだろう…。
こんなんでいいのかなみたいな。
30歳を過ぎてアヤさんはようやくいじめの過去に一つの区切りをつける事ができました。
清輝君の死後遺書を公表すると同時に訴訟の準備も進めていた晴さん。
真実をつかみ取るための闘いだけが我が子に対する唯一の贖罪だと考えていました。
晴さんは清輝君をいじめていた4人の少年とも向き合い続けました。
「いじめるのが楽しかった」そう語った少年たちに週に1回作文を書かせたのです。
本当にもう見るのがつらいぐらい詳細にいつどこで誰と何をっていうかっこうをですねほんとしっかりとまとめて…多分お父さんお母さんのそういう指導もあったのかなと思うんですけど…それをすごく書いてくれるんですよね。
だからそれは逆に言えば何でこんな事が書けるんだろう書きたくない事じゃない…隠したい事じゃないかって思うんだけどなぜ書けるのかなってずっと考えてくと彼ら自身が自分のやってる事に気が付かなくなっちゃってるっていうんですかねそういう事はすごく強く感じるんですよね。
だからそれは逆にいえばそういう事をやってる事に対して……という気持ちもだんだん大きくなってきたのも事実なんですよね。
2か月に及ぶ対話を経て晴さんは訴訟を取りやめる事にしました。
学校は自殺の原因はいじめであると認め謝罪。
いじめをした少年たちは恐喝と窃盗の罪で3人が初等少年院1人が教護院へ送られました。
今年35歳になる少年たち。
4人のうち1人は今も毎年命日に訪ねてきます。
この20年晴さんは手紙を通して子どもたちが決して口に出せなかった心の痛みを背負い続けてきました。
清輝君が亡くなった翌年から各地の中学校や高校に足を運んできました。
手紙につづってくれた子どもたちの思いを伝えます。
またある子は…「笑ってごまかすしかなかった」。
これはいじめをしてる子に対してだけじゃないっておじさん思ってます。
それは何もしないかもしれないけれども周りで見ている子たちに対しての言葉だったと思ってます。
私たち大人もそうですけど気付かない事っていっぱいあるんですよね。
でも考えなくちゃいけない。
いじめを受けてる子たち清輝も同じですけどすごくつらい気持ちを持ってます。
あの子はあいつは嫌な思いをしたかな?そういう気持ちを持ってほしいなというふうに思っています。
息子の死から21年目。
竹林に晴さんの姿がありました。
手紙をきっかけに親交を深めてきた子どもたちに毎年この季節タケノコを送っています。
今年2月晴さんにとって衝撃的な事件が起きました。
神奈川県川崎市で起きた少年事件です。
中学1年の男子生徒が知り合いの少年グループに殺害されたのです。
それ以前から暴力を伴ういじめが続いていました。
事件の1か月前には目に大きなあざができるほどの暴行を受けていました。
大人たちはいくつものサインを見過ごし小さな命を守りきれませんでした。
5月中旬。
晴さんは北海道函館に暮らすアヤさんのもとへ向かっていました。
アヤさんが川崎の事件をきっかけに過呼吸になりパニック障害による発作を起こしたというのです。

