☆Dancing the Dream ☆

Let us celebrate
The Joy of life ♡
with ☆Michael Jackson☆


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This is itとは、

マイケルジャクソンによる最後のライブツアーのタイトルであり、
死後、そのリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画のタイトルでもあり、
1983年にマイケルとポールアンカの共作によって作られた楽曲名です。

そして、『This is it』という言葉の意味を巡って、
さまざまな議論がありますが、

私個人は、「This is it」という言葉の最深部に隠された
真の意味は、「これが私の魂」「これが私自身」
という意味であると考えています。

This is itの「それ(it)」とは、
フロイトの言う「エス Es(ドイツ語)」=「イド id(ラテン語)」

フロイトは、
心とは「自我、エス(イド)、超自我」の
3層からなるとし、

エス(イド)というのは、
エネルギーの源泉となる本能的な欲動のことで、
自分の中にあるけれども自分では気づかない世界なので、
格のない3人称の英語でいう「the it」で表されたのです。

マイケルジャクソンの作品群は、
自分自身の「心」のあくなき探究の記録、
彼の人生の歴史書のように見受けられますが、

This is it とは、
その栄光と苦悩に満ちた50年の人生を経て、
偉大なるエンターティナーであり、哲人である
マイケルジャクソンが辿り着いた悟りの境地が
表されているのではないでしょうか。

マイケルジャクソンが、マイケルジャクソン自身になる
その道程の始まりは、
J5のマイケル坊やの延長線上から、
脱皮を開始する 1970年代後半のこと。

ザ・ジャクソンズのアルバム Triumph(1980)に収録された
Heartbreak Hotel(This Place Hotel)が
彼の精神面での決定的な大転換、
重大なカタルシスが表明された楽曲であると考えられます。

というのも、マイケルジャクソンは、少年期のトラウマから脱するために、
Heartbreak Hotel のなかで、
この作品のタイトル通り「心が破壊されたホテル」で経験した
"Secrets So Untold 決して言えなかった秘密"
少年期に受けた残酷な性的虐待を告白していると察するからです。

私が見出したのは、歌詞の中にある「My baby」という言葉に
隠された意味についてでした。
Heartbreak Hotelにおいて My baby という言葉には、
「エス Es」「イド id」「ザ・イット the it」が、
暗喩されていると考えたのです。

そして、Heartbreak Hotel以降の 彼の作品においては、
継続的に「My baby」をキイワードとする
ダブルミーニングの手法が取り入れられ、
多重構造をもつ作品が生み出されます。

しばしば、彼の作品が、謎めき、難解と言われるのも
その複雑な構造によるものであろうと思われます。

マイケルジャクソンが、
自分自身の精神分析を行いつつ、丹精込めて編み上げた
珠玉の作品の数々を読み解く重要な鍵となる言葉をMy babyと考え、
これを軸とする『マイケルのMy baby論』と名付けた説から、
地下に隠されたメッセージを掘り起こし、和訳してきました。

驚くべきことに、その結果、
多くの楽曲を通じ、終始一貫して、
自らの体験に基づき
子供時代に「My baby 私の子供」が傷つけられ奪われるこそが、
世界の問題であることを訴えていることに
改めて気づかされるのです。

Big Boy
I'll Be There
Heartbreak Hotel
Things I Do For You
Wanna Be Startin Somethin
Man In The Mirror
The Way You Make Me Feel
Billie Jean
Human Nature
Scared of the moon
Black or White
Smooth Criminal
Heal The World
Keep The Faith
fall again
much too soon

さて、
この70年間を
戦争を知らない子供たち」として
過ごしてきた日本では、
現在、破滅に向かう帝国アメリカのオフショアバランシング戦略の元、
安倍政権が、戦争法案を成立させようとしています。

戦後世代を代表する歌として愛されてきた
「戦争を知らない子供たち」の作詞家であり、
医師でもある北山修氏が、
専門である精神医学の見地から
人の心の構造について語っています。

