日顕宗の「妄説:83」を破折する(その五) 連載121回
日顕宗『ニセ宗門』の「妄説:83」を破折する(その五) 連載121回
妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。
「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
当時模刻された本尊は次のとおりです。
①学会本部安置本尊
(大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
②関西本部安置本尊
(六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
③ヨーロッパ本部安置本尊
(六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
④創価学会文化会館安置本尊
(六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
⑤学会本部会長室安置本尊
(六十六世日達上人)(S四二・五・一)
⑥アメリカ本部安置本尊
(六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
(六十六世日達上人)(S四九・一・二)
⑧お守り本尊
(池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三)
このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。
破折:
13.〝掌中の珠〟を失った山崎
昭和五十四年七月十九日、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲から山崎正友に連絡が入った。先月の六月二十一日に、細井管長が突然体調を崩したのだが、その容態が急激に悪化したのである。富士宮市の病院に緊急入院することとなり、診察の結果、心臓には異常がないが腸の動きがにぶいとのことであった。
経過は浜中和道の『回想録』に生々しく綴られている(本項は『暁闇』〈北林芳典著 報恩社 2002年12月〉をもとに構成)。
「翌二十一日の夜遅くなって、山崎氏から電話があった。
『今、猊下のお見舞から帰ったよ。いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、もう大丈夫だよ。猊下が菅野さんと光久さんにも、〈もう休むから、帰れ〉とおっしゃったから、みんなで一緒にお部屋から引き上げたんだよ。あとは猊下の奥さんが泊まられることになったよ』
私はそれを聞いて胸を撫で下ろした。山崎氏は受話器の向こうでひと呼吸おくと、話を続けた。
『それでね、猊下が奥番に、〈明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ〉と言われて、菅野さんと光久さんの二人に、〈その時、必ず、来い〉と言っておられたけど。和道さん、どう思う?』
山崎氏は緊張した声で言った。
『それは間違いなく御前さんは、血脈相承をなされるつもりだよ』
私は自分でも声が上ずっているのを感じた。山崎氏も慎重な声で、
『うん、僕もそう思うんだよ』
と答えた。私は、
『御前さんが対面所に来いと言ったのは、旦那と御仲居さんの二人だけなの? 他に誰か呼ぶように奥番とか御仲居さんに命令しなかった?』
と尋ねた。山崎氏はきっぱりとした口調で、
『うん、二人だけだよ』
と言った。
『それじゃ、御前さんは御仲居さんか旦那さんのどっちかに相承するつもりだよ。そして一人を立ち会いにするつもりだよ』
山崎氏は、
『二人の中でどっちに猊下はあとを譲る気かな? まあ、明日になればわかるよ。ともかく僕も疲れたから、ひと眠りするよ。そして明日の朝、また本山に行くよ』
と言うと電話を切った。
私も高ぶる胸を押さえて布団にもぐり混んだが、目が冴えてなかなか寝つけなかった。真っ暗な中で鳴り響く電話の音で目が醒めた。時計を見ると、もう午前二時を回っていた。電話は山崎氏からであった。山崎氏の声は緊迫していた。
『今、猊下の奥さんから電話があって、猊下の容態が急変したらしい。〈至急、日野原先生に連絡を取ってくれ〉って。日野原さんも〈病院にすぐ行く〉って言っていたけど、どうも難しいみたいだよ。僕もすぐ今から病院に行くよ。光久さんはもう病院に向かったらしいけど、大宣寺には連絡が取れないんだって』
