商売繁盛千有希の安産タイガース優勝。
(2人)お願いいたします。
俺らの子や。
朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」で注目を集めた演技派俳優段田安則さん。
三枚目からシリアスな役まで幅広くこなします。
声を聞かせて下さいお願いします。
安則さんの役者としてのスタートは舞台。
80年代小劇場ブームを支える役者の一人として活躍しました。
22歳の時に父親を亡くした安則さん。
家族の歴史や父の人生について十分に話を聞く時間がなかったといいます。
どんな気持ちで過ごしていたのかなという事も…番組では安則さんに代わり家族の歴史を取材しました。
波乱に満ちた父實の人生。
幼い頃母親に出ていかれ恵まれなかった少年時代。
93歳。
京友禅の職人の家に生まれました。
40年ぶりに見つかった祖父が手がけた着物。
父と母の…しかし結婚後…おい何やってるんだ!互いの心が分からず…母がひそかにつづった手記がありました。
そこに書かれた本音とは。
その直前に残した言葉の意味は。
取材の結果を伝える日安則さんは自らのルーツと向き合う事になります。
今あのですねドキドキしております。
え〜とどんなふうなものが…僕の知らない事が出てくるのか楽しみでもあるんですが…え〜…何しろちょっと落ち着かない気分でございます。
父方の段田家は謎が多く安則さんは祖父茂太郎さんの顔すら知らないといいます。
あとは…安則さんの出身地京都。
ここで段田家のルーツを探します。
親戚の一人にたどりつきました。
(一同)おはようございます。
親戚といっても安則さんと面識はありません。
市郎さんの曽祖父亀治郎は茂太郎の兄。
この家が段田家の本家になります。
これです。
こちらが段田本家の墓。
ここにあるんですよ。
墓石に記された最も古い年代は明治3年。
そのころには既に京都で暮らしていたようです。
京都の中心部出町柳にあった段田家。
兄の亀治郎は土地を売った金で暮らし財産を一代で食い潰したといいます。
弟の茂太郎の生い立ちはその戸籍から読み取れます。
養子に出されたものの何か問題があったのか19歳の時に段田家に戻っています。
その後茂太郎は再び家を出て大阪で暮らしたようです。
安則さんの兄都紀雄さんは茂太郎が何をしていたか父から聞いた事があります。
何にせよ単純に言ってその…まあ酒は…大阪の街で集めた情報を新聞社に渡し収入を得ていたという茂太郎。
実際は酒ばかり飲んであまり働かなかったようです。
やがて茂太郎は中井コゲンという女性と出会い恋に落ちました。
コゲンは大阪天満宮の辺りで芝居小屋を営む家の娘だったそうです。
天満宮の辺りは寄席や芝居の小屋が立ち並ぶにぎやかな場所。
多くの人が娯楽を求めてこの街に集まりました。
茂太郎もそんな一人だったのかもしれません。
2人の間に生まれたのが安則の父實です。
2つ上に姉秀子がいました。
しかし茂太郎の生活は相変わらず。
そんな夫に愛想を尽かしたのかコゲンは家を出てゆきます。
まだ幼かった實と秀子は茂太郎のもとに残されました。
酒ばかり飲んで働かない父親。
實は貧しい少年時代を余儀なくされます。
それが食べられへんから…それは…それは言ってましたけど。
高等小学校を卒業した實は10代後半で一人東京に出ます。
昭和13年ごろの事。
東京では車の運転助手の仕事を得ました。
当時バスやタクシーが普及し運転手は人気の職業でした。
しかし時代は日中戦争。
昭和15年實は二十歳の時に徴兵され大阪港から中国へと向かいました。
記録によると實は通信兵として電信第九連隊第二中隊に配属されています。
同期には全国から集められた100名ほどの若者がいました。
所属している間に二度ほど入院した記録があります。
何があったのでしょうか?同じ部隊に所属していた木下さんに当時の様子を聞きました。
日本から1週間以上かけて到着したのは山西省の西南運城という場所です。
實の入院も水が原因となった腸炎でした。
そんな劣悪な環境の中で任務を全うします。
5年ほどの間に實は二等兵から伍長にまで昇進しました。
實の死後にまとめられた同じ部隊の人々の手記。
戦友たちが實の姿を記録しています。
「途中某地点で故段田君に再会した」。