マイケルジャクソンは、
自らの人生の苦悩によって『マイケルのMy baby論』を抽出し、
自分自身の心、そしてそこに映し出される社会を
音楽、言葉、映像によって表現しましたが、
同じく素晴らしい言葉の使い手である北山修氏による
人の心、社会との関わりについてのお話をご紹介します。








北山修。 
1971年日本レコード大賞作詞家賞を受賞した
「戦争を知らないこどもたち」
「帰ってきたヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」
「風」「花嫁」「白い色は恋人の色」「さらば恋人」などの
作詞で知られる作詞家。
昭和のフォークソングの名曲を生み出した作詞家であり、
加藤和彦と共にフォーククルセダーズという
フォークの草分け的バンドの主軸メンバーでした。
また、精神科医、臨床心理学者でもあり、
後年は、2010年、定年退職するまで、
九州大学教育学部の教授を勤めた
異色の医師、ミュージシャンです。


北山は、医大生時代に、開業医だった父に当時の金で22万円、
今の価値て言うと、おそらくその5倍ほどの金額を借金をして、
加藤和彦と300枚のレコードをアマチュアとして制作しました。

そして、彼らのアマチュアバンドの「解散コンサート」の中で、
「医大に戻ってくれるなら」という条件で父から借りた金で作った
このレコードの販売を試みましたが、
結果は、100枚しか売れませんでした。
売れ残った200枚の在庫のレコードが置いてあった自室で、
その塗料の匂いにうなされたということです。

困った北山たちは、レコードをラジオ局に持っていき
売り込みました。45年前のことです。
そして、驚くべきことが起こります。
レコードは、300万枚の大ヒットとなったのです。

彼らは、思いがけず、
マス・コミュニケーションに参加することになりました。
300万人もの人々がこの歌を聴き歌ってくれるとは…
彼らは、「帰ってきたヨッパライ」を、
10回も歌うと、もう嫌になったたというのが正直なところでした。
北山は、何かが違うという、違和感を感じていました。

北山が感じた違和感とは何だったのか?
「音楽は、目に見えるそこにいる人に届けられるべきだ。」
ラジオで顔も分からない不特定大量の人々に配信されてしまう歌は、
まるで自分の歌ではなくなってしまったかのように感じられたと
いうことでしょう。

北山曰く・・
――ミュニケーションには2つあるのです。
一つは、パーソナル・コミュニケーション。
特定の人にする、取り返しのつかない、一回だけのコミュニケーションです。
そして、もう一つは、マス・コミュニケーション。
不特定多数の人々に、同じことを何度も何度も伝える
コミュニケーションです。
後者は、何度でも操作してやり直せるコミュニケーションですが、
前者は、やり直せない。
精神科医の医療は、
この、取り返しがつかないコミュニケーションを治療に使います。
私にとって、手応えがあって充実しているのは、
まさにこの、パーソナル・コミュニケーションだったのです。
印税生活は良かったですけど(笑)。
なぜ、精神科医だったかというと、作詞家だったからだ。
世間からは「オカシイ」と思われている人の言葉を
世の中に伝えることができるかもしれない、と思ったから。――

こうして、プロデビューからわずか1年で、
マスコミの世界から離脱し、精神科医としての道に進んだ北山。
一方、加藤和彦は、1968年のフォーククルセダーズの解散以来、
音楽シーンをリードし続けました。
2009年10月17日、北山の人生において、
最も重要な人物、無二の親友である加藤は、
軽井沢のホテルで遺体となって発見されました。
死因は首吊りによる自殺。享年63(満62歳没)。


歌を作るということ

個別の人々の為に歌を作ることと、みんなのために歌を作る事とは違います。

防人歌」は、「いま ここ」のため、愛しいあの人のために作られた歌であって、決して不特定多数の人たちに歌われようと思って作られた歌ではなかったのに、教科書に載ってしまったんです。 