私はいっぺんで目が醒めてしまった。しかし、九州にいる私は、動きようもない。私は起き出して茶の間に移動した。茶の間ではたまたま伝法寺に遊びに来ていた私の両親と、両親の友人で今年の五月に亡くなった長万部・説道寺住職の大藪守道師の奥さんが寝ていたが、三人とも〝何事か〟と目を覚ましていた。
私が、
『どうも、御前さんのお身体の調子が悪いみたいなんだ』
と言うと、みんな驚いて起き出した。私は病身である父を気遣って、
『いいから、みんなは休んでいてよ』
と言ったが、私が茶の間の電気を点け、電話の前に陣取っていては、とても寝れたものではなかったであろう。それでも三人は布団をかぶり眠ろうとしていた。
茶の間の時計の音と自分の心臓の鼓動とが同時に響いているようであった。私の両親と大藪さんの奥さんは布団から半身を出して眠るのを諦めていた。三人とも心配そうな表情で身動きしないでいた。みんなそれぞれ、
『猊下様は大丈夫なの?』
と尋ねたが、無論、私に答えられるはずはなかった。
電話が鳴った。飛びつくように受話器を取ると山崎氏からであった。
『和道さん……』
と言う悄然とした声の調子に、私は日達上人の身が朽ちられたことを感じた。
『猊下は亡くなられたよ。間に合わなかったよ。医師が心臓マッサージとかいろいろしたけど、ダメだったよ』
私は、
『あとのことはどうなったの?』
と尋ねずにはいられなかった。山崎氏は、
『わからないよ。光久さんもがっくりしてるよ。僕もどうしたらいいかわからないよ。今から御遺体を本山に帰すために、みんなバタバタしてるよ。とりあえず僕も東京に帰るよ』
と言って電話を切った」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)。
山崎正友が浜中和道に話したところによれば、
「猊下の直接の死因は、腹が固くなって割れた」(浜中和道『回想録』)
ということだった。
日顕の登座後、山崎は早くも日顕の取込みにかかる。この工作は一時は成功し、山崎も気をよくして、細井管長に出したような密書を作成する。
しかし、墓地の利権をあからさまに狙ったこの企みは頓挫する。九月二十五日、山崎は日顕より大石寺において、
「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」
「こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまかりならぬ」
と怒鳴られる。この日の夕方、山崎は浜中に電話を入れている。
「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見てろって言うんだ……」(同)
それから十年余を経た平成二年末、日顕は創価学会を切り崩すため「C作戦」を企み、それを実行に移す。翌年一月、日顕が山崎に、
「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」
と伝えたのである。
(『暁闇』より)
日顕、山崎とも、果てしなく人を欺いてきた者共である。人並みの〝矜持〟など、持ち合わせるはずも無い。共に創価学会を敵に回したからには、〝昨日の敵は今日の友〟であった。
14.収監される山崎
山崎は昭和五十五年、創価学会を恐喝し、三億円既遂、五億円未遂の容疑で一審(昭和六十年三月二十六日)、二審(昭和六十三年十二月二十日)とも懲役三年の実刑を言い渡された。長年、顧問弁護士として創価学会の信任を受けながら、それを逆手にとって依頼主を恐喝したのである。
収監は平成三年二月二十五日だったが、その四日前の二月二十一日夜、新宿近辺の住宅街にあるスナックで、正信会の浜中、亀田成文らと送別会をしている。
正信会の浜中和道(現・大分県竹田市・伝法寺住職)が著した『回想録』(平成十二年発行)によると、この送別会の翌朝、山崎はホテルニューオータニで待っている浜中のもとに行って、次のような重大な告白をしたという。
「『これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ』
山崎氏は唐突に話を切り出した。私が、
『えっ?』
と訊き直すと、山崎氏は私を正面に見据えて、
『だからね。僕は学会を倒すために、阿部の懐に飛び込んだんだよ。そうしたからこそ、今、学会と宗門が喧嘩別れしたんだよ。わかるでしょう?』
と言った。私は首を縦に振った。
