まず結論を述べてお来ましょう。
二次元表現に対するフェミニズム的批判は、その多くが根源的な問題を見落としたものです。
目次
1: ポルノグラフィが「性差別である」と批判される理由
2: 「二次元表現に対するフェミニズム的批判」を掘り下げる
3: フェミニズムが真に批判すべきものは何か
4: 「性からの解放」へ――セックスと愛を相対化するために――
1: ポルノグラフィが「性差別である」と批判される理由
二次元表現に対する批判は、基本的に三次元表現への批判と同じ論理です。
というわけで、まずはキャサリン・マッキノンの論文「性差別としてのポルノグラフィ」を元に、なぜポルノグラフィが性差別となるのか整理してみます。
一: ポルノグラフィ制作時の暴力
AV撮影時に暴力行為が行われる、という批判です。これは非常に分かりやすいもので、実際に訴訟に発展した事例もあります。また、女優としてAVに出演することを強制される事例も、問題点として挙げられています(「出演の強制」というのは、単に特定の個人や集団から強制されるだけでなく、貧困という社会状況から強制される、という場合も含まれます)。
二: ポルノグラフィの消費による暴力
ポルノグラフィの中の女性たちに強要されるあらゆる行為――彼女らはたいていの場合、あたかも自ら楽しんでいるように演じさせられる――は、ポルノグラフィの消費を通じて、さらに多くの女性たちに強要される。(『ポルノグラフィと性差別』 p.230)
ポルノグラフィに描かれる(暴力を含んだ)行為が模倣され、実際の性行動に反映されるという批判です。
ところで、通俗的なマッキノン理解ではこの点までしか把握されていませんが、彼女の批判はより根源的な部分に迫ります。
ポルノグラフィとは事実上、女の劣位を前提した社会において、女とは何であるか、女は何のために存在するか、女はどのように使われるべきかを示すものである。(同p.206)
ポルノグラフィは、「女性とは何者であるか」を規定する力を持っているのです(もちろん、「女性とは何者であるか」を規定するものは他にも様々な要因がありますが、ポルノグラフィの影響は極めて大きい、というのがマッキノンの見解です)。ポルノグラフィは、「女性とは、セックスの時に使用されるものである」という価値観を形成します。つまり、ポルノグラフィは単に暴力的な性行動を広めるだけでなく、社会の「女性観」にも影響を及ぼすというわけです。
マッキノンは、単なる行為の模倣にとどまらない問題点を指摘しています。この点は押さえておきましょう。
※余談ですが、上記のような批判が、「性的消費」という俗語の含意ではないかと推測しています。
ネット上では「性的消費」という定義不明確な通俗概念が使用されるせいで、フェミニズム側の批判がぐちゃぐちゃになっています。意味を定義できない語句は、議論の妨げにしかなりません。なのでフェミニズム的批判を行う際には、「性的客体化」あるいは「性的モノ化」(より厳密に言えば「性的な従属主体化」)を用いるか、もしくは含意を明確に示せる用語を使っていただきたいところです。
2: 「二次元表現に対するフェミニズム的批判」を掘り下げる
日本で二次元がフェミニズム的に批判される文脈には、以上ようなマッキノンの思想が引き継がれています(『マッキノンと語る/ポルノグラフィと売買春』参考)。
さて、ここで考えるべきことは、次の二つです。
一つ目は、上記の批判が二次元表現に当てはまるかどうか。
そして二つ目は、当てはまるとすれば、そこにどのような社会状況が潜んでいるか。この二点目こそ、重要なポイントです。
まず上に述べた「一」の批判。
これは当然ながら、二次元には当てはまりません。
制作時点で女性に危害を加えない性表現が、現代では浸透している。このことは後々に重要になってきます。押さえておきましょう。
次に「二」の批判。
これは、ある条件下において二次元にも当てはまります。
「ある条件」とは何か?
それを考えるために、「二」の批判を整理してみましょう。
マッキノンのポルノ批判には、二つの要素があります。
・ポルノグラフィに表現された性行動が、現実世界で模倣される
・ポルノグラフィが、「女性とは、セックスの時に使用されるものである」というプロパガンダとして機能する
さて、この主張が道理にかなっていると言えるために、どのような前提があるのでしょうか。
答えは、「人間は皆セックスをする」という前提です(もちろん、他にも様々な回答がありますが、今回の記事ではこの答えを採用して議論を進めていきます)。
フェミニズム的な二次元表現批判は、セックスをしない社会・文化では成立し得ないのです。
では、セックスをしない社会・文化は存在するのか?
