12月29日の「今日のダーリン」
・なにを見て暮らしているか。
これが、なんだかけっこう大事なんだと思う。
いつも思うことだけれど、
東京にいる間、とにかく人間ばかり見ている。
人間を見て、人間のことを考え、人間といる。
それが、ぼくの東京にいるときの暮らしだ。
人間ばかり見ているから、人間のことに敏感になる。
人間のちょっとしたなにかを、見逃さなかったりもする。
いいことも、たくさんあると思える。
ぼくらは、人間にはたらきかけて、
人間といっしょに、過ごしているのだから、
人間に敏感だったりするのは、仕事にもなる。
・そして人間以外で目に入るものは、
膨大なと言っていいくらいの「意味」だ。
看板は訴えている、テレビはなにか言っている、
建築もどうしてそんな姿をしているのか語っている。
仕事道具の液晶画面からは、
ひっきりなしに意味が流れ出してくる。
書類、新聞、雑誌、単行本、みんな意味のかたまりだ。
たまに目に入る「お空の雲さん」だとか、
家にいる「わんちゃん」や「ねこちゃん」なんかは、
「意味」なしに見ていられるけれど、
そこにだって「意味」を読もうとするじぶんもいる。
・こんどの引っ越し先は、方角によっては山並みが見える。
山が見えるというだけで、なんだかうれしくなる。
海でも、川でもそうなんだろうと思う。
「ただ、そこにある」というもので、
しかも、人がつくれないほどの大きさである。
「人間」でもなく「意味」でもないものは、
昔の人びとのたっぷり見ていたものなんだと思う。
そういう「人でも意味でもない大きなもの」を、
たっぷり見てきた歴史のほうが、
「人や意味ばかり」見ている時間より、ずっと長い。
だから、おそらく、ぼくらの身体は、
山やら海やら川やらを見ていた時間を、
なつかしく取り戻そうとしているのだろうか。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
音楽や絵画なんかも、山や海に近いものなのかもしれない。
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