『勿論、僕は今度、原田さんにお世話になるから、善福寺の信者だよ。正信会だよ。でも正信会の信者であっても、日蓮正宗の信者には変わりないでしょう。その日蓮正宗の敵の学会を倒すために、今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。僕は、正信会はどんなことがあっても宗門に復帰すべきだと思うんですよ。このままじゃ、立ち腐れだもんね。それで正信会のために、共通の敵の学会と戦うために、阿部さんと連携したんだよ。そしたら阿部さんは素直に〈俺が悪かった。池田に騙されていた〉って、僕に謝って、〈正信会に悪いことをした〉って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、〈頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ〉って言ってきたんだよ』
私は口をはさんだ。
『だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない』
山崎氏は手を振りながら言葉を続けた。
『それはそうかも知れないけどさ。相承があってもなくっても、もう猊下としての既成事実が出来上がってるんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう。僕の役目はそれであって、あとは正信会の皆さんが宗門に復帰してから、宗内の問題として整理すればいいでしょう。僕は僕の役目、皆さんは皆さんの役目を果たしましょうよ』」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
ここで山崎は浜中に、獄中にいる自分と日顕との極秘の「パイプ」役二名の名を明かす。一人は日蓮正宗海外部書記をしていた福田毅道。そしてもう一人は、反創価学会ライターの段勲である。段は本応寺住職・高橋公純の弟で、この二カ月前に日顕と「目通り」をした人物である。
「さあ、これで安心して刑務所に行けるよ。和道さん、宗門と学会はこれからますますドンパチやるよ。マスコミも学会を徹底してやりますよ。僕があちこち仕掛けといたからね。僕がいない間も、皆さん、退屈せずに済みますよ。原田さんも僕のことを『任しておけ』って約束してくれたからね。ゆっくり刑務所で療養しとくよ。出てきてからが、また勝負だからね。三年って言うけど、早ければ二年ぐらいで出てきますよ。それじゃ、和道さん、元気でね。出てきたら一番、真っ先に連絡します」
(浜中和道『回想録』)
15.山崎正友の末路
山崎は刑務所を〝療養所〟と勘違いしたようであるが、実際の塀の中は甘いものではない。世間知らずの僧侶と、お人好しの度が過ぎた学会とは騙せても、司直の厳正な裁きとその執行から逃れるすべはなかった。あたかも帝釈に追われた阿修羅が小さくなり、蓮の穴に隠れたかのような姿と成り果てたのである。
以下は、山崎の泣き言である。
「本来なら、八王子の医療刑務所で寝て暮らしてもおかしくない病状である。それが、どんな政治的圧力か判断か知らないが、通常の刑務所に送られてしまった。四ヵ月近い入院治療の後、スパルタ式の教育訓練をほどこされ、身体はむくみ、息もたえだえになった。
これ以上きつい仕事をしたら、私は確実に死ぬ。そうとわかって無理強いするなら、それは自由刑であるべき懲役ではなくて、事実上生命刑たる死刑に等しい」
(山崎正友著『平成獄中見聞録』)
「冷たいコンクリートの部屋で、鉄窓のすきまから吹き込む那須降ろしにふるえ、朝、十センチ以上も盛り上がった霜柱を見ながら、手袋もはめずに指を伸ばして行進させられたら、風邪をひかぬ方がどうかしている。東京より、確実に五度以上気温の低いところで、満足な防寒衣も着せられず、舎房の暖房もほとんどないに近い。食事も、減塩、タンパク制限といった療養食など望むべくもない。そういう状態で、風邪をひいて熱を出しても、痛風発作で足がうずいても、まず休むということは許されない」(同)
一時は細井管長を掌中の〝玉〟と握り、筋書通り学会を宗門に隷属させ、細井管長より「先生」と呼ばれ、得意の絶頂にあった山崎。
だが魔の跳梁は、長くは続かなかった。山崎は細井管長の急逝を境に、一気に坂を転げ落ちて行った。挙句は〝後生〟の予行演習にまで行ってきたのである。
新池御書(一四三九㌻)にいわく、
「かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず」
(そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なるところがない)
これが、あっちに付いたり、こっちに付いたりして、欲望の赴くまま和合僧を破壊してきた男の末路であった。
(了)