今のところ多数派ではないだけで、間違いなく一定数存在します。
たとえば「草食系男子」の中に一定数生息しているだろうということは、「若者の恋愛離れ」や「若者のセックス離れ」という言葉がささやかれている現状からも推測できるでしょう。また、二次元だけを性的対象とする「二次専」という人々も一定数います。
つまり、「人間は皆セックスをする」という前提は決して自明ではなく、ある特定の文化圏でしか当てはまらないものなのです。そのような文化を、ここでは「セックス実践文化」と名付けましょう。
「セックス実践文化」の内部において、マッキノンの批判は一定の正当性を有していると言えるでしょう。ですが、世界は「セックス実践文化」だけで動いているわけではありません。少数であっても「セックス非実践文化」を生きる人間は存在し、むしろ近年勢力を伸ばしつつあるのです。
このような時代において、「セックス実践文化」のみに当てはまるルールを社会全体に押し付けることは、まさに文化帝国主義であり、少数派文化の弾圧に他ならないのです。
三次元性愛者なら「ポルノ表現を無くして現実で相手を見つけろ」という主張も妥当だと思うけど、二次元性愛者には、性的対象が表現の中にしかいない。二次専に「二次元エロ禁止」を主張するのは、三次元性愛者に「愛あるセックスだろうが妄想オナニーだろうが生涯一切禁止」と言うのに等しいんだよ→
— 皆藤禎夫 (@sadao_hok_kaido) 2015, 11月 5
3: フェミニズムが真に批判すべきものは何か
さらに掘り下げていきましょう。
マッキノン(および現在のフェミニズム)は、なぜ「人間は皆セックスをする」という前提に囚われているのでしょうか。
それは、この社会が「現実性愛への誘導構造」に満たされているからです。
ジェンダー研究では「強制的異性愛」という言葉が用いられています。
これは、社会が異性愛を前提として動いており、非異性愛を自然と排除してしまう構図になっている、という問題を表した言葉です。
これになぞらえて、現代社会には「強制的現実性愛」の規範が蔓延している、と言えるでしょう。つまり、「この社会に生きる人々は、みなセックスを実践する」という常識があることで、「セックス非実践文化」が見えなくなっているのです。
たとえば「性愛」という言葉からも分かるように、現代の社会はセックスと愛情がガッチリと結びついており、そのせいで「セックスをすること」が重視されすぎているのです。
性行為と生身の身体が密接不可分に結びついてしまっているからこそ、性行為が身体を傷つけ、そして身体を経由して精神を傷つけるのです。そのような状況があるからこそ、「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうるのです。
セックスが身体を交わして他者と「する」ものだとみなされている、そのような社会・文化でしか、二次元表現は問題化しないのです。
ここで少し脇道に逸れますが、現在の多数派である「セックス実践文化」に潜む問題を一つだけ指摘しておきましょう。
それは、セックスを私的領域に囲い込むことで生じる暴力です。
現在の「セックス実践文化」のなかでは、セックスがある種の神聖なものとして取り扱われています。ですが、「神聖」という概念には「犯しがたい」という含意があり、それゆえに「禁忌(タブー)」と常に表裏一体なのです。
つまり、セックスが神聖さを持つとされる社会において、セックスの価値は鮮烈な二面性を帯びることになります。
・セックスは、特別な状況の下では「聖なる儀式」とみなされる。
・それ以外の状況では、セックスは常に「滑稽で低劣な愚行」とみなされる。
相思相愛の仲にある二人が、互いの愛を確かめながら行うセックスは「聖なる儀式」です。そしてそれ以外はすべて「滑稽で低劣な愚行」となるのです。
このような背景から、セックスは「閉じられた私的領域で密やかに行うべき」という規範が成立します。
ですが、セックスを実践するには必ず他者を必要とします。つまり厳密に言うと、セックスは純粋に孤独な「私的領域(プライベート)」ではなく、複数の人が関わる「公的領域(パブリック)」での行為なのです。
にもかかわらず、二者間のセックスはプライベートなものとみなされています。そのせいで、セックスを「私的領域」の外部に出すことは「滑稽で低劣な愚行」となるのです。
さて、このような社会状況において、性犯罪の被害に遭った女性が訴訟を起こした場合、どのような事態が生じるでしょうか。それを告発したのが、キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』です。