「経験者の関係で当時車両助手の仕事に就いて真っ黒な日焼け顔で整備に懸命であった」。
他にも實と親しかった戦友の名前も記されていました。
「勤務者には同年兵で松田兄故段田君も居た」。
同い年で同じ関西の京都出身。
信頼できる戦友でした。
終戦の翌年昭和21年に實は無事に帰国。
故郷大阪はすっかり焼け野原となっていました。
父茂太郎も亡くなっており實は京都にいた姉を頼ります。
京都での暮らしがようやく落ち着き始めたころ運命の歯車がまわり始めます。
實26歳。
ふと通りかった三条大橋での出来事。
段田じゃないか!お〜っ松田!中国で一緒だったあの戦友松田義雄との思いも寄らぬ再会でした。
幸子!この時松田が連れていた妹それが後に妻となる幸子でした。
三条大橋での戦友との再会は實と幸子を結び付けた運命の出会いとなったのです。
段田安則さんのもう一つの大切なルーツ母幸子さんの家系をたどります。
京都の郊外に暮らしている幸子さんを訪ねました。
こんにちは。
(2人)おはようございます。
安則さんの母幸子さん93歳。
現在はこの部屋で1人暮らし。
この日は長女の実幸さんが遊びに来ていました。
(取材者)絵を描くのも得意なんですか?父松田信三郎は京手描友禅の職人でした。
幸子さんはその6人きょうだいの長女として生まれます。
信三郎は大の写真嫌い。
家族写真はおろか遺影すら残っていません。
幼いころに暮らしていたという京都の北上賀茂神社の近くを案内してもらう事にしました。
社家町と呼ばれるこの辺りは室町時代に上賀茂神社の神官の屋敷町だったところ。
幸子さんの幼いころの遊び場でした。
あっこの角でしたね。
(取材者)ここで友禅の仕事もしてたんですか?そうどす。
昭和の初めここに父信三郎の工房と家族が暮らした家がありました。
江戸元禄のころに始まったとされる染め物。
絹の布に細やかな色使いで花鳥風月を描き出し上品な華やかさが特徴です。
信三郎は友禅の下絵職人として働き始めすぐに頭角を現したといいます。
19歳で独立。
その後20人ほどの弟子を抱える大きな工房を構えました。
家族のもとに残された信三郎のデザイン画です。
主に作っていたのは婚礼などで着る留め袖。
しかし仕立てられた着物は一枚も残っておらずその行方も分からないといいます。
京都で五代続く手描友禅の作家田畑喜八さんに信三郎のデザインを見てもらいました。
下絵にまざっていた鳥の絵。
着物の柄にはあまり使われないものだといいます。
腕利きの職人だった信三郎。
しかし家族を苦しめたもう一つの顔がありました。
問題は酒癖が悪い事。
乱暴したり集金した金を無くしたり酔っ払う度に信三郎はさまざまな問題を起こしました。
幸子は父に振り回される母を支え幼いきょうだいの面倒を見なければならなかったのです。
父親に愛想を尽かし家を出た長男に代わり次男の耕三が後を継ぎます。
信三郎の晩年まで共に働いていました。
そういうものが…本当の親を知らずに育った子供時代。
その不安やコンプレックス。
更にもう一つ酒に溺れた原因がありました。
自分の足…やがて時代とともに着物の需要が減り友禅の仕事も少なくなってゆきます。
しかし亡くなるまで信三郎が絵筆を手放す事はありませんでした。
遺影のない仏壇。
信三郎は72歳で亡くなります。
今回の取材で信三郎の手がけた着物が一枚だけ見つかりました。
持ち主は京都市内に住む…40年ほど前安田さんの母親が信三郎に依頼した黒留め袖です。
教師だった母親が教え子の仲人をするため特別にあつらえたものだそうです。
描かれたのはにぎやかな参勤交代の風景。
着物には珍しい柄だといいます。
松の木や人々の衣装に金のししゅうが施され華やかな雰囲気を演出しています。
表情の一つをとっても丁寧に描き込まれている事が分かります。
腕だけを頼りに生きてきた信三郎。
その晩年の着物には職人としての誇りが込められているのです。
僕はそれで隔世遺伝すればよかったんですが…京都三条大橋で運命の出会いを果たした實と幸子。
しかし幸子の気持ちは複雑でした。
実は幸子には忘れられない人がいたのです。
相手は父の工房に出入りしていた問屋の青年でした。
親しくなり始めたころその人は出征し南方の海で亡くなりました。