妄説:83 「本尊模刻(もこく)事件」について簡単に説明してください。
「本尊模刻(もこく)事件」とは、昭和四十八年頃より創価学会が、学会や池田氏個人に下付された紙幅御本尊を、勝手に模刻して会員に拝ませた事件です。
当時模刻された本尊は次のとおりです。
①学会本部安置本尊
(大法弘通慈折(じしゃく)広布大願成就・六十四世日昇上人)(S二六・五・一九)
②関西本部安置本尊
(六十四世日昇上人)(S三〇・一二・一三)
③ヨーロッパ本部安置本尊
(六十六世日達上人)(S三九・一二・一三)
④創価学会文化会館安置本尊
(六十六世日達上人)(S四二・六・一五)
⑤学会本部会長室安置本尊
(六十六世日達上人)(S四二・五・一)
⑥アメリカ本部安置本尊
(六十六世日達上人)(S四三・六・二九)
⑦賞本門事戒壇正本堂建立本尊
(六十六世日達上人)(S四九・一・二)
⑧お守り本尊
(池田大作授与・六十四世日昇上人)(S二六・五・三)
このうち、①の御本尊だけが、日達上人より許可され、現在も学会本部に安置されています。しかし他の七体は、日達上人から叱責(しっせき)されて、直(ただ)ちに総本山へ納められました。
この事件は、昭和五十三年十一月七日に、総本山で開催された「創価学会創立四十八周年記念幹部会」で、辻副会長が「不用意に御謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下の御指南を受け、奉安殿に御奉納申し上げました」と発表し、公式な立場で認めています。
破折:
13.〝掌中の珠〟を失った山崎
昭和五十四年七月十九日、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲から山崎正友に連絡が入った。先月の六月二十一日に、細井管長が突然体調を崩したのだが、その容態が急激に悪化したのである。富士宮市の病院に緊急入院することとなり、診察の結果、心臓には異常がないが腸の動きがにぶいとのことであった。
経過は浜中和道の『回想録』に生々しく綴られている(本項は『暁闇』〈北林芳典著 報恩社 2002年12月〉をもとに構成)。
「翌二十一日の夜遅くなって、山崎氏から電話があった。
『今、猊下のお見舞から帰ったよ。いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、もう大丈夫だよ。猊下が菅野さんと光久さんにも、〈もう休むから、帰れ〉とおっしゃったから、みんなで一緒にお部屋から引き上げたんだよ。あとは猊下の奥さんが泊まられることになったよ』
私はそれを聞いて胸を撫で下ろした。山崎氏は受話器の向こうでひと呼吸おくと、話を続けた。
『それでね、猊下が奥番に、〈明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ〉と言われて、菅野さんと光久さんの二人に、〈その時、必ず、来い〉と言っておられたけど。和道さん、どう思う?』
山崎氏は緊張した声で言った。
『それは間違いなく御前さんは、血脈相承をなされるつもりだよ』
私は自分でも声が上ずっているのを感じた。山崎氏も慎重な声で、
『うん、僕もそう思うんだよ』
と答えた。私は、
『御前さんが対面所に来いと言ったのは、旦那と御仲居さんの二人だけなの? 他に誰か呼ぶように奥番とか御仲居さんに命令しなかった?』
と尋ねた。山崎氏はきっぱりとした口調で、
『うん、二人だけだよ』
と言った。
『それじゃ、御前さんは御仲居さんか旦那さんのどっちかに相承するつもりだよ。そして一人を立ち会いにするつもりだよ』
山崎氏は、
『二人の中でどっちに猊下はあとを譲る気かな? まあ、明日になればわかるよ。ともかく僕も疲れたから、ひと眠りするよ。そして明日の朝、また本山に行くよ』
と言うと電話を切った。
私も高ぶる胸を押さえて布団にもぐり混んだが、目が冴えてなかなか寝つけなかった。真っ暗な中で鳴り響く電話の音で目が醒めた。時計を見ると、もう午前二時を回っていた。電話は山崎氏からであった。山崎氏の声は緊迫していた。
『今、猊下の奥さんから電話があって、猊下の容態が急変したらしい。〈至急、日野原先生に連絡を取ってくれ〉って。日野原さんも〈病院にすぐ行く〉って言っていたけど、どうも難しいみたいだよ。僕もすぐ今から病院に行くよ。光久さんはもう病院に向かったらしいけど、大宣寺には連絡が取れないんだって』
私はいっぺんで目が醒めてしまった。しかし、九州にいる私は、動きようもない。私は起き出して茶の間に移動した。茶の間ではたまたま伝法寺に遊びに来ていた私の両親と、両親の友人で今年の五月に亡くなった長万部・説道寺住職の大藪守道師の奥さんが寝ていたが、三人とも〝何事か〟と目を覚ましていた。