あなたが一度性行為に使われると、性化されてしまう。そして人間としての地位を失ってしまう。あなたは性行為となり、だから信頼される価値がなくなり、もはや人間として侵害されることなどありえなくなる。あなたが性的に虐待されたという証言によりあなたが虐待を受けたことは証明されるが、同時にそれはあなたを性行為と定義し、そのためにあなたが性的に虐待を受けたことは信じがたくかつありえないこととなる。(『ポルノグラフィ』p.88)
秘せられた私的領域で「性的な」暴力を受けたとします。それを裁判所という公的空間で語ることは、それ自体が「滑稽で低劣な愚行」とみなされてしまうのです。
「性的なもの=低劣なもの=価値のないもの」という価値観がある社会においては、「性的なもの」というレッテルを貼られることが「価値のないもの」という烙印に結びつく。ゆえに女性をセクシュアルなものとして強調する事物は、かなり直接的に女性差別と結びつく。この指摘はすごく重要だと思う。
— 皆藤禎夫 (@sadao_hok_kaido) 2015, 12月 22
「愛」を口実に性をプライベート領域に囲い込むことの危険性は、フェミニズムが長年に渡って指摘しているとおりです。
ところでマッキノンは、上記の現象がポルノグラフィと同じ法則で女性差別を発生させているとしています。ですが真に問題なのはポルノグラフィではなく、セックスが神聖さを持つとされる「セックス実践文化」そのものの性質なのです。生身の身体を性的対象とみなす文化独特の問題なのです。
この点からも、二次元表現批判が「セックス実践文化」の責任転嫁であるということが理解できるでしょう。
つまりフェミニズムは、二次元表現を批判する前に、自身が属する「セックス実践文化」をこそ改良すべきであり、「現実性愛への誘導構造」にこそ斬り込むべきなのです。
……というのが私の主張なのですが、もしかするとまだ納得できない方がいるかもしれません。二次元批判がどれだけ皮相的な批判なのか、説明いたしましょう。
最近、カフェイン中毒で死者が出た、というニュースがありました。エナジードリンクやカフェイン錠剤を飲み過ぎたのが原因です。
この事件からは、エナジードリンクやカフェイン錠剤の危険性がうかがえます。ですが、そこから「エナジードリンクやカフェイン錠剤を規制すべき」と攻撃するのは、言うまでもなく表面的な批判にすぎません。
もう一段踏み込むと、死亡した男性は「エナジードリンクで多量のカフェイン錠剤をのみ下した」とのことです。ここから、「危険なカフェイン摂取がないよう適切な管理が必要」と言えるでしょう。ですが、これもまだ踏み込みが足りません。
この事件の本質は、「いいから寝ろ!」です。カフェインに頼ってまで、寝ずに働かざる得なかった労働状況こそが問題とされるべきなのです。
これと同じことが、二次元批判についても言えます。
二次元表現が女性差別だ、というのは極めて表面的な批判でしかありません。
「セックス実践文化」の住人が二次元を真似た、ということを批判すれば、一歩踏み込んだ議論と言えるでしょう。
ですが本質は、「セックス実践文化」内部に潜む問題なのです。
マッキノン(および現在のフェミニズム)のような批判は、むしろ「人間は皆セックスするものだ」という常識や規範を強化してしまうものです。短絡的な二次元批判は、セックスを実際にやること、つまり「セックス実践」の価値を不当に高めてしまい、むしろ自分たちの首を絞める効果をもたらしかねないと言えるでしょう。
※カフェイン問題は「労働状況に問題がある」と言いましたが、だからといって「労働を禁じろ」とは言っていません。同じように、「セックス実践文化」に問題があるからといって、直ちに「セックス実践を禁じろ」と言うつもりはありません。ご注意ください。
4: 21世紀の「性解放」――セックスと愛を相対化するために――
ここで問題となっているのは、「セックスが不必要なまでに神聖視されている」こと、そして「そのようなセックス観を疑うことができない構造になっている」ことです。
以上ような、真に本質的な問題に対処するには、どうすればいいのでしょうか。
必要なのは、「現実性愛への誘導構造」に穴を空け、「セックス実践文化」を相対化することです。
上に書いた例から表現を持ってくれば、セックスを「神聖な行為/滑稽で低劣な愚行」としての地位から引きずり下ろすことが求められる、ということです。