(リョウイチ)は〜い。
大河内です。

(アヤ)どうも。
どうもこんにちは!お久しぶりです。
久しぶり。
いやほんとに…。
あんまり変わってないかな。
いや〜ウソ〜!アヤさんとは長年電話や手紙で連絡を取り合ってきました。
直接会うのは13年ぶりです。
元気になってるから。
(笑い声)だって川崎の件があってから結構電話の回数が増えてきたし大丈夫かなってのはあって。
結構アヤちゃんに電話で言ったみたいにいろんなあれで想像を膨らます方だからさ。
まあだからそれは清輝の件もそうだしアヤちゃん自身もそうだし他の子たちから聞いてるあれもあって多分これと同じ事あるんじゃないのかなってのはねやっぱり心配しちゃうもんね。
ましてや…それで多分敏感になってたと思うんです。
そうかそうか…そうだよね。
こんにちは。
こんにちははじめまして大河内です。
中学1年生の長女と小学5年生の長男。
痛ましい事件が起こる度にアヤさんは2人の子どもたちが気にかかります。
実際見てもいないしまだ入ってもいないんだけども大丈夫かなって。
自分の時と同じようにならないかなって。
忘れられないんですよね。
でやった子は忘れたのかもしれないけどやられた子って忘れられないですよね。
でもそこの中で少し楽な気持ちが持てるところをだんだんつくっていってくれるとうれしいなと思うね。
でもこうやってみんないてこうして子どもがいてそういう場があれば多分そうできる場ってのがそれはもうアヤちゃんもらってると思うし与えられると思うからそれを今度大事にしていってほしいなって気がするね。
(娘)頭ぶつかるだけだよ。
今もうぶつかっちゃう。
ほら…ああもうぶつかるね。
久しぶりにやったけど…手離せますよほら。
(笑い声)いじめを受けた記憶は無理に忘れようとせずに夫婦二人で背負っていけばいい。
夫のリョウイチさんは揺れ動くアヤさんをありのままに受け止めてきました。
それはもうしかたがないなと思うので今のままでいいんだなって僕は変わらなくてもいいんじゃないかなって思います。
何て言えばいいかなぁ…。
共有するってイメージだと思います。
ああ大変だったんだねっていうのを言ってあげればいいのかなっていうところでの共有をしてあげれば「あっこの人も理解してくれたんだな」って。
つらかったけど分かってくれる人がいるっていうのでそれかなって。
(娘)いってくるよ。
(アヤ)いってらっしゃい。
じゃあねバイバイ。
リョウイチさんに支えられながらアヤさんは落ち着きを取り戻しつつありました。
子どもたちがいるから頑張れてるみたいな。
晴さんのもとにまた一通手紙が届きました。
高校3年生の時大河内さん夫婦を訪ねてきた女性。
タケノコのお礼でした。
1児の母親になった今いじめについて思う事がつづられていました。
そうだ…。
「子どももしっかりと元気よく大きくなってくれ今年は7月に家族で伺いたいと計画しております」。
ええ〜ほんとへぇ〜そうか…。
「最近は子供も言葉が大分分かるようになり色々なことを話すことが増えました。
何か言われたり辛かったりしたら絶対に隠さず言うようにとついつい言ってしまいます」。
「でも母親になり心配されることは恥ずかしいことではない頼ることの大切さがやっと分かったように感じます。
もし自分の子供に辛いことがあってもそれは恥ずかしいことじゃない!乗り越えられることだと伝えていけたらと今は思います」。
手紙には20年前女性が自ら撮影したという写真が添えられていました。
今年7月。
岩手県で中学2年の男子生徒がいじめを苦に列車に飛び込みました。
20年間子どもたちの心の痛みを我が事として受け止めてきた大河内晴さん。
その苦しみの一つ一つが重くのしかかっています。
もうこれ以上考えちゃいけないなっていうそういう自分を抑える気持ちっていうのが働くでもまた浮かび上がってくる。
そういう苦しさっていうのもあったですね。
どうすれば子どもたちの心の奥底に寄り添う事ができるのか。
晴さんは今も自らに問い続けています。
岩手の事件から2週間後。
また一通手紙が届きました。
手紙をくれたのは16歳の少年。
小学生の時に受けたいじめの記憶に今も苦しみ続けていました。
「僕は今から5年前12歳の時にいじめを受けました。
毎日学校に行くと『死ね!』と言われる。
殴る蹴るは日常茶飯事。
でもぼくが一番傷ついた事は性的いじめです」。
「そして中学2年生の頃にPTSDと診断されました。
ぼくは限界でした。
何回も死のうとしました。
でも死ねなかった。
死のうとカッターナイフを手首に当てるとぼくに優しくしてくれた両親や祖父母の顔が浮かんでくるのです。
そのたびに泣いていました」。
「ぼくは今16歳ですが心の中はずっといじめを受けた12歳で止まっています。
いったいいつまで小学校6年生の時の記憶に苦しめられるんだろう」。
「でもこれだけは言えます」。

(鷹崎奈津)勝ったよ!2015/12/26(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集 アンコール「いのちを結ぶ手紙〜いじめ自殺 21年目の対話〜」[字][再]

21年前、いじめを苦にした自殺で息子を失った大河内祥晴さんのもとには全国の子ども達からいじめの苦しみを記した手紙が届く。心の傷みに寄り添う対話の日々を見つめる。

詳細情報
番組内容
1994年11月、愛知県の中学2年生・大河内清輝君が同級生からのいじめを苦に自ら命を絶った。父・祥晴さんは息子の死を社会に問うため新聞に遺書を公表。その内容は人々に大きな衝撃を与え祥晴さんの自宅には全国の子どもたちからいじめの苦しみをつづった千通もの手紙が寄せられた。祥晴さんはこの20年、手紙に託された子どもたちの心の叫びに向き合い続けてきた。そしてこの夏、祥晴さんのもとに、また一通の手紙が届いた

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