EX.わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず

最近の歌は、あなたのために作られていない。
最初から、みんなのために作られている。
♪帰ってきたヨッパライは、加藤和彦のために作った歌だった。
その歌詞を加藤が作曲し、そこで一対一で、インタラクティヴに作られたのです。

ここに、「二者言語」と「三者言語」とがあります。

「三者言語」は、第三者が解らないと困る言語であり、
「二者言語」は、そこにいる二人の間でだけ通じれば成り立つ言語です。

本当の歌というものは、
最初から第三者のために作られるものではない。

歌は、「二者的創造性」
すなわち、「あなたのために生まれる創造性」であり、
それをたまたま第三者が評価すればヒットする、
というものでしかありません。


簡単な精神分析

精神分析学を習ったことのある人なら
誰もが知っているこのフロイトの心的構造図ですが、



これを、より分かりやすい図に変えてみるとこうなります。



ご覧のとおり、これは「二重構造」です。
この二重構造は赤ちゃんにはない
二重構造とは、心の隅、心の闇の部分で別のことを考えている。
ということです。
「雑念」とも言います。

実は「私」はここにいなくて、
心の奥の魂は寝てるかも…
つまりそこは、「無意識」の領域です。


この「二重構造をやる」ということが、
「大人をやる」ということなのです。

大人の服、大人の衣装を身に着けて、
別のことを考えていてもそれは隅に追いやって、
無意識化している。

子どもの心をたわめてたわめて、
押し殺して抑圧して大人をやっているのです。

時々、この二重構造のない人がいる。
遊びたくないヤツですよね。つまらない。
人間とは、裏があるから面白いのです。

「裏」という言葉を引くと、「心」と出る。
本当なんですよ。

「うらはずかしい」 「うらさびしい」など、
日本人は、「裏」が「心」にあることを知っていたのでしょうね。

本当の心は、裏にそっとあるべきなんです。
なのに日本は今、この「裏」がなくなりつつある。

人間が陰に置いておくべきものがなくなりつつある。
裏境内、裏庭、…昔の子どもは、どこかしら裏で泣いたでしょ?

裏口入学もなくなってしまい、
すべてが表になって、照明が当たるようになった。

「蓋」が取れてしまうと、
人は精神病を発症し、問題行動を起こすようになる。

そして、精神分析は、
「裏」を無害化して「表」に出す方法を提供する治療なのです。

僕は野球が好きなんです。
なぜかというと、野球と言うのは、
一塁で刺され、二塁で刺され、三塁で殺されるからです。
こんなに、タブーな表現ばかりを使って、
ゲラゲラと笑っていられるスポーツはない。

井戸端会議は悪口しか言わないから井戸端会議なんであって、
だから井戸端会議をする人たちは健康でいられるんです。

心の隅に置いておくべきものを発散すること。
これを、「カタルシス」と言います。

心が洗われるような心のはけ口。
刑事が「吐けば楽になるぞ」というあれとはちょっと違いますが。
吐いても楽になりませんからね、その時一瞬は楽になるかもしれないが。

音楽や文化やスポーツにはこれがあるのです。

「蓋」を取る治療=カタルシス これは、私たちには必要です。
二重構造があるからこそ、有効なのです。
裸になれない人が、裸になれれば、発症を食い止められます。

「アルプスの少女ハイジ」に出てくるクララは、
情緒の発散によって歩けるようになった。
失声、失立、失歩には、これが有効なのです。

「アンカバリング・メソッド」というのがその、
「蓋を取る治療」に当たり、神経症レベルならこれが有効なのです。

一方、「蓋が取れてしまっていて、ない人」には、
逆に「蓋を作る治療」が必要になる。

蓋ができずにむき出しになっている人ですね。
それには、診断・状態の理解が重要です。

皆に発表できる、皆の前で歌える、というのも、
二重構造があるからです。


事例にみる「二者的創造性」=「蓋」をつくる治療とは

統合失調症のある患者さんの事例。

日本で初めて二か国語放送が始まった頃に、
「二か国語放送が聞こえてくる」と言った患者さんがいました。

「二か国語放送」とは、「妄想」あるいは「幻覚」の別名、別語ですが、
公共性のある名前です。

以来、その患者さんと、「どう?二か国語放送は聞こえる?」と、
この名称を二人だけに通じる用語として活用するようになりました。

その後、患者さんは良くなり、
「先生、最近は、もうなるべく人がいるところでは
『二か国語放送』という言葉を使わないようにしてるんですよ。
 あれは、先生と私だけの秘密ですよね」と言ってくれるようになりました。