フェミニズム的に言い換えれば、「セックスは本来、複数の人が関係するという点で公的なものであるにも関わらず、中途半端に私的領域に秘匿されている。そのため公的領域で『女体=性的なもの』というレッテルを貼られることが、女性とは『公的に価値のないもの』だという烙印に結びつく」、というような現状を打破することが求められるわけです。
そのために役立つのが、「セックス非実践文化」の存在です。
マッキノンはポルノグラフィの危害を強く主張していますが、見方を変えれば、ある意味でポルノグラフィの効果を高く見積もっているとも言えます。
ポルノグラフィが描こうとしている現実よりも、ポルノグラフィのほうがより性的に押えがたい興奮を与えることが多い。つまり現実よりも性的にリアルなのである。(『ポルノグラフィ』p.42)
ポルノグラフィは単に現実を経験したりそれを解釈するだけでなく、ポルノグラフィそれ自身が経験の代わりとして機能する。(同 p.43)
このような見方が正しければ、むしろセックス実践がポルノグラフィに取って代わられることも十分に考えられるでしょう。そして現代では、「制作時点で女性に危害を加えない性表現」があります。二次元です。つまり、「セックス実践なき性文化」というものが存在する時代なのです。
そしてくりかえしますが、「セックス実践なき性文化」を生きる層は、一定数存在します。
たとえば私のように「三次元の性愛に興味はない」という人間が挙げられるでしょう。あるいは、昨今の男性の「草食化」にも、「セックス実践は必要ない。ポルノで充分」という層が一定数表れているのではないかと考えられます(もちろん、すべての「草食系男子」がそうだと言うつもりはありませんが)。
では、この状況を歴史的に位置づけるとすれば、どうなるでしょうか。
第二次大戦後、先進諸国で「性の解放」と呼ばれる出来事が発生しました。これは性に対するタブー意識を変革しようという運動で、正確に言えば「精神からの性解放」と呼ぶべきものでしょう。性行為を精神から切り離して、タブーに囚われない自由なセックス実践を目指した活動だったわけです。
これと対比するなら、現在に表面化しつつある「性の解放」現象は、「身体からの性解放」すなわち、他者の身体から性行為を分離することです。
なぜ、強い愛情を示す行動がセックスだけになっているのか。
なぜセックスは他者とするものでなければならないのか。
そもそも、なぜセックスをするのか。
これまで自明とされてきた常識が、問い直される時代に来ているのです。
「身体からの性解放」には、二次元だけでなく、近年開発の進んでいるセックスロボットも挙げられるでしょう。さらに視野を広げてみれば、体外受精を中心とした生殖医療技術も、現代の性解放の一側面と言っていいはずです。あるいは、「身体的性別こそ文化的性別である」というジュディス・バトラーの議論もまた、ある意味で「身体からの性解放」の一環と言えるかもしれません。
そもそも、なぜセックス実践が絶対的なものとみなされるのでしょうか。
理由は、大きく以下の二つです。
1: 妊娠・出産のためにセックスが必要とされる
2:「セックスは愛情表現だ」という価値観がある
そして、この二つを突き崩しうるものが、生殖医療技術(現在はまだ発展途上ですが)と「セックス非実践文化」なのです。
閑話休題。話を性行為に戻しましょう。
性行為にまつわる性差別を解消するためには、「セックス実践文化」の相対化が急務です。そのために有効な方法が、「セックス非実践文化」との競合です。
性に関する様々な文化が共存(あるいは競合)している場として、「性文化のアリーナ(闘技場)」というものを想定してみましょう。
近代における「性文化のアリーナ」では、実在する異性とのセックスが独り勝ちしている状態でした。ですが、「セックス実践文化」が覇権を握ったことで横暴に振る舞い、その結果として性行為にまつわる様々な差別や暴力が発生してきたのです。
そこで現代は、非実在(二次元)や非人間(セックスロボット)などを「性文化のアリーナ」へと積極的に参入させ、「実在する他者との性行為」の価値を相対化することが有効となるでしょう。
結論
フェミニズム的な批判は、二次元表現が「セックス実践文化」のものである、という乱暴な前提に立ったものです(もっと言えば、男は皆「セックス実践文化」の住人だ、という前提に立つ方もいるぐらいです)。
ですが、二次元は「セックス実践文化」だけのものではありません。
そして世界も、「セックス実践文化」だけのものではないのです。
フェミニズム的な批判の肝は、「非性的であるべきとされる公的領域で、女性が『性的なもの』というラベルを貼られることによって損失を被る」という点にあります。