何をしていても優しかったその人の顔が浮かんできます。
彼への思いが断ち切れずそれまで結婚話を何度も断っていました。
實と出会ったのはそんな時でした。
幸子さんが40年ほど前に自らの半生をつづった手記があります。
今まで誰にも見せなかったものです。
そこには實さんとの結婚を決意した理由も書かれていました。
「自分の殻から抜け出せるかな又運命とやらなのだろうか」。
實と共に歩んでいく事を決めた幸子。
出会った翌年2人は結婚します。
京都の熊野神社の近く二間きりの小さな家から新婚生活はスタートしました。
實はバスの運転手として働き始めます。
戦後の復興期運転手は人気の職業でした。
思い描いていた幸せな結婚生活。
しかしそんな幸子の期待は裏切られます。
嫁いできた日の事でした。
おい何やってるんだ!お茶が残ってたので庭に捨てました。
「捨てました」だと。
それが悪いと言ってるんだ。
もったいない!ごめんなさい…。
掃除のやり方野菜の切り方にまでまるで軍隊のような厳しい口調で實は注意したのです。
育った環境の違いか共通の趣味もありません。
幸子が好きな短歌や絵にも實はあまり興味を示しませんでした。
「情緒の無さがこだわってしまう」。
機嫌のいいのは戦友会に出かけた時だけ。
實にとって気を許せる相手は青春を共に過ごした戦友たちだけでした。
「この十年間は私の苦境の時代だったとも言える。
でも私はたえた」。
昭和23年に長女の実幸翌年に長男の都紀雄が誕生。
實は子供たちにはこれまでにない顔を見せます。
「私には厳しい夫も子供には良き父。
目の中に入れてもいいというほど宝物のように大切に可愛がった」。
当時流行のオートバイを買った時は子供たちを乗せて町じゅうを走ってくれました。
ああ映画映画そうそうそうそう。
もうかなり頻繁に。
年の離れた末っ子を實は殊の外かわいがりました。
しかし幸子に対する態度は相変わらず。
「空しさ喜び絶望不信さまざまな淵に立ち過ぎ来た日々だった」。
一方實はバスの運転手からタクシー会社に転職。
ハイヤーの運転手となり仕事に励みます。
永野さんは当時同じタクシー会社に所属。
實の働く姿を見ています。
1,000人もの社員がいた会社でハイヤーの運転手は僅か30〜40人ほど。
社員たちの憧れでした。
そんな花形の運転手だったにもかかわらず實は会社の労働組合の活動にのめり込んでいきます。
当時の労働組合の記録を見せてもらいました。
59年ですね。
活動報告の大会に参加した名簿です。
昭和30年代全国的に労働争議が盛んになった時代。
労働条件の改善を求め各地でデモなどが行われました。
所属するタクシー会社でも…實もそれに参加しています。
同じころ組合活動をしていた…写真見せて下さいな。
ああこの顔やそや。
これバスじゃね。
段田さんこの顔です。
(取材者)覚えてますか?うん。
ストライキ中は給料が入らないためカンパを求める活動が起こりました。
實も名古屋まで行って泊まり込みで活動に参加しました。
家もほったらかし給料も入らない。
当時内職をして家計を支えたのは幸子でした。
実家から引き受けた友禅の仕事です。
「絵筆の仕事と家事子育ての両立で随分悩むこともあった」。
幸子は当時こんな詩を詠んでいます。
「何故か淋しき日ありひとり真昼の雲眺めいる」。
そのころの幸子に夫の気持ちを推し量る余裕はありませんでした。
しかし實自身も悩んでいたのです。
実は今回實さんの当時の思いをつづった文章が見つかりました。
組合活動に明け暮れ家を顧みなかった30代のころに書いたものです。
記されていたのは妻幸子への思い。
「私は何もいらない。
今日も家内一同たわむれて終った。
夕食も終り妻は一枚の着物を出して座談会に行った」。
「私も愚かな所がある捨て置いても誰もすくってはくれない。
2人して励ますより道はない。
愛する妻よ俺を信じあかるいユーモアな詩を書いてくれ」。
實が口にする事ができなかった思いです。
そんなある日實は家族を連れてある人のもとを訪ねています。
場所は…その時の写真が残っています。
實の隣で笑っている年老いた女性それは實の母コゲンです。
まだ幼かった實たちを置いて一人家を出ていった母。
實は家族を連れてその母に会いに行ったのです。
