20世紀ロシア文学の傑作、待望の翻訳刊行
『人生と運命』全3巻 (ワシーリー・グロスマン 著/齋藤紘一 訳)
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スターリン主義体制のソ連で、平和と正義を求めて誠実に生きた知識人を主人公とする大作だ。ソルジェニーツィンの『収容所群島』を超える20世紀ロシア文学の傑作と思う。訳者の齋藤紘一氏が、グロスマンの難解なロシア語をわかりやすく、正確に訳している。翻訳文学という観点からも秀逸だ。
主人公の物理学者ヴィクトルの経験を軸に物語が進められるが、その中にたくさんの人々の物語が重層的に組み込まれている。そのために、作品から複数の声が同時に聞こえてくる。読者自身が、スターリングラードの戦闘、ナチス・ドイツの収容所の生活、ルビャンカ(モスクワ中心部に所在する秘密警察本部)における尋問を追体験することになる。多声的構成になっているものの、この作品には揺るぐことのない基点がある。グロスマンは、〈反ユダヤ主義は、個々の人間や社会制度や国家体制がもつ欠陥を映す鏡である。ユダヤ人の何を非難しているのかを聞けば、その人自身がどのような点で責められるべきかを言うことができる。〉と述べるが、これはユダヤ人の視座から歴史を読み解くことの主張ではない。反ユダヤ主義という病理を回避せずに、肯定的、否定的要素のすべてを踏まえて人間を現実的にとらえようとしているのだ。
ヴィクトルの故郷をドイツ軍が占領する。ユダヤ人であるが故に隔離され、殺されることになる母親がヴィクトルに宛てて遺書を書く。そこでは、ナチスの残虐さよりも、共産主義教育を受けた人々が、ユダヤ人を排斥していく実態が淡々と描かれている。〈掃除人の奥さんは私の窓の下に立って、お隣の奥さんに言いました、『ありがたいことに、ユダヤ人たちは終わりよ』。いったいどうしてそんなことが言えるのでしょうか。彼女の息子さんはユダヤ人女性と結婚しているのです。この老婆は、息子さんのところにお客に行ってきては、私にお孫さんの話をしていたのですよ。〉。これが人間の現実なのだ。
ソ連体制では被害者と加害者が錯綜する。元秘密警察職員のカツェネレンボーゲンが、逮捕された後、同房の政治犯に〈令状の出される者は有罪であり、令状は誰に対しても出せる。どの人間にも令状をもらう権利がある。生涯にわたって他人に令状を出してきた人間だってそうだ。御用が済めばお払い箱なのさ〉と諭す。
『人生と運命』は、リアリズム文学だ。しかし、ソ連体制はこのリアリズムを認めずに、この作品を歴史から消し去ろうとした。この作品が生き残ったこと自体が奇跡と思う。
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