ですがこれは、現実の女性を性的対象とする「セックス実践文化」特有の問題と言わざるを得ないでしょう。
当たり前の話ですが、表現それ自体には、善悪の判断は一切含まれません。
ある表現が「善」であるか「悪」であるかは、その表現がどのような社会・文化に置かれるかで決まります。
二次元表現が「悪」となりうるのは「セックス実践文化」内部においてです。
「セックス非実践文化」において、二次元表現は「悪」にはなりません。
フェミニズムによる短絡的な二次元表現批判は、「セックス実践文化」の責任転嫁以外の何物でもないのです。
あえて極端な話をすれば、「二次元を潰せ」よりも「セックスを潰せ」の方がはるかに論理の通った主張です(ちなみに私のような「セックス実践なき性文化」の住民からすれば、「二次元を潰せ」は「セックスを潰せ」と同じぐらいの暴論です)。
もし「既存の社会構造を変えるのは手間がかかるから、少数である二次元表現を批判し、既存の社会構造は温存しておこう」というのであれば、それは、私のような二次専への迫害行為です。少数の性文化を不当に攻撃する行為です。端的に言えば、多数派の暴虐です。
また、セックスが永久不滅だいう思い込みも、視野が狭いと言わざるを得ないでしょう。むしろ、「条件が整えばセックス自体なくせる」というぐらいのラディカルさが必要ではないかと思います。
そして、「セックス実践文化」自身の問題へと斬り込んでいくのであれば、そのときには私も全力で協力いたします。
私の意見は以上ですが、最後に溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』から引用させていただきます。少し長いですが、面白い指摘ですのでぜひ一読ください。
BL愛好家の大多数が異性愛女性だ。現実世界で異性愛を実践する女性たちを「ゲイ」と呼ぶことは、もちろん一般的には正しくはないし、本人たちも自分が「ゲイ」だとは思っていない。だが、彼女達のセクシュアル・ファンタジーがBLの男性同士の表象で占められているとしたら、それでも彼女たちは一〇〇パーセント、ヘテロセクシュアル、といえるだろうか? ある三〇代の既婚の友人は、「今はそれほどでもないけれど、数年前まではダンナとのセックスも男女ものとして認識できなくて、頭のなかでBLに置き換えてHしてたこともある」と語ったが、男になって男に挿入されている、というファンタジーのもとに彼女が夫とおこなった性行為を、一〇〇パーセント異性愛だと定義づけられるだろうか?
セックスを身体の行為であると定義づけるならば、答えはイエスだ。が、それは、セクシュアリティにファンタジーの次元をまったく認めないことである。一般的には、身体に実際に起こっている行為をセックスとみなし、頭のなかの妄想は性行為とはみなされない。しかし同時に、私たちは人間のセックスには頭脳(妄想)も深くかかわっていることを知っている。であれば、現実世界での相手のいる性行為と同時進行の妄想も、マスターベーションと同時進行の妄想も、さらには行為をともなわない妄想のみのいずれであっても、妄想主体にとっては重要な営みのはずだ。したがって、妄想の交換・交歓はヴァーチャル・セックスであるといえる。(『BL進化論』p233-234 一部傍点省略、太字引用者)
余談
どんな表現も決して一義的な意味ではなく、常に「意味づけなおしの可能性」に開かれています。そのような点からポルノグラフィの法規制に反対するフェミニズム理論家がジュディス・バトラーです。彼女の著作『触発する言葉――言語・権力・行為体』は、他人を傷つける言葉について徹底的に考察したもので、ポルノ問題に限らず人種差別や同性愛差別、そしてアメリカ政治を考えるうえでも必読書です。
参考文献
キャサリン マッキノン, アンドレア ドウォーキン, 2002,『ポルノグラフィと性差別』中里見博, 森田成也訳, 青木書店.
キャサリン マッキノン, 1995,『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』柿木和代訳, 明石書店.
2003,『マッキノンと語る/ポルノグラフィと売買春』ポルノ・買春問題研究会編訳, 不磨書房.
溝口彰子, 2015,『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版.
ジュディス・バトラー, 2015,『触発する言葉――言語・権力・行為体』竹村和子訳, 岩波書店.
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