帰ってきたヨッパライ が作られた「二者的創造性」とは、
このような、二人だけの言語、二人だけのコミュニケーションと同義です。

そして、これは「三者的創造性」(マスコミがでっちあげるもの?)とは
区別されなければなりません。

帰ってきたヨッパライ は、
確かに、その瞬間は、二人だけの音楽だったのです。

クリエイティヴィティとは、誰か不特定な人の為ではなく、
皆の為にでもないところでのモノづくりなのではないでしょうか。


もう一つ、重要な症例があります。
ある女性看護師が患者でした。

この看護師は、病棟から痛み止めを盗んで自分で打っていました。
それは、院内の大スキャンダルになっていきました。

相談を受けたところ、彼女は、
「看護師は、人の世話をする仕事です。
 でも、それをしているうちに、自分がこの仕事を選んだのは、
 親が全く自分を世話してくれなかったからだと気づいてしまったんです。」
と言いました。

だから、自分で盗んでまで、痛み止めを打って
いるんだね?と私は言い、
「では、その処方を私に任せてくれませんか」と提案しました。

自分で何とかしようとしていたものを、
一部、人に預けることができたことで、彼女は急速に変わって行きました。

そして、だんだんとミーハーになっていき、
「先生のファンだったんです!」等と言い出しました。
そのうち、ホイットニー・ヒューストンなんかを歌うようになり、
元気になりました。

痛み止めを打つ役割を私に任せることで、
女の子である自分を取り戻し、看護師に戻れたのです。

20年経って、風の便りで、
彼女はその後看護師を止めてミュージシャンになり、けっこう成功し、
米国の某音楽大学を首席で出て、先日メールを貰ったところには、
こう書いてありました。

「先生はまだ医者(なんか)やってるんですか?」

この人は、看護師を止めて良かったと思います。
まず、自分が救われなければ、他人は救えないからです。


日本語の「私」について



この図の、「子」「無意識(子ども)」は、エス(イド)です。
そして、「親」「意識(大人)」は超自我です。

じつは、右の図の真ん中の、細い円、ここに、「私」が入ります。
「私」はいわゆる「自我(ego)」ですが、
「じが」というのも「えご」というのも、なんだか音が汚いですよね。

ところが、「私」というとどうですか?

そしてさらに、この「私(わたくし)」という言葉の語源説をたどると、
興味深いことに、『日本国語大辞典(小学館)』は、
九つの語源説を掲げていますが、
そのうちの三つがワタクシの語尾にカクシ(隠し)を指摘しています。

①ワガタメニカクシ(我為隠)の義〔日本語源学〕
②ワタカクシ(曲隠)の義〔名言通〕
③ワタカクシ(渡隠)の中略。
世を渡るものが互いに非を隠す意〔紫門和語類集〕
 註)北山修 著 「覆いをとること・つくること」,岩崎学術出版社 より

二者関係では褒められても
三者関係では浮いてしまい、評価されない。
三者関係で評価されずに落ち込んでは、二者関係に戻って癒され、
そしてまた三者関係に戻っていく、
そうやって行ったり来たりしてバランスを取る事、
その往復こそが人生なのです。
自分が癒されないうちは、人を癒せません。

自分以外の自我(他者)との関係=二者関係
社会すなわち複数の他者との関係=三者関係
自我を「隠し」他者との間との「渡し」の役割が
「私」なのでしょう。

















 
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