家を出たコゲンは再婚し新しい家族と伊丹で暮らしていました。
コゲンの孫を訪ねました。
こんにちは。
よろしくお願いします。
コゲンの2人の孫はその後も母を訪ねる實の姿を覚えていました。
實さん…。
年老いた母の肩に添えられた實の手。
家族を連れての母との再会は忘れられない出来事となりました。
幸子に対し厳しかった實の態度が少しずつ変わっていきます。
「最近少しは理解も出来あるていどの自由もみとめるようになった旦那さん」。
實と幸子は時に夜更けまで話し込むようになりました。
實が話すのはいつも戦時中の事。
「同じ話を何度も聞かされるがそれでも不思議にあきない私たちの青春時代にもどれるからか…と思う」。
戦友会に行く時は幸子を誘うようになりました。
2人の距離は少しずつ縮まり穏やかな時間が訪れるようになったのです。
夫婦になって30年近く。
長女も結婚し長男も独立しました。
末っ子の安則も地元の大学に進学。
ところがある日役者になりたいと言いだします。
安則は22歳で大学を中退し上京します。
俳優の養成所に入りアルバイトをしながら勉強する日々。
時折両親に送る葉書ではお金の相談をする事もありました。
實と幸子はその度に仕送りをしてくれました。
一度だけ實が下宿を訪ねてきた事があります。
戦友会に来たついでだと言っていました。
翌朝のえ〜とごはんとおみそ汁みたいなものが…わざわざ上京したにもかかわらず大した話もせず帰っていった實。
これが父と息子が向き合った最後の時間となったのです。
そうですね…。
あれ兄貴が持ってるんですかね。
あれは知りませんでしたですけど。
あれを…あっあの〜う〜ん…。
大みそか。
その日の午後家には夫婦2人だけでした。
幸子さんは台所で正月の煮しめを作り實さんは書き初めの練習をしていました。
その時實さんが倒れたのです。
掛かりつけの医師が来た時には既に亡くなっていました。
死因は心臓発作。
59歳でした。
亡くなる直前まで練習していた書き初め。
残された言葉が家族を驚かせました。
それは…。
「我生涯最良の年」。
半月後には孫も生まれる。
妻との穏やかな生活も手に入れた。
だからこそ来年は…實さんが亡くなって40年近くがたちます。
長い間埋もれていたあの實さんの文章を幸子さんに読んでもらいました。
ハイヤーの運転手をしていた30代2人の気持ちが擦れ違っていたあのころ。
一緒にいる時には伝えられなかった妻への思い。
「私も愚かな所がある捨て置いても誰もすくってはくれない。
2人して励ますより道はない。
愛する妻よ俺を信じあかるいユーモアな詩を書いてくれ」。
こんな事言うてもらった事一回もありません。
あらしまへんやん。
「愛する妻よ」って書いてはるけどどこが愛してはんねんなと思うて。
幸子さんは實さんの死後その気持ちに応えるようにこんな歌を詠んでいます。
「夕べふと心さわぎて門に立つかえらぬ夫と知りつつわびしき」。
段田安則さんの「ファミリーヒストリー」。
時に擦れ違いぶつかったりしながらも歳月をかけて絆を紡ぐ家族の姿がありました。
そうですね。
この家族に…の中に生まれてよかったなっていう気はしますね今見て。
2015/12/25(金) 14:05〜14:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「段田安則〜父の面影 93歳母の手記〜」[字][再]
母・幸子さんは現在93歳。40年ほど前に自らの半生をつづった手記がある。夫との出会い、結婚生活などを記していた。そこには、安則さんが初めて知る両親の素顔があった
詳細情報
番組内容
京都出身の段田安則さん。22歳の時に父を亡くし、段田家のルーツや父の人生について聞くことができなかった。今回、これまで知らなかった親戚や父の戦争体験が明らかになる。また、母・幸子さんは現在93歳。40年ほど前、自らの半生をつづった手記がある。家族の歳月が克明に記されていた。
出演者
【出演】段田安則,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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