私が、
『どうも、御前さんのお身体の調子が悪いみたいなんだ』
と言うと、みんな驚いて起き出した。私は病身である父を気遣って、
『いいから、みんなは休んでいてよ』
と言ったが、私が茶の間の電気を点け、電話の前に陣取っていては、とても寝れたものではなかったであろう。それでも三人は布団をかぶり眠ろうとしていた。
茶の間の時計の音と自分の心臓の鼓動とが同時に響いているようであった。私の両親と大藪さんの奥さんは布団から半身を出して眠るのを諦めていた。三人とも心配そうな表情で身動きしないでいた。みんなそれぞれ、
『猊下様は大丈夫なの?』
と尋ねたが、無論、私に答えられるはずはなかった。
電話が鳴った。飛びつくように受話器を取ると山崎氏からであった。
『和道さん……』
と言う悄然とした声の調子に、私は日達上人の身が朽ちられたことを感じた。
『猊下は亡くなられたよ。間に合わなかったよ。医師が心臓マッサージとかいろいろしたけど、ダメだったよ』
私は、
『あとのことはどうなったの?』
と尋ねずにはいられなかった。山崎氏は、
『わからないよ。光久さんもがっくりしてるよ。僕もどうしたらいいかわからないよ。今から御遺体を本山に帰すために、みんなバタバタしてるよ。とりあえず僕も東京に帰るよ』
と言って電話を切った」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)。
山崎正友が浜中和道に話したところによれば、
「猊下の直接の死因は、腹が固くなって割れた」(浜中和道『回想録』)
ということだった。
日顕の登座後、山崎は早くも日顕の取込みにかかる。この工作は一時は成功し、山崎も気をよくして、細井管長に出したような密書を作成する。
しかし、墓地の利権をあからさまに狙ったこの企みは頓挫する。九月二十五日、山崎は日顕より大石寺において、
「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」
「こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまかりならぬ」
と怒鳴られる。この日の夕方、山崎は浜中に電話を入れている。
「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見てろって言うんだ……」(同)
それから十年余を経た平成二年末、日顕は創価学会を切り崩すため「C作戦」を企み、それを実行に移す。翌年一月、日顕が山崎に、
「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」
と伝えたのである。
(『暁闇』より)
日顕、山崎とも、果てしなく人を欺いてきた者共である。人並みの〝矜持〟など、持ち合わせるはずも無い。共に創価学会を敵に回したからには、〝昨日の敵は今日の友〟であった。
14.収監される山崎
山崎は昭和五十五年、創価学会を恐喝し、三億円既遂、五億円未遂の容疑で一審(昭和六十年三月二十六日)、二審(昭和六十三年十二月二十日)とも懲役三年の実刑を言い渡された。長年、顧問弁護士として創価学会の信任を受けながら、それを逆手にとって依頼主を恐喝したのである。
収監は平成三年二月二十五日だったが、その四日前の二月二十一日夜、新宿近辺の住宅街にあるスナックで、正信会の浜中、亀田成文らと送別会をしている。
正信会の浜中和道(現・大分県竹田市・伝法寺住職)が著した『回想録』(平成十二年発行)によると、この送別会の翌朝、山崎はホテルニューオータニで待っている浜中のもとに行って、次のような重大な告白をしたという。
「『これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ』
山崎氏は唐突に話を切り出した。私が、
『えっ?』
と訊き直すと、山崎氏は私を正面に見据えて、
『だからね。僕は学会を倒すために、阿部の懐に飛び込んだんだよ。そうしたからこそ、今、学会と宗門が喧嘩別れしたんだよ。わかるでしょう?』
と言った。私は首を縦に振った。
『勿論、僕は今度、原田さんにお世話になるから、善福寺の信者だよ。正信会だよ。でも正信会の信者であっても、日蓮正宗の信者には変わりないでしょう。その日蓮正宗の敵の学会を倒すために、今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。僕は、正信会はどんなことがあっても宗門に復帰すべきだと思うんですよ。このままじゃ、立ち腐れだもんね。それで正信会のために、共通の敵の学会と戦うために、阿部さんと連携したんだよ。そしたら阿部さんは素直に〈俺が悪かった。池田に騙されていた〉って、僕に謝って、〈正信会に悪いことをした〉って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、〈頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ〉って言ってきたんだよ』
私は口をはさんだ。
『だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない』
山崎氏は手を振りながら言葉を続けた。
『それはそうかも知れないけどさ。相承があってもなくっても、もう猊下としての既成事実が出来上がってるんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう。僕の役目はそれであって、あとは正信会の皆さんが宗門に復帰してから、宗内の問題として整理すればいいでしょう。僕は僕の役目、皆さんは皆さんの役目を果たしましょうよ』」
(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
ここで山崎は浜中に、獄中にいる自分と日顕との極秘の「パイプ」役二名の名を明かす。一人は日蓮正宗海外部書記をしていた福田毅道。そしてもう一人は、反創価学会ライターの段勲である。段は本応寺住職・高橋公純の弟で、この二カ月前に日顕と「目通り」をした人物である。
「さあ、これで安心して刑務所に行けるよ。和道さん、宗門と学会はこれからますますドンパチやるよ。マスコミも学会を徹底してやりますよ。僕があちこち仕掛けといたからね。僕がいない間も、皆さん、退屈せずに済みますよ。原田さんも僕のことを『任しておけ』って約束してくれたからね。ゆっくり刑務所で療養しとくよ。出てきてからが、また勝負だからね。三年って言うけど、早ければ二年ぐらいで出てきますよ。それじゃ、和道さん、元気でね。出てきたら一番、真っ先に連絡します」
(浜中和道『回想録』)
15.山崎正友の末路
山崎は刑務所を〝療養所〟と勘違いしたようであるが、実際の塀の中は甘いものではない。世間知らずの僧侶と、お人好しの度が過ぎた学会とは騙せても、司直の厳正な裁きとその執行から逃れるすべはなかった。あたかも帝釈に追われた阿修羅が小さくなり、蓮の穴に隠れたかのような姿と成り果てたのである。
以下は、山崎の泣き言である。
「本来なら、八王子の医療刑務所で寝て暮らしてもおかしくない病状である。それが、どんな政治的圧力か判断か知らないが、通常の刑務所に送られてしまった。四ヵ月近い入院治療の後、スパルタ式の教育訓練をほどこされ、身体はむくみ、息もたえだえになった。
これ以上きつい仕事をしたら、私は確実に死ぬ。そうとわかって無理強いするなら、それは自由刑であるべき懲役ではなくて、事実上生命刑たる死刑に等しい」
(山崎正友著『平成獄中見聞録』)
「冷たいコンクリートの部屋で、鉄窓のすきまから吹き込む那須降ろしにふるえ、朝、十センチ以上も盛り上がった霜柱を見ながら、手袋もはめずに指を伸ばして行進させられたら、風邪をひかぬ方がどうかしている。東京より、確実に五度以上気温の低いところで、満足な防寒衣も着せられず、舎房の暖房もほとんどないに近い。食事も、減塩、タンパク制限といった療養食など望むべくもない。そういう状態で、風邪をひいて熱を出しても、痛風発作で足がうずいても、まず休むということは許されない」(同)
一時は細井管長を掌中の〝玉〟と握り、筋書通り学会を宗門に隷属させ、細井管長より「先生」と呼ばれ、得意の絶頂にあった山崎。
だが魔の跳梁は、長くは続かなかった。山崎は細井管長の急逝を境に、一気に坂を転げ落ちて行った。挙句は〝後生〟の予行演習にまで行ってきたのである。
新池御書(一四三九㌻)にいわく、
「かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず」
(そのような死後の苦悩の世界に行ったときには、王の位や将軍もものの数ではない。獄卒の責めにあっている姿は猿回しの猿と異なるところがない)
これが、あっちに付いたり、こっちに付いたりして、欲望の赴くまま和合僧を破壊してきた男の末路であった。